2017年10月21日

爆風(6)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765
労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年10月21日
爆風(6)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 満州西部のハイラル方面から進攻したソ連軍は、12日にも新京に達することが想定された。一方蒙古方面からの敵は11日には赤峰を陥れ、錦州に迫りつつある。この勢いでは13日夕刻にも火工廠の前面に出現する可能性があった。火工廠の関東軍918部隊は、通化に異動した総司令部からの命令を受けるべく、再三手を尽くしたが駄目だった。こうなっては林部隊長の権限で作戦を立てるしかない。

 将校たちが召集された会議で示された方針は次のようなものであった。@迫りくる敵にできる限りの損害を与える、A火工廠の施設を一切敵に使わせないため破壊し尽くす、B敵の捕虜になる前に、婦女子を先頭に最後は全員玉砕する。敵にできる限りの損害を与えると言っても、918部隊はそもそも戦闘を目的としていない。武器といえば数丁の機関銃とあとは小銃と軍刀くらいしかない。抵抗はたかが知れている。結局は、工場を破壊し全員玉砕するというだけの絶望を絵に描いたような方針だった。

2、日本敗戦
 8月15日朝、猪野健二雇員、岸田義衛会計科員ら数人は、奉天の様子を探るべくトラックで東京陵を出発した。正午に重大放送があると聞いていたので、途中の煙台という部落に立ち寄り、屯長さんの家でラジオを聞かせてもらった、天皇が日本の敗戦を宣告したことが分かった。悔しいとか悲しいとかいう先に、これからの日本はどうなるのか、自分たちはどうなるのか、が心配だった。とりあえずそのまま奉天に向かったが司令部は空き家同然だった。夕方帰路につき激しくなる風雨の中をトラックを走らせた。

 技術将校の稲月光中尉は8月15日正午、工場の控室で他の将校や技手たちとともにラジオを囲んで「重大放送」を聞いた。初めジージーピーピーと雑音だけだったが、やがて「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」という天皇の言葉が聞き取れた。どうやら戦争は負けたらしい。稲月中尉は火工廠の部隊本部へ急いだ。ちょうど本部会議室から林部隊長以下が出てくるところで、どの顔も悄然としていた。稲月中尉はすぐ各工場を回り、敗戦の事実を報せ、軽挙妄動をしないよう注意して歩いた。

 東京陵第一工場では12日から連続3日、徹夜で急造地雷の製造に必死に取り組んでいた。工場責任者の武井覚一技手は15日11時半に、工場事務所のラジオを事務所全体に聞こえるよう調整して玉音放送を待った。事務所には事務員、班長のほか満人たちも集まっていて足の踏み場もない状態。やがて放送が始まり日本の敗戦が明らかになった。
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松戸伊勢丹の閉店と総選挙

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年10月20日
松戸伊勢丹の閉店と総選挙

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 松戸市で唯一のデパート伊勢丹が来年3月で閉店するという。開店して何年になるんだろう。30年は超えるだろうと思う。おれの洋服のサイズはスーパーでは揃ってないので、ちょっと割高だが伊勢丹5階のラージサイズコーナーで買っていた。松戸駅前のマンション住まいの長女は超お得意だった。

 うちの女房も伊勢丹のなんとか会員でカードを持っている。2,3日前、閉店とカードの件でお知らせ手紙が来た。朝飯の時、なんで閉店なのかなと話題になった。おれが「高度経済成長時代のいわゆる中流層がいなくなったせいじゃないかな」と言うと女房も「そうかもね」と頷いていた。

 いつ頃かな、「勝ち組」「負け組」なんて言葉流行ったことがある。派遣斬り、ワーキングプアも社会現象になった。要するに貧困と格差の時代が来たんだよな。一部の超金持ちと貧困層に社会が二極化して中間がなくなった。お客をたくさん呼ぶのは100円均一店と高級ブランド店というわけだ。

 デパートだけではない。飲み屋の世界もそうだ。小料理屋や割烹というちょっと小綺麗で、一回の飲み代が5000円程度という店が見当たらなくなった。大量仕入れ、大量販売、安価強調のチェーン店か巷を席捲している。昔、トリスパーの上にサントリーバーというのがあってその上に銀座のバーやクラブがあった。下から上まで継続的につながっていた。それが今は下と上は断絶している。

 新自由主義というのは結局競争社会ということになる。がんばれば上に行けるががんばらなければ脱落だというが、社会の仕組みはそんなに単純ではない。個人のがんばりなんかたかが知れてる。しかもがんばった挙句に過労自殺に追い込まれる。人をがんばらせておいてその成果を吸い上げている連中が必ずいる。例えば竹中平蔵だ。こいつらが中流を消滅させデパートを閉店させた。おれはそう思っている。

 3日後に迫った総選挙投票日。雨続きで選挙運動も大変だ。ご苦労さん。この選挙、憲法問題も争点として大事だが、格差と貧困、ワーキングプアの問題も忘れてはならないと思う。「働き方改革」などと称して労働者を雑巾のように絞ろうとしている連中を絶対に勝たしてはいけない。

 お昼、やっと雨が上がったようだ。22日の投票日には鴨川まで枝豆もぎに行かねばならないので、これから不在者投票にでも行ってこようかな。それにしてもどうして、おれのブログに安倍首相の顔があるんだよ。
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爆風(5)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年10月19日
爆風(5)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 朝になりギラギラした太陽が照りつけてくる。貨車なので窓がない。室温はどんどん上り、気分の悪くなる乗客のうめき声がする。病人が出ても手当のしようがない。ただ耐えるのみだ。新京から一昼夜かかって11日の夜10時に奉天に着いた。

 井上技手は奉天で鞍山行きの客車に乗り替えることができた。これで遼陽へは行ける。しかし遼陽に着いても東京陵までの交通手段が不明だ。一つ手前の張台子からなら歩くのが可能だ。そう考えて張台子で下車、漆黒の満人部落に入っていった。小高い山があった。ここで関東軍が抵抗線を引くらしく兵士たちが陣地を構築していた。満人部落では深夜だというのに男たちが何事か話し合っている。そのそばをびくびくしながら通り抜ける。東の空が明るくなる頃やっと東京陵に着きほっと胸を撫で下ろした。

 勤労奉仕学徒(勤奉学徒)として火工廠に派遣されていた奉天工大生の伊藤信は、8月12日、部隊本部前の広場に集合を命じられた。そこで林廠長から「勤奉学徒も部隊とともに行動をとり、最後までソ連軍に抵抗する。各自覚悟を決めよ」と訓示された。

 8月9日朝、東京陵第一工場の西村秀夫中尉が官舎で目を覚ますと近くでサイレンが鳴っている。急いで身支度をして部隊司令部に顔を出した。既に多くの将校がいて、彼らからソ連軍参戦の報を聞かされた。壁に掛けられた満州の大地図には、堤防を突き破った洪水のようなソ連軍の進攻ぶりが矢印で示されていた。国境を固めていたはずの関東軍は無抵抗だったようだ。

 その場で火工廠防衛の作戦会議が始まる。林部隊長から「既に掘られているたこ壺塹壕に潜んで敵戦車を待つ。迫ってきたら爆薬を抱えて突入する。1台でも多くの戦車を破砕し、もし生き残ったら陣地中央の高台に結集して玉砕戦法で戦う」との訓示。西村中尉はこの玉砕戦法に違和感を覚えた。

 西村中尉の妻は間もなく初めての子を出産する。「家族を朝鮮に疎開させる列車が出る」という情報が広がっていた。西村中尉は妻を疎開させることを考えたが《朝鮮までの鉄道はソ連軍の脅威に晒されている、そもそも朝鮮そのものが安全かどうか分からない》と思いなおし、しばらくこちらで様子を見ることにする。同じような迷いを持つ家族が寄り集まってこれからの事態に対処することになった。
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8時間労働制を叫ぶ共産党がんばれ

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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年10月18日
8時間労働制を叫ぶ共産党がんばれ

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 今回の選挙で日本共産党は「8時間働けば普通に暮らせる社会の実現を」という選挙公約を掲げている。このスローガンは地味だが大事な内容を含んでいる。いま安倍政権の「働き方改革」政策で一番問題なのは8時間労働制を壊すことだからだ。メーデー発祥の時代から世界の労働者の共通の要求が8時間労働制だった。それを崩壊させようという悪だくみは絶対に阻止しなければならない。

 安倍政権は賃金の決定基準を労働時間から労働の成果に移そうとしている。それが高度プロフェッショナル制度(残業代ゼロ法案)であり、裁量労働制・成果主義賃金である。彼らは「仕事の成果が上がればそれで家へ帰れるから労働時間を減らすことができる」とか「成果を上げる人と上げられない人を同じ時間働いたからといって同じ賃金というのはおかしい」などと理屈をこねる。

 経営者は労働の成果を上げさせることに関しては貪欲で冷酷だ。成果が上がったからといって労働から解放させてくれるほど甘くはない。成果を上げさせるために彼らは、労働者同士に競争させることが一番だと思っている。わずかな餌で人を釣り、人を蹴落としてまで働く労働者を育成する。

 成果主義賃金は昔からあった。内職の加工賃だ。封筒を千枚貼ったらなんぼ、小箱を百個つくったらなんぼ、というやつだ。労働時間に連動してないから無制限に働かされる。しかも成果が上がれば加工賃を値切ってさらに働かせる。偉そうに「成果主義賃金」などと言うが元を辿れば内職型賃金なのだ。

 時間というのは誰でもどこでも公平・平等に進む。だから賃金も労働時間を基準にすればその限りでは公平・平等である。もし成果とか出来高とかを基準にすればどうなるか。労働者同士でばらばらになり、競争が生じて明確な基準は失われる。そこが経営者にとって目の付けどころでもあるのだ。

 賃金決定基準を労働者の生活費とか労働時間から職務、職能、成果などに移そうという経営者の試みは1960年代から本格化した。日本の高度経済成長の時代である。職務給、職能給が大企業を中心に導入された。それを指導したのは日本生産性本部であり、日経連であった。つまり労働生産性をいかに上げるかが目的だったわけだ。それは職場の差別につながっただけでなく、労働組合の弱体化ももたらした。

 8時間働いて、8時間休養し、8時間を生きがいに使う、これが人間の「生きる」という意味である。共産党がそのことに気付かせたことの意義は大きい。苦戦を伝えられる共産党の巻き返しのためおれもがんばる。
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爆風(4)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年10月15日
爆風(4)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 関東軍火工廠は全国の造兵廠から転勤者を募った。王子陸軍造兵廠でも募集が行われ、父はそれに応募した。30代半ばで中国大陸へ海を渡るのはそれなりの決断を要したはずだが、多分給料や住宅などの待遇がよかったからだと思われる。1940年に単身で赴任し、その年の12月に二女栄子が生まれるのを待って家族を呼び寄せた。42年に三女悦子が生まれ、45年8月時点で母は3ヵ月の身重だった。

 吉林の満州電化に硝酸工場を建設するため出張していた井上富由技手は、8月9日払暁、部屋の窓が急に明るくなったのに驚いて飛び起きた。とりあえず硝酸工場の建設現場に急ぐ。空から照明弾が落とされているようだ。時折爆発音も聞こえる。アメリカのB29かと思った。照明弾は落下傘に吊り下げられていた。その落下傘が近くに落ち、拾うと粗末な木綿生地にロシア語が。ソ連の空爆だと分かった。

 翌10日、出張目的を終えて遼陽へ帰るため、最寄りの龍胆山という無人駅へ行った。10時頃、定刻遅れの列車がきたので、とりあえず新京へ向かう。途中吉林市内を窓から見たが、爆撃の被害は分からなかった。新京に着いたが、駅員の話ではすべての列車が停まったままで運行の目途は立たないという。仕方がないので、駅を出て関東軍総司令部で様子を聞くことにした。

 しかしどの部屋にも人影はない。たまたま兵器部の部屋を覗くと、火工廠から出向いたきたという柳尚雄中尉がいた。情勢を聞いてみると「戦況はすこぶる悪い。ソ連軍が今日、明日中にも新京に到着するかも知れない。総司令部は昨日通化に向けて出発した。鉄道は全面停止だが、本日10時に軍人、軍属の家族を避難させる列車が動くかも知れない」と的確に答えてくれた。

 この時柳中尉は「自分はしばらくここで様子をみるつもりだ。火工廠東亜寮の自分の部屋に拳銃が置いてある。何かの時に役立たせてほしい」と井上技手に言った。柳中尉は独身で寮住まいだった。井上技手は火工廠に戻ってからも拳銃の件を忘れていた。後にこの拳銃が悲劇を生むことになる。

 司令部を出ると通りは家財を積んだ荷車や馬車で混乱していた。とにかく駅まで歩き、列車の動くのを待つことにする。9時頃、ホームを外れた線路に有蓋貨車が停まった。老人と女子どもを中心にした日本人の集団がが乗っていた。井上技手は無理を言って割りこませてもらう。列車は真っ暗な中をのろのろ走りだした。
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爆風(3)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年10月14日
爆風(3)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 弥生町、朝日町には火工廠で働く軍属とその家族が住んでいた。陸軍軍属には傭人、雇員、判任官、高等官という階級があった。軍隊でいうと傭人、雇員は上等兵までの兵卒、判任官が軍曹、曹長などの下士官、高等官が少尉以上の将校である。

 関東軍火工廠を管轄するのは918部隊だが、戦闘部隊とは違って一般兵卒はいない。林光道少将(廠長)が部隊長で、将校、下士官が工場各部署の管理運営に当たっていた。工場の生産工程には軍属の技官(高等官)、技手(判任官)が配置され、武器弾薬製造の現場を監督した。工員、事務員、守衛などの一般従業員も軍属(傭人、雇員)で、工場にはそのほか満人傭工と呼ばれる中国人労働者が働いていた。

 官舎はそれぞれの身分、階級によって分けられ、軍属の場合は朝日町が雇員、弥生町が判任官で高等官は曙町となっていた。朝日町は吉野山の麓のなだらかな傾斜地にあった。西側に国民学校と病院、南東の方角に火工廠工場の高い塀が見えた。煉瓦づくりの平屋で、焼打ちや火災の類焼に備えて敷地が広い。玄関の引き戸を開けると靴脱ぎ場と2畳の小上がり、南向きの6畳間が2部屋並び、北側は4畳半の座敷と台所と風呂場。厳寒に耐えられるよう頑丈な二重窓で各部屋に暖房用スチームが通っていた。

 私の一家はこの朝日町の官舎に住んでいた。父は陸軍軍属で身分は雇員、火工廠の職場は庶務科警戒。つまり工場の守衛だった。父戸塚陽太郎は1906年(明治39年)生まれの39歳。出生地は茨城県結城郡菅原村大字大生郷133番地(現常総市大生郷町)。30年(昭和5年)に09年生まれの母せんと結婚して上京、北区王子にあった陸軍造兵廠に就職。33年に姉和子、37年に私章介が生まれた。

 私が生まれた年に日中戦争が始まる。戦争遂行のためには武器弾薬の補給が必須条件だ。大規模な製造工場の建設が急務とされ、陸軍造兵廠直轄工場として関東軍火工廠が開設された。場所は満鉄の遼陽駅から20キロほどのところで、工場、住宅、付属施設などの敷地は約1,000万坪(3,300万u)。敷地内に山あり川あり満人部落ありで、満人の耕作地も含まれていた。

 関東軍はこれらの土地を現地農民から有無を言わさず取り上げた。現在の沖縄における米軍基地と同じである。ここに関東軍918部隊の将校、軍属、それらの家族など1万人の日本人町が形成されたのである。
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沖縄ノート(8)海に沈んだ学童と疎開者たち

17年10月12日
沖縄ノート(8)海に沈んだ学童と疎開者たち

■坂本陸郎(JCJ運営委員;広告支部会員)

疎開へ
 沖縄戦が始まる前年の1944年になると、沖縄では米軍の沖縄本島上陸が、怖れとともに、ささやかれるようになった。サイパンなど南方諸島での日本軍の敗北の事実が島民の間に知られるようになったからだった。さらに、中国戦線から部隊を沖縄に移す噂が伝わると、いよいよ米軍の沖縄上陸が現実味を帯びてきた。沖縄が戦場になれば、四方を海にかこまれた沖縄では逃げ場がない、島を出るしかない、と住民はしだいに、そう思うようになった。
 やがて怖れは現実のものとなった。小磯国昭内閣は7月7日緊急閣議を開き、沖縄本島、奄美大島、徳之島に居住する老人、子供、婦女子を日本本土と台湾(当時の日本の植民地)に疎開させることを決定し、鹿児島県と沖縄県両知事にその旨通達した。
 その計画は7月中を疎開の実施期間とし、那覇港から本土に8万人、台湾に2万人を避難させるというもので、疎開に該当する者として、17歳から45歳までの軍に協力できる男子を除く、老人、子供、婦女子に限るとしていた。
 この計画を知らされた沖縄県知事と県当局は当惑した。疎開を実施するとしても、県は輸送船を用意することはもちろん不可能である。船舶の用意は政府に頼らざるを得ない。だが果たして、政府は10万人の疎開者を乗せる船舶を那覇港に差し向けることができるのだろうか。
 県当局は難しい判断を迫られた。当時沖縄近海には、しばしば米軍の潜水艦が出没していたからだった。一方、住民は、住み慣れた島を離れて本土や台湾で暮らすことへの不安をぬぐい切れなかった。さらに、疎開に際しては「敗戦思想に陥ってはならない」とする政府通達があったことから、県知事としても、住民にたいして、米軍上陸を予告したうえで疎開を指示することもできず、ためらわざるを得ない。
 とはいえ、沖縄県としては、政府の指示に従わざるを得なかった。警察部に特別援護室を設けて、学校などをとおして島民に疎開を勧めることになった。ところが、疎開を希望する者がほとんどなく、沖縄で暮らしていたわずかな他府県出身者だけが申し込むにとどまり、しかたなく、警察官や県庁職員の家族から疎開させることになった。
 その後は、戦況の悪化とともに、米軍の沖縄上陸がいっそう怖れられるようになる。沖縄が戦場になるのであれば、家族が別れ別れになることもしかたない、家族が分散していれば、家族全員の犠牲は免れるであろう、と考えるようになった。そうしたなか、疎開を希望する住民が徐々に増え、乗船にそなえて荷物をまとめ始めた。だが、輸送船が那覇港にいつ来るのかがわからない。じっと通知を待つしかなかった。
 疎開の期間とされた7月が過ぎ、その翌月になって、対馬丸、曙空丸、和浦丸の3隻の輸送船が那覇港に寄港した。8月21日、5000人の島民を乗せた三隻の最初の疎開船が那覇港を出港することとなった。

対馬丸遭難
 那覇港を出港した翌日の8月22日、対馬丸の甲板で学童たちは引率の先生の指示に従って、救命胴衣をつけ、不安な面持ちでうずくまっていた。対馬丸は那覇港を出てしばらくは無事に航路をたどった。
 その日の夕刻、津島丸は悪石島近海を航行していた。艦の指揮官が、「この近海がもっとも危険な水域である。だから注意事項をきびしく守るよう、今日一日を無事に過ごせば、きっと無事に鹿児島に着くことができる」と、甲板の一段高くなったところから学童全員に安心と注意をうながした。
 日が落ちると、月明かりだけの甲板の闇のなかで、学童たちは無事に疎開できることをねがいながら、不安げに友人たちと話し合っていた。
 不運が襲ったのは、その日の夜10時過ぎであった。爆発音のような轟音が数回轟くと、船体が揺らいで、しばらくすると甲板が傾きだした。立つことができない。先生が大声をあげている。学童たちは斜めになった甲板の上を滑りながら、次々と海の上に投げ出されている。船が沈むのだから、海に飛び込まなければならない。月明かりで微かに見える海の上には、おびただしい大小の破片が浮き沈みし、重油が流れ出したのか、引火して何かが燃えている。
 対馬丸は6754トン、最大10ノットという低速の老朽船であった。その陸軍が所有する運搬船に、学童1661人が乗船し鹿児島港へと向かっていた。その航路で、対馬丸は米軍による三発の魚雷によって撃沈され、1558人の学童が犠牲となった。救助された学童はわずか177名であった。犠牲となった学童の数が多かったのは、護衛のために航行していた「宇治」「蓮」の二隻の護衛艦が危険を避けて、漂流する人々を救助せず、そのまま鹿児島港に向かったからだったといわれている。海に投げ出され漂流する遭難者たちは、漂流物にすがりながら、鹿児島から救助船が来るまで一夜を過ごすしかなかった。なかには、三日間も一週間も漂流して無人島に流れ着いた遭難者もいた。
 当時9歳の学童だった女性が、その時の様子を手記に記している。
 ―ドシンというものすごい音に目が覚めて、気が付いた時には、船体はほとんど沈みかけていた。救命胴衣を身にまとい、甲板にひとかたまりにいたはずの家族5人の姿が見つからない。わたしは恐ろしさと心細さにわめきたいのをぐっとこらえて、暗闇のなかを家族を探し求めた。船体は無残に破壊され、人々は波の渦と大小さまざまな物体に挟みうちにされながら悲鳴を上げ、助けを求めていた。
 人々のうめき声や、泣きわめく声が遠く細く聞こえていた。私が、あっちへ行こうか、こっちへ逃げようかと、おどおどしていると、従妹の時子に出会った。私に出合ったとたん時子は声を張り上げて泣きわめいた。もちろん私も泣きたかった。
二人は沈みかけた船の上で流れてきた醤油樽に取りすがることができた。ときどき大波がドッとかぶさって来る。
 煙突がぐらぐらと倒れていった。子供をおぶったまま海へ落ちていく夫人の姿も見えた。そのときである。ふいに大波がおおいかぶさってきて、時子が醤油樽から手を放してしまった。一人ぼっちになった私は、どうすればよいのかわからず、おろおろしながら自分の体にぶつかって来るものを取り払うのに精いっぱいだった。
 救命胴衣を頼りに泳いでいった。そこでは、一つのイカダをなん十人もの人が奪い合っている。一夜明けると、乳飲み子の男の子以外は全員女性であった。そのうち女の子は、私を含めて二人だけだった。漂流二日目の昼過ぎ、あちらこちらに、幾人かが組みになって漂流していた。漂流中、流れてきた竹筒を拾い、なかに入っていたすえたご飯を一口ずつ食べた。ふたりの老女が、ひとことも言わず死んで流されていった。40歳ぐらいのおばさん二人もいない。いつどうしていなくなったのかわからない。うっすらとした夜明けが近い頃、島はすぐ目の前にあった。イカダは島をめがけてどんどん流されていった。島に着くと、イカダを降り、四つん這いになって陸地へ向かった。私たちは助かったのです。一週間目にやっと自然漂着したのです。―

 この対馬丸の遭難は極秘とされ、沖縄では固く口留めされていた。だが、うわさは徐々に広がった。そのため疎開を希望する住民はその後しばらく途絶えた。しかし、1944年10月10日、那覇が米軍の空爆で1200人が犠牲になると、疎開を希望する住民は増大し、県当局が疎開を勧める必要がなくなった。その結果、1944年7月から45年3月までの疎開者数はおよそ7万人に達した。(資料は『戦争と沖縄』岩波新書1981年刊から)

もう一人の証言者
 対馬丸遭難について一人の証言者を紹介したい。3年ほど前に、地域誌「日時計」の編集部が埼玉新聞のインタビユー記事を目にして、対馬丸の生存者が同じ春日部市の庄和地域に居住していることを知り、取材したことがあった。その後は、当地春日部市での「平和フェスティバル」(年一回の市民による平和イベント)に講師として招いたりした。
 当時、天妃国民学校の生徒であった仲田清一郎氏は、疎開の求めに応じて、8月21日、対馬丸に乗船する。その仲田氏の証言によれば、乗船した天妃国民学校の生徒100人のうち、生き残った生徒は、仲田氏をふくめてわずか3人であった。
埼玉新聞のインタビュー記事〈2014年8月17日付〉は次のようなものだった。
 「対馬丸に乗り込んだ二日目の夜、ドカーンという爆音が、寝ていた仲田さんを襲った。理性というより本能にせかされ、甲板に出た。漆黒の闇のなか、ずるずると海水に沈んだ。海面に出たところで丸太につかまった。船は沈んだようだった。仲田さんは何が起こったかわからぬまま海面を漂った。丸太に子供を背負った女性がつかまってきた。暗闇の中、何を話したかおぼえていないが、心が和み、勇気を得たように思う。だが力尽きたのだろうか、気が付くと、女性の姿はなかった。海面に浮かんでいた人影がどんどん減っていく。上級生が仲田さんをいかだに引き上げてくれた。近くに島が見えた。上級生が、イモを取ってくると言って泳ぎ始めたが、波間に浮く頭の影はまもなく消えた。
 いかだは幾度も高波にさらわれ、仲田さんは、いつしか一本の孟宗竹に半身をあずけ一人で浮いていた。意識が遠のき、視界が暗くなってきた。漁船が近づいてきたところで意識を失った。気が付くと、鹿児島県内の病院にいた」

なぜ疎開船が攻撃されたのか
 春日部市で市民が発行する地域誌「日時計」の記述をもとに考えてみたい。
ハーグ海戦条約〈1907年ハーグ国際平和会議での決定)が、交戦国の病院船など非軍事的な船舶への攻撃を禁じている。であるのに、米潜水艦はなぜ対馬丸を攻撃したのか。それを考えるとき、まず、米潜水艦が、攻撃目標とした船舶が疎開船であることを知っていたのかどうかが問題となるだろう。
 それについて、「高性能の潜望鏡で多数の学童を確認できなかったはずがない」(當間栄安著『対馬丸遭難の真相(琉球新報社)』)とする見方と、それが困難であったとする立場とがある。魚雷攻撃の任にあったアーサー・カーター元二等兵曹が琉球新報の取材に応じて次のように話している。「艦長も子供たちの乗船は知らなかった。夜間に見分けることは困難であった」。どちらが正しいかを判断するのは難しい。
 注目すべきは、ハーグ条約が「軍事物資の輸送に従事する敵国商戦」を攻撃目標とすることを認めていることである。だとすると、沖縄・奄美近海で軍事物資を輸送する27隻の船舶が米軍の魚雷攻撃を受けていたこともあり得ることであった。
では対馬丸はどのような船舶だったのだろうか。
 対馬丸は陸軍徴備の輸送船として、1944年4月から6月の間、マニラからハルマヘラへの軍事輸送に使われたことがあった。しかも、疎開船として出航する直前の8月19日に、第62師団2409名の兵と馬40頭を本土から沖縄に移送していた。そのような役割を担う対馬丸であれば、対馬丸が疎開者を鹿児島へ運んだ後、地上戦に備えて軍事物資を沖縄まで運ぶ計画があったことも想像されるのではなかろうか。
 以上から、米潜水艦ボーフイン号が、航行中の船舶が軍用船対馬丸であることは目視によって確認できたことが推測される。同時に、対馬丸の船内、あるいは甲板に子供たちが乗船していることを確認できたかどうかは定かではない。
仮に子供たちの姿を見たとしても、対馬丸が軍用の輸送船であることには変わりはない。それを知る艦長の命令によって攻撃が行われた可能性は否定できない。それが,當間栄安氏の「多数の学童を確認できなかったはずがない」という見方とも符合する。
 対馬丸は国際法上、攻撃対象として認められる「敵国商船」であっただろう。とすれば、政府と軍部は、対馬丸が軍事輸送船であるが故の危険性を、当初から認識すべきではなかったのか。1944年7月から45年3月まで、対馬丸と同時に航行した2隻をふくめ、延べ187隻の疎開船が航行したなかで、撃沈されたのが対馬丸1隻であった事実に照らすと、遭難の原因がどこにあったのかが、おのずと見えてくるのではなかろうか。
 仲田清一郎氏は講演のなかで、最後にこのように語っていた。
 「当時はショックを受け、主体的なものの捉え方ができなかった。怖れのようなものは今でも残っている。心のなかに悲しみが沈殿している。今こそ基本的なものを再認識する必要がある。沖縄だけでなく日本のあらゆる所で苦労があった。犠牲となった人々の礎があり、今の日本が繁栄している。歴史を隠すことなく、私たちは認識しておかなければならない」
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2017年10月13日

プロ野球選手会の都労委申立に思う

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2017年10月13日
プロ野球選手会の都労委申立に思う

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 11日にプロ野球選手会が都労委に不当労働行為救済申立をした。相手側は巨人軍と日本野球機構(NPB)。選手会は巨人軍山口俊投手の懲戒処分問題にからんで団交をしていたが、巨人軍、NPBともに「処分は不当ではない」として一方的に打ち切った、選手会は誠実な対応とを求めて申立に及んだ。

 山口投手はDeNAで活躍、16年にFA権を行使して巨人に移籍した。移籍条件は年俸2億5000万円、複数年契約3年といわれている。その山口投手が今年の7月11日、酒に酔って怪我をし、傷の手当てに行った病院で警備員を殴りドアを蹴飛ばして破損させた。8月18日に書類送検されたが、22日に不起訴になっている。被害者とは示談が成立し、本人は深く反省している。

 巨人軍は山口投手に対して7月11日から11月30日までの出場停止とその間の年俸をカットする処分を科した。カット分は約1億円である。巨人軍は「本人は納得している」というが、選手会は@カット処分が重過ぎる、A契約見直しを迫り本人に押し付けた、BFA権の侵害に通じる、として処分反対を表明、巨人軍と話し合ってきた。NPBについても「義務的団交事項」と認めるよう要請していた。

 選手会が都労委に申し立ててまでこの問題にこだわるのは、選手と球団との契約(法的には労働契約)が一方的に破棄、変更されることへの危惧からだ。山口投手は巨人軍と締結していた複数年契約の見直しを迫られ、応じなければ契約破棄(解雇)もあると脅された。特に山口選手の契約は長年の努力の結晶であるFA権行使に基くものであり、こんなことが許されればFA権の根幹が揺るがされかねねない。

 ヤフーニュースで発信されている佐々木亮弁護士のツィッターによれば、この選手会による都労委申立には3つの争点があると指摘する。一つは巨人軍の「交渉の一方的打ち切り」が団交拒否になるかどうかということ。交渉が尽くされていれば打ち切りもあり得る。そこが争点だ。

 第二は、巨人軍が山口選手との個別交渉で無理矢理処分に同意させたのは、選手会の無視であり、支配介入にあたるのではないか。第三に一応団交はやるが、姿勢が形式的であり資料提出にも応じない。これは不誠実団交ではないか。この3点が争点になるだろうという。おれもそう思う。

 プロ野球選手会が都労委から労働組合としてその資格を認定されたのは1985年である。それから32年、その選手会から申し立てられた不当労働行為事件だ。都労委の対応が注目される。
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主な課題は アベ政権の「国難除去」

元ワイドショープロデューサー仲築間 卓蔵(なかつくま・たくぞう)のブログ
「テレビ」と「平和」と「憲法」のblogより転載
http://blog.goo.ne.jp/takuzou4108
2017年10月12日

主な課題は アベ政権の「国難除去」

■仲築間 卓蔵(元日本テレビプロデユーサー)

 このところ腰を痛めてコルセット生活である。
 だが、そんなことでうだうだしてはいられない。
 またも引用で恐縮。
 鎌倉共産党後援会ニュースに書いたものだ。
 

 憲法の命運を左右しかねない政治戦に突入している。
 主な課題はアベ政権の「国難除去」である。その主役は主権者であるわれわれ一人一人なのだ。

 ここに『澤藤統一郎(弁護士)の憲法日記』がある。一部を紹介しよう。
 彼は言う。「今回の選挙では、まずはアベ政権という”国難”の実態が徹底した批判に曝されなければならない。それに対する防御の言論活動もあって、しかる
 後に形成された民意が投票行動になる」と。

 論戦の対象とすべきものは、
  
 アベ政権の非立憲主義
 アベ政権の反民主主義
 アベ政権の好戦姿勢
 アベ政権の政治と行政私物化の体質
 アベ政権の情報隠蔽体質
 アベ政権の庶民無巣の新自由的経済政策
 アベ政権の原発推進政策
 アベ政権の対米追随姿勢
 アベ政権の核の傘依存政策
 アベ政権の核廃絶条約に冷ややかな姿勢
 アベ政権の沖縄新基地対米追随姿勢

 だと言う。

 そのすべてについて、わかりやすく伝えているのは、誰あろう日本共産党である。
 いつもに増して親戚・友人の反応は良い。
 主権者が主役になる政治をとり戻す絶好のチャンス。
 古い流行語だが 「いつやるの 今でしょ」


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爆風(2)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765
労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年10月12日
爆風(2)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 8月9日朝、火工廠連絡将校の鈴木弓俊少佐は耐酸材料に関する調査のために撫順にいた。ラジオでソ連参戦を知り、空襲警報の鳴る中駅へ急いだ。火工廠に帰着すると林光道廠長から、命令受領のため新京の関東軍総司令部へ行くよう命じられた。往きの列車は順調で一等車の個室でゆったりできた。

 新京駅に着き総司令部に直行したが、建物は白い煙に覆われていた。庭で大量の書類を燃やしているのだ。部屋には人影がなかった。参謀室の扉を開けると1人の将校がウイスキーを傾けていた。命令受領を求めたが要領を得ない。諦めて総司令部を出て駅に向かった。駅は避難する軍人の家族でごった返している。やっと大連行きの列車に乗ることができ、通常の数倍時間をかけて遼陽に戻った。

 総司令部の模様を林廠長に報告すると、今度は奉天の第三方面軍司令部へ行くよう指示される。鈴木少佐は息つくひまもなく和泉正一中尉とともに奉天へ向かった。司令部では司令官の後宮(うしろく)淳大将に面会できた。鈴木、和泉両名が、火工廠防空強化のため高射砲の増設を具申したが「その余裕はない」と断られた。

 鈴木少佐の報告を聞いた林廠長は自ら状況把握のため奉天に行く決断をした。随員は政井中尉他1名で、矢口清一輸送班長が車を運転した。奉天に着くと司令部は慌ただしい雰囲気に包まれており、書類を焼却している光景も見られた。第三方面軍司令官後宮大将から事情説明があり、「ソ連軍に対して徹底抗戦する。そのために火工廠は対戦車急造爆雷の製造を急ぐこと」との命令を受けた。

 対戦車急造爆雷とは、直径30センチほどの木箱に鋳鉄の椀と黄色薬を装填し、これに柄をつけてソ連軍戦車に投げつける。うまく当たれば戦車を破壊できるというのだが、実行されないうちに日本の敗戦になった。対戦車兵器としてはほかに夕弾式急造地雷もあった。石油缶より一回り大きい爆缶を導火線の遠隔操作で爆発させる。実験では戦車のキャタピラを粉砕し、威力が実証されたがこれも使われなかった。

 ソ連軍は急速度で南下していた。数日で火工廠に達する恐れがある。火工廠部隊司令部は11日、住民に対戦車用たこ壺型塹壕を掘るよう命じた。翌12は晴天の日曜日、弥生町、朝日町の人たちは吉野山の麓に集まり、家族総出で穴掘りにあたった。地盤は固い。粘土質なので水分を含めば柔らかになるのだが、乾燥しているのでスコップもツルハシも受け付けない。大変な苦労をしてやっと塹壕を完成させた。
posted by マスコミ9条の会 at 15:33| Comment(0) | 戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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