2017年05月31日

絶不調の千葉ロッテマリーンズに思う

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765
労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年05月18日
絶不調の千葉ロッテマリーンズに思う

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 おれの贔屓チーム千葉ロッテマリーンズが絶不調で超低迷している。5月17日現在で9勝28敗1引き分け、勝率2割4分3厘。5位日ハムと5.5ゲーム差、首位楽天とは17.5ゲーム差だ。既に自力優勝は消滅した。チームデータは、打率.190、ホームラン18本、盗塁6、投手防御率4.77ですべてにおいてセパ12球団中最低。これほど酷いシーズンはおれの記憶にもない。
 
 昨夜の西武戦でも初回に3点とって先制したのに、先発のスタンリッジがすぐ同点にされる。リリーフした中継ぎ投手がバンバン打たれてあれよあれよという間に8点。パラデスの1号ホームランが救いと言えば救い。先発メンバー9人中5人が打率1割台で3割は打数の少ない根本だけという貧打ぶり。これじゃ勝てない。テレビで見ているうちにむしゃくしゃしてきて女房に八つ当たりしてしまった。反省。

 オープン戦では勝率1位だったのに何故こんなになってしまったのか。打者の問題では、昨シーズンの首位打者角中の欠場と2人の外人補強選手の計算違いが挙げられる(皮肉なことに今年ソフトバンクに移籍したデスパイネは打率こそ2割台だが9本塁打と活躍している)。4番を任せる打者がいない。大ベテランの井口や福浦を使っているようではお寒い限りだ。シーズン当初好調だった井上の脱落が痛い。

 投の崩壊を象徴するのは益田投手のストッパー脱落だ。4月中はよれよれながらなんとか役目を果たしていたが5月になったらもうダメ。せっかくリードして9回まで持ち込んだのにバカ―ンと打たれてしまう。あれでは先発投手がやる気をなくすのは当然だ。それにしても石川はどうなっているんだう。

 こんなに負けが込んでいるのに伊東監督の「休養」の声が聞こえない。確かに今の状態は監督を変えればいいというものではないかも知れない。この戦力では誰がやっても同じとは思う。しかし何かカンフル剤が必要だとも思う。普通これだけ負けると監督の「休養」はどこのチームでもやってることだ。

 それにしてもロッテのファンは辛抱強い。昨夜の試合でも右翼席は満員だ。おれがせがれの稔とよく観戦にマリン球場に通っていた頃は、一塁側内野指定席が試合開始直前でも買えた。いまはとても無理だろう。ま、支えと言ったら熱心なファンかも知れないな。ファンを支えに踏ん張ってもらわなくちゃね。

 昨夜のホームランでバラデスも目を覚ますかも知れない。そろそろ角中も復帰する頃だ。交流戦を契機に奮起する可能性を信じて、テレビ応援を続けようと思う。60年来のファンだものな。
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海外旅行・第5回パリわくわく旅行(2013年)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年05月17日
海外旅行・第5回パリわくわく旅行(2013年)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 おれが仕切っていた手配責任者を、今回から日経OBの河合良一さんにやってもらうことになった。おれは名誉団長格。2月22日から28日までの日程で、参加者は新聞関係の岩月夫妻、岩田、石坂、芳尾、山川、赤川、田原、米田、河合、戸塚、元TBSの高岡女史と友だちの杉田さん、出版の塩田、油田さんに新顔としておれの松戸での知り合いの堀田さん夫妻で、合計17人。気の合った顔ぶれだ。

 成田発11:00のガルーダインドネシアで飛び、18:00にデンパサール着陸。空港に待っていたスタッフの車に分乗して20:00ビラビンタン。すぐカフェビンタンで歓迎夕食会。疲れているのに懲りもせずミーティングルームに場所を移して反省会。これまでに比べて蛍が少ないようだと不満の声。

 23日、カンプンカフェで昼食の後、スーパー・デルタテワダで買い物。パリワインを買い込む。夕食はワルンタマンでバリ風中華料理。川魚のスープと蛙と生春巻きがおいしい。この店の欠点は飲み物がビールしかないこと。その分ビラビンタンに帰ってからの反省会はワインとアラックで深夜まで。

 翌日はキンタマーニ高原で例の温泉プール。帰りに珈琲園に寄り、じゃ香猫に珈琲豆を呑ませてそのまま尻から出た豆を挽いたという高価な珈琲を飲んだ。夕食はアヒル料理で終わってから影絵芝居を見た。

 バリ3日目の25日は夕方の日バリ交流パーティまで各自自由行動。おれは初参加組を引き連れて、サッカー場周辺を散策し食堂でビールを飲んだ。以前通っていたマグロたっぷりのツナサラダを食わせるカフェ・モカは閉店してしまっていた。日バリ交流パーティはいつも通りの子豚の丸焼きで盛りあがる。

 26日は午前中世界遺産の棚田へ。堀田セツ子さんが畔から落ち、その上に米田さんが抱き合うように落ちてみんなで大笑いで囃したてた。午後は前にも行ったブラタン湖と水上寺院。夜はこれまでと一変してピタマハという高級ホテルのディナー。ホテルの経営者はこちらの王様の子孫と結婚した日本人のマンディラ・ケイコさん。光森さんの知り合いでおれたちの宴席で挨拶した。風格のある美人だ。

 27日は帰国日。カフェビンタンで昼飯をとり、車に分乗してウブドにさよなら。途中建設の途中のガルーダ公園に寄り、夕方のジンバラン海岸へ。夕日を見ながら焼き魚を食べパリワインを飲んだ。そこからデンパサール空港はすぐだ。28日0:15に発って8:50に成田着。はいお疲れさま。
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沖縄の反基地運動を「犬畜生」のように弾圧

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年05月14日
海外旅行・中国東北部(2012年)A

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 『週刊金曜日』5月12日号に佐高信(72)、山城博治(64)、照屋寛徳(71)の鼎談が載っている。山城さんは1952年生まれ、法政大学卒、82年に沖縄県庁に入庁、08年に退職、その後は反基地運動に専念という経歴。昨年10月に威力業務妨害で逮捕され、152日間も拘留されていた。

 山城さんは言う。「正直に申しますと、沖縄県警と私たちはうまく調整しながらやっていました。毎日、機動隊の責任者とは『逮捕者もけが人も出さないでおこうな』『こっちはちゃんと仕切るからな』というような言葉を交わしあっていた」。それが東京から警視庁が入ってきて強硬路線に一変した。

 おれはこの部分を読んで45年前のある情景を思い出した。その頃おれは新聞労連東京地連の専従書記長。日比谷公園から東京駅の鍛冶橋まで歩く地連独自の春闘デモを企画した。副委員長の安塚正敏さんとデモ申請に桜田門の警視庁本庁へ行った。コースが丸の内警察と築地警察両管内にまたがるためだ。

 当時沖縄返還デモが激しく行われ、逮捕者やけが人が出ていた。おれたちはデモが規制されるのではないかと緊張しながら受付で来意を告げた。予想に反して応接室に通されお茶が出るという和やかな応対。私服の公安係が入室して丁寧に名刺を出し「ご苦労さん」と頭を下げた。デモの申請はすらすら運んだが「うまく仕切ってください。新聞の部隊は沖縄返還デモでも目立っていますから」と釘を刺された。

 警察権力の本質はやはり冷酷無残なのだと思う。和やかな応対に見えて実は衣の下に鎧を隠している。山城さんはそれを実感させられた。それが下記の山城さんの述懐部分だ。

 「(拘留が長くなると髭がもじゃもじゃ、痩せてきて目つきも変わってくる)今思い返すと印象操作だったと思うんですが、取り調べで、名護署から裁判所や検察に移動する時の私の格好はと言えば、裸足にゴム草履、手錠をされ、さらに腰に縄をつけられた状態なんです」「まるで犬畜生みたいにね」「極悪非道の犯罪者であるという印象を周囲に植え付けようとしていたんでしょうね」。

 この情景はまさに戦前の治安維持法の世界である。いま国会では「共謀罪」の審議が大詰めに来たと報道されている。国家権力に反抗する運動を「犬畜生」のように弾圧し世間の晒し者にする。そんな時代の再来だけは止めさせなければならない。
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海外旅行・中国東北部(2012年)A

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年05月12日
海外旅行・中国東北部(2012年)A

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 6月29日、10:29の列車で長春を発ち瀋陽へ。2時間半の快適な旅。車中で弁当を食う。瀋陽駅は来年の新幹線開通に向けて工事中のため、一つ手前の瀋陽北駅で降りる。出迎えのバスが止まっているところまで雨の中を20分近く歩かされた。激しくなった雨の中を「9.18歴史博物館」を目指す。

 1931年9月18日、日本軍が列車を爆破、それを張学良の仕業だと偽って「満州事変」を引き起こした。博物館は89年建設だからまだ新しい。当時の関東軍司令部を再現した展示物が生々しい。ガイドの路さんは32年9月に起こった「村ぐるみ大虐殺」の平頂山事件の説明に力を入れていた。

 5日目の30日、瀋陽郊外の「鉄路陳列館」に行く。ここの目玉は、旧満鉄時代に一世を風靡した機関車「亜細亜号」。おれには何となく既視感がある。5〜6歳の頃、親父に連れられて瀋陽(奉天)に相撲の巡業を見に来たときに奉天駅でたまたま停車中の亜細亜号を見たんじゃないかな。そんな気がする。

 瀋陽には2泊したが、夕食は街の酒店(レストラン)でとった。中国東北料理というのかな、炒め物や川魚、水餃子などと白酒(パイチュー)。日本人の口に合う。ハルピンのロシア料理より旨かった。

 月が変わって7月1日。午前7時にホテル(ホリディイン瀋陽)を出て再び瀋陽北駅へ。8:07発の列車で最後の訪問地大連へ向かう。ちなみに70年前おれたち家族がいたのは途中の遼陽だ。引き上げの時は奉天に戻って別の線に乗り換え、葫蘆島へ行き船に乗った。満州へ来たときは大連に上陸したのだと思うが、もちろん3歳のことなので記憶はない。大連には敗戦まで50万人の日本人がいたそうだ。

 大連の市内観光で印象的だったのは、人民広場の一角にある旧ヤマトホテル。玄関ロビーに入ってトイレを借りたり絵葉書を買ったりした。旧満鉄社員の社宅のあった地域は、今高級住宅地になっている。2億円もする邸宅が並んでいるが空き家が多い。金持ちが投機目的で建てたものなのだそうだ。

 大連駅前の渤海明珠大酒店に1泊。夕食は餃子中心の街中の居酒屋。おれたちだけの個室で今回の旅行の反省会。よく飲み、よく食い、よく喋った2時間でした。翌7月2日は早朝6時にホテルを出て大連空港へ。朝食は車中で弁当。8:40に大連を発ち、00:15に成田着。ご苦労さんでした。
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マクロン氏の仏大統領当選に思う

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年05月10日
マクロン氏の仏大統領当選に思う

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 5月7日に投開票されたフランス大統領選の決選投票は、中道・独立系といわれるエマニュエル・マクロン氏が予想以上の大差で当選した。「仏大統領にマクロン氏」「『欧州の共同体守る』」「ルペン氏破る 親EU維持」(9日付『毎日』1面)。英国のEU離脱で欧州統合が揺らぐ中、フランス国民の穏健な選択に安堵したというのが一般的な受け取り方だ。日本の株式市場も数百円の高騰だったらしい。

 おれがおやっと思ったのは「『負け組』の声聴け」と題した福島良典元パリ支局長の解説記事だ。見出しだけでは何のことか分からないので中身を読んでみた。――EUは「人、物、資本、サービスの移動が自由」であり、それに恩恵を受ける「勝ち組」としわ寄せを食う中間、労働者層の「負け組」という「社会の分断」を深めた。この負け組の不満を吸収したのが極右のペロン氏だという論法だ。

 EUという形で欧州統合を進める中で「格差と貧困」が広がっていることは確かだ(それを「勝ち組」「負け組」と表現するのが正しいかどうかは議論の余地があるが)。マクロン氏が、EUの緊縮政策に無批判で労働者層から反発を受けていることは間違いない。しかしだからといって極右のマリ―ヌ・ペロン氏が労働者の味方ということにはならない。そこはフランスの労働者は見抜いたんじゃないかな。

 本10日付『赤旗』は早速フランスの労働者が反マクロンで立ち上がったことを報じている。「新自由主義政策やめて」「仏労組デモ マクロン氏に抗議」。新大統領が決まった翌日の8日、CGTなどが呼びかけてパリ市内でデモ。1500人が集まった。デモはリヨンなど地方都市でも行われたという。

 おれはCGTなどのフランスの労働組合、欧州労連(ETUC)の存在に信頼をおいている。EUの経済政策が反労働者的なのはアメリカ系の多国籍企業やIMFの影響などから脱していないからだ。ヨーロッパの労働運動はきちんとそれを捉えて対決している。日本ともアメリカとも違う。

 確かに今回の仏大統領選では旧来の左翼政党が決選投票以前に脱落したが、トランプを当選させたアメリカと違って、衣の袖に鎧を隠したペロン氏を大統領にはしなかった。つい72年前まで戦争をしていた欧州が、国境をなくす統合を目指している。それがEUだ。歴史的にはまだ端緒に着いたばかり。これからまだ紆余曲折はあるだろうが、必ず理想は実現するとおれは信じている。
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失言・虚言より悪質な言論封殺の首相発言

水久保文明さんのブログ「ヘボやんの独り言」より転載
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17年05月06日
11538 失言・虚言より悪質な言論封殺の首相発言

■水久保文明(JCJ会員 千代田区労協事務局長 元毎日新聞労組書記)

 実に情けない。これが政治家を自認している人の言葉か。笑うに嗤えず、怒りさえ覚える。

                              ◇
 「自民党総裁としての考え方は読売新聞に相当詳しく書いてあるから、ぜひ熟読していただきたい」「党総裁としての考えをここで縷々述べるべきではなく、そこで知っていただきたいということ。その中で、草案との考え方についても説明している。そもそも、新聞記事などを発端に質問をされている」
                              ◇

 きのうの国会で民進党の長妻昭議員の質問へのアベ答弁である。

 新聞記事などを発端にした質問だから新聞を読め。そうすれば質問する必要はないし答弁も必要ない、と言っているのである。しかも国会で読売新聞の大宣伝をやってくれた。やはりあの人は読売の広告塔だった。読売新聞が政府・自民党の広報紙的役割を果たしていることに強く納得。こういうのを相思相愛、というのか。それとも忖度した上での阿吽(あうん)の呼吸か。

 野党は「国会軽視」であるとして一斉に反発している。当然だ。こういう手法が許されるのなら、国会はいらない。新聞紙上や出版物で自らの主張や考えを述べることは、言論・表現の自由である。その意見に対して、質問をすることもまた自由である。

 が、今回の問題は実に深刻だ。よく考えてみると長妻議員の質問をアベさんは封じたことになるからだ。つまり、自分の自由は保障しながら、相手の質問の自由を切って捨てたのである。これはもっとよく考えてみると、ファッショである。

 つい先日、小ブログで「失言」と「虚言」の問題を書いた。失言も虚言もある意味「言論・表現の自由」の範疇に入る。だからと言って、何でもOKではない。政治家、とりわけ大臣の席に座った人は、国の代表なのだから発言には責任がついて回る。(平気な人もいるが)だから大臣としての資質を問われ、失言した場合、辞任を求められるのだ。虚言が問われないのは釈然としないが……。

 今回のアベ発言は、失言や虚言よりも悪質である。言論を封殺したからだ。フランスで新大統領が誕生したとき「(新大統領とともに)平和や自由、民主主義を守る」と言ったその日の、いわば舌の根も乾かない時間差の答弁だった。この言葉自体がウソだったのだ。

 この人はもう何枚のレッドカードを突き付けられただろうか。「嘘つき総理大臣」は、即刻退場しかない。

★脈絡のないきょうの一行
忖度させる典型。首相夫人との記念撮影提示は、効果てきめん。やるねー、籠池さん。
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豊洲市場移転に思う

17年05月08日
豊洲市場移転に思う

■坂本陸郎(JCJ運営委員;広告支部会員)

 広告会社の社員となって1年ほどして、勤務先が銀座から築地となり、長い年月をそこで過ごした。その後は、50代半ばの頃であったか、社の引っ越しで、勤務先が築地のビルから墨田川縁の高層ビルに移った。
 銀座に出かけた折に、かつての築地のビルまで足を運んだ。建物はすでに売却されているらしく、屋上に置かれた社名の看板は取り外されている。丹下健三氏設計の、セメントの地肌がむき出しの14階建てのビルが、巨大なモニュメントのように突っ立っていた。
 その、人気のないビルに近づくと、なんとも殺伐としてきた。人の住む家であれば空き家または廃屋というべきだが、これは、そそり立つ無人のビルである。これを何と呼んだらよいのだろう。「空きビル」とだけいっても、その感じは伝わってこない。暗いビルの中に人ひとりいないと思うと、かつての内部を知る者には、いっそう異様な感じが伝わってくる。
 築地のビルで過ごしたのは、15年ほどだっただろうか。当時、暇に任せて築地界隈を、しばしばぶらついたものだった。昼時になると、誘うか誘われるかして、築地市場まで足をのばして食事をした。退社後の夕刻、閉店間際の場外で干物を買って帰ったりもした。
 築地市場を眼下に見たこともあった。亡妻が築地癌センターに入院していたからだった。その各階の病室が並ぶ外れに、見晴らしの良いコーナーがあった。そこから、ガラス越しに夕暮れ時の東京湾を眺め、築地市場の全景を俯瞰した。80年前に日本橋から移設されたという、広大な敷地に造られた魚市場は、放射線状の建物と空間がバランス良く配置されているようだった。当時としては先を見越した斬新な設計ではなかったのだろうか。
 眼下を眺めながら、ふと思った。築地市場がなくなると、この一帯はどうなるのだろう。すると、無人のビルの下に立った時の殺伐とした感じが蘇ってきて、私のなかで何かが、いまにも壊されそうな心持ちになった。
 なぜ、築地市場を壊すのか。なぜ、豊洲に移さなければならないのだろうか。
 築地にいた当時、早朝の築地市場の場内に足を踏み入れたことがあった。釣り好きで魚に詳しい同僚の案内だったように記憶する。その時、場内の活気とにぎわいに圧倒されたものだった。魚と氷を詰め込んだトロ箱を重ねたターレが、かなりな速さで走り回っている。クラクションではなく大声が素人客を慌てさせている。黙々とマグロを切り裂く仲卸たち、見たこともない魚、海老、ウニなどが店先にふんだんに置かれている。
 築地市場の敷地は23万平方メートル、東京ドーム五個分の面積である。水産だけで7社の卸業者と、575社の仲卸業者がそこで商っているという。その市場の規模は世界最大規模で、日本漁業の表看板なのだ。だから、外国の観光客がマグロを裁くのを見ようと次々に訪れている。目の前で切り落とすマグロの「切り落とし」が人気だった。それが目当ての婦人方が連れ立ってやって来ていた。
もし豊洲に移ったら、こんな情景が再び見られるのだろうか。
 マグロ仲卸業者たちがこのように話している。
 「豊洲移転は土壌汚染だけが問題ではない。豊洲新市場の一店当たりの面積は四畳半と狭い。間口は1メートル50センチほどでしかない」
 「冷蔵庫だけで幅1メートル10センチ、マグロもさばけない、足の踏み場もない」
 「床の耐荷重が1平方メートル当たり700キロ、これでは、水槽に70センチしか水が入れられない」
 「ターレは運転手と荷物で2トン、フオークリフトやターレが走れば床が抜ける」
 「築地では使う水も魚を洗うのも海水なのに、豊洲では建物が傷むからといって、海水を床に流せない」。
 耳を疑う話ではないか。なんと狭いスペース、それが仕切りで囲われているのだという。しかも、築地のように魚を洗うのに海水を床に流せない。魚を満載したターレは重量オーバーを気にしなければならない。これでは商売上がったりではないのか。
 48年間築地市場で働いてきた仲卸業者が豊洲市場の設計ミスを指摘している。
 「考えたのは素人、都はわれわれ築地業者の意見はほとんど聞かなかった。豊洲で営業許可を得るには、都が定めた設備への買い替えが必要、当店の場合、冷凍庫などで約650万円の出費となる」。
 問題はそれだけではない。豊洲は1956年から30年間、東京ガスが都市ガスを製造していた工場跡地である。その製造過程で、ヒ素が使われ、ベンゼン、シアン化合物が生成されていた。それが今までの9回の調査でも、とてつもない数値で検出されているではないか。
 ガスをつくった後にはタールも生み出される。その大量のタールがドラム缶に保管されたまま長期間放置され、ドラム缶が腐食してタールが地中に浸透しているのだという。
 こんな会話が聞こえてくる。
 「豊洲で売る方も不安でしょうけれど、買う方もすごく不安」、「魚屋はみんな困っているよ。お客さんからも、安心して魚を買えなくなるといわれているよ」、「“築地で仕入れた”は誇り、“だ、 ”豊洲で仕入れた”といって喜ぶ客がいるのか」。
 もはや豊洲移転は中止するしかないと思わざるを得ない。この豊洲移転の目的とは、そもそも何だったのだろうか、次の指摘を考えてみたい。
 「単なる移転ではなく、大企業のための大規模物流センターの建設であることは、都の卸売市場整備計画からも明らかである。市場というより、大型産地や輸入商社からの大量の食糧を効率よく配送するための施設だ。移設計画は食の安全を脅かすだけでなく、日本の食文化を支えてきた食の流通を破壊するものだ」(農民運動全国連合会常任委員・斎藤敏之氏) 。
 そうだとすれば、豊洲移転はとても「都民ファースト」などとはいえないだろう。なぜ豊洲移転が持ち上がったのか。今までの都議会での議論を検証し、翻って考えることが必要ではないのだろうか。
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海外旅行・中国東北部(2012年)@

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765
労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年05月07日
海外旅行・中国東北部(2012年)@

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 09年の韓国に続いて、新聞OB九条の会がたびせん・つなぐとタイアップして企画した海外ツアー第2弾。今回は中国東北部(旧満州)の中心部を5泊6日で回る。新聞の石坂、石塚、今井、岩田夫妻、岩月夫妻、狩野、河合、小林豊、斉藤哲、斉藤康、清水、田原、戸塚夫妻、平沼、藤木、山川、それに出版の生駒夫妻、元日立争議団の篠田夫妻の計23人。添乗員はたびせんの荒井恵梨香さん。

 6月26日13:25に成田を発って15:30(現地時間)にハルピン空港着。空港を出ると大型バスが待っていてハルピン医科大学に直行。ここでメンバーの1人今井茂冨さん(東京中日)が会社定年後7年間日本語教師をしていた。ちょうど卒業式にあたり、構内は角帽にガウンの卒業生でいっぱい。

 大学食堂の特別室で先生や生徒たちと交流会。今井さんはおおもて。おれは団長として「日中友好の活力になるよう願う」と挨拶した。「雪花」という銘柄のハルピンの地ビールで乾杯。6台のテーブルに分かれて飲み、食い、交流の時間を過ごした。ハルピンの宿舎は繁華街に近い崑崙大酒店。

 2日目は朝早くホテルを出てまず七三一記念館へ。正式名称は「中国侵略旧日本軍七三一部隊遺跡」。ここで日本軍は中国人を使って細菌の生体実験をした。ガイドの説明を聞いておれが腹立ったのは、ここで悪業の限りを尽くした石井四郎らが敗戦直後さっさと日本に逃げ帰ったという話。おれたちは敗戦後1年間帰るに帰れず辛酸をなめた。しかも石井は米軍に実験資料を差し出したため戦犯にもならなかった。

 午後はソフィア教会を見た後、キタヤスカヤと呼ばれる中央大通りを散策。松花江のほとりのスターリン公園で一休みした。夜はロシア料理のちょっと高級な店へ。ワインの高かったこと。

 翌28日は列車で長春へ移動する日。ホテルを出てトランクを転がしながらハルピン駅へ。石畳の道はデコボコだし、交差点の信号はあてにならないし、駅に着くまでが命がけ。しかし、列車の旅は快適だった。約2時間後に長春に着く。緑の多い長春は仙台市と姉妹都市だ。

 昼食後「偽満皇居博物館」へ。玄関に「勿忘九・一八」のばかでかい石碑。江沢民の書だ。ここで皇帝溥儀が暮らしたが、日本軍が用意した玉座には決して座ろうとしなかったという。一寸の虫にも五分の魂というところか。溥儀は日本敗戦後戦犯として服役、出所後は一般市民として暮らし61歳まで生きた。
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私がなぜ、「日本ナショナリズムの歴史」にとりくんだのか

私がなぜ、「日本ナショナリズムの歴史」にとりくんだのか

梅田 正己(編集者)

 1945年の敗戦の年、私は国民学校(小学校)4年生でした。 教育勅語を暗誦させられた最後の世代です。 一学期、やっと暗記できたと思ったら、夏休みに8・15を迎え、以後は一度も暗誦させられずに終わりました。 ナショナリズムは、したがって私には過去の遺物で終わっていました。
 それが今日の問題として立ち現われてきたのは、私が出版社に入り、高校生対象の月刊誌の編集を担当するようになってからです。 1965年、文部大臣の諮問機関・中教審は高校生世代に向けて「期待される人間像」中間草案を発表しました。 その中にこんな言葉があったのです。
 「われわれは日本の象徴として国旗をもち、国歌を歌い、また天皇を敬愛してきた。…われわれは祖国日本を敬愛することが、天皇を敬愛することと一つであることを深く考えるべきである」
 戦前日本の青少年にとって最高の命題は「忠君愛国」でした。 表現はソフトになっていますが、指し示している方向は同じです。
 この翌々年、「神話史観」にもとづく戦前の紀元節が「建国記念の日」として復活しました。
 その後、月刊誌が会社の方針で廃刊とされたため、72年、仲間と共に出版社・高文研(当初の社名は高校生文化研究会)を設立、『月刊・考える高校生』(後に『月刊ジュ・パンス』と改題)を創刊しました。市販の条件はなかったため創刊時のマニフェスト「生徒と教師を主権者とする高校教育の創造をめざす」に共鳴した全国の先生たちの同志的〞熱意に支えられての出発でした。
 月刊誌の刊行とあわせて教育書を中心に人文書の単行本の刊行も開始し、以後、低空飛行ながら出版活動を続けることができました。 
 文部省による国家統制の強風で教育現場が波立ってきたのは、80年代の半ばからでした。 主題は日の丸・君が代の問題です。 その掲揚・斉唱の完全実施に向けて、文部省は徐々に圧力を強め、99年2月には広島県立高校長の自殺という痛ましい事件を生みます。 そして、あろうことか、政府はこの事件を奇貨〞として同年8月、「国旗・国歌法」を成立させたのでした。
 こうした中、教育現場からは次第に自由な空気が失われ、息苦しくなってきます。 それと共に、先生たちの自主性のみに依拠していた私たちの月刊誌もその基盤を突き崩されてゆき、2006年、ついに34年の経歴を閉じたのでした。 あわせて同年、戦後文部行政の総仕上げ〞として、教育基本法の「改正」が強行されたのです。
 「教育勅語」に象徴されるように、戦前日本において国家主義の形成・確立の主舞台とされたのは学校教育でした。 戦後日本においてもその復活の主戦場となったのはやはり学校教育の現場でした。その現場をずっと見続けてきた書籍編集者として、私が国家主義の問題を引きずってきたのは考えてみれば当然かも知れません。
 大日本帝国の崩壊とともに滅び去ったはずの日本ナショナリズムが、戦後70年をかけてよみがえってきた、このしたたかな生命力の源泉はどこにあるのか、それを解明するにはその発生の地点からたどってみる必要がありはしないか――。
 そう考えて、現役引退後、私はそれにとりくんだのでした。 日本ナショナリズムの解明は、同時にこの国の政治のあり方を根底から再検討する手がかりを、きっと与えてくれるはずです。

 (『日本ナショナリズムの歴史』販促パンフレットより)
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祝・第88回メーデー――私の生い立ちとメーデーB

水久保文明さんのブログ「ヘボやんの独り言」より転載
http://96k.blog98.fc2.com/
17年05月06日
11537 祝・第88回メーデー――私の生い立ちとメーデーB

■水久保文明(JCJ会員 千代田区労協事務局長 元毎日新聞労組書記)

 当時、中卒者は「金の卵」ともてはやされていた。高度成長期にあって、重要な働き手だったからだ。子どもたちは金≠生んだのである。ちなみに、現在すすんでいるNHKの朝ドラ(ひよっこ)は東北地方出身の子どもたちが多いが、九州、四国からの集団就職は大阪、愛知に配属されていた。

 東京に出てきたのは良かったが、仕事を探すのに苦労した。みつかったのは新聞配達だった。集金はなく朝夕の配達だけで宿舎や社会保険も完備しているという。有楽町にあるその新聞販売店に飛び込んだ。前述したように、同じような勤労学生ばかりだった。店は全ての新聞を扱っている「合売店」だった。

 配達先は企業だったため、一般家庭のように早起きは必要ない。販売店が借り上げたアパートから電車通勤で十分間に合った。企業相手の配達は、かなりの量になった。自転車に積むと、自分の背丈ほどになった。当時はまだ路面電車が走っており、雪が降った日はその線路に自転車のタイヤがはまり、新聞ごと倒してしまい泣き≠ェ入ったものである。

 その新聞販売店が、私が労働運動を始めるスタートになったのである。1964年に上京し翌65年に初めてメーデーに参加。ということは、組合活動に参加したのは17歳だったことになる。(自分で言うのも変だが)実にませた高校生だったといえる。

 私がそうなった背景はあった。父の影響である。父の具体的な活動の中身は覚えていないが、一生懸命に労働組合活動をやっていた。当時、炭鉱労働者の組合は「炭労」と呼ばれ総評の中ではいわゆる闘う労働組合だった。父の思想的背景には、九州大学教授の向坂逸郎教授がいた。

 私が炭住街で暮らしていたころ、エネルギーが石炭から石油に変わっていった。そのため炭鉱は次々と閉鎖され、そこで働いていた労働者は職を失っていった。その最大の闘いが「三井・三池闘争」だった。この闘争を指導したのが向坂逸郎氏だと言われている。当時の社会党内にあった、いわゆる協会派である。

 私の父はこれに影響を受けていたのではなかろうか。中学生のころ、「向坂先生」という言葉を幾度となく耳にしたことがある。中身は覚えていない。が、父は向坂理論を糧にして活動していたと思われる。その意味において組合活動は徹底してやっていたし、レッドパージの対象者にもなったのだろう。

 その父の影響が、私の中にあったことは事実だと思う。新聞販売店の待遇改善は当然だと思ったし、組合に入るのに抵抗はなかった。以上、やや長くなったが、私がメーデーに参加するようになったきっかけを述べてきた。その労働運動が今でもつづいていることに、誇りをもっていいだろう、そう考えている。

★脈絡のないきょうの一行
7日・フランス、9日・韓国で大統領選挙。目が離せないぞ。

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コンベアシステムと「手のひらのうた

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765
労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年05月05日
メーデー、60年ぶりの不参加

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 朝ドラの「ひよっこ」が面白い。茨城県が舞台なんて初めてなんじゃないかな。主人公のみね子さんが高校を出て東京・向島の電機工場に就職。トランジスタラジオの組み立てが仕事。一定の速さで回るコンベアに組み立てるラジオの原型が乗っていて自分の前にある間に部品を差し込まなければならない。みね子さんは不器用なため、差し込みが間に合わなくて緊急ストップボタンを押してコンベアを止める。

 そんな場面を見ていて、おれの61年前を思い出した。1956年4月、茨城県の高校を出て毎日新聞東京本社印刷局に入社。輪転職場に配属された。仕事は「紙取り」といって輪転機で刷られた新聞を揃えて発送に渡す役目。刷り上がって輪転機から吐き出された新聞は、ワイヤベルトに挟まれて2階の発送場に上がる。おれたちも発送場へはしごで上って紙取り台に流れてくる新聞を手で揃えるのだ。

 なにしろ輪転機はこちらの都合は考えてくれない。おれは不器用だからスムースに新聞を取って揃えることができない。慌てるとますます揃え方が雑になる。そうすると発送部員から「こんなんじゃ梱包できない」といって叱られる。あの頃の発送部員は梱包する縄を切るため腰に鎌を刺していた。怖かったな。

 この紙取りという作業は、64年の東京オリンピックあたりで終わりになった。カウンターステッカーという機械が導入されて、紙揃え、梱包が自動化されたからだ。不器用なおれも最後の頃はきれいに新聞を揃えられるようになった。おれの手の甲には当初毛が生えていたが、そのうち右手の甲は毛が擦り減ってなくなってしまった。新聞と新聞の間に右手を差し込んで紙を取っていたためである。

 朝ドラに話は戻るが、みね子さんは自分のドジさ加減に自己嫌悪に陥るが、上司も現場監督も「そのうちできるようになる」と暖かい目で励ましてくれる。実際彼女は見事にコンベア仕事をこなすようになるのだが、現実はそんなに甘いものではなかったと思う。おれもそうだったからだ。

 この工場には合唱サークルがあって、新入りのみね子さんたちを「手のひらのうた」で歓迎してくれる。その場面はあの吉永小百合の「キューポラのある街」を思い出させる。あの映画でも女子工員たちが合唱していた。当時うたごえ運動が盛んだったんだよな。それが労働者の団結になり、組合運動が沸き起こる。そんな若者躍動の時代だった。「ひよっこ」がこれからどんな展開になるか知らないが、期待が高まってくる。
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祝・第88回メーデー――私の生い立ちとメーデーA

水久保文明さんのブログ「ヘボやんの独り言」より転載
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17年05月02日
11536 祝・第88回メーデー――私の生い立ちとメーデーA

■水久保文明(JCJ会員 千代田区労協事務局長 元毎日新聞労組書記)

 私のルーツは、五島列島にある。だからと言って、五島で暮らしたことはない。聞いたところによると、父の家族が詐欺に遭い田畑すべてを失くし労働者化≠オて、島を離れて手っ取り早い炭鉱夫になったという。私が生まれたときに祖父はすでに他界していたが、父もその兄弟も長崎県、佐賀県、福岡県の炭鉱街で炭鉱夫として働いていた。

 私が生まれたのは、父が戦地・中国から帰ってきた1947年。団塊の世代だ。佐賀県伊万里市の炭住街だったがすでに二人の姉がいた。私が生まれた直後、福岡県直方市に移っている。父は労働組合の活動をやっていたらしく、レットパージを受けている。そのため、炭鉱を転々としている。もちろん、子どもである私も一緒に動いた。

 小学校2校、中学校は3校を経験している。その度に教科書が違い、苦労したことを覚えている。考えてみれば、当時は学校ごとに教科書を決めていたようだ。教師が選んでいたと思われるが、国の検定を受けたものではなく、それが本来の姿ではなかろうか。

 話が横道に外れた。私の下に妹と弟3人が生まれた。「貧乏の子沢山」の典型で、両親は7人の子どもを育てることになったのである。手元に写真家・土門拳の「筑豊のこどもたち」という写真集がある。

 1960年の作品であるが、この中に学校に弁当を持って行けない子供の写真がある。昼食時間に本を読んでいる。私はその子と同じだった。私の場合は学校の図書館に籠った。子どもに弁当を持たせてやれない母の気持ちはいかほどであったか、それを思うと今でも心が痛む。

 そういう生活のなかで、私は小学生の頃から定時制高校に通う、ことを決めていた。したがって中学卒業とともに、集団就職列車に揺られ愛知県刈谷市の鉄工所に勤めた。ふるさとを離れるとき母が見送りにきてくれた。15歳の少年の旅立ちだった。母はずっと手を振っていた。その姿を見て、小林多喜二の言葉を借りれば「泣かさって、泣かさって」仕方がなかった。

 ちょうど今、NHKの朝ドラが集団就職で上京して仕事をする子供たちの姿を描いている。あれとオーバーラップする。私は仕事が終わって、刈谷から(今では)JR東海道線で6駅離れた岡崎の工業高校の定時制に通った。もちろん電車通学は初めてだった。

 ところが、大学に行きたいと考えていた私はショッキングな話を聞かされた。大学に行くには、工業高校は不利だというのだ。悩んだ挙句、普通高校に乗り換えるため当時東京に住んでいた姉を頼って上京した。東京オリンピックが開かれた1964年であった。

(次回につづく)

★脈絡のないきょうの一行
祝・憲法制定70年。平和主義はいつまでも元気であってほしい。
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海外旅行・第4回バリわくわく旅行(2011)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年05月02日
海外旅行・第4回バリわくわく旅行(2011)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 この旅行でバリは6度目になる。メンバーも固定化傾向。今回はうちの女房は7月にファミリーで行ったのでパス。新聞は狩野、田原、石坂、赤川、芳尾、河合、山川。民放の高岡女史と出版の塩田、油田さん、その知り合いの児玉、岩城、有泉さんの計14人。新聞は男、他はすべて女性という賑やかさ。

 11月18日、成田の出発が1時間遅れてデンパサール着午後6時。車に分乗して一路ウブドへ。9時ちょっと過ぎにビラビンタン到着。カフェビンタンで歓迎夕食会。アラックをさんざん飲んでからミーティングルームで反省会。11時半にお開きにしてそれぞれのコテージに散って寝た。

 19日は学問の神様・サラスワティを崇める日。近くのウブド第一高校に行って式典に参加。生徒が正座して神妙にお祈りを捧げていた。昼飯はカンプンカフェでシーフードカレー。初訪問組はネカ美術館。おれは散歩と昼寝。夜はレゴンダンスを鑑賞した後、アヒル料理のべべブンギルへ。ロケーションが最高。

 パリはこれから雨季だというのに快晴が続く。20日は午前中マルガラナ英雄墓地。広場で、オランダから独立した日を祝う記念式典をやっていた。日差しが強い。偉い人が並ぶテントに入れてもらって式典を見学。英雄墓地の近くの露店のレストランで素朴な料理をいただき、午後は前回も来た水上のお寺。

 21日は朝早く出発してキンタマーニ高原の温泉プールへ。ここの温泉もプールも素晴らしいのだが、今年は蝿が多いのに閉口。プールサイドで昼飯を食おうとしたのだが、ライスや料理にびっしり蝿が。これでは食えないので屋内のレストランへ。そこにも蝿がいたが、まあ何とか食えた。よかった。

 22日は基本的にフリー。市場、スーパー、王宮付近の散歩。ラフティングに行った人もいる。おれはもっぱらテラスで昼寝。夜はお待ちかねの日パリ交流パーティ。スェッチさんの率いるガムラングループの演奏に乗って豚の丸焼きが出てくる。アラックのカクテルは甘く口当たりがいいので何杯でも飲める。

 最終日は午前中帰り仕度をして午後デンパサールへ。三浦襄翁のお墓をお参りした後、大きな市場に連れていかれた。ここの売り子は極度にしつっこい。逃げ回って早めに外へ出た。そこからジンバラン海岸へまわり、海鮮バーベキュー。深夜の便でデンパサールを発ち、24日午前9時前に成田へ着いた。
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沖縄ノート(2) 辺野古基地建設のハードル

17年03月29日
沖縄ノート(2) 辺野古基地建設のハードル

■坂本陸郎(JCJ運営委員;広告支部会員)

埋め立て工事は順調か (地図と資料は『平和新聞』2137号から)
 防衛省は、2トンの石の入った網袋数個を海中に沈める護岸工事にとりかかった。海域の土砂流出を防ぐための「防止膜」の設置が整ったから、としている。
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 護岸工事は、埋め立て予定地を囲む堤防のようなものを海中に造る工事だが、政府は、それを「K9護岸」(地図)から着手し、年内にも石を沈める工事を完了する計画である。それによって海底の岩礁は破砕されることになる。だが、岩礁の破砕には沖縄県知事の承認が必要である。したがって、仲井真前知事による承認が今年3月で期限切れとなっていることから、新たに現知事の岩礁破砕の承認を得なければならない。だが、その見通しが立っていない。
 そのため政府は、地元の名護漁業組合が、辺野古海域での漁業権を放棄したことを根拠として、知事の岩礁破砕許可は必要ではないなどと言っている。
そもそも魚業組合の漁業権放棄は法的効力を持つのだろうか。1985年の国会で政府は、このように答弁している。「漁業権は漁協の総会で放棄が議決されたとしても、それだけで変更されるものではない。都道府県知事の免許を受けない限り、漁業権が放棄されたことにはならない」。
 漁業権放棄には公的承認が必要であることを政府も認めていたことになる。にもかかわらず、政府は今回、それを覆す解釈をしている。そのような勝手な解釈は許されないであろう。ましてや、漁業組合が漁業権を放棄したことを岩礁破砕の承認と結びつけるなどは論外と言わなければならない。
 さらに、その他いくつものハードルが立ちはだかっている。まず、膨大な量の土砂運搬の目途が未だに立っていない。加えて、工事を進めるためには、名護市内を流域とする美謝川の水路を変えなければならない。ここでも自治体の許可が必要となってくる。それを名護市議会が認めるだろうか。まして、稲嶺名護市長と翁長知事が承認するとは到底考えにくい。
 ハードルはそれだけではない。翁長知事が、前知事による埋め立て承認そのものを撤回する意向を明言している。だとすると、稲嶺名護市長が言うように、「これらをクリアーしないと、実質的な埋め立て工事に入ることはできない」(記者会見での発言)ことになる。
 以上からも明らかなように、今後の埋め立て工事には様々な困難が予測される。政府と防衛省は、そのことを充分知っているはずである。石の入った袋を海岸近くの海中に沈めるという工事は、新基地建設に反対する沖縄県民と本土の国民の諦め気分を誘うデモンステレイションではなかったのか。テレビを見たり大手紙を読んだりすると、政府の強気の姿勢が伝わってくるのだが、政府や防衛省が、必ずしも今後の成り行きに確たる自信を持っているとも思えない。案外、不安と動揺が見て取れるのではなかろうか。

代替基地建設か新基地建設か (新基地計画地図は沖縄タイムスから)
 政府は、V字型滑走路を備える辺野古の基地を、普天間飛行場の返還にともなう「代わりの基地」なのだから、「沖縄の負担が増えることはない」と言っているのだが、そうだろうか。「代替基地」であれば、辺野古の基地が完成するまで、普天間基地の返還は先伸ばしとなる。 
 以下は、地元紙『沖縄タイムス』の連載記事の一部要約(筆者による)と引用である。
 たしかに、滑走路は2700メートルから1800メートルへと短縮する計画であり、普天間で基地機能三つのうち、空中給油機はすでに山口県の岩国基地へ移され、緊急時の外来機受け入れは本土移転が決まっていることから、辺野古基地ではオスプレイやヘリの部隊だけとなるようだ。それを、菅官房長官などが「面積や機能が小さくなる」「沖縄の負担軽減」と言っている。だが、沖縄県民の多くが新しい基地の建設だと理解している。
20170510a.JPG
 では、新しい基地とはどのようなものなのか。『沖縄タイムス』の記事を以下引用する。
 ― 飛行場の大浦湾側に整備予定の係船機能付き護岸は、全長271,8メートルで、オスプレイ搭載可能の、長崎県佐世保を母港とする強襲揚陸艦ボノム・リシャールが接岸できる「軍港」ではないかとの指摘がある。それとは別に、タンカーの接岸できる燃料桟橋も設ける。弾薬搭載エリアも普天間にはない機能だ。現在のようにミサイルや銃弾を積み込むため、空軍嘉手納基地に移動する必要がなくなる。
 陸上自衛隊航空部隊の元操縦士は、「シュワッブやハンセンに駐留する地上部隊と航空機が一体となり、さらに弾薬、艦船の受け入れを一か所に集積できるなら、平時でも有事でも使い勝手はよくなる」と評価する。1996年の返還合意当初に話し合われた撤去可能な海上ヘリポート案や、稲嶺恵一元知事らが求めた使用期限付きの飛行場に比べ、「恒久的な基地になるのは確実だ」と語っている。―

この新基地について、『沖縄タイムス』は、オスプレイ百機以上が配備可能な設計だとする前防衛大臣森本敏元氏の著書を紹介したうえで、次のように書いている。
 ― 有事の際には常駐機以外の外来機の受け入れを想定しているのは間違いない。修繕次第で、耐用年数は100年とも、200年ともいわれている。新基地ができれば、米軍が簡単に手放すわけはない。自衛隊との共同使用も視野に入れているだろう。さらに埋立地は国有地になるため、私有地や市有地に比べ、土地利用に口出しできなくなる。「戦後70年以上続いてきた沖縄の過重負担が、子や孫の代どころか、100〜200年も続くことは耐えられない」、翁長知事や稲嶺市長は、そう声を上げている。―
 記事は、この3000メートル級滑走路2本と軍港機能を持つ基地建設が、1966年にすでに計画され、当時自衛隊トップであった統合参謀本部議長がその建設を承認していた事実を、資料をもとに明らかにしている。
 それについて、基地問題を調査してきた建築家・真喜志好一氏の談話を載せている。
 ―「沖縄の負担を軽減するという名目で、実際は米軍の安全基準にも合わない、危険で老朽化した普天間を返し、60年代に見送った計画を実現させようという意図がある。しかも、建設費は日本の予算だ。沖縄戦で奪った土地に本土爆撃用として造った基地とは違い、現在の米海兵隊の求める機能をそろえた、まったく新しい基地だ。そんな都合のいい話に県民は騙されない。だから、反発と抗議が強まり、工事が進まないことを認識すべきだ」。―     
(続く)
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祝・第88回メーデー――私の生い立ちとメーデー@

水久保文明さんのブログ「ヘボやんの独り言」より転載
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17年05月02日
11535 祝・第88回メーデー――私の生い立ちとメーデー@

■水久保文明(JCJ会員 千代田区労協事務局長 元毎日新聞労組書記)

 きのう、代々木公園で「メーデー」が開催された。連合は4月29日に行っており、本来の5月1日はこのメーデーが本家≠ナある。メディアは、「全労連系」という表現をするが、これは間違い。全労連に参加していない組合も含めて、実行委員会を構成し代々木公園に結集するからだ。当然、千代田区労協もここに参加する。

 私は、今年でメーデーには連続53回目の参加となった。初メーデー≠ヘ1965年。まだ高校生だった。定時制高校に通っていた私は、職場の労働環境があまりにもひどく、個人加盟の労働組合に加入していた。職場は新聞販売店だった。

 なぜこの職場を選んだか。定時制高校生にとっては絶好の環境だったからだ。朝刊の配達が終わって夕刊の配達までの間、勉強できたし昼間の大学に通学している仲間にとっては夕刊までに戻ればいいわけで、好都合だった。その新聞販売店には90人近くが従事していた。そのほとんどが、私のような高校生だったり、大学生だったり、大学受験生だった。何故か司法試験の受験生もいた。

 配達地域は千代田区内の大企業が密集する丸の内・大手町界隈、さらに霞ヶ関の官庁街もエリアだった。首相官邸、宮内庁にも配達していた。総理大臣や天皇は私たちが配達する新聞を読んでいた。今でもこの販売店は同じエリアを配達している。

 ここで待遇改善のたたかいが始まった。要求はシンプルだった。今でも残っている所もあるが、新聞販売店は朝刊の配達が終わると朝食が出た。この朝食に「おかずを出せ」というのが要求になったのだ。そのころの朝食は、ご飯と味噌汁、そして漬物だけだった。いわば、おかず闘争≠セ。

 そしてもう一つは、通勤手当をよこせ、だった。学生だから、ということで仕事のための交通費は支給されていなかったのだ。二つのシンプルな要求は共感を呼び、非公然だったが労働組合を十数人で結成した。この組合を軸に「従業員自治会」なるものをつくり、ここが要求交渉に当たった。結果は、なんと100%の要求実現をみたのである。

 ところが、その後販売店は1967年の春から夏にかけて、私も含めて6人を解雇したのである。恐らく組合結成の首謀者と見られたのであろう。6人の内訳は、大学生4人、予備校生1人、そして私は高校生だった。なんと、高校生争議団の誕生≠セったのである。初めてメーデーに参加したのが1965年。その2年後にクビを切られたのである。

(次回につづく)
★脈絡のないきょうの一行
北朝鮮の核実験に、噴火の恐れ(CNN)。アメリカや、イギリス、中国の時にはその懸念はなかった? ヘン。
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メーデー、60年ぶりの不参加

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年05月01日
メーデー、60年ぶりの不参加

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 今日は第88回中央メーデー。朝から爽やかな五月晴れだ。もっともお昼頃から天気は不安定になり、雷、突風の惧れもあるという。おれは1958年の第29回中央メーデーから何らかの形でずっと参加してきたが、今年は例の腰痛で残念ながら断念した。おれのメーデー参加歴を振り返ってみたい。

 おれが初めてメーデーに参加した頃は、神宮外苑の絵画館前だった。その後芝公園での開催もあったと思う。60年代初めからは代々木公園に定着した。当時は統一メーデーで、労働4団体や純中立労組もこぞって集まった。デモコースは青山―国会前―新橋までで、6キロはあった。あまりの人数に行進はのろのろで、解散地点の新橋へ着くのは夕方になった。駅前の立ち飲みのビールの旨かったこと。

 統一メーデーは88年の第59回まで続いた。89年に総評解体、連合、全労連発足。そのあおりで分裂メーデーになった。メィン会場の代々木公園は連合に取られて、全労連系は江東区の辰巳緑公演に追いやられた。新聞労連は朝日や読売が全労連メーデーを嫌って不参加。おれが委員長を務める東京地連は組織決定して辰巳緑公園に参加した。参加者はそれまでの1000人から300人に減った。

 その後、全労連系メーデーは90年の夢の島公園を経て、91年からは亀戸中央公園に。毎年代々木公園使用を申し込むのだが都の不当な連合優先措置で認められなかった。デモコースはいくつかあったが、おれたちは浅草終点が多かった。お好み焼きや天ぷら屋での打ち上げ会は結構楽しかった。

 98年はフランスのパリメーデーに参加した。CGTと一部中立系の隊列に参加、リパブリック広場からナシオンまで3時間かけて行進した。こちらも労働団体ごとの分裂メーデーだったが、解散地点は同じように組まれているらしい。解散後のビールで乾杯風景は日本と同じ。屋外テラスで気勢をあげていた。

 連合がメーデー開催日を大型連休最初の休日(今年も4月28日だった)と決めたおかげで、01年からは全労連系が代々木公園でできるようになった。世界的にメーデーは5月1日だと思うんだがね。

 02年に松戸市長選に立候補した関係で、02年から05年まで4年間は松戸メーデーへの参加だった。午後2時から西口公園で集会を開き、デモコースも1キロほど。駅東口で解散し年金者組合の人たちと居酒屋庄屋で懇親会。都内へ出るより数倍楽ちんだがやはりちょっと物足りない。

 05年に新聞OB会代表委員に選出されたこともあって、06年以降は代々木公園の中央メーデーに参加してきた。それが今年途切れた。ああこれで「おれのメーデー」も終わりなのかな。
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『日本国憲法はこうして生まれた』(川村俊夫著、本の泉社刊) 

17年03月29日
『日本国憲法はこうして生まれた』(川村俊夫著、本の泉社刊) 

■坂本陸郎(JCJ運営委員;広告支部会員)

 この標題の著書には、施行70年となる日本国憲法の原点ともいえる憲法制定過程が詳しく書かれている。その中からいくつかを要約して取り出してみる。
※()内は筆者。


世界から見た日本国憲法
 まず、世界が現在の日本国憲法をどう見ているのかについて。188カ国の憲法を比較検討したワシントン大学のデービット・ロー、シカゴ大学のトム・ギンズバーグら米国法学者の見解、
 世界から見ると、日本の憲法の最大の特徴は、改正されず手つかずで、生き続けてきた長さだ。だからといって内容が古びているわけではない。むしろ逆で、世界がいま主流になった人権の上位10項目までを、すべて満たす先進ぶりである(朝日新聞2013年5月5日付)
 この評価について、著者川村俊夫氏は次のように解説している。
― ここでいう「世界でいま主流になった人権」とは、信教の自由、報道・出版の自由、プライバシー権、女性の権利、団結権、教育を受ける権利等々、近代社会になって以来、各国憲法に共通してふくまれている一人ひとりの人権です。この中で、上位20位までのランキングで日本憲法に含まれていないのは20番目の「推定無罪」だけとのことです。これに、第二次大戦後の各国憲法が持つことになった平和条項の比較を加えれば、徹底した戦争放棄の条項を持つ日本国憲法の先駆性・先進性はいっそう際立っているといえるでしょう。―
 (このような、日本国憲法にたいする客観的評価と理解は、政権による改憲策動が強まる現在、極めて重要である。憲法が米国の占領下の時代につくられたことのみを根拠として、「連合国総司令部の、憲法も国際法も全く知らない素人たちが作り上げたシロモノ」と理解する安倍首相の目が、いかに曇ったものであり、その理解が一知半解であることが、この著書を読めば理解されるだろう)

その制定過程と歴史的背景
 著者は憲法制定過程について、次のような歴史的背景を述べている。(以下は筆者による要約)

1.天皇を中心の「国体」に全く手を付けない「松本委員会案」(日本政府案)に代えて、GHQは、草案として国民主権の原則を打ち出した。しかし、あくまで「国体」の維持に固執する日本政府は、これに抵抗し、天皇制を「国民至高の意志」と言い換えるなど、天皇主権にこだわった。それに対して「国民主権」を明記せよ、という世論が沸き起こった。
2.アメリカ政府とその出先機関GHQは、反フアッショ連合国の一員としての立場から、日本政府によるポツダム宣言の実施を監視するという一面と、憲法発展の民主的歴史的到達点を取り入れながら、ソ連との対立を強めるなかで、天皇制の維持など、日本政府と妥協する一面をも持っていた。
3.日本国民は敗戦の痛手を受けながら、労働者、農民、女性、学生など階層別組織化を進め、職場、地域、学園から旧憲法体制の打破を目指すたたかいを展開した。それらは明治期の自由民権運動、大正デモクラシーなどの伝統を生かそうとするものだった。


 戦後における憲法について様々な提案、提言が国民の中から出された。そのひとつが「憲法研究会」の名で知られる民間グループによるものであり、それが、現在の憲法に平和と民主主義の規定を盛り込む力となった。

1.こうした日本国民のたたかいを励ましたのが、ワシントンに置かれた連合国による極東委員会と、当時の国際世論であった。反フアシズムで戦った国々では、戦後、平和と民主主義、人権をめぐるたたかいが起こり、それらが日本国憲法制定過程に大きな影響を与えていた。


政府案と「憲法研究会」案
 GHQに「試案」として提出された日本政府憲法案は次のようなものだった。


「日本国は君主国とす」、「第二条、天皇は君主にして此の憲法の条規に依り統治権を行ふ」、「第三条、皇位は皇室典範の定むる所に依り、万世一系の皇男子孫之を継承す」。

 これは明治憲法の字句を入れ替えただけのものであり、政府内の憲法論議がどのようなものなのかをうかがわせるものだった。その「試案」をスクープした毎日新聞も、さすがに「あまりに保守的、現状維持的なものに過ぎない。失望しない者は少ない。新国家構成の経世的理想に欠けている」と論評せざるを得なかった。
 その後、GHQに提出された政府案(松本案)も、明治憲法の条文中の「神聖」という文字を「至聖」に言い換える程度で、内容は「試案」とほとんど変わらなかった。そればかりか、「公益の為必要なる役務に服する義務」という徴兵制の復活を意図する条項も含まれていた。
 だが結局は、それがGHQに受理されず、日本政府が自らポツダム宣言に基づく憲法草案をつくる能力なしと判断され、次のような「マッカーサー3原則」が提示され、国会での論議となる。
 その3原則とは、要約すると、@天皇の義務及び権能は憲法に基づき行使される。A国家の主権並びに権利として戦争を廃棄する。B日本の封建制度は廃止する、であった。
 GHQは、政府案と同時に、鈴木安蔵、高野岩三郎、杉本幸次郎、森戸辰男、室伏高信、岩淵辰雄ら民間人グループによる「憲法研究会」に関心を寄せていた。その「要綱」を見たGHQ民生局のラウエルは、それについてこのように語っている。
 「国民の権利及び義務、これらの諸条項は、権利の焦点をなすものであって、現行憲法(明治憲法)におけるそれよりも、はるかに実効的である。言論、出版、教育、芸術および宗教の自由は保障され、かつ、その他の社会的諸原則もその中に包含されており、そのすべては民主主義と両立しうるものである」「この憲法草案中に包含されている諸条項は、民主的であり、かつ承認できるものである」。
 高く評価していたのだった。その後は、この憲法草案に賛成しない高野岩三郎が個人として、「天皇制を廃し、之ニ代エテ大統領ヲ元首トスル共和制採用」といった天皇制廃止を正面から打ち出す草案を出している。
 そのほか、憲法学者稲田正次、労働運動弁護士布施辰治などが、それぞれに憲法草案を発表している。そして、政党として唯一「憲法骨子」を明らかにしたのが日本共産党であった。それについて著者は、「この時期に憲法構想を(政党として)明らかにしたのは共産党だけであったから、政府に対してはともかく、憲法研究会の高野、鈴木らに、ある程度の影響を与えたことは否めない」と、述べている。
 (天皇制をめぐる日米の思惑は違ったものの、深刻な対立とはならなかった。戦後の対日支配を構想するマッカーサーが、天皇を戦後社会にふさわしいかたちで残す方が自国の国益に役立つと判断したからだった。その日米の“つきあわせ”の結果、皇室の存続が保障され、その後の国会では、第9条をめぐる「自衛権」の論議が焦点となった。(そこでの論議と政府答弁は現在に通じるものとして興味深い)

第9条の解釈をめぐって
 第9条に関しては、国会では天皇制存続の代償として第9条は止むを得ないという受け止め方があり、それに反対する議論はなく、9条の発案者はマッカーサーではなく、幣原首相だったという議論もされた。
 吉田首相は提案趣旨説明で、第9条は「改正案における大いなる眼目」としたうえで、このように述べている。
 かかる思い切った条項は、凡そ従来の各国憲法中に稀に見るものであります。かくして日本国は、恒久の平和を念願し、その将来の平和と生存をあげて、平和を愛する世界諸国民の公正と信義に委ねんとするものであり、この高き理想をもって平和愛好国の先頭に立ち、正義の大道を踏み進んでいこうという固き決意を、国の根本法に昭示せんとするものであります(衆院本会議 6月25日)

 次は、進歩党の原夫次郎議員の自衛権についての質問に対する吉田首相の答弁である。
 「本案の規定は、直接には自衛権を否定はして居りませぬが、第9条2項に於いて一切の軍備と交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も又交戦権を放棄したものであります。従来近年の戦争の多くは自衛権の名に於いて戦はれたのであります。満州事変あり、大東亜戦争亦然りであります。今日我が国に対する疑惑は、日本は好戦国である、何時再軍備をなして復讐戦をして、世界の平和を脅かさないとも分からないということが、日本に対する大いなる疑惑であり,又誤解であります。故に我が国においては如何なる名義を以てしても交戦権は先ず第一進んで放棄する。放棄することに依って全世界の平和の確立の基礎を成す」。(吉田首相の趣旨説明は憲法前文の趣旨に沿うものである。自衛権についての答弁は、「直接には自衛権は否定はしていないが」といった点が曖昧だが、自衛権を名目とした過去の日本の戦争を反省し、交戦権と武力行使の放棄を宣言しているくだりは注目される)

「芦田修正」の顛末(要約)
 その後、国会では第9条の解釈をめぐる論議が行われ、小委員会で第9条2項冒頭が、「前項の目的を達するために」の文言に差し替えられた。その「芦田修正」の趣旨がのちに問われることになる。
 その10年後、56年3月30日付「東京新聞」が、「侵略戦争を行うための武力はこれを保持しない。しかし自衛権の行使は別であると解釈する余地を残したいとの念頭から出たものであった」とする芦田名の寄稿文を掲載した。その寄稿文の中で、芦田は「第9条の修正案を小委員会に提出した趣旨については、その日の芦田日記にも書いてある」とも書いていた。ところが、86年に刊行された「芦田日記」には、そうした事実が書かれてなかったことから、「東京新聞」が内部調査したところ、その部分は記者の作文であったことが判明し、「東京新聞」は「おわび」の記事を掲載した。その後、さらに、米国と日本で相次いで議事録が公開された。その議事録によれば、芦田は修正の趣旨について次のように述べていた。

 『国際平和を誠実に希求し』という言葉を両方の文節に置くべきですが、そのような繰り返しを避けるために『前項の目的を達するために』という言葉を置くことになります。つまり、両方の文節でも日本国民の世界平和に貢献したいという願望を表すものとして意図されているのです(憲法改正小委員会第6回議事録46年7月31日)

(この「芦田修正」を根拠として、自衛のための武力行使は憲法に違反しないとするのが政府側の解釈である。それは、1項を、侵略戦争のみを指すと解釈し、2項をそれとは区別し、それにより、憲法上許されるとするものだが、議事録では、芦田が1項冒頭の文言の「繰り返しを避けるために」、2項で「前項の目的を達するために」と言い換えたことを明らかにしている。そのうえで、さらに1項と2項について、「両方の分節」が日本国民の「願望」を表す意図であったと語っている。つまり、2項は1項の具体的帰結であり、両項は不可分であることを、芦田は強調しているのである。したがって、自衛のための戦力、武力行使を合憲とする政府解釈は到底成り立たないことになる。この芦田自身が残した記録は、憲法を正しく解釈するうえでの確かな証拠資料と言えるだろう)。
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沖縄ノート(1)「基地依存」という誤解と蔑視

17年03月29日
沖縄ノート(1)「基地依存」という誤解と蔑視

■坂本陸郎(JCJ運営委員;広告支部会員)


(本稿は主に安田浩一著『沖縄の新聞は本当に偏向しているのか』を資料とし綴ったものです。その他の著書からも引用しながら連載の予定です)

デマゴギー
 事実を歪める情報がネット上で散乱し、誤解と偏見を生んいる。それらが沖縄を理解するうえで、国民に影響を及ぼしてはいないだろうか。
 例えば、「基地の地主は年収何千万円なんですよ。みんな六本木ヒルズとかに住んでいる。基地がなくなると、お金が無くなるから困る。沖縄はそれでも本当に基地被害者なのか」といった著名人のまことしやかな発言内容がブログやネットで流れている。
 かと思えば、辺野古で新基地建設に抗議する人々に対して、「朝から酒を飲み、日当2万円をもらっている」という、とんでもないデマがまかり通る。さては、「米軍普天間飛行場は、もともと田んぼの中にあり、周りには何もなかった。基地ができると商売になると、基地の周りに人が住み出した」といった事実を歪めるものもあり、「辺野古基金には、中国からの工作資金が基地建設妨害勢力に流れている」といった荒唐無稽なものもある。
 これらの、米軍基地建設に反対する沖縄県民に向けられたデマゴギーが、沖縄県民のみならず、本土の国民の正しい理解を妨げている。

「基地依存」
 そのひとつが、「沖縄は基地がなければやっていけない」といった言説である。基地なしには沖縄の経済は成り立たないというものなのだが、果たして、そうだろうか。
 沖縄県の調べによれば、軍用地料、基地雇用者収入など基地関連収入の割合(基地依存度)は、現在わずか5%に過ぎない。たしかに、本土の高度経済成長と切り離されていた72年の復帰直後の依存度は15,5%だったが、その後は年々、依存度は低下している。
沖縄観光コンベンションビューロー会長で、沖縄きってのホテル業大手「かりゆしグループ」CEOの平良朝敬氏がこのように語っている。
 「基地の存在こそが、沖縄経済にとっては阻害要因だ。そもそも沖縄が米軍基地を誘致したわけでもない。“銃剣とブルトーザーで土地を奪って基地がつくられた。そうであるのに、”沖縄は基地で食っている“などという物言いが飛び出すところに、誤解というよりも、沖縄への蔑視が感じられます」。
続けて、「沖縄経済の市場規模は年間4兆円、そのうち基地関連収入は約2千億円です。全体から見れば、基地関連収入はさほど大きな額でもなく、当然ながら、それは沖縄が食っていけるだけの規模でもない。さらに、観光産業から見れば、非常に魅力的場所に米軍基地が集中している。これは実にもったいないことなんですよ。雇用も利益も生み出すことのできる場所に基地が存在することで、ビジネスチャンスを失っている」。

ビジネスチャンス
 基地は経済発展の阻害要因だと平良氏は言う。では、基地が撤去されれば、どうなるのだろうか。
 平良氏は、2015年4月に返還された北中城村跡の大規模ショッピングモール「イオンライカム」を例として挙げている。
 ここでは、米軍の専用ゴルフ場だった跡地17万5千平方メートルに、県内最大の商業施設が建設され、大型スーパーをはじめ、220店舗が軒を連ね、複合型映画館も備わり、南国沖縄らしいリゾートの雰囲気が演出され、地元の買い物客だけでなく、内外から訪れる観光客にとっても名所の一つとなっている。
そこでは、米軍のゴルフ場だった以前に比べると、雇用は飛躍的に増大した。ゴルフ施設では日本人は38人しか雇用されていなかったのに、現在そこで働く人は約3千人である。集客数も、2016年には予想を100万人上回る1300万人となった。
 米軍の施設が返還されてのち一変したのは、この北中城村跡地だけではない。1987年に全面返還された那覇市の米軍牧港住宅跡地の「新都心地区」では、高層マンション、ホテル、それに県や国の出先機関、博物館、展示館、商業施設が立ち並び、そこは大都市の景観を呈するまでになっている。しかも、返還後の経済規模は、返還前の年間57億円から1624億円へと、約28倍に増大し、雇用も485人から1万6475人へと、約34倍となっている。平良氏は、新基地建設で揺れる辺野古にも、大型リゾート施設ができれば、数千人の雇用と数百億円の経済効果が期待できると語っている。

平和産業
 「観光は究極の平和産業だ」と、常々語る平良氏は、東京で大学生だったころ、神奈川県の湘南海岸を見た時、観光資源なら、沖縄は日本のどこにも負けないポテンシャルを持っていると確信したのだという。
 現在も、沖縄を訪れる観光客は増加の一途をたどっている。2015年に沖縄を訪れた観光客は776万3千人、前年比で70万4700人の増、率にして10%の伸びである。3年連続で国内国外ともに過去最高を更新した。特に、海外からの観光客は増える一方である。もちろん、基地を見ようと訪れる人はいないであろう。
 かつては、沖縄の経済は基地、公共事業、観光の頭文字を取って、「3K依存」とも言われてきた。だが現在は、確実に基地と公共事業への依存から脱却してきている。今後の経済発展も期待できるであろう。平良氏は、次のような展望を語っている。
 沖縄を中心とする半径3千キロ以内に約20億人、4千キロ以内に約30億人が居住している。そのアジア全域にわたる商圏は、今後の沖縄県の発展を約束しているといえるだろう。基地が全面返還された後の沖縄の変貌は、扇の要としての地理的条件からして有望なのである。
posted by マスコミ9条の会 at 15:43| Comment(0) | 米軍基地 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

国道6号の第4回放射線量調査報告

水久保文明さんのブログ「ヘボやんの独り言」より転載
http://96k.blog98.fc2.com/
17年04月30日
11534 国道6号の第4回放射線量調査報告

■水久保文明(JCJ会員 千代田区労協事務局長 元毎日新聞労組書記)


 昨年3月18日の小ブログで報告したが、東電福島第一原発近くの国道6号線沿いの放射線量調査を4月28日(金)に行った。今回は4回目である。初回は封鎖が解除(14年9月15日)された直後の9月21日。それ以降、2回目は15年11月20日、3回目は16年3月11日に行っている。

 今回は3台の線量計を使った。より正確な数値を出すためだ。例によって、同じ地点を調査した。相対的には初回より線量は減っている。が、世界基準からみるとほとんどがオーバーしており、通行も帰還もできるような状態ではなかった。

 【今回使った線量計】
20170430a.jpg

 改めて、放射線量の被ばく許容量をみてみよう。
 ●世界基準は、年間1m㏜(ミリシーベルト)となっている。したがって、
 ●1m㏜は1000μ㏜(マイクロシーベルト)だから、
 ●1000μ㏜÷365日=2.74μ㏜(1日の許容線量)
 ●2.74μ㏜÷24時間=0.114μ㏜(1時間の許容線量)
ということになる。したがって(線量計は通常1時間あたりの線量を表示しているが)許容量は1時間あたり0.114μ㏜ということになる。

【観測地点の数値】
20170430b.jpg

 今回は、常磐道が全線開通したことから浪江インターで降りて東進、JR常磐線の跨線橋を越えて6号線に入った。少し高くなっている跨線橋から、浪江町の様子を見ながら走ったが、駐車場に止まっている車は見えず、人の気配はなかった。いつになったらこの街は復活するのだろうか……。国道6号線の調査区間は、許容数値をはるかに上回っていた。別図は1回目と比較している。全体として初回より数値は下がっているが、@の浪江町以外は全てアウトであった。

【第一原発が見える地点から】
20170430c.jpg

 写真は、第一原発に近いところだ。作業用のクレーンが見える。線量はこの辺りが無茶苦茶に高かった。許容量の50倍となっている。ところが、国道から左右に分かれる主要県道に、車の侵入を防ぐ警備員が立っていたこ。一応マスクはつけていたが、被ばくしているのは間違いない。この人たちの健康は大丈夫なのか、心配になった。国道6号線のこの部分、健康問題を考えるならば封鎖すべきだと、改めて感じた。

★脈絡のないきょうの一行
失敗した北朝鮮のミサイル発射。電車を止めたり、射撃訓練の執拗な報道は、戦争を想定した国民の教育≠ナはないのか。

posted by マスコミ9条の会 at 15:35| Comment(0) | 福島原発事故 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

護憲的改憲論なるものに与しないぞ

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765
労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年04月30日
護憲的改憲論なるものに与しないぞ

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 「なるほどそうか」と注目した文章がある。『週刊金曜日』4月28日、5月5日合併号の宇都宮建児氏の小論。タイトルは「新9条論(護憲的改憲論)は有効か」。「(戦争法成立後)自衛隊の存在を憲法に明記し、自衛隊の実力行使に歯止めをかけるべきだという『新9条論』または『護憲的改憲論』が台頭してきている」として、小林節、伊勢崎賢治、田原総一郎、今井一氏らの名前を挙げている。

 おれはこの宇都宮論文を読んで、55年ほど前のある「論争」を思い出した。当時おれは20代前半で250人の輪転職場に2人しかいない毎日新聞労組東京支部執行委員だった。同時に新聞労連東京地連の書記長も兼務していた。警職法改悪反対や60年安保闘争の真っただ中、労働運動の昂揚期だった。

 高度経済成長の波に乗って新聞に面白いほど広告が集まり、それを紙面に載せるため増ページ競争が盛んだった。それは直接労働条件の悪化につながると同時に、広告主への配慮から報道の自由が侵されるのではないか、という懸念もあった。新聞労連は勿論、毎日労組も増ページ反対闘争に取り組んだ。

 その時出たのが「絶対反対か条件闘争か」という議論である。増ページ反対と言ってもどうせ阻止できるものではない。増ページそのものは認めて、労働強化にならないように増員とか休憩時間確保とかの要求を出せばいい。報道の自由については増ページ反対運動とは切り離してたたかうべきだ。

 おれたちは職場集会を基本に、組合大会でも新聞労連の各種会議でも侃侃諤々の議論をした。おれは青年層や新聞労連に結集した他社の仲間とともに、増ページの本質は資本の過大利潤の追求にあり、搾取の強化である。病源は根っ子から断ち切らねばならない、として絶対反対闘争の貫徹を主張した。

 労連共闘、職場闘争を通じてはげしくたたかい、増ページは止められなかったが、結果的に増員や休憩時間を確保させた。言論の自由を守ろうのスローガンのもと、新聞研究活動が大きく盛り上がった。おれたち活動家は増ページを止められなかった挫折感を克服し、原則的たたかいの大切さを噛みしめた。

 『週刊金曜日』に戻る。宇都宮氏と同じテーマで論じた田中優子氏は「軍事力について悩み、議論し、現実と理想の乖離に心地悪い思いを持つ」それが「憲法9条の存在理由である」ときっぱり言い切る。その通りだと思う。

posted by マスコミ9条の会 at 15:30| Comment(0) | 労働運動 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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