2018年02月15日

またまた、アメリカの代弁?

水久保文明さんのブログ「ヘボやんの独り言」より転載
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18年02月13日
11559 またまた、アメリカの代弁?  

■水久保文明(JCJ会員 千代田区労協事務局長 元毎日新聞労組書記)

 13日、時事通信が「韓国大統領の訪朝けん制=菅官房長官」という記事を流した。韓国・文在寅大統領の訪朝について「ほほ笑み外交に目を奪われてはならない」として、北朝鮮の策略であるかのような発言をしている。これは明らかな介入である。

 その前段(という言い方は変かもしれないが)、10日に安倍首相が、米韓合同軍事演習について五輪後の再開要請をしたことに対して、文大統領は「内政問題だ」として不快感を示したことが報道されている。10日と13日のこの問題、考えてみたい。

 まず、10日の発言。合同演習はアメリカと韓国の問題であって、他の国が口出しできる事案ではない。にもかかわらず安倍首相が要請≠オたことは、イレギュラーそのものであるし、韓国大統領が目の前にいたがアメリカに対する要望でもあった。トランプ大統領がこの件について何も発言しないのはやや不気味。自分の代わりに安倍が言ってくれた≠ュらいに思っているのだろうか。

 もしそうだとしたら、これまた問題である。第三国から(米韓)二国間の合同軍事演習について「五輪後にやってはどうか」という提起は、当事者国の内政に干渉することになるからだ。そういう重要問題について、あの、トランプさんが何も言わないのはやはり変。

 その後、北朝鮮・金正恩氏の妹が文大統領の訪朝を提案した。これについて韓国側は積極的に受け止めていた。これに対して菅官房長官は否定したわけだ。これまた、内政干渉ではないのか。

 逆を考えてみよう。アメリカが北朝鮮から首脳会談を呼びかけられたと仮定する。そしてアメリカがそれを積極的に受け止めた場合、日本はどういう態度をとるか、である。今回の韓国への対応と同じになるだろうか。ノー、である。おそらく、大歓迎≠オたであろうことは容易に想像できる。

 としてみると、浮き上がってくる問題が見える。つまり、日本はアメリカの代弁をしているのではないかという疑義である。アメリカは@五輪後すぐにでも米韓合同演習をやりたいA米を素通りした「韓・朝首脳会談」は反対である。しかしそのことを言い出すことは内政干渉にあたる。そこで、日本にそのことを言わせた――という筋書きである。

 考え過ぎかもしれないが、沖縄問題を引き合いに出すまでもなく、アメリカいいなりの日本政府の体質がオリンピックでも露呈した、ということになる。同時に、今回の五輪外交でいえば北朝鮮のほうがよほど優れている、と見るのは私だけだろうか。


★脈絡のないきょうの一行
公明党・山口那津男代表、「森友学園」問題で佐川宣寿国税庁長官の国会招致を否定。真実にフタする行為だ。さもあらん。
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爆風(47)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2018年02月13日
爆風(47)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 工務科の中尾英一が電話交換台の勤務中隣の変電所に落雷、火災が発生して配電盤の一部が焼けた。そのため東京陵の大部分で停電になる。それは一昼夜で復旧したが、ソ連軍は放火ではないかと疑い、拳銃を突きつけて原因追究を迫った。懸命の説明で落雷であることが了解されたが命の縮む思いだった。

 初秋のある日、中尾は電話架線点検のため張台子(遼陽の一つ奉天寄りの駅)まで山道を歩いた。道案内には庶務科警戒の戸塚陽太郎に頼んだ。はるか彼方の道を徴発した牛の群れを追って南下するソ連兵の姿が見える。戸塚は防腐処理をしていない線路の坑木に自然発生した椎茸を採集して持ち帰った。多分筆者はその椎茸を食べたのだろうが記憶はない。父はソ連支配中も守衛の仕事をしていたようだ。

 当時のことで母から聞いた話が記憶に残っている。秋も深まった頃、わが家に北満から逃げてきた避難民が立ち寄った。若い夫婦で奥さんは坊主刈り、男用の軍服を着ていた。母に食べ物を乞う。母は冷たくなった高粱飯を出した。それをがつがつと食べながら涙ながらに語ったことが悲しい。

 「私どもには1歳と3歳の兄妹がありました。とても連れては逃げきれないので2人が寝ている間に家を出てきました。布団に灯した電球を差し込みました。私どもが満鉄の駅に着く頃、発火して家もろとも燃えたはずです。一緒に逃げてきた若夫婦は途中でお母さんに青酸カリを飲ませました。地獄です」。

 吉林の病院で発疹チフスに感染し、敗戦もその後の混乱も知らずベッドの上で朦朧状態で過ごした勝野六郎軍医。9月半ばになってやっと回復して、尾林助産婦の助けを借りて唐子屯診療所の仕事に復帰した。

 勝野六郎軍医の手記。《唐子屯診療所に復帰し、ソ連兵の診療を始めて、日本敗戦の実感がしみじみと噛みしめられた。彼らは農民出身で個人的には純朴だが、教養は感じられない。集団になると乱暴を働く。しかし病院に対しては好意的で、八路軍の兵士が医薬品を持ち去るのを防いでくれたりした。

 ソ連兵は一寸した傷でも病気でもすぐ相談にきた。やはり淋病の兵が多かった。プロタルゴールの洗浄とトリアノンの注射をしてやった。遼陽の医師がソ連軍に連行されていなくなったらしく、遼陽滞在の将校も唐子屯までやってきた。彼らはペニシリン持参でその上ドイツ語ができた。これはその後の病院経営に役立った。ペニシリンの即効性には驚嘆した。どんな感染症でも2、3本の注射で即無菌になり完治した。

 彼らはソ連の軍医をあまり信用とていなかった。軍医の1人が私に梅毒の治療について尋ねるので、ワッセルマン反応の話をしてやったら驚いていた。なるほど医学知識のレベルも低かった。顔見知りになった高級将校に「お前は旅順で働く気はないか。家族ともども、もっと楽な生活を保障する」と誘われた。私はここの日本人と運命を共にしたいと断った。旅順行きを受け入れていたら多分私は帰国できなかったに違いない。
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少し春 

水久保文明さんのブログ「ヘボやんの独り言」より転載
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18年02月12日
11558 少し春  

■水久保文明(JCJ会員 千代田区労協事務局長 元毎日新聞労組書記)

 北陸・新潟地方にまたしても大雪警報。「不幸は友達を連れてくる」ということわざがあるが、いい加減にしてほしい。用水路に落ちて亡くなった人もいる。心からお見舞い申し上げます。くれぐれもご用心ください。

 その一方で、春は間違いなく近づいている。昨日、秩父・長瀞の「宝登山」(ほどさん・497m)に登ってきた。この山は、ロウバイを育てていることで有名。この季節に私はよくここを訪ねる。春を感じたいからだ。ロウバイとともにもう一つのお目当てがある。フクジュソウだ。

 北陸の方々には申し訳ないほど、いい天気になった。青い空と黄色の花びらは実にマッチする。その花を見ていただこう。

【ロウバイ】
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【フクジュソウ】
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 ロウバイは、その名の通り蝋のように光っている。触ってみると普通の花と同じ感触である。蝋細工のように見えるそれは、芸術といえる。フクジュソウは地面に生えているから、空はお見せできない。これまた可憐な花である。季語は「新年」を表すそうだが、楚々として咲くその姿は、春を呼ぶにふさわしい。

 山頂から、両神山(りょうかみさん)と武甲山(ぶこうさん)が手に取る位置に見えた。宝登山には何回も来ているが、このようにきれいに見えるのは珍しい。両神山は「日本百名山」の一つ。武甲山も含めて私は登っている。

 かわいそうなのは武甲山だ。石灰石が採取できることから山は削られ続けている。それは「秩父セメント」の原料となる。この山に登った時、山が削られることは自分が削られるような錯覚に陥ったものだ。

 時間が早かったせいだろう、人は少なく静かだ。こんなに静かな宝登山は初めてであった。春探し≠フ宝登山、ほっとするひとときだった。

【宝登山頂から両神山】
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【宝登山頂から武甲山】
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★脈絡のないきょうの一行
平昌五輪が始まった。南北朝鮮の統一に寄与することを願いたい。
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沖縄ノート(11)強奪の戦後B

17年2月10日
沖縄ノート(11)強奪の戦後B 

■坂本陸郎(JCJ運営委員;広告支部会員)

本土決戦
 沖縄戦は本土決戦を遅らせるためだったのだが、軍部に「本土決戦」の戦意も覚悟もなかった。1945年1月20日、大本営は「帝国陸海軍作戦計画大綱」を決定し、「皇土特ニ帝国本土ノ確保」を目的とすることになった。そのため、沖縄守備隊に対して持久戦が指示された。だが、敗戦が必至となって天皇は狼狽し、国体護持にこだわり続けた。
 近衛文麿の上奏を無視し終戦の宣言を遅らせた天皇は、首里が陥落する直前の5月14日、最高戦争指導会議を開き、ソ連を仲介とする終戦工作を指示し、近衛文麿をソ連に赴かせようとした。その「平和交渉」の第一の条件が「国体ノ護持ハ絶対ニシテ一歩モ譲ラザルコト」、第二の条件が「最下限ノ小笠原、樺太ヲ捨テ、千島ハ南半分ヲ保有スルコト」であった。だがソ連はとり合わず、日ソ不可侵条約の期限切れとともに、8月6日、満州へ侵攻する。ソ連を仲介者とする終戦工作は、望むべくもない相手知らずの神頼みであった。

米国の対日戦略
 8月9日、テニアン島を飛び立ったB29は、北九州小倉市上空を覆う厚い雲のため、目視 による投下ができず、第二の目標都市長崎に原爆を投下した。その帰路、燃料が不足し、読谷飛行場で燃料を補給、テニアン島に戻った。
 敗戦後に、参謀次長河辺虎四郎中将ら使節団が伊江島飛行場に到着後、米軍機に乗り換えた後、マニラに向かった。マッカーサーはマニラで停戦協定にサインすると、そこから読谷飛行場に立ち寄り、翌30日、厚木に向かった。米国の極東戦略を示唆する当時の動きである。
 では米国の対日戦略はどのようなものだったのか。以下は林博史著『沖縄戦が問うもの』から。
 アメリカは太平洋戦争中から、世界をにらむ基地計画の検討を始めていた。6月22日、その戦後基地建設計画が、統合作戦本部で本格的に議論されるようになるのは1945年5月からであった。アジアでは、ハワイ、フィリピン、マリアナ、沖縄が最重要基地とされ、小笠原や中部太平洋のいくつかの島々が、それに次ぐ重要基地建設地としてリストアップされている。その計画に従って、沖縄では46年7月に陸軍と空軍の基地建設計画が立てられ、1950年度会計予算に5000万ドルを超える基地建設予算を計上した。日本本土については、冷戦の進行、朝鮮半島の分断、中国での共産党政権の成立という情勢変化のもとで、日本を軍事拠点として確保する意思が米政府内で強まり、それが48年10月、国家安全保障会議で決定された。これは冷戦状況下で日本の共産化を防止し、政治的・経済的安定をはかることを主眼とするもので、対日政策の転換を示すものだった。(要約は筆者) ―

キーストーン
 1950年6月、北朝鮮が軍事境界線を超えて韓国に侵攻し、朝鮮半島での攻防戦となった。米陸海軍がそれに参戦すると、中国が人民義勇軍を派兵、戦況は軍事境界線を巡って一進一退となった。その朝鮮戦争当時、嘉手納を飛び立ったB29は北朝鮮を無差別爆撃し、米政府は幾度となく北朝鮮への原爆投下を企てた。米朝対立の根は朝鮮戦争にあったといえるだろう。
 翌年7月に休戦協定が結ばれるのだが、北朝鮮軍、中国軍の戦力を思い知らされた米国は、以後、日本本土を極東における反共の前線基地(キーストーン)と位置づけ、同盟国日本に再軍備を指示すると同時に、日本政府に対して、基地使用の許可、施設役務提供を義務付けた。と同時に、沖縄を極東最大の軍事基地とすべく基地建設にとりかかった。
 このように、沖縄は朝鮮戦争時には、すでに最前線の出撃基地だったのだが、その後は、冷戦の進行とともに沖縄の極東戦略上の重要性が高まり、50年代になると基地拡張が急ピッチで進むことになった。とともに、支配者たる米軍政府の沖縄住民に対する姿勢は、いっそう無法で暴力的なものとなっていった。

強奪の光景
 1953年に米国議会が基地建設予算を増額すると、沖縄では、米軍政府が「土地収用令」を布告し、53年に真和志村安謝・銘刈、小禄村具志、55年には伊江島真謝、宜野湾村伊佐浜などで、銃剣とブルドーザーによる私有地の強奪を押し進めた。
 それまでにも、米軍政府は借地料も払わずに、住民が所有する畑や土地を勝手に使っていたのだが、戦後5年を過ぎてようやく生計を立てていた住民の命綱であった畑と土地が、さらに奪われることになった。
 その土地強奪はどのようなものだったのか。瀬永亀次郎氏(故)が自著『民族の悲劇〈1971年初版〉』の中で叙した「青田一夜にして滑走路にかわる」の一節を、長くなるが、そのまま書き移すことにする。強奪の情景を彷彿とさせ、老女の悲嘆が胸を打つ。

― 1951年4月のはじめ、南海の空はカラッと晴れ渡り、静かに海風がそよいでいた。沖縄本島国頭村桃原部落民は、土響きを立てて咆哮している重々しい機械の騒音に異常なものを感じてたたき起こされた。あの家からもこの家からもとび出して、現場にふれた子供たちは“ブルドーザーが稲をふみつぶしとるぞ、大変だ、大変だ”とお父さんや兄さんたちにつげ廻った。時を移さず全部落民が現場にむらがり集まった。数台の六屯車が、どこから運び込んだかしれない山石や砂利を投げ下している。ブルドーザーがその後から整地役を引き受けて、おちつき払って砂利や山石と稲穂をまぜっかえし、踏みくだいて進んでいる。部落民が目を見張っている間に、数千坪の青田は打ち固められて、砂浜に生まれ変わった。
 その時である。集まっている部落民の間に動揺がおこった。一人のおばあさんが卒倒したのである。みんなの手厚い看護のおかげで、やっと息を吹き返したおばあさんは、「アキヨナー、ワンターヤ、チャナイガ」― ああー私の田はどうなるのかーとわめき、のろいつづけるのだった。六屯車やブルドーザーにとっては、しかし、そんな出来事は関係のないことだ。基地王の命令で動いているだけの話である。一日のうちに数万坪の青田は、部落民の目の前から永久にその慈母の姿をかき消してしまった。その後3か月もたたないうちに、この土地には東洋一を誇る巨大なラジオビーコンが建てられ、50万ボルトの強烈な電柱は、近隣部落を圧して戦闘準備に余念がない。
 卒倒したおばあさんは、夫が台湾製糖社に務めていて、永いこと台湾で共稼ぎをしていたが、敗戦1年前、郷里の桃原に家族をひきつれて帰ってきた。台湾で貯えた金と夫の退職金で例の田を買い入れ、その田は老後を支えるためのいのちとして、大事にまもりつづけていたのである。そのうち米軍の沖縄上陸となった。この戦争のため真っ先に夫がたおされた。つぎつぎに子供たちも沖縄戦で殺されてしまった。残されたのはおばあさんの心細い生命と三千坪の田んぼだけとなった。細りゆく生命と田んぼを大切に、おばあさんはまったく天涯孤独のくらしを営んでいたのである。自分の生命と同じ田んぼ、しかも、もう十日もすれば、刈り取れる青田を、そのままもっていかれたのだから、卒倒したのも不思議ではないだろう。
 いうまでもなく、青田を収奪されたのは、このおばあさんだけではなかった。基地王は土地収奪の1か月前、国頭村長を通じて「これらの地域は軍用地に指定されたから、20日以内に農作物は全部撤去すべし」の口頭指令を出している。あと1か月も待てば普通の通り収穫できる稲を、命令だとはいえ、ただちに“ハイサヨウナラ”で刈り取る農家が一人でもある筈がない。地主たちは相談の結果、稲や西瓜の撤去を拒否したのである。
 基地王は目論見書の変更をするほど心のゆとりを持っていない。ただちに数台の6t車とブルドーザーの現地派遣となり、黄金色に色づき、重くたれ下がっている稲を踏みにじって、基地の土台を築き上げたのである。台無しにされた西瓜や稲など農作物の損害保障が、基地王の支出清算書に見当たらなかったことは、もとより確かである。撤去命令違反について起こる責任は、すべて違反者の負担とする但し書きによるのであろう。
 左手にハンドルを軽くおさえ、右手はわしづかみに、農民が精魂打ち込んで植え付け、収穫を待っているメロンをほおばりながら、稲穂や西瓜をかみ砕き、冷然と青田の上を進撃する自由の防衛軍、こういうアメリカ将兵の姿を想像するのは、ちょっと困難であろう。他国人民に、死の自由への扉を開かんとするものは、いつの日か、開かれたその扉の入り口に立っている我が身を発見するだろう。
 死の自由をおしつけられた民族は、必ずそれをなしとげる。
 なお、滑走路と言われていた強奪された田畑は、いま、VOAの基地とされている。
(VOAはヴォイス・オブ・アメリカの頭文字、駐留米兵、軍属向けのラジオ放送=筆者) ―

瀬永亀次郎 1907年沖縄県豊見城村生まれ。戦後、沖縄人民党結成に参加し、書記長、委員長を歴任。54年米軍による沖縄人民党弾圧事件で懲役2年の刑で投獄される。56年那覇市長選に当選するが翌年の米軍布令により追放。70年の国政選挙で衆議院議員に当選する(以後86年衆院選挙まで7期連続当選)。73年日本共産党中央委員会幹部会副委員長。90年名誉幹部会委員。米軍基地撤去、祖国復帰、主権回復という沖縄県民の願いを胸に闘い続け、「反米抵抗のシンボル」と称される。2001年10月5日死去。


(つづく)
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2018年02月10日

産経新聞の「おわび・削除」に思う

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765
労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2018年02月10日
産経新聞の「おわび・削除」に思う

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 「産経記事 おわび・削除」「『米兵が日本人救助』報道」「沖縄地元紙非難」「識者 紙面検証『不十分』」(9日付『毎日』)。産経新聞が12月12日付の朝刊紙面で、地元紙が米兵の交通事故を報じなかったことを非難する記事を載せたが、その非難が的外れだった。産経はその言い訳と地元紙への「おわび」を8日付同紙1面に掲載したと。産経が削除した記事とはとんなものだったのか。

 昨年12月1日、沖縄自動車道で6台の多重衝突事故があった。それに巻き込まれた米軍曹長が怪我をしたが、彼は怪我の前に日本人男性を救助したというのが産経記事。ところが記事はそこでおしまいでない。この米兵の美談を報道しない地元紙を「『反米色』に染まる地元紙メディアは黙殺を決め込んでいる」「メディア、報道機関を名乗る資格はない。日本人として恥だ」とののしった。ここで「日本人として」が出てくるあたりに昨今の国家主義・戦前回帰の風潮の反映が見られる。

 ところが後日の沖縄県警の発表では、そもそも米軍曹長の日本人救助との「美談」は存在しない。産経は米テレビや海兵隊の取材はしたが、県警への取材はしなかったことがはっきりした。交通事故の取材はまず警察からというのが報道の基本である。産経こそ、報道機関を名乗る資格はないではないか。

 米海兵隊も「曹長の美談」を否定したことから、追いつめられた産経新聞が遅ればせながら「おわびと記事の削除」をしたというのがこの話の顛末である。産経新聞東京本社乾正人編集局長は「再発防止のために記者教育を徹底する」と言うが、問題はそんな程度の言い訳で済む話ではないだろう。

 『毎日』記事で服部孝章立教大教授は「深刻な問題だ。産経新聞は沖縄メディアに対し、いわれのない非難をしたからだ。・・・一部勢力に支持されようとして書かれたと思われるが、検証はそうした事情を明らかにしていないのも問題だ」と指摘している。当然の指摘である。

 いま、沖縄では米軍駐留や基地拡大に反対する運動に対していわれのない誹謗中傷が強まっている。中心的指導者の平和運動センター山城博治議長は微罪で152日間も拘留された。沖縄2紙を潰せのかけ声のもと、基地反対運動には中国人朝鮮人がいる等のデマがふりまかれている。

 そのデマの急先鋒が産経新聞なのだ。こんどの「おわび・削除」に対して、非難された側の琉球新報普久原編集局長も沖縄タイムス石川編集局長も「率直に詫びた姿勢に敬意を表します」「報道機関として評価します」と大人の対応でこたえた。それはそれで立派だとは思うがおれにはちょっと「きれいごと過ぎる」とも思えるのだが。
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爆風(46)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765
労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2018年02月08日
爆風(46)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 11月中旬のある日昼過ぎ、武井覚一は工事部事務所へ行った帰りに「おい」と声をかけられた。振り向くと吹野信平少佐が立っていた。少佐は左ひじを武井の右肩に置いて並んで歩きながら「さっきソ連の奴が来てね。捕虜を2000人出せと言うんだ」と話し始めた。「それは大変でしたね」と武井が応じた。

 「うん、大変であった。末廣とかいう元関東軍の陸軍大佐が案内人としてついてきた。ソ連兵は大佐と副官の2人、それに通訳がいた。通訳は半島人で、この通訳が我々に非常に好意的だったよ。逆に関東軍大佐の方は最悪だった。『どうしても捕虜を出せ』と強圧する。

 『こには兵隊はいない。一般民間人だ』
 『ここへ来る途中、軍服を着た一隊を見た』
 『あれは北から逃れてきた難民で、着るものがないので軍服を着ているのだ』
 『女々しいことを言うな。それほど捕虜になるのが嫌か』
 『女々しいことなど言ってない。おれも帝国軍人だ。今でもちゃんと襟章をつけている』 
 『とやかく言わないで早く集めろ』

 『部隊は解散して兵はいない。自分が集めようとしてもその権限はない。どうしても連れて行きたいなら貴官が集めればよかろう。しかしこのことだけは言っておく。8月25日のことだ。男子全員連行の指令に応じられないとして全員玉砕の寸前まで行った。今度も同じことが起こるかも知れない。その時は貴官が責任をとれるのか。その覚悟があるならやってみなさい』

 このやりとりを通訳がこちらに好意的にソ連側に伝えてくれたに違いない。ソ連軍大佐と副官は『ここは後回しにしてよそへ行きましょう』と言って引き揚げていった」。そう言って吹野信平はため息を吐いた。武井が後で聞いたところによると、火工廠での捕虜狩りに失敗した員数合わせに、遼陽と鞍山の軍病院から傷病兵が引っ張られている。武井は誠に済まない気持ちでいっぱいだった。

 8.25事件の舞台となった桜ヶ丘国民学校は、爆薬の撤去、損壊箇所の修繕などが行われた。しかし授業が再開されたのはソ連軍の支配が中国共産党に移管された11月下旬で、その間は休校状態だったようだ。国民学校高学年の生徒は学習塾形式で授業が確保されていたようだが、筆者のような低学年児童まで手が回らない。

 担任の鈴木久子先生も家族と一緒に生き延びるのがやっとの毎日。初秋になって校長先生から「なるべく男装をして学校へ来るように」と指示があり開校の準備をしたが、すぐにまた自宅待機になった。国民学校校舎は土足のソ連兵によって蹂躙されたままであった。
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本白根山の噴火、夏だったら……

水久保文明さんのブログ「ヘボやんの独り言」より転載
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18年02月06日
11557 本白根山の噴火、夏だったら…… 

■水久保文明(JCJ会員 千代田区労協事務局長 元毎日新聞労組書記)

 1月23日に前触れもなく突然噴火した本白根山(2,165M)。この山には1997年8月5日と2003年7月27日の2回登っている。両方とも夏場であったが、これには理由があった。コマクサを観るためだ。この山はコマクサの育成に力を入れており、あちこちに群落を見ることができる。特に今回、噴火のあった地点近くはすばらしい。

 97年のときは今回の噴火で話題になったロープウェイの頂上駅まで車で入れたが、03年時は国道沿いの大駐車場までしか入れなかった。したがって、初回は1時間半で山頂往復を果たしている。とはいっても、2回目の03年も2時間5分しか歩いておらず、「百名山」登山としては楽なほうである。

 03年の記録を引用してみる。

                               
◇=◇=◇

 カラ釜と呼ばれるガレ場の斜面に、コマクサが群生している。5年ぶりに訪ねたわけだが、前回はこんなに多くはなかった。意図的に育てていることがよく分かる。こういう努力があってこそ、コマクサが生きていけるのだ。何やらその光景に嬉しくなる。

 本白根山の最高点まで歩く途中にも、コマクサとヒメシャジンの競演を見ることができる。赤のコマクサと、青がかった紫色のヒメシャジンが奇妙にミックスしている。それらの写真を撮りながら、のんびりと歩く。最高点には先客が休んでおりその傍らで一休み。

 早い時間に登り始めたことが功を奏したようで、下山中、かなり多くの団体とすれ違うことになり、混雑を避けることができたことに安堵感を味わう。登山客のほとんどはコマクサが目当てであることはいうまでもない。駐車場にもどり、万座温泉で汗を流して帰路についた。
              ◇=◇=◇

【コマクサ】
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【ヒメシャジン】
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 これを書こうと思ったのは、「多くの団体とすれ違った」という部分を強調したかったからだ。あの噴火が真夏であったら、御嶽山の噴火(2014年9月27日/死者・行方不明者63人)の比ではない大惨事になった可能性があった。

 本白根山は御嶽山と違って登りやすく、高山植物の女王・コマクサを見ることができるため人気の山なのだ。前述の団体のなかには夏休みということもあったのだろう、子どもたちがたくさん混じっていた。

 97年に登った時は、カラ釜を一周したため「鏡池」の縁を歩いているが、ここは今回噴火した真横にあたる。もしあのとき噴火していたら、と思うと背筋が凍り付く。山とはそういうものであり、今回の噴火は真冬であり、登山客がいなかったことが(亡くなった方には申し訳ないが)犠牲者を少なくしたと言える。いずれにしろ、登山にはそういうリスクが付き物であることを肝に銘じておく必要がある。


★脈絡のないきょうの一行
名護市長選挙で辺野古基地建設反対派の現職・稲嶺進市長が敗北。政府の執拗な攻撃で、市民も疲弊か?
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爆風(45)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2018年02月06日
爆風(45)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 高崎総裁は「鞍山の昭和製鋼と連絡がとれていないので心配だ」と言い、鞍山製鋼所の岸本所長(大将)宛ての親書を加々路に託した。加々路は遼陽に帰隊後鞍山へ出向き、岸本大将に直接この書面を手渡す。岸本は食い入るように手紙を読み「これで今の新京の様子、高崎総裁の考えがよく分かった。すぐこちらの模様を知らせることにする。わざわざありがとう」と礼を述べた。

 ソ連軍による工場施設撤去および本国への運搬は10月いっぱいでほぼ目途がついた。そして迎えたのが11月6日である。遼陽のソ連軍司令部から「本日は革命記念日により貴部隊将校を式典にご招待したい」との連絡。このところのソ連軍の動きを見るとどうも臭い。そのままシベリアに連行されるのではないか、という心配があったが、招待を断る理由はない。ソ連軍はパスまで用意しているのだ。

 バスに乗り込んだのは40人程の将校たち。夕闇が迫る中を家族や残留将校に見送られて出発した。ところが走り出してしばらくすると、エンジン不調でバスが止まってしまった。ソ連兵は困りきった顔だが、日本側は平然と呑気に修理が長引くの待つ。同乗の和泉正一は本来戦車隊出身なので、自動車のエンジン修理についてはいささか心得もあったがここは一切知らんぷり。

 やっと修理が終わり、再びバスに揺られて遼陽のソ連司令部に着いたのがもはや夜半過ぎ。革命記念日の式典なるものがほんとにあったのかどうかも判然としなかったが、ソ連側はしきりに「手違い」を詫びて将校たちを東京陵へ送り返した。後で知ったところでは当日、革命記念日への招待を口実に集められた多くの日本兵がシベリア連行に遭っている。東京陵のバス故障は不幸中の幸いと言えなくもない。

 日本人将校のシベリア連行に不覚を取ったソ連軍は翌11月7日、林光道少将(部隊長)を夫人の目の前で自宅から連行した。「火薬製造について質問したい」との理由だが、8月25日に次いで2度の将校連行失敗の尻拭い的措置だったものと思われる。しかし、将校、軍属、その家族にとってもはや林は最高指導者としての権限も人望もない。そのソ連連行はソ連側が意図したようなショッキングな出来事ではなかった。林光道は数年のシベリア抑留後、帰国して日本で生涯を終えた。

 ソ連軍が火工廠の支配を中共軍(以下「八路軍」「東北人民解放軍」とも呼ぶ)と交代したのは11月17日だった。その直前、三度目のシベリア連行の企みが仕掛けられた。今度は旧関東軍司令部がソ連に加担しており、矢面に立ったのは林部隊長の権限を引き継いだ吹野信平少佐であった。
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望月記者の話を聞いて思ったこと

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765
労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2018年02月04日
望月記者の話を聞いて思ったこと

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 昨日久しぶりに都内へ出て大勢の人に会って、帰りには市ヶ谷の「素材屋」で酒を飲んできた。帰宅は10時半、酔いが醒めて凍えるように寒かった。もう女房は寝ていたの1人でテレビをみながら飲み残しの赤ワインを空けて寝た。つまみは冷蔵庫の隅から引っ張り出したとろけるチーズ。結構いけた。

 昨日の会場は市ヶ谷の(というより麹町の)エデュカス東京。そう言えばちょうど1年前、主催者も同じくJCJとマスコミ九条の会だった。市ヶ谷からの坂道を登っていて腰が痛くなり、それがほぼ1年続いた。最近やっと痛みを感じないで歩けるようになった。そんなこと思い出しながら会場へ向かった。

 エレベーターが7階に上って驚いたね。超満員で入り口まではみ出している。通路に人が座っている。もう今日の講演者の1人中野晃一さんがしゃべっていた。人の迷惑も考えず最前列まで無理矢理。やっと一つ空いている席を見つけた。顔見知りのマスコミの仲間の間に腰を下ろせてほっとした。

 中野さんの約1時間の話はとても実践的で役に立つ。基調が「個人の尊重」だから運動内部の考え方の違いをあまり気にしない。違いを理由に立ち止まることは安倍政権を利するだけだ。ということで例の「立憲的改憲論」への批判もほどほど。「市民連合が選挙で統一候補を擁立するにしても真面目に考えていたらやっちゃあいられないことが毎日起こる。裏切りや野合が日常的。気にしてたらきりがない」。

 もう1人の講演者は東京新聞社会部記者の望月衣塑子さん。菅官房長官の記者会見で名を馳せてこのところあちこち引っ張り凧だ。機関銃のような早口だが聞きとりいい。おれは最前列なので彼女の唾が飛んできそう。話に一定のズムがあるので、目をつむっていたらしばらく眠ってしまった(失礼!)。

 話のテーマは「権力側が隠そうとすることを明るみにだすこと」。森友学園疑惑の追及とリアクション。その一部始終がド迫力で語られた。しかし内容的には既に知られていることばかりで、新しい驚きの事実はない。記者クラブ制度への疑問も出された。例えば官房長官への質問のやり方について他の記者から横やりが入ることもある。相変わらず「浮いた存在」と自分を見つめることも。

 おれは望月さんと言う記者の話を聞くのは初めてだ。元気もいいし、頭の回転も速い。しかし彼女が今のメディアの代表的騎手としてもてはやされることへの疑問も感じた。それは彼女の中に組織的なたたかいという概念がゼロだという点だ。東京新聞には新聞労連に加盟する少数組合がある。望月さん、ぜひ加入を!
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2018年02月02日

爆風(44)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765
労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2018年02月02日
爆風(44)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 加々路と松本は新京の大通りを捕虜収容所になっている元の消防署を目指して歩いた。遼陽、奉天などと違ってソ連軍将校の姿も多く、街中を装甲車が走っている。大通りの突き当たりに赤旗が翻り、火の見やぐらに見張りの兵士が見えた。捕虜収容所である。建物の周囲は鉄条網が張り巡らされている。脇の入り口に少年兵が1人で立っている。松本が得意のロシア語でかねて用意した来意を告げた。

 少年兵は2人が持っている南京袋の中身を改め、野菜であることを確認、すんなり通してくれた。建物内には元日本兵が忙しそうに歩きまわっている。その1人に「最高幹部に会いたい」と言ったところ「将官は既にチタ、ハバロスフクに連行された。ここには佐官しかいない」との返事。そして佐官が集まっている部屋に案内されたが、驚いたことに最高責任者は8月15日まで火工廠にいた関大佐だった。

 まことに奇遇。加々路はその後の火工廠の推移を報告した。将校はじめ軍属も1人の連行もなく全員無事だと伝えると「それは凄い。よく捕われなかった」とその場の佐官達にどよめきが起こった。この収容所は近いうちに閉鎖され、全員ハバロフスクへ送られるという。ハバロフスクから日本へ帰れればいいが、と希望がらみの冗談が出た。

 加々路は関大佐に、改まって火工廠の今後について指示を仰いだ。「敗戦後大本営から『部隊を解散して兵員は除隊させよ』との最終無電が来た。これが命令の最後だ。この命令を全満の部隊に伝達してほしい」。それはとうてい不可能に思えたが、加々路は命令の伝達を約束した。いたずらに収容所内の滞在が長引くと無事退出することでできなくなる恐れがあるので、日頃ソ連兵と折衝している関大佐の口利きでなんとか建物から外へ出た。後ろから発砲などされるのではないかとびくびくしながら大通りへ戻った。

 翌日は在満居留民会に高崎達之助会長(満業総裁)を訪ねた。途中北満からの避難民で溢れている白菊小学校に立ち寄る。女子どもだけの集団は飢餓、病気、暴行に苛まれ、聞きしにまさる地獄だ。これらの人たちの苦労に比べると、桜ヶ丘はなんて恵まれているのかと思わざるを得ない。

 民会事務所に高崎総裁の姿はなかったが、係員から自宅を教えてもらった。自宅ではちょうど出かけるところだったが、遼陽からわざわざ来たというので家の中に引き返し話を聞いてくれた。遼陽や奉天の様子、またここまで来る途中の沿線の模様をに熱心に耳を傾けた。高崎総裁は「在満日本人の安全確保に関して毎日ソ連軍司令部と交渉している。敗戦国ではあるが毅然たる態度が必要だ。当面百数十万の在満同胞をどうして越冬させるかに心を砕いている。食糧、石炭の確保は待ったなしだ」と決意で顔を紅潮させた。
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