2018年05月24日

爆風(88)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載


労働運動は社会の米・野菜・肉だ。

2018年05月23日

爆風(88)

 留用者の給与はどうだったのか。国府軍は留用者に対して「生活は保証する」と約束、46年7月分から支給された。賃金レベルは旧日本軍隊時代の階級に応じて決められる。例えば旧大尉であった者は、国府軍の中尉程度の金額が支給される。給与のほかに白米の無料配布が少量ながらあった。

 給与額が旧軍隊の階級に基づくため、火工廠当時の賃金体系との矛盾が出た。火工廠当時、軍人でない古参の職制は将校以上の額をとっていた。それが極端に低くされる。当然不公平感が出る。そこで46年10月分から日本人内で賃金の再配分が行われるようになった。生活費に基づく均等化である。

 まず日本人全員の給料を国府軍から一括して受領する。そして一定の配分係数により算出した額を各人に支給する。どんな係数が決められたか不明な点もあるが、和泉正一の記憶によると《主人(10)、妻(8)、子供(5)》であったらしい。係数配分の提案者は吹野信平少佐だったといわれている。

 年が明けて47年春になると、それまで八路軍に対して優勢だった国府軍が劣勢を伝えられるようになった。それに伴って国府軍紙幣の信用が急落し、八路軍による物資の流通遮断も相まって猛烈なインフレに襲われる。給料も毎月引き上げられたがインフレの速度には追い付かない。給料が出るとすぐ、生活必需品の米、調味料、豚肉、粉ミルク、煙草などを買いに市場へ走った。

 木山敏隆の手記。《インフレは激しく、家族数に応じて再配分してもらった給料と現物支給の雑穀は、数日中に生活必需品に交換された。貴重な所持品の物々交換でタンパク質を補充する。日曜日、遼陽市内へ菅野氏、中尾氏らと買い出しに行く。すべてに飢えている我々にとっては、見るもの聞くもの皆楽しいものばかり。米国製品が氾濫している。長年見たこともない洋モク、初めて見るナイロン製品等店頭にずらり並んでいた》。

 留用者の中には一般引揚当時肺結核等の重病で、残留せざるを得なかった人たちがいた。そのうち緒方少尉が46年6月28日、小林雅男が同9月20日、南満工専学生の工藤が同9月中旬に相次いで亡くなった。また勝野六郎医師の義理の母勝野せいを始め、1歳の幼女から大人まで10数人がジフテリア、疫痢、肝疾患などで日本の土を踏むことなく大地に骨を埋めた。

 勝野六郎医師の手記。《引揚げの数日前、丘の上の墓地を訪れた。親戚の反対を押し切って、満州まで私たち夫婦についてきた時の義母の嬉しそうな顔が思い浮かぶ。満州の地に骨を埋めることになった霊に敬虔の黙祷をし、同時に安らかに眠る人々のために冥福を祈って丘を降りて帰ったが感慨無量だった》。
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インドネシア・ジョコウイ大統領の正念場

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載


労働運動は社会の米・野菜・肉だ。

2018年05月22日

インドネシア・ジョコウイ大統領の正念場

 バリ島に来ている。乾季の空は紺碧だ。確かに暑いが日本の蒸し暑さとはちょっと違う。どこか爽やかさが感じられる。午前中両替と買い出しに行ってきた。2万円が251万5000ルピア。財布に札束。気が大きくなる。そこでスーパーで買い物。地ワイン2本、地ビール缶5本、生ハム、サラミ、トマト、レタスで計55万6350ルピア。約5000円というところか。朝洗濯した丸首とパンツが手絞りなのにもう乾いた。

 インドネシアの日本語新聞「じゃかるた新聞」5月21日付に「レフォルマシ道半ば」「スハルト退陣から20年」の記事。レフォルマシとは改革の意味で、反スハルト運動の学生らのスローガン。当時の中心的活動家は今、ジョコウイ大統領を支える重鎮になっている。

 スハルト大統領に対するインドネシア国民の評価は下がり気味だが今でも歴代高位だという。民間調査機関インドバロメーターの「1945年の独立以来最も成功した大統領は誰か」という世論調査の結果が「じゃかるた新聞」に載っている。4月15日〜22日まで、1200人に対して面接調査をしたもの。

 1位はスハルトで32.9%。これは前回調査(2011年)より7.6ポイント落ちている。2位は初代大統領のスカルノで21.3%、3位が現大統領のジョコウイで17.8%。ジョコウイの前の大統領のメガワティは0.6%と歴代最低だ。この結果に対してスハルト打倒運動をした元活動家のプディマン・スジャトミコ氏は「スハルト氏がトップなのは当然。任期も最も長く、功績も多い」と認めている。

 とは言えスハルトが強権政治、汚職体質であった本質は消えない。スハルト退陣後4回の憲法改正を行い、政治の民主化の努力がなされた。特に深刻だったのが汚職の蔓延だった。2003年に独立捜査機関「汚職撲滅委員会」が設立され、汚職絶滅への機運が高まった。現職のジョコウイ大統領になってからやっとその効果が表れ、政権発足からの3年間で汚職摘発件数はそれまでの6倍に達している。

 来年はインドネシア大統領選挙の年である。6年間のジョコウイ大統領の実績が問われる。軍からも大資本からも独立した庶民政治家としての本領を発揮できたのかどうか。おれはこの間ずっとバリ島というインドネシアの一地方と付き合ってきたが、おれの見る限り島のリゾート開発、アメリカや日本の企業進出が著しいように思える。それが庶民の生活に寄与しているのかどうか。それが問われるように思う。
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連合と政府が「働き方改革」で一致 

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載


労働運動は社会の米・野菜・肉だ。

2018年05月19日

連合と政府が「働き方改革」で一致 

 ズサンな資料、インチキデータで法案自体が自爆するはずの「働き方改革関連法案」が、来週中にも衆議院を通過し、今国会で成立する運び(19日付『毎日』)だそうだ。国会内外で労働弁護団やエキタスなどの市民団体が反対運動をやっているが、どうも肝心の労働組合の影が薄い。

 折も折、連合の神津理季生会長が首相官邸で菅官房長官に会って「2019年度 連合の重点政策」を提示した。「連合は5月17日、菅官房長官に対して『2019年度 連合の重点政策』の実現を求める要請を行いました。連合からは神津会長、相原事務局長等が出席しました」(18日付『連合ニュース』)。

 連合が要請したとする「重点政策」は4本10項目から成り、「長時間労働是正に向けた法整備と労働者保護ルールの堅持・強化、医療・介護・保育で働く職員の処遇・勤務環境の改善をはじめとする人材確保対策の強化、待機児童の早期解決のための財源確保と質の担保された受け皿の整備に向けた政策の推進」などを内容とする。連合側からポイントを説明し、意見交換をしたという(連合ニュース)。

 俺もそうだがこれを見た労働者は「なんだこりゃ」と驚き怒りが湧いてくるはずだ。これじゃまるで現在争点になっている「働き方改革関連法案」の推進要請ではないか。連合が一応反対している「高度プロフェッショナル制度」については何もない。ということは容認するという意思表示ではないか。

 5月17日付『産経』は「神津理季生連合会長『高プロ』反対を自粛!?菅義偉官房長官と面会」と報じた。「(菅長官と神津会長は)働き方関連法案について、国会で論議を深めることが重要だとの認識で一致した。(連合が反対している高プロには)神津氏は特段、言及しなかった」「菅氏は『方向性は政府も全く同じで、働き方改革の実現にしっかり対応していきたい』と伝えた」。全く舐められている。

 今時連合が労働者の代表だなんて思っている人はいないだろうが、おれたちが思う思わないにかかわらず、少なくとも安倍政権は連合を労働者代表として都合よく利用している。この構図をぶっ壊したいものだ。

 明後日から3週間、バリ島滞在だ。向こうでインターネットにつないでもらえるはずだから、メールもブログもこれまでと同じだ。平常通りお付き合い願いたい。
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2018年05月17日

爆風(87)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載


労働運動は社会の米・野菜・肉だ。

2018年05月17日

爆風(87)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 河田哲(南満高専学生)「46年3月、松本百公さんに呼ばれて峨嵋荘というところまで会いに行った。八路軍の急な撤退と国府軍の進攻に挟まれて一夜を日本人宅で過ごした。その時の話し合いで、日本へ帰るより中国に残る方がかえって日本のためになるのではないかということになり残留を決意した」
 玉井林(奉天工大学生)「内地の混然たる状況を想像して、慌てて帰るより内地の安定を待った方が身が処し易いだろうと判断した」

 工場再開を図った国府軍だったが、旧火工廠の工場設備はソ連軍、八路軍により大方接収され主要部分は壊滅状態だった。そのため設備の残存している旧奉天造兵所から東京陵、唐戸屯の各工場へ機器を移転、軍用火薬の製造を開始した。工場の日本人最高責任者は吹野信平少佐で、松野徹は庶務課長、辻薦、和泉正一は工程師、玉井林は工程師補、木山敏隆は技術員などそれぞれ役職を与えられた。

 国府軍はこの工場を「聯合勤務総司令部第九十工廠遼陽分廠」と命名し、黄大佐が廠長として業務を管轄した。幹部の中には女性も含まれ、奉天工大など日本の学校を出た技術者が大半を占めた。このようにして工場生産は再開されたが、設備不足のため本格操業には程遠かった。

 生産準備のために各工場に残存している図面の整理、補充がまず最初の仕事だ。成田正三は中国人の技術者に補充図面の作成を指導したが、製図能力、理解力に欠けほとんど役に立たない。敗戦時に焼却した工場配置図と水道管敷設図を新たに作成する作業も困難をきたした。

 工場によっては全然仕事がなく、自宅待機状態の部署もあった。日本人留用者たちは自宅で豆腐や飴をつくって生活の糧にした。時には太子河に釣り糸を垂れたり、一般引揚後の空き家の残品整理をしたりして日を過ごす。吹野信平をはじめ日本人幹部数人で囲碁を楽しむ姿も見られた。

 仕事らしい仕事としては46年10に設置された研究室がある。国府軍将校の銭が責任者で、日本側は鈴木弓俊が業務を仕切った。中国側から発煙弾の分析法、発煙剤の製造法などについての質問があり、それに丁寧に答えた。ダイナマイトの製造と爆破実験も行われた。

 留用者の子供は30人で、1人は中学生だが他は国民学校の生徒だった。桜ヶ丘国民学校の教師で残留に応じた鈴木久子と岡島悦子が教育に当たった。旧火工廠幹部の伊藤礼三、稲月光、和泉正一、佐野肇、鈴木弓俊らがカバー、勝野六郎が校医として名を連ねた。この桜ヶ丘国民学校は在満教務部の正式承認を得ており、校長・伊藤礼三名で卒業(終業)証書が授与された。

 家族のいる留用者の宿舎は一般引揚者が帰った後の弥生町の官舎を使った。独身者は旧松風寮に中国人独身者とともに住まわされた。食事は金を払って中国人と同じものを食堂で食べた。火工廠幹部将校が住んでいた職員宿舎は中国人高官の住まいとなる。元の吹野信平宅には黄廠長が住んだ。
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マルクスガブリエルの言いたい放題

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載


労働運動は社会の米・野菜・肉だ。

2018年05月16日

マルクスガブリエルの言いたい放題

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 14日付『毎日』のオピニオンページが読み応えあった。38歳のドイツの哲学者マルクス・ガブリエルへの一問一答。タイトルは「そこが聞きたい ポピュリズム現象とは?」。ドイツの昨年総選挙で右派政党「ドイツのための選択肢」(AfD)が野党第一党になった。右派ポピュリズムとはどんな思想なのか。

 マルクスガブリエルは右派ポピュリズムをキリスト教原理主義だと定義する。「(原理主義は)「歴史的事実を否定し、事実に合致しないアイデンティティをでっちあげます」。だから右派ポピュリズムの政治は「ウソの物語に基づいて」「誤った事実と認識」で行われることになる危険が大きい。

 そんな危険な政治が何故人々から支持されもてはやされるのか。ちょっと長いが、マルクスガブリエルの言をそのままコピーする。

「人の文化的活動は、心理学者フロイトが名付けた(本能的に欲求を満たす)『快楽主義』と、(社会の仕組みを考慮し欲求を制限する)『現実原則』が調和している時に成り立ちます。このバランスが崩れると人は心を病みますが、私たちはこの二つが一致しにくい病める社会に暮らしているため、複雑な現実を単純化して提示してくれるポピュリズムのような(都合の良い)『幻想』を求めるのです」。

 このマルクスガブリエルの言葉は、今の日本の政治、国民の心理状況をピタリ言い表しているのではないだろうか。事実を顧慮せず断定的に確信を持ったふりをして、政治の場で平然とウソをつく。単純な大衆受けする単語をばらまいて国民の幻想を誘う。そんなウソの政治に対抗軸はないのか。

 マルクスガブリエルは必要なのは「他人の哲学、考えに耳を傾ける『友情の政治』」だという。この対極にあるのが『敵意の政治』で、自分と相容れない人や思想に対して対立の構図を作る。敵対することが良いことだと決めつける。匿名の批判をネットで広げる。そんな国民が右派ポピュリズムの餌食になる。

 一方でマルクスガブリエルはこんなことも言う。「哲学界に『悪いやつ』がいたことは明らかです。(社会主義独裁につながった)カールマルクスや(ナチに利用された)ニーチェ、ハイデッガーらです」。これはちょっと酷い断定の仕方じゃないのかな、とおれは思った。
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爆風(86)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載


労働運動は社会の米・野菜・肉だ。

2018年05月15日

爆風(86)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 次に国府軍留用者について記す。1946年3月18日に八路軍が火工廠を撤退し、替わりに国府軍が進駐してきた。国府軍も八路軍と同様、火工廠を活用して工場復旧、火薬製造再開を企図していた。そのためには日本人技術者の大量残留、つまり留用が必須条件だ。一方、一般引揚げの動きも本格化する。国府軍は引揚げに協力する見返りとして工場再開に必要な人材の提供を火工廠幹部に迫った。

 居留民会に責任を持つ吹野信平少佐は、全員揃っての引揚げを念願しながらも、引揚げ業務を円滑に進めるため一定の人員の残留を承諾する決断をした。留用者の人選は日本側に任され、吹野は旧職場のそれぞれの担当者に選考を依頼する。留用者の中には個人的判断で残留した人もあったが、大部分は旧上司の依頼・説得によるものであった。一般引揚げの促進というのが説得の材料になった。

 このようにして92人の留用者の名簿がつくられた。その家族163人を加えると総勢255人になる。この名簿の中には吹野信平をはじめ、これまで本稿に登場した火工廠幹部の名前が多く見られる。

 吹野信平、松野徹、勝野六郎、木山敏隆、成田正三、鈴木一郎、井上二郎、鈴木弓俊、伊藤礼三、佐野肇、稲月光、加藤治久、麻殖生成信、井上富由、和泉正一、辻薦、鈴木久子などである。ほとんどが技術者だが、残留者の健康と生命を守るために勝野医師が、残留者の子弟の教育を任務として国民学校教師の鈴木久子も残った。

 残留者の胸中にはそれぞれの複雑な思いが去来した。「関東軍火工廠史」に寄せられた手記の中からその「思い」の一端を抜き出してみよう。

 松野徹「こうして留用されるのも、後に再び進出して来る日本人のために、辛かろうが、我々はその捨て石になろう」。
 勝野六郎「淋しさと悲しさを乗り越え、留用者の生命を何とか病気から守ってあげたい強い医師の願望が私を支えていたのみだった」。
 和泉正一「(工場長の立場として)私の場合は、覚悟せざるを得なかったが、さて9名となるとまるで説得の自信はなかった。しかし私を信じて、思ったより早く残る決意をしてくれた」。

 木山敏隆「ある日浅野中尉がやってきて、国府軍から留用の要請がある、日本人の引揚げ促進のためでもある、君に残ってもらいたいと言われた。納得できかねるのでいろんな質問をして抵抗した。しかしまだ若いし健康だ、君の専門の土木関係は老齢者ばかりだ、何とか残ってくれと頭を下げられてしぶしぶ承諾した」。

 野久尾良雄「終戦の日、敗戦を認めずソ連軍と決戦するべく首山堡に立てこもった青年工員の一人として燃えたことがあった。留用に応じ、いつの日か、祖国のために戦おうとの気持ちがまだあったように思う。独身者としての自由さ、身軽さだったのではないか。そこに目をつけられた気もするが」。
 井上富吉「第二工場には愛着があった。復旧して元通りにしてから帰るのが人情、また班長以上の大部分が残るということで、再三すすめられて残ることに決めた」。
 小田政衛「実は迷っていた。親友と相談したらやはり留用の話がきていて承諾したという。医療の保証が心配だったが、勝野医師が残るというので留用に決めた」。
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爆風(85)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載


労働運動は社会の米・野菜・肉だ。

2018年05月14日

爆風(85)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 (須本佐和子の手紙の続き)漢口を前にして、美しい揚子江に大阪の街を想像しました。感無量です。革命が成功するのも最早目前に迫っております。でも我々は元々は捕虜なわけですから如何になることやら。しかしどんなことになっても私は日本人として中共軍とともに戦います。立派な薬剤師になって帰ります。日本人男女合計60名余りいますが、まだ外国人には結婚を許しておれません。そのため44歳の方を始めとして全員独身です。

 またこの軍隊は、思想の悪い者、日本でいう右翼主義者は、全部、始めから叩き直されます。昔の日本の軍隊とは、全然違った、厳しい軍隊です。我々も戦います。(中略)今宵も美しい星が輝いております。まだまだ書きたいけれど、これにて止めます。この手紙が無事にお母さまの手に渡るよう神様に祈ってぺんを置きます》。所属「中国人民解放軍第三野戦軍 第四〇軍 衛生部野戦第三所」

 外国人の結婚について、49年当時は許されていなかったようだが、解放後は結婚が奨励されたらしい。須本佐和子の51年10月25日付の手紙によれば、同僚の藤野看護婦が結婚し可愛い坊やの母親になったことが書かれている。須本自身は一度婚約したが、相手が病身のため取り消している。

 52年11月19日発信の須本佐和子の手紙。《ご両親様御許へ お父様お母様からお手紙を頂いてもうすぐ4〜5ヶ月になりますが、種々何かと取り紛れ、忙しく今日に至りました。今私、体を少し悪くし、手術を要するので病院に入院しております。別に心配する程の病気でもありません故、気にかけないで下さいませ。病院生活も2ヶ月になりますが、毎日皆様良く面倒を見て下さいますのでいつも感謝しております。

 日本人の多くが結婚生活に入っておりますが、生活に何の心配もなく、毎日幸福な日々を送っており、生まれてくる子供は、国家の子とし、育てられ、1人の子供に何万円と保育費がつき、成長すれば、日本人の育児所、幼稚園、小学校、中学、大学と進学でき、教育程度もうんと高く、子供も希望のある将来を望めます。

 働けば働くほど豊かになる、楽しい生活、私達もこうして入院しておりましても、入院費もいらなければ、治療代もいらず、給料は普通のように頂け、美味しい栄養価のある食事に感謝しながら、休養いたしております。日本の現在の状況と違って働くものの国は、日一日と豊かになり、私達の生活も益々幸福になって行きます。思いついたまま筆をとりました。皆様お元気で。漢口市 61病院にて》。

 須本佐和子はこの手紙の後日本人男性と結婚し、都村佐和子となって1954年7月に帰国している。
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トランプは正気に戻ったのか

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載


労働運動は社会の米・野菜・肉だ。

2018年05月13日

トランプは正気に戻ったのか

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 トランプと金正恩に世界中がかき回されているように思える。世の中、一寸先には地獄もあれば極楽もある。別に何があってもおかしくないが、今年になってからの変貌の激しさにはついていけない感じもする。そりゃあ武力の衝突より話し合いの方がいいに決まっている。それにしても、つい半年前までこの2人はどういう仲だったのか。おれの知る限りでは人類史上最も険悪な間柄だったはずた。

 2017年9月、トランプが国連総会で痛烈な金正恩批判の演説をしたのに対して金は「世界の面前で私と国家の存在自体を否定して侮辱し、我が共和国を滅ぼすという歴代で最も凶暴な宣戦布告をしてきた」「国家と人民の尊厳と名誉、そして私自身の全てを懸け、我が共和国の絶滅を喚いた米国執権者の暴言に代償を払わせる」と猛反発した。言葉だけでなく米国に届くミサイルをぶっ放したのだ。

 これに対してトランプも負けてはいなかった。「チビのロケットマンは不気味な犬ころだ」「北朝鮮は人が住むに値しない地獄だ。(金正恩は)国民を飢えさせ、殺すことを気にも留めない狂った男だ」。そしてこちらも空母まで動員した大掛かりな軍事演習という脅迫行為にでた。

 それがどうだ、今や抱きついてキスをしかねない。トランプに至っては金正恩を「高潔な信頼に足る人物」と持ち上げる。6月12日にはシンガポールで2人が親密な話し合いに入る。シンガポールは金正恩の兄金正男が暗殺されたマレーシアの一部みたいな都市国家だ。警備は厳重だろうが大丈夫なのかな。

 このトランプの心変わりが変に評価されてノーベル平和賞の声まで上がっている。もっともノーベル賞の声がかかったとたんにイランの核合意から離脱すると言い出すあたり、いかにもトランプ流だけどね。

 トランプ流といえば、彼の流儀というか考えの本元はどこにあるんだろう。おれの頭にはトランプが大統領に当選した直後に発した映画監督のマイケルムーアの言葉が浮かんでくる。「彼はどんな思想も持ち合わせていない。彼が唯一信じるのは、ドナルド・トランプ(自身)だけだ」。そうなんだよな。トランプのやり方は思想や良心とは無縁なんだ。自分のやりたいようにやるというパフォーマンスだけのような気がする。決して正気に戻ったわけではない。

 今度の米朝会談でトランプの再評価をする向きもあるが、おれは反対だ。やはり米国民の良識においてトランプを大統領から引きずり下ろすべきだと考える。皆さんどうだろうか。
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2018年05月10日

爆風(84)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2018年05月10日
爆風(84)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 53年8月14日発信の大塚智子の手紙。《私この度元気で還ってくることができました。日本の皆様方のの長い間の支援の賜と只々感謝いたしております。存じませぬこととて、桜ヶ丘会の皆様へ今日まで一言の帰国のご挨拶もいたさず大変失礼いたしました。何卒ご容赦下さいませ。

 (中略)実を申せば、私、当時の病院責任者を大変お怨みいたしておりました。元来私たち4名の者は白百合寮より臨時に手伝いに行っていたもの。その私たちを、看護技術もなきものを、看護婦を要求する中共軍に差し出した責任者に対して、命令とは言え、その不良心を、どんなに痛切に感じたことでしょうか。約束の期限がきても、病院からも、火工廠の部隊からも何の音沙汰もなく、誰も中共軍に交渉してくれませんでした。そのまま帰国の日まで、初めに受けたこの仕打ちは、何かにつけて空しい憤りになったことでしょう。

 敗戦という大きな国家的転換時には、個人の生活にも大きな打撃は免れ得ぬものと、既に覚悟はいたしておりましたが、懐かしい東京陵を遠く離れ、異国人ばかりの中で、あまりの激変に耐えかねて、また毎日毎日の強行軍にくたくたになっては泣いて遼陽を恋しがった幾日、そうした時には、決まって最後には病院責任者への悪口になりました。当時の情勢から仕方がなかったと了解しつつも、なお訴え所のない心の鬱々の矢を向けておりました。

 帰国後初めて桜ヶ丘会と皆様の活動を知りました。皆様の変わらぬお心に、私は今更、怨んだ自身を恥じております。お陰様で本当に明るい気持ちになりました。重ねて皆様に深く感謝いたします。(中略)
最後にこの間の尊い犠牲者のご冥福とご遺族様の前途ご多幸をお祈りいたします》。

 49年7月発信の須本佐和子の手紙。《懐かしい母さん、和史、久美子、和美ちゃん。突然の音信、さぞかしお驚きになったことと思います。佐和子は無事に生きておりますゆえ何卒ご安心下さいませ。お父さまは青島からお帰りになりましたでしょうか。(中略)恐ろしい空襲に家の被害はなかったでしょうか。本当に皆無事でしたか。佐和子も親不孝をして家を飛び出しましたが、その罰が当たって、敗戦後すぐ遼陽の陸軍病院に応援に行きましたところ、そこで八路軍に連れられて4年間、つらい日々を送らせれられました。

 毎日行軍行軍で、夜昼ぶっ通しの行軍、兵隊と一緒に寝、弾の飛び交う中の負傷者収容・・・。今では立派な八路の看護婦さんです。この部隊には男女合わせて60名の日本人がいます。初めは何も分からず毎日泣いてばかりおりましたが、現在は調剤の方を中国の人と2人でやっております。思いがけず、今日、他の部隊で働いている日本人の看護婦さんから、内地から手紙が来たと聞いて、早速筆をとりました。5
年間の苦しい涙の生活、如何に書いてよいか、ただ胸が一杯で、何も書けません。自分の元気をお知らせいたしたく、それのみに心が焦って、無茶苦茶に書いています。
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爆風(83)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2018年05月09日
爆風(83)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 生駒は約2ヶ月の取り調べの末「無実」だと認定されて他の20人ほどの日本人とともに釈放された。生駒には何の疑いで逮捕・投獄され、厳しい責め苦を受けたのかとうとう分からなかった。――筆者は《あの民家の主に嵌められたのではないか》と疑っている。彼は国府軍の進駐を察知し、そちらに付け入るためにお土産を考えた。それで生駒に八路軍からの脱走をそそのかし、八路軍のスパイとして生駒たちを密告したのではないか。これは筆者の推測であり真相は不明だ。

 生駒たちは安東まで国府軍兵士に護送され、奉天行きの列車に乗せられた。奉天に着いたのは1946年1
2月30日で、満州各地からの避難民が集まったバラックに入った。このバラックは国府軍の管轄下にあったが生駒は許可を得て知り合いの満州医科大学の原教授を訪ねた。最初はあまりの乞食同然の姿のせいか玄関払いされそうになったが、やがて「あの京大医学部出の生駒医師ではないか」と判明し、正月3日間世話になった。お餅を食べさせてもらったり衣類は熱湯消毒してもらったりした。

 原教授から東京陵病院の勝野六郎軍医に連絡が行き、47年1月半ば、勝野医師と病院勤務の町田修造の2人が迎えにやってきた。国府軍に生駒の火工廠への帰還を申請して許可を得、1年ぶりに生駒は東京陵の土を踏んだ。東京陵は勝野医師ら数人の留用者以外は帰国した後で、中国人の町になっていた。

 生駒医師らが脱走≠オた後の医務留用者はどんな道を辿ったのか。生駒医師と林医学生(衛生兵)がいなくなり、荷宮歯科医も病気のため東京陵に帰ったため一行は看護婦の坂典代、須本佐和子、大塚智子、藤野、林田、岸本ただえの5人だけになる。このうち藤野は途中で東京陵に戻り、岸本も病弱のため21年夏に一般引揚者とともに帰国し、残りは坂、須本、大塚の3人になった。

 この3人の消息を知らせる本人からの手紙が「関東軍火工廠史」に収録されている。
 1950年1月25日発信の坂典代の家族あての手紙。《お母さま、兄さん、芳美さん。お懐かしうございます。お母さまもご無事で内地にお帰りなされたことと信じ、筆をとっております。(中略)私もお陰様にてどうやら無事に今日まで過ごしてきました。言葉の分からない風俗習慣の違ったところにて随分苦労をしましたけれど、現在はどうにか慣れてやっていけるようになりました。

 雪降る遼陽でお別れ致しまして以来、満州各地を歩き、有名な万里の長城を目前に仰ぎつつ、歩いて越えたのも一昨年の末にして、黄河を渡り、揚子江を渡り、現在は広東省の雷州半島まで来ています。自分ながらもよくここまで歩いてこられたものだと驚くくらいです。ここは1月というのに日本の夏と同じ気候です。蚊や蠅も沢山おります。バナナやトマトなどの果物類も豊富ですが、やはり内地のようなお餅や味噌汁、梅干しなどは見受けることができません。そんなことなどいつも皆で話し合っては、懐かしき故郷、そして親、兄弟を偲んでおります》。
 坂はこの手紙を出した後同じ留用者の男性と結婚、荒井典代となって53年7月に帰国している。
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