2017年08月15日

敗戦から72年、おれのルーツを探る

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765
労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年08月13日
敗戦から72年、おれのルーツを探る

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 8月15日で敗戦から72年になる。8歳のおれが80歳になったのだから間違いない。今読んでいる『関東軍火工廠史』、676ページの本の266ページまでいった。小さい活字でしかも印刷が薄いので読むのに難儀している。おれの断片的な記憶と合致する記述がかなりある。戸塚陽太郎という父の名も出てきた。

 この軍需工場は関東軍の経営であって、関東軍の将校をはじめ軍人が直接工場建設・運営に当たっていた。父たち下っぱも陸軍軍属(雇員)として関東軍の組織に組み込まれた。工場労働は何千人かの中国人(満人)で、手記の中では苦力(クーリー)と呼ぶ人も。典型的な植民地経営だったと言える。

 さて工場の主体となった関東軍だが、もともとは遼東半島の関東州の守備隊だった。それが南満州鉄道も守るという名目でどんどん勢力を増大する。関東とは万里の長城の東という意味で満州全体を指した。関東軍はその後、張作霖爆殺、満州事変、満州国設立、支那事変、ノモンハン事件等を引き起こした。

 最初旅順に置いた司令部を1934年には新京(長春)に移す。太平洋戦争を始める41年には兵力74万を擁し「精強百万関東軍」と豪語した。おれたち一家はその関東軍全盛期の40年、満州へ渡った。親父もこんなに強い関東軍に絶大な信頼を置いていて何ら心配もしなかったに違いない。

 ところがである。いざソ連軍がソ満国境を越えて侵攻してくるとなすすべもなく敗退する。司令部は新京から朝鮮国境に近い通化に移す。つまり百万を超える在満避難民を見捨てるのだ。そんな中で起こったのが葛根廟事件。女子どもを中心にした避難民がソ連の戦車に蹂躙されて1000人以上が殺された。

 そこでおれたち一家がいた関東軍火工廠第一工場だが、ここにも沢山の関東軍将校がいた。20代後半から30代の若い将校で、ほとんどが少尉、中尉などの尉官だった。まだ読みかけだが『関東軍火工廠史』によれば、将校にもいろいろな人物がいたようだ。戦争の前線でなく、工場経営を任務とする軍人にはそれ相応の能力が要求される。特にソ連や八路軍との折衝能力の優劣は生死の分かれ目だったようだ。

 おれはかつて新聞OB会の文集に満州時代のことを書いたが、おれたちの町を占領したのはソ連ー国府軍ー八路軍とした。これは間違いで、ソ連ー八路軍ー国府軍だった。つまり引き揚げは蒋介石の国府軍によって行われたことになる。そんなことも含めておれの記憶違いがいくつも改められた。これからもおれのルーツを確かめるため暑さにめげずがんばるつもりだ。
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病院で読んだ平野洋子「あじフライを有楽町で」

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年08月10日
病院で読んだ平野洋子「あじフライを有楽町で」

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 本10日午前10時、2泊3日の入院生活から解放された。結局大腸内視鏡検査でポリープが1個見つかりその場で切除。胃カメラの方は潰瘍の跡があるが治療は必要ないでしょうとのこと。この程度だと去年までの柏辻仲クリニックでは日帰りコースなのだが、今年はそうはいかない。2泊させられた。

 それでも検査前の「なんか嫌な感じ」が、大腸がん発見!などと的中しなくてひとまず安心。それにしても8日の夕食、9日の朝昼晩の4食絶食には参った。腹が減ってふらふらだ。相変わらず痛む腰をさすりながら柏の葉キャンパスから筑波エキスプレス、武蔵野線、新京成を乗り継いで帰ってきた。

 この間病室で文庫本を1冊読み終えた。平野洋子著「あじフライを有楽町で」。著者が『週刊文春』に連載した食に関するエッセイ78篇をまとめた読み物だ。タイトルに使われた有楽町であじフライを食わせる店というのは交通会館地下1階にある「大正軒」のこと。おれも都労委委員の頃よく通った店だ。

 その大正軒、おれが昼飯になると顔を出していたころはとんかつ定食が主だった。海老フライや牡蠣フライもあったが主力はとんかつで、鹿児島産黒豚使用という細長い板の看板が出ていた。おれはカウンターに座り、注文はロースかつ定食1本。1985年当時800円だったが、都庁が新宿に移転する91年には1100円になっていた。今はいくらなんだろう。それとももうとんかつはやってないのかな。

 この5日、江草さんの「三人展」を観に交通会館のエメラルドルームに行った。その際繁盛しているカウンターだけのラーメン屋の奥に「大正軒」の看板が見えたからまだやっていることは確かだろう。あれからかれこれ25年、ひたすらとんかつを揚げていた親父さんもいい加減の歳になったんだろうな。

 おれは77年に都労委委員になってから91年の新宿移転までの14年間、交通会館5階の事務局に通った。午前、午後と続けて審問があるときには会館内で昼飯を食った。大正軒のほかにも行きつけの店があった。おれは変なところが小まめで、手帳にその日の昼飯を記録したのが残っている・

 「小花寿司」にぎり1.5人前925 「桃園」ちゃんぽん720 {吉田」麦とろ670 「きしめんコーナー」てんぷらきしめん470 「おそめ」上天丼900 「多ちばな」うな重1100・・・。 
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沖縄ノート(5) 「沖縄戦」とはどのようなものだったのか(前)

17年07月30日
沖縄ノート(5) 「沖縄戦」とはどのようなものだったのか(前)

■坂本陸郎(JCJ運営委員;広告支部会員)

  沖縄戦について、その戦況をざっと追ってみる。


米軍上陸前
 沖縄に守備軍として12万の第32軍が配備されたのは米軍上陸前年の1944年であった。
 その動機となったのは、中部太平洋上のトラック島への米軍の侵攻であった。戦況を危ぶんだ大本営は急遽、作戦会議を開き、沖縄をふくむ南西諸島や台湾方面の防衛強化に乗り出した。
 それまで、沖縄では陣地や飛行場が造られ、その建設労働に住民が駆り出されるなどしていた。飛行場の建設は特攻隊の攻撃に備えるためだったのだが、それ以外は、沖縄本島の中城湾や西表島に要塞を建設する程度で、地上戦への備えらしきものはなかった。当時の兵隊たちは住民の家や学校などに寝泊まりし、住民と雑居する日々を過ごしていた。
 1944年10月、沖縄は大規模な空襲に見舞われ、建設した基地のほとんどが破壊された。その後は米軍の偵察機が上空を飛行するようになった。
 1945年3月23日、沖縄本島が再び激しい空襲に見舞われると、その日の夕刻には、本島の南90キロに、海一面を覆うかのような夥しい艦艇群が姿を現し、翌日には艦載機による空爆と、本島南部への艦砲射撃が一斉に始まった。沖縄戦の始まりである。


作戦の失敗
 沖縄に配備された32軍の司令部は、当初の沖縄南部への艦砲射撃から推して、米軍が本島南部の湊川方面に上陸するものと判断し、南部を固める作戦をとった。それにより、米軍の上陸地点を本島南部の島尻と見立て、軍の主力を集中させ攻勢に出る、本島中部の中頭方面に上陸した場合は、地上での持久戦で戦うという作戦を立てた。
 そのため、本島中部(嘉手納)、北飛行場(読谷)の高射砲部隊を南下させ、部隊を首里近くの識名に移した。さらに、北飛行場(読谷)と嘉手納飛行場を放棄し兵員を移動させた結果、本島中部は手薄となっていた。
 3月25日、米軍は本土の西20キロの、無防備であった慶良間列島に砲撃を加え、続いて座間味島、伊江島に上陸を開始した。本島南部に上陸するものと判断した軍司令部は裏をかかれる結果となった。さらに、米軍は那覇から10キロ離れた神山島にも上陸、砲台を据えて32軍の根拠地である首里に向けて砲火を浴びせ始めた。
 やがて本島の南と西の海上を、戦艦10隻、巡洋艦9隻、駆逐艦23隻、砲艦117隻、大型輸送船80隻、戦車上陸用舟艇(LST)80隻、小型舟艇400隻という、世界海戦史上最大ともいわれた艦隊が海上を埋め尽くし、慶良間列島から沖縄本島中部への上陸作戦を開始した。
 戦後、沖縄の或る参謀が、当時の作戦について率直に語っている。
 「アメリカ軍の上陸予想地は数か所あったが、兵力が不足するので全部は守れない。簡単に表現すれば、試験にやまをかけてはずれたということになる」。


エイプリルフール
 1945年4月1日、米軍は沖縄本島中部の北谷、嘉手納、読谷山の海岸に上陸した。その時、日本軍の主力は南部の島尻にあり、上陸は何の抵抗もなく行われた。
 日本軍の猛攻撃を覚悟していた米兵たちは、その日が4月1日であったことから「エイプリルフールではないのか」などと言って不思議がったという。兵員移動後、残されたわずかな兵力では、米軍機の空爆と海上からの砲撃の中で、なすすべはなかった。
 上陸した米軍は、無人の境を行くかのように、その日のうちに二個師団と戦車すべてを運び終えた。慶良間や座間味の離島でも、彼らが恐れていた戦闘はなかった。
 伊江島に上陸した従軍記者アーニー・パイルは、その時の様子を次のように書き残している。
 「みんなには、上陸するときは雨あられと降る弾丸、砂を跳ね飛ばす迫撃砲弾や野砲のうなりのなかに突っ込んで行くものだとの予想があった。だが、前方からは一発の弾丸も飛んでこない。ウソではないのだろうか。上陸作戦にはつきものの大量殺戮の場面は、そこでは見事と言っていいほどなかった。いまだかつて私は沖縄のような上陸作戦を見たことがなかった。部隊に一人の戦死者もなく、一人の負傷者もなかった。衛生兵たちは、ほうたいや医薬品、担架などのそばになすこともなく座っていた」。
 だが、やがて熾烈な戦闘が繰り広げられることになる。
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「捨て石」
 米軍が戦わずして上陸ができたのは、前述のような上陸地点判断の誤りと同時に、沖縄守備隊には、沖縄を防衛するだけの戦力そのものが不足していたからであった。その兵員不足の背景には次のような事実があった。
 1944年、アメリカ軍がレイテ島に上陸、フィリピンでの戦闘が不可避となり、大本営はフィリピン方面へ兵団を移すことを決定した。そのため、大本営は、米軍の上陸を目前にした44年の12月、沖縄の精鋭師団であった第9師団を、現地司令官の反対を押し切って、台湾に移すという措置をとった。そのため、沖縄守備隊の戦力不足は決定的となっていた。
 大本営は、この作戦に一時は難色を示したともいわれるが、結局は、持久戦を認めながら、現地の派兵要求には応じなかった。しかも大本営は、米軍上陸の2週間前に32軍指揮官の入れ替えまで行い、沖縄の地形も部隊の実情も知らない指揮官二人を、中国戦線から移動させ、沖縄に着任させた。そのことからも沖縄防衛隊の弱体化は避け難かった。
 政府と大本営が、米軍の本土進攻を遅らせるために、沖縄を「捨て石」としたことは明らかである。米軍の沖縄上陸に直面し、一方、フィリピンへ増兵を迫られた大本営の狼狽と混乱をも窺がえるのではないのだろうか。


上陸後
 1945年4月、沖縄本島中部の嘉手納海岸に上陸したアメリカ軍は、無防備となった読谷山の北飛行場をその日のうちに占領、その後、東から南へと侵攻、北谷海岸に上陸した部隊も南へと向かった。アメリカ軍は西海岸と本島中心部、東海岸の三方から攻略し、沖縄本島を南北に断ち切る作戦であった。それを許したのは、32軍司令部が上陸地点となった中部の中頭地区を無防備としていたからだった。
 上陸後、アメリカ軍は日本軍の司令部が置かれていた首里を目指して南下を始めた。32軍司令部は動揺し、「攻勢」に出るか、「守勢」に回るかの作戦を迫られた。沖縄守備隊司令部は立場上、「攻勢」を主張したのだが、きわめて困難であった。


嘉数高地
 嘉数(かかず)高地は、陣地の置かれた浦添城址に近接し、沖縄守備隊32軍の「防壁」とされた最重要地点であった。その一帯で両軍の攻防が繰り返され、嘉数は沖縄戦最大の激戦地となった。そのことから沖縄戦の天王山ともいわれている。
 4月19日、沖縄守備隊は、奪われた嘉数「七〇高地」奪還のために夜襲攻撃を試みた。だが失敗する。その後、アメリカ軍は嘉数高地正面を攻撃、それに対し守備隊は、臼砲、迫撃砲、機関銃で反撃し、壮絶な地上戦となった。
 だが、45万の兵に対し兵12万、衆寡敵せず、武器、火力で圧倒された沖縄守備隊は三分の一の兵を失う結果となった。その後も日本軍は各地で苦戦を重ね、守備隊は嘉数高地からの後退を余儀なくされ、南へと軍を移した。
 4月下旬、米軍の攻撃はいっそう激しさを増し、守備隊の兵員は減り続け、残った兵員を合同せざるを得なかった。戦況の悪化とともに、新たな戦略を迫られた守備隊は、東と西の海岸から北上し、丸木舟や特攻艇によって米軍の後方からの攻撃を試み、西海岸から上陸した部隊が死闘を挑み、米軍を怖れさせ、かなりの損害を与えたものの、自軍のほとんどが戦死した。
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「肉薄攻撃」
 5月になると、日本軍は包囲され完全に孤立し、司令部との連絡さえつかない状態となった。戦況が絶望的となると、歩兵に機雷を担がせ米軍の戦車めがけて突っ込むという「肉迫攻撃」を繰り返した。海上でも、魚雷を積んだ魚雷艇で米艦船に突っ込む「肉迫攻撃」で戦った。
 当時の政府は沖縄の戦況をどう理解し、何を考えていたのだろうか。
 当時の鈴木貫太郎首相が、現地将校と官民向けの放送〈4月26日〉を通じて、一億国民の一致団結を訴え、天皇に仕えるべきと諭し、そのうえで次のように伝達している。
 「我が肉弾による特攻兵器の威力に対しては、敵は恐怖をきたしつつある。今後、日本独特の作戦に対して、敵の辟易することは火を見るよりも明らかである。私は、諸君がこの神機をつかみ、勝利への鍵を確かと握られることを期待してやまぬ。わたしども本土にある国民もまた、時来たらば、一人残らず特攻隊員となり、敵に体当たりをなし、いかなる事態に立ち至ろうとも、絶対にひるむことなく、最後まで戦い抜いて、終局の勝利を得んことを固く決意している」。
 肉弾攻撃を賞賛する勇ましい内容である。だが、「終局の勝利」とは何を意味していたのか。沖縄戦は勝利を掴む「神機」だったのか。その年の8月、日本は降伏し戦争は終結した。鈴木首相の回顧録には、就任当時から終戦を決意していたと書かれているという。

※以上は主に池宮城秀意著『戦争と沖縄』(1980年版)を資料とした。戦闘経過を示す地図も同著から。写真は『大日本帝国の戦争』(毎日新聞社)から転載した。沖縄出身の著者は、少年のころ「沖縄防衛隊」に徴用され、米軍の捕虜となった経験を持っている。戦後は「うるま新報」編集局長、琉球新報社長、会長を歴任した。次号では著者の見た戦場での沖縄県民の悲劇に触れてみたい。
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2017年08月10日

9条(戦争放棄、交戦権否認、戦力不保持)に「自衛隊」? 日本をどうする気?

JCJ・マスコミ9条の会講演会
9条(戦争放棄、交戦権否認、戦力不保持)に「自衛隊」? 日本をどうする気?
安倍改憲の、非核という国是への影響。9条に自衛隊項目をくわえる矛盾。
講師:太田昌克さん(共同通信編集委員・論説委員)
   白神優理子さん(弁護士)  
  
日時:9月2日(土)午後1時30分から午後4時30分まで
場所:文京区男女平等センター研修室A(文京区本郷4丁目8−3)
参加費:1000円(学生500円)
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※くわしくはPDFをご参考ください。
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2017年08月07日

明日は大腸内視鏡検査で入院だ

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年08月07日
明日は大腸内視鏡検査で入院だ

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 明日8日入院する。例年柏辻仲クリニックでやっていた大腸内視鏡検査。今年もお知らせが来たので6月14、辻仲クリニックに予備検査で行ったら「あなたは80歳になったのでここでは検査できません。柏の葉辻仲病院へ行ってください」と宣告された。しかも今まで日帰りでできたのに病院は前日から入院しなければならない。ポリープを摘出したらさらに入院させられる。やっかいな話だ。

 実はこの病院、以前に入院したことがある。東日本大地震のあった2011年の5月10日、辻仲クリニックで内視鏡検査をしたら変形のポリープが発見された。普通は小指のように突き出ているので、根元を針金で巻いてギュッと搾れば取れるのだがこの時のポリープは平べったくて大腸の内壁にへばりついていた。

 (ここまで書いて気が付いたんだけど、この時の入院の顛末は本ブログで書いているんだ。まいいや重複するのはご勘弁ということにしてください)。さて件の平べったいポリープだが、どうやって取るかというと、まず食塩水をポリープに注入する。その膨らんだポリープをやはり針金方式で取るんだが小指型と違って傷跡が大きい。クリップで止めてOKというわけにはいかない。それで入院が必要になるのだ。

 5月30日にポリープ摘出手術をし、その日と翌日2泊して6月1日午前に退院した。家でひと眠りしてトイレに行ったら鮮血がジャー。びっくりして病院に電話したらすぐ来いという。なるべく安静にというので電車でなくタクシーで乗り付けた。結局再度内視鏡の管を尻から挿入して止血手術。また2泊させられた。

 これは明らかに最初の手術の止血の仕方にミスがあったとおれは思った。それで担当の若い医師に「どうして出血したのか」と問い質したが答えにならない答えで聞き流された。カチンときたが医師を相手に喧嘩する度胸はない。黙って引き下がって追加の入院料を払ってすごすごと病院を出た。

 その柏の葉辻仲病院に再度入院・手術だ。なんとなく変な事が起こる予感がする。ここまで書いたところで柏の葉辻仲病院から電話があって、明日の入院は午後2時来院で手続きしてくださいとのこと。朝9時でなく午後2時なのだ。おれの聞き違いあるいは勘違いだったらしい。

 今晩から大腸内視鏡専用検査食だ。夕食はチキンクリームシチュウ、朝は鶏と卵の雑炊、昼は鮭がゆ。
もちろんアルコールはダメと書いてある。大型台風5号が近畿地方に上陸したらしい。明日はこちらも雨と風が激しくなるかもしれない。たかが大腸内視鏡検査(胃カメラもやる)なのに何となく気が重い。
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玉砕はなぜ決行されなかったか

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765
労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年08月05日
玉砕はなぜ決行されなかったか

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 手元に「関東軍火工廠史」(後編)と題したA5版689ページの本がある。関東軍火工廠はおれの父が働いていた軍需工場で、中国東北部(旧満州)遼寧省遼陽県遼陽市にあった。父はもともと東京・王子にあった陸軍造兵廠に勤めていた。1940年(昭和15年)に転勤になり家族揃って渡満した。

 1945年8月9日、ソ連軍が突如国境を越えて満州へ攻め込んできた。「世界最強」を豪語していた関東軍だが実は張り子の虎で、なすすべもなくソ連軍に蹂躙された。そして8月15日の敗戦、父の勤めるていた工場は大波に晒された。工場の配属将校たちは右往左往するだけで何もてにつかなかった。

 結局、ソ連軍が工場を占拠する前に住民を巻き込んで玉砕することになる。決行日は8月25日。多量の爆薬が小学校の床下に仕掛けられ、その上で住民たちがお経を上げた。おれの父は自警団のようなものを組織して放火された家屋の消火などにあたった。おれの家族は父の友人の家に合流して玉砕を待った。

 玉砕は実行寸前に中止された。決行されていれば、日本敗戦史でもまれに見る集団自決になったろうし、第一今のおれは存在しなかった。父の生前、この玉砕中止のいきさつについて聞いたことがあるが、父も詳しくは知らないようだった。それがずっとおれの心の中に澱(おり)のように残っていた。

 今年6月8日おれは80歳になった。そろそろ終活に本腰を入れなければならない。そんな気持ちで「関東軍火工廠」をネットで検索、冒頭の本に辿り着いた。京都にある「将軍堂」という古本屋に1冊だけ在庫があった。2万円というのはちょっと高価だが背に腹は代えられない。早速購買の手続きをした。

 前後編2分冊の「関東軍火工廠史」(後編・1980年発行)は遼陽桜ヶ丘会の編集・発行。遼陽桜ヶ丘会というのは関東軍火工廠に勤めていた人たちの同窓会組織だ。本は会員頒布で定価がない。父は1983年死んだが、亡くなる前に郵便で本の購読を勧める宣伝物が来ていた記憶がある。

 本を読み始めたところだが、貴重な証言が盛り沢山だ。1980年というとまだ戦後35年で、おれの父もそうだが、まだ多くの当事者が生きていた。もう今では殆ど他界されていることだろう。これからじっくり読み砕いて「集団自決」の真相に迫ろうと思う。できればおれ流にまとめてみたい。
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2017年08月04日

政府系金融機関労組の解散に思う

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765
労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年08月02日
政府系金融機関労組の解散に思う

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 バリ島のロングステイから帰国して5日経つ。溜まっていた『毎日』と『赤旗』に目を通す。連合が残業代ゼロ法案の容認に転じ、組織内外から猛烈な反発が出て再び法案反対に。組合民主主義に基いた軌道修正との誉め言葉はどこからも聞こえない。いずれにしてもこれで連合の株が急落したことは確かだ。

 郵便物を開封して捨てるものと保存するものを選別。後期高齢者医療保険料の決定通知。年額113,400円。それと介護保険料決定通知書も。こちらは81,000円。これが245万円の年金から天引きされる。年4回発行の毎日新聞社報。6月23日に開催された毎日HD株主総会の記事。後で読もう。

 郵便物の中に、労働組合を解散するという「お知らせ」があった。政府系金融機関労働組合(政金労)が6月24日〜25日に開かれた第22回大会で解散を決定したという。政金労は1998年、都労委に係争していた国民金融公庫(国金)の差別争議の中で生まれた。争議解決前の組合結成は珍しいと言われた。

 国金には「国金発展会」という活動家の組織があった。1986年、この発展会が中心になって都労委に申立て、職場でもたたかってきた。国金には労組があり、70年代は民主的な組織だったが当局の支配介入で御用組合になった。発展会の活動家たちはいろんな議論を克服して政金労を結成したのだ。

 「設立大会の議案書には『労働組合があっても闘う力がなければ不当差別や人権侵害は繰り返される。公庫の組織的系統的な不当労働行為の打破、公庫で働く仲間の健康といのちを守り、橋本行革(当時)と闘い、公庫の民主的発展のために闘う労組を目指す』との決意が記されています」。

 「私達は『職場の労働条件の改善』『公庫業務の民主的発展』を組合運動の大きな柱として19年余り活動してまいりました。しかし、組合員が定年と再雇用契約切れでの退職により今年度で組合員数が3名となることから組合を維持することが難しく、やむをえず解散を決定することになった次第です」。

 いわゆる潮流間差別争議の中で、労働組合を結成した例はそんなに多くない。今でも金融ユニオンとして活動している銀産労(静岡、東海、千葉、三和など)くらいになってしまった。差別反対争議は本来たたかう労働組合を取り戻すのが目的だったはず。それが果たせずこうやって姿を消すのは寂しい限りだ。
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