2018年04月19日

根が深い外国人労働者問題

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765
労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2018年04月17日
根が深い外国人労働者問題

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 駅前の通りを歩くとアジア系外国人とよく行き違う。けやき通りの床屋さんは「常盤平団地にもたくさんの外国人がいてうちにもくる。洗髪しなくていいから1000円にしてくれと言われて困る」と嘆く。居酒屋チェーンの従業員の半分は外国人のように思う。いったいこれからどうなるのか。

 4月11日付『日経デジタル』は「外国人、技能実習後も5年就労可に、本格拡大にカジ」のタイトルで日本における外国人就労について報じている。「政府は2019年4月にも外国人労働者向けに新たな在留資格をつくる。最長5年間の技能実習を修了した外国人に、さらに最長で5年間、就労できる資格を与える。試験に合格すれば、家族を招いたり、より長く国内で働いたりできる資格に移行できる。5年間が過ぎれば帰国してしまう人材を就労資格で残し、人手不足に対処する。外国人労働の本格拡大にカジを切る」。

 さらにネットニュース『ダイヤモンドオンライン』(3月13日付)は「日本は外国人労働者にどれだけ支えられているか?知られざる現実と課題」と題して実態を抉る。「日常生活を送るなかで、飲食店で外国人労働者に接客を受ける機会やレジスタッフがほとんど外国人店員であるコンビニエンスストアを見かける機会が増えたと感じないだろうか。特に都市部では、こうした変化を日々実感している人は少なくないはずだ」。

 日本で働く外国人労働者は2017年10月現在で127万8000人、雇用する事業所は19万4000にのぼる。全産業において外国人依存度は高まっており、宿泊業、飲食サービス業では25人に1人が外国人だ。昨年技能実習制度に介護職が追加されたことにより、今後、医療・介護分野における依存度が高まることが想定される。依存度の高い業種の特徴として@入職率、離職率が高い、A人手不足、B低賃金、C労災率が高い、などがあげられる。日本人がやりたくない仕事を押し付けている格好だ。

 政府はそもそも単純労働者の受け入れは原則としては認めていない。しかし抜け穴がある。技術実習生制度だ。これをどんどん拡大して事実上単純労働者を受け入れてきたのが実態なのだ。しかし技術実習生の延長としての受け入れでは、外国人労働者の労働条件、働く権利は著しく制限され、劣悪なまま放置される。このような無権利の外国人労働者の存在によって日本人の日常が支えられるとしたら・・・。

 ではどうしたらいいか。おれはまず欺瞞的な技能実習制度を即刻廃止すべきだと思う。外国人労働者を労働者としてきちんと位置付ける。労働基準法、最低賃金法、労働組合法など労働法規をすべて平等に適用する。外国人でも長く日本にいれば家族も持つし、子どももできる。外国人労働者の人生に責任を持った国の政策が確立されなければならない。それが出来なければ受け入れるべきでない。一番悪いのは、劣悪な現状に目をつぶり、日本側の都合でなし崩し的に受け入れを拡大することだ。 
posted by マスコミ9条の会 at 20:38| Comment(0) | 労働運動 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

爆風(75)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765
労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2018年04月16日
爆風(75)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 次いで第二回富国債券が3枚15円。発行日は康徳9年12月1日。第三回分は康徳10年6月1日発行で42枚210円。第四回分(同10年12月1日発行)は2枚10円しかない。第一回から第四回までの分を足すと103枚515円になる。取得当時の500円は現在の250万円程度と推定される。

 この富国債券は第四回で発行を止めたのか、その後も継続したのかは分からない。第四回分の発行は1943年(昭和18年)の暮れだからもう満州国として国債を発行する力がなくなっていたのかも知れない。なお第一回分の償還期限は康徳13年12月1日である。その時点では満州国は存在しなかった。

 債券以外では郵便貯金関係で、定額預金証書と普通貯金通帳だ。まず定額預金だが、康徳11年(1944年)3月31日付の「郵政定額儲金證書」が3枚。額面は50円、100円、300円で計450円。この時期になると満州円の価値が下がるがやはり100万円は超えていたと思われる。

 貯金通帳(郵政儲金簿)は父の戸塚陽太郎と姉の和子名義の2通。父が28円、姉が20円の残高である。その他では満州生命保険株式会社の生命保険證券が2通。契約日は康徳8年1月30日と同9年3月30日。保険金額はそれぞれ1000円で、保険料は半年毎に26円である。最後に第15回有奨満州儲蓄債券というのが1枚ある。康徳11年12月発行で、額面10円。売出価格7円5角。「この債券は7円5角にて売出し償還の際10円を支払うものなり」という満州興業銀行総裁富田信の記載がある。

 祖国への引き揚げは現実のものとなり、日に日に準備が整いつつあった。しかし不幸にして引き揚げの喜びを味わえないまま異国に骨を埋めた人たちがいる。46年の5月のある日、遼陽市内の小学校で非業の死を遂げた15人を偲んで合同慰霊祭が執り行われた。15人の中には少年義勇軍の神田定中隊長、清水隊の清水博二隊長と佐藤利博少尉、中支戦線の生き残り板橋柳子少尉、国府軍に内通したとされる堀内義雄、それに沈着冷静よく5000人を指導とた浜本宗三が含まれる。

 しかし林部隊長の自爆命令を命をかけて拒否し後に自決した柳尚雄中尉、シベリア連行に抗議して自殺した工事班の岡田栄吉班長、そしてあの8.25の混乱の中で青酸カリを飲まされたり親の手で絞殺された幼い命、加えて十分な医療を施されることなく疫痢で死んだ妹の悦子、それらは慰霊祭には入れてもらえない。2人の僧侶と民会幹部、遺族ら100人を超える参列者の盛大な読経をどんな思いで聞いたことだろう。
posted by マスコミ9条の会 at 20:36| Comment(0) | 戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

爆風(74)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765
労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2018年04月15日
爆風(74)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 引き揚げに際し、年齢に関係なく1人1000円の現金を持ち帰れることになっているが、当時の1000円はどのくらいの価値があったのか。まずこの現金1000円であるが居留民が持っていたのは日本円ではない。満州中央銀行発行の満州円である。満州建国時、満州円は独立した貨幣価値を持っていた。それが1935年、日本政府の意向で日本円と等価にされる。傀儡国たる所以である。

 この満州円貨幣は日本では使えないので、コロ島の埠頭銀行で日本円に換えなければならない。当時日本はインフレが進行しており、貨幣価値はどんどん下がっていた。敗戦前後の貨幣価値をネットで調べてみた。1945年8月の敗戦直前、当時の100円は物価換算で現在の20万円に相当したが、46年になると4万円程度に下落する。それでも1000円は40万円になり、我が戸塚家は6人家族だったので240万円だ。結構な金額である。当然1人1000円を用意できない世帯も出てくる。そういう世帯には居留民会の町内組織が金を工面して渡したことが「関東軍火工廠史」に記載されている。

 次いで郵便貯金通帳や証券類だが、これは一切持って帰れない。あらかじめ当局に預けなければならない。当局とは遼陽日僑善後連絡処(主任・野木善保)である。わが家に民国35年(1945年)6月17日付の「通帳證券其他預り證」がある。多分父が大切にとっておいたのだろう。

 実は戦後35年たってわが家が預けた通帳・証券類が預り証通りそのまま返還されたのである。返還が遅れたのは父の帰還先が不明だったためで、姉の小川(旧姓戸塚)和子の遼陽高女の在籍名簿を辿ってやっと送り先が判明したという。差出人は横浜税関監視部管理室返還証券整理室。

 「当関では、終戦後外地から引き揚げられた方が、集結地で預けた証券類のうち、無事日本に送り届けられたものを整理し返還しておりますが、この中に戸塚陽太郎様名儀のものが、別紙の返還請求書≠ノ記入したとおり、126件保管しております」「返還手続はこの請求書と誓約書にご記入捺印のうえ、当室へ返送下されば到着次第、郵送致します」(昭和55年1月31日)。
 
 「戸塚陽太郎様。前略、昨日、あなたからの信書と返還請求書を拝見致しました。終戦後、旧満州から引き揚げられた際に、現地の日僑善後連絡処にお預けになられた証券類を34年ぶりで返還することが出来て同封しましたのでご査収下さい。あなたの家族の分は、すべて満州国関係の証券ですので、敗戦で経済的な価値は無くなってしまいましたが、満州在住時代の記念品としてお収め下さい」(2月14日)。

 わが家が預けた証券類とはどんなものだったのか。一番多いのは満州国経済部大臣発行の富国債券。第一回発行から第四回まであって、第一回の発行日は康徳9年8月1日付。康徳とは愛新覚羅溥儀が即位した1934年を元年とする満州国の元号である。康徳9年は1942年(昭和17年)となる。債券の額面は1枚5円で、第一回だけで56枚260円分もある。ちなみに42年当時の貨幣価値は100円が現在のほぼ50万円相当とみられるので大変な金額になる。
posted by マスコミ9条の会 at 20:35| Comment(0) | 戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

メディアはイラク日報の中味に迫れ

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765
労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2018年04月14日
メディアはイラク日報の中味に迫れ

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 「存在しない」と言っていた陸上自衛隊のイラク派兵の日報が見つかった。小野寺五典防衛相は「見つかったのは3月末」と説明したが、実は1年前にその存在は確認されていた。何故発表しなかったのか。「調べろと言われたのは南スーダンだったのでイラクは関係ないと思った」と言い訳するが、実はこのイラク日報の中に公表したくないことがあったのではないか。東京新聞の半田滋記者はそう指摘する。

 ネットメディア「現代ビジネス」(4月7日配信)で半田記者は、自衛隊派遣当時知らされなかったサマワでの実態について次のように告発する。

 「陸上自衛隊が派遣されたイラクは『停戦の合意』がなければ派遣できないPKOとは異なり、米軍と武装勢力が戦闘を続ける『戦地』だった。巻き込まれることがないよう政府は派遣先を『非戦闘地域』とし、隊員600人をイラク南部のサマワ市に送り込んだ。『非戦闘地域』だったにもかかわらず、2004年1月から06年7月までの2年半の派遣期間中に、13回22発のロケット弾が陸上自衛隊のサマワ宿営地に向けて発射された。うち3発は宿営地内に落下、1発はコンテナを突き破っている。不発弾で炸裂はしなかったものの、常に隊員は命の危険にさらされていたことになる」。

 「2005年6月23日には、前後を軽装甲機動車で護衛された高機動車2台の自衛隊車列がサマワ市を走行中に、道路右側の遠隔操作爆弾が破裂した。高機動車1両のフロントガラスにひびが入り、ドアが破損した。爆発直後に、軽装甲機動車の警備隊員らが車載の5.56ミリ機関銃を操作して弾倉から実弾を銃に送り込み、発射態勢を整えた」「犯人が銃などで襲撃すれば、撃ち合いになった可能性がある」。

 「イラクに派遣された陸上自衛隊5600人のうち、15年6月までに自殺した隊員は21人にのぼる。派遣に際し、精神面で問題がないことを確認し、活動期間もPKOの半分の3ヵ月と短かったにもかかわらず、彼らは在職中に自ら命を絶った」「防衛相は自殺者の階級、任務、原因などの一切を『プライバシーの保護』を理由に公表していない」。

 今回の日報隠しに対してメディアは、防衛官僚の責任とか文民統制の危機とかの観点でしか報じていないが、重要なのは日報の中味である。半田さんは「今回見つかった日報は408日分、1万4000ページに及ぶ。内容はまだ発表されていないが、この中に、このような自衛隊攻撃の全貌や隊員の自殺につながる事案が記載されている可能性がある」と指摘する。それを追求するのがメディアの責務だと思う。
posted by マスコミ9条の会 at 20:33| Comment(0) | イラク | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月13日

爆風(73)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765
労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2018年04月13日
爆風(73)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 居留民会関係者の中では、日本への引き揚げが現実味を帯びて語られ準備に熱が入ってきた。しかし東京陵朝日町の戸塚家や小林家のような一般家庭にはまだその熱が伝わってこない。1946年4月、本来なら新学期の始まりなのだが学校からの通知はない。国民学校2年の8月に敗戦になって以来、筆者はまともな教育を受けずにきた。その間学校再開の計画は立てられたようだが、その都度いろんな支障が出て取り止めになった。寺子屋式の小規模塾が行われていたようだが筆者の記憶にはない。

 2年生の担任はあの8・25騒動の時、遼陽からの電話を取り次いだ鈴木久子先生だった。その鈴木先生から突然手紙をもらったことがある。戦後30年した1975年のことである。「私は貴男の事よく覚えて居ります。日曜日と気がつかず、ランドセルを背負って登校した貴男、ちょうど私が日直で、教室に居て2人で大笑いしましたっけ・・・。頭を掻きかき又帰っていった貴男。一寸そそっかしいところがありましたね」(そそっかしいのは私の素質で80歳になっても治らない)。この日曜登校の話は敗戦前のことで、夏休みが終わった2学期からはそれこそ毎日が日曜日のようなものだった気がする。

 3月21日に出産した母は、三女悦子を疫痢で死なせた痛みからなかなか脱け出せない。父は怪我の後遺症で通常勤務ができない。わが家は小林家をはじめ町内の人たちの助けを借りてやっと春を迎えることができたのである。4月の末頃になると庶民の官舎にも引き揚げの情報が逐一伝えられるようになった。

 遼陽市日僑善後連絡処桜ヶ丘支部から各家庭に「帰国便覧」が配布された。「この度突然日管(満州日 僑俘管理処)の方から帰還命令の内命が下ってきましたが、かねて覚悟の皆様十分用意も整った事と思いますが、尚日数もあることですから慌てず、騒がず、沈着に事を処し民会の指示の儘に遺漏のない準備をなし、全員揃って立派な団結を保って帰国の途に就きたいと思います」

 そして帰国までの心構えを「終戦以来夢にまで見た祖国日本への帰還が実現する事になりました。もとよりこの帰国は中国当局を始め連合国の好意によるものでありまして、私ども日僑は良く自己の立場を認識し、祖国への長い旅路を恙なく一糸乱れぬ統制の下に終始しなければなりません。そして平和な日本国民として、民主日本再建の有力な一分子として、又中日合作の先駆者になる覚悟と努力が必要である事を良く胸に刻んで、祖国への旅に住みなれた遼陽、幾多の思い出を残した桜ヶ丘を出発しましょう」と説いた。

 「帰国便覧」はさらに持ち帰り金品についての注意事項を記す。
 @現金と証券=出発に際して年齢の区別なく1人1500円を携行する。このうち500円は出航地コロ島までの費用とし、残余金は難民救済資金として寄付する。日本へは1000円のみ。郵便貯金、戦時公債などの証券類は管理処で預かり、帰国後返還する予定。
 A服装=行動に便利なものを選び、婦人はなるべくモンペを穿き、華美な服装、厚化粧はしない。
 B携行品=背負ったり手に提げられる範囲とする。薬品、燐寸、油類、貴金属、カメラ、地図、ラジオ、カミソリ、ナイフ、多数で撮った記念写真、政治的書籍などは没収される。
posted by マスコミ9条の会 at 21:32| Comment(0) | 戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

爆風(72)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765
労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2018年04月12日
爆風(72)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 つい最近の話だが、今年3月24日、31日の2回に分けてNHKがドラマ「どこにもない国」を放映した。原案:ポール・邦昭丸山、作:大森寿美男、主演:内野聖陽、木村佳乃。満州・鞍山市の昭和製鋼所社員だった丸山邦雄が、満州全域で建設会社・新甫組を営む新甫八朗、新甫組の社員武蔵正道と組んで150万在満邦人の日本引き揚げに奔走する内容だ。敗戦後の飢えと略奪に喘ぐ人々の姿が生々しい。

 当時外相の吉田茂やGHQ総司令官のマッカーサー元帥に直接会って、早期引き揚げを懇請する。ラジオを通じたり決起集会を開いたりして世論にも働きかけた。これが功を奏して1946年3月16日、GHQは「引き揚げに関する基本指令」を発し、日本政府に引き揚げ促進を指示した。そして46年4月、ついに引き揚げ第一船がコロ島から出航する日がきた。

 そんな話が進んでいるとは旧火工廠の人々は全く知らなかった。しかし八路軍が撤退し、国民政府が駐留するようになった頃から引き揚げの可能性について何となく空気が変わって来たのを感じてはいた。空気の変化は瀋陽(旧奉天)や遼陽からもたらされた。瀋陽に東北日僑俘管理処が設けられ、その下部組織の瀋陽日僑善後連絡処が満州全体の日本人遣送事務を統一して行うことになった。

 さらに遼陽では敗戦直後に発足した遼陽日本人居留民会が遣送事業向けに改組され、遼陽日僑善後連絡処となる。連絡処主任には遼陽居留民会会長として信望の厚かった野木善保氏が任命された。遼陽連絡処は業務の全てを遣送事務一本に絞り、国民政府当局との具体的な折衝を開始した。

 45年8月15日の日本敗戦時海外には、軍人、軍属353万人、一般人300万人の計653万人が居留していたといわれている。これは当時の日本人口の1割に相当する。これらの在外邦人は戦争の過程において進駐あるいは居住したのだから、居住地が日本領土でなくなったからには即時全員引き揚げさせなければならない。ところが日本政府は無責任としか言いようのない態度に出た。

 日本はポツダム宣言を受諾して連合軍に無条件降伏をした。そのポツダム宣言第5項の(5)には「日本国軍隊は、完全に武装を解除せられたる後各自の家庭に復帰し、平和的且つ生産的の生活を営むの機会を得しめらるべし」との明記がある。ところが在外一般人についての規定はない。それをいいことにして日本政府は外務省を通じ、8月14日付で在外公館あてに「居留民はできる限り現地に定着させるべし」との指示を発する(「三カ国宣言(ポツダム宣言)受諾に関する訓電」)。まったく無責任な指示であり、棄民宣言そのものである。

 日本政府のこのような姿勢が満州からの引き揚げを遅らせたことは間違いない。150万人むを超える在満一般邦人のうち、日本への引き揚げが叶わず異国で亡くなった人は23万5000人(うち満蒙開拓団8万人)、残留孤児・残留婦人2万人といわれる。その原因をつくった日本政府の責任は重い。
posted by マスコミ9条の会 at 21:31| Comment(0) | 戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

爆風(71)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765
労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2018年04月11日
爆風(71)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

5 引き揚げ=遣返
 「引き揚げ」は中国語では「遣返」である。元のところへ戻すという意味だ。日本人居留民は「日僑」と呼ばれた。他国に仮住まいする日本人というわけだ。

 山海関方面から進攻した国民政府軍が錦州を経て奉天に向かう。奉天で南北に分かれて南を目指す部隊が遼陽に到着したのが3月20日。その日のうちに旧火工廠にも進駐してきた。八路軍の廠長秘書だった松野徹は国府軍の進駐についてこんな感想を述べている。

 《3月18日、八路軍が姿を消したと思ったらたちまち国府軍がやってきた。何のことはない、同じ軍隊の第一師団が第二師団と交代したようなもの。長い間敵対してきた国民党と共産党が遼陽郊外で2、3発撃ちあっただけですんなり入れ替わった。我々には想像ができない交代劇だ》。

 松野が数日ぼんやり過ごしていると、遼陽駐屯国民党本部から名指しで出頭命令がきた。八路軍時代に酷い目に遭った松野は、今度は表に出ないで潜んでいようと思ったのだが隠れきれない。責任者の吹野信平ら数人の居留民会幹部の一員として旧満州国政府の建てた遼陽県公舎に出向いた。

 公舎には金ぴかの肩章をつけた将軍が待っていて笑顔で応対。吹野たち一行に対して「君たちの工廠は今後、我が軍の東北火薬廠として再開する。ぜひ君たちに協力してもらいたい」と懇請し、工場長だの技術課長だのと書いて印を捺した立派な紙を渡された。松野も火薬廠庶務課長の辞令を受けた。蒋介石に率いられた国民政府は、日本が進出した満州南部の工業地帯をそのまま残して建国の基礎にしようと考えた。そのためには日本人技術者に残留してもらわなければならない。それを「留用」と称した。

 金ぴか将軍の意図は、吹野や松野に留用者として残れということだ。松野たちは《どうせ日本は負けたんだ。内地はアメリカに占領されて彼らの言うなりになっていることだろう。満州、朝鮮、台湾、樺太より引き揚げさせられた日本人は、内地の四つの島に押し込められて中々生活も難しかろう。こうして留用されるのも後に再び中国に進出するための布石となるのではないか》と話し合った。

 そして《我々はその捨て石になろうではないか。国民党のために働こう》との決意に達した。留用者は吹野、松野らの幹部だけに限らず、技術者、医療関係者など数百人規模になる。それらの人たちのその後については別項で詳述することにする。ここでは筆者一家を含めた一般居留民の引き揚げに話を戻す。
posted by マスコミ9条の会 at 21:29| Comment(0) | 戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

爆風(70)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765
労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2018年04月10日
爆風(70)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 銃殺された浜本宗三はどんな人物だったのか。浜本は陸軍技術大尉で火工廠では製造科長の役にあった。1914年(大正3年)5月14日生まれで横浜の出身、享年31歳、家族は夫人と2人の男の子。「関東軍火工廠史」に寄せられた証言をもとに人物像に迫ってみた。

 西村秀夫の手記。「浜本さんは横浜の石屋の若旦那だった。若い衆と遊んだ話、喧嘩の話、麻雀が好き、バスケットの選手でもあった。バスケットボールを上から掴んで持ち上げることのできる巨漢。野球もやった。横浜高等工業学校では遊び過ぎて3月に卒業できず、追試で6月にやっと卒業。しかし陸軍に応召し、火工廠へ配属後は立派な技術者になった。視野の広い浜本さんは3年とたたぬうちに酸製造工程の権威と言われた。石屋の親分の血を引いただけに何事にも親分肌で形式的なことが嫌い、一見反軍人的でもあった。工場で働く軍属、徴用工、満人の工員にも分け隔てなく接した」。

 鈴木弓俊は敗戦の年の初冬、浜本に中国観を訊いたことがある。浜本は「国共内戦で当面国民政府が勝つかも知れぬが、将来の中国の主人は共産党になるに違いない。しかし我々は今中共に協力するわけにはいかない。現中国の当主は国民政府なのだ。自分は唯物史観の本を読み、共産主義の勉強もしたが、人間性を否定している点で同調できない」と述懐した。実際に浜本の書斎には唯物史観の書籍があった。

 あの8.25の混乱の時、身を呈してソ連軍司令部に乗り込みシベリア連行を取り止めさせた。結果5000人の命が救われる。一時浜本は多大な信頼を集めた。しかし八路軍の支配が長引くにつれ、浜本をファシストだという内部からの陰口が強まる。ファシストは民主主義の敵だという声がそれまでの仲間内からも聞かれるようになった。当然八路軍の標的になっていく。

 鈴木弓俊は浜本一家が住んでいた白百合寮の風呂に、浜本と2人の坊やと入ったことがある。鈴木は「(あなたを陥れようという連中は)誠意の通じない相手だ。今はいったん身を引いて彼らに任せたらどうか。どうせ手に負えなくなって投げ出すに決まっている。その時復帰すればいいのではないか。このままではあなたは殺されるかも知れない。奥さんや子どもさんのためにも身の安全が第一だ」と勧めた。

 これに対して浜本は「5000人のためを思えば手を引くわけには行かぬ。5000人が生き延びて祖国に帰るためなら、自分の命や家族のことは問題ではない」と言下に淡々と答えた。

 吹野信平を柱とする浜本宗三、川原鳳策、加藤治久、加々路仁、勝野六郎らの将校グループは、日本人居留民の安全、祖国引き揚げを目的としていたが、同時に戦後の中国がアジアの巨大民族として大きく発展することも望んでいた。吹野が唱えた大陸蟠きょ説は、中国に日本がやったことの過去を贖罪し、日本が新中国建設に役立ちたいという理想だった。浜本たちはその実現へ向けて熱い議論をたたかわせた。

 反面吹野たちの指導を心よからず思う人たちもいた。早く祖国引き揚げを実現するためには国府軍に頼るのが一番という考えを主張した。主張しただけでなく、国府軍に内通し、八路軍を掃討することが謀られた。吹野たちの指導部と国府内通派の集団とで対立が深まり、時には暴力沙汰になることもあった。

 この日本人内部の亀裂に乗じて国府軍側からの働きかけが強まる。八路軍はますます疑心暗鬼になり、反共策動の根を断ち切るべく弾圧を強めた。しかも国府軍の進攻が迫ってくる。そこで彼らのとった手段が強制連行と銃殺だった。――浜本の眉間は真正面から銃弾が貫通していた。
posted by マスコミ9条の会 at 21:27| Comment(0) | 戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

戦後続いた労働体系を壊させてなるものか

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765
労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2018年04月09日
戦後続いた労働体系を壊させてなるものか

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 「高プロ争点に攻防へ」「働き方改革 閣議決定」(7日付『毎日』1面)「労働時間の拡大懸念」「緩和と強化抱き合わせ」「上限規制骨抜きの恐れ」「与党に会期延長論 追及覚悟で成立狙うか」(同3面「クローズアップ2018」)。「安倍晋三首相は今国会を『働き方改革国会』と位置付けており、与党は働き方改革関連法案の成立に全力を挙げる」。

 同日付の社説も「働き方改革」だ。タイトルは「残業時間の規制が原点だ」。要旨をまとめると次のようになる。「当初の予定が遅れたのは厚労省のデータに不自然な数値があったためで、結局裁量労働制の拡大は削除された。若い世代が安心して働くためには残業規制が重要。ところが法案は高プロなどの残業規制外しが組み込まれた。残業規制と規制緩和が同じ法案であることに無理がある。まず残業規制という原点に立ち返って議論すべきだ」。この主張は間違ってはいないがいかにも甘い、とおれは思う。

 今年2月、安倍首相が法案の根拠とした厚労省データがズサンな代物だったと叩かれて、裁量労働制の拡大という法案の一角が崩れた。その時一番悔しがったのが経団連(財界)だった。つまり財界にとっては裁量労働制とか高度プロフェッショナル制度とかはかねてからの宿願だったのだ。

 日本の働き方を律する労働基準法は時間管理が基本である。何時間働いて何ぼの賃金というのが原則なのだ。週40時間とか週休2日とかの労働時間規制は、財界にとっては搾取の限界が法律で決められているということであって我慢ならない。「企業利益にどれだけ貢献したから何ぼ」の賃金体系、つまり「成果」を基準にした新しい労働基準を設けたい。安倍首相の働き方改革は財界の意向そのものなのだ。

 「働くだけ働かされて、つぶされるのではないか」と40歳代のコンサルタント業務の男性は危機感を抱く(『毎日』)。「多忙な時期に睡眠が1〜2時間の日が続き、過労で倒れた経験かある」。この働き方は明らかに正常ではない。問題はこんな働き方が高プロ制度によって法律のお墨付きをもらえることだ。今必要なのは労働基準法の厳守であって財界の希望する「緩和」であってはならない。

 安倍首相や財界が狙うのは、戦後続いてきた労働基準を根底からひっくり返すこと、彼らの言葉を使うなら「改革」「革命」なのだ。こちらも腰を据えて対決しようではないか。特に労働組合の奮起を促したい。
posted by マスコミ9条の会 at 21:26| Comment(0) | 労働運動 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月05日

爆風(69)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765
労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2018年04月05日
爆風(69)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 吹野信平のもとで川原鳳策とともに旧火工廠のリーダー的役割を果たしていた浜本宗三が2月上旬、八路軍に拉致された。国民政府軍への内通容疑だった。

 浜本たちは日本居留民の安全、確実に祖国に帰還させることを期して会議を開いていた。佐野肇はある夜の会議に出席を求められた。部屋に入ると、吹野、川原、浜本ら十数人の幹部が顔を揃えていた。そのうちの1人から居留民内部の動向が報告され、内部崩壊を防ぐためそれぞれの持ち場で教育宣伝活動を行うことが確認された。また正確な情報の収集の必要性から新京、奉天、大連に2人組の調査団派遣も決まった。

 佐野は浅野中尉と組んで奉天に行き、国府軍幹部に会うという任務を与えられた。年明けから国共内戦が激化し、現在火工廠を支配している八路軍がそのまま支配を続けられるかどうか危ぶまれる。国府軍の支配に変わることも想定して伝手をつくっておいた方がいいのではないか。浜本たちはそのように考えた。国府軍との内密の接触は佐野たちと別のところでも試みられた。その際「お墨付き」と称される文書を国府軍側から渡されることがあり浜本はそれを書斎の本の間に挟んで保存していた。

 八路軍に拉致された浜本宗三の社宅が徹底的な家宅捜索に遭った。そして書斎から「お墨付き」が押収されたのである。万事警戒怠りない浜本にしては軽率だったが、八路軍は端から「お墨付き」の存在を知っていた気配がある。例の十数人の会議が秘密を保たれていたものかどうか。誰かが八路軍に密告したのではないか。疑えば疑えるが、事後になっては真相を究明する手立てはない。

 遼陽の八路軍施設に留置された浜本だが、取り調べはほとんど行われなかった。八路軍の反共分子に対する扱いは、取り調べもせず長期間留置場に放置し、本人が精神的に困憊するのを待つ。もしそれでも改心が認められなければ罪状を並べて処刑する。清水隊の佐藤少尉や少年義勇軍の神田中隊長はそうやって処刑された。浜本宗三も3月18日、太子河の川原で銃殺され死体は遺棄された。

 浜本の遺体のそばに唐紙大の立札があり、そこに「浜本大尉は強力な火薬を製造し多数同胞を殺傷した」と罪状が書かれていた。浜本は技術将校であり火工廠の指導者の1人だった。太子河の川原には浜本のほかに遺体が2体あり、1人は板橋柳子少尉、もう1人は堀内義雄青年だった。

 板橋少尉は吹野信平や川原鳳策とともに拘禁され、吹野たちが釈放された後も留置されたままだった。東京陵の官舎で隣り合わせの米田穣賢は《板橋さんは中支戦線で負傷、一度帰還したが再召集で我々の918部隊に配属。碁が好きでそれも徹底的な喧嘩碁。顔に大きな傷跡があった。それが八路軍に嫌われたか、中支戦線の勇士に対する報復だったのか。誠にお気の毒なことだった》と述懐している。板橋少尉の罪状は「火工廠において同胞労働者を虐待した」というものだが、具体的には何ら指摘がない。

 堀内青年も吹野、川原らとともに遼陽の収容所に入れられたが、「国民党に内通した」と罪を認めて翌日釈放された。その足で新妻のいる東京陵に戻ったが、日系八路の密告で再び逮捕。今度は釈放されずに留置が続き、ついに銃殺された。堀内青年が国民党員であったことは間違いないということだ。
posted by マスコミ9条の会 at 20:27| Comment(0) | 戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

マスコミ9条の会ブログ