2017年09月13日

沖縄ノート(6)「沖縄戦」とはどのようなものだったのか(後)

17年08月25日
沖縄ノート(6)「沖縄戦」とはどのようなものだったのか(後)

■坂本陸郎(JCJ運営委員;広告支部会員)


避難と敗走
 アメリカ軍の上陸地点となった読谷山、嘉手納、北村付近の住民が米軍上陸の事実を知ったのは上陸の三日後だった。それまで、住民は空襲を避けて防空壕や墓の中に身を潜めていた(沖縄の墓は丘の斜面などに掘られていることから壕として避難に適していた)。
 米軍上陸後は、手榴弾によって自決した住民もいたのだが、米兵の指示に従って恐る恐る壕から出て捕虜となり、米軍が用意した収容所に送られる住民もいた。あるいは激戦地を離れて南へと逃れて行った住民も多かった。
 首里防衛を断念した沖縄第三十二軍は、住民に続いて南部の島尻への移動を始めた。空軍の特攻攻撃も敵軍の戦力を削ぐまでには至らず、海軍に援護を求めたのだが、主力艦「浜風」「大和」「矢矧」はすでに撃沈され、海の藻屑と化していた。

鉄血勤皇隊
 沖縄戦では、本土出身の約6万5000人の兵(その多くが中国と南方からの配備)と、沖縄で集められた約3万人の即製の兵と、一般民間人約9万4000人が犠牲となった。そのほかに、朝鮮半島から軍夫(強制徴用された労働者)と従軍慰安婦約1万人も犠牲となっている。一般民間人の犠牲者数はおそらくそれ以上であっただろう。それら正確な数はいまなお明らかになっていない(新崎盛暉著『沖縄現代史』岩波新書から) 。
 沖縄の青少年の犠牲も少なくなかった。中学生や師範学校の生徒が兵(学徒)とされ、下級生は電話線の仮設工事、発電機の操作などに動員され、上級生は「鉄血勤皇隊」として編成され、機雷を担いで突撃する「肉薄攻撃」に使途されたが、半数以上が戦死した。首里攻防最後の砦であった弁ケ岳の戦闘では、学徒だけで編成した一個分隊全員が「肉薄攻撃」によって全員が戦死した。15歳で徴用された『戦争と沖縄』の著者池宮城秀意氏が、徴用された当時の様子をこのように語っている。
「私たちの集団には軍人らしいものは一人もいませんでした。小隊とか中隊といっても全部社会人ばかりです。ちょうど今でいえば、PTAの人たちを急に招集して軍隊にしたようなものです。巻脚絆を絞めたことさえない者ばかりでしたので、まずこれを練習しなければならないというありさまでした。これでは軍隊にならない、ただの集団にすぎません。日本陸軍の二等兵ということになっていましたが、まさに子供と大人の寄せ集めをしたものが防衛隊だったのです」

「かく戦えり」
 沖縄で最も川幅が広い国場川が軍と住民の南下を妨げていた。その橋を渡らなければ南の島尻へ行くことができなかった。その川の上に架かる真玉橋周辺をアメリカ軍は狙い撃ちした。そのため、真玉橋一帯は死屍累々となった。命をとりとめて渡り終えた住民も、その後は飢えに苦しみながら南部の戦場をさまようことになった。
 一方、南部の摩文仁へ撤退した第三十二軍は、完全に包囲されていた。中部の小禄にあった海軍の部隊は南下ができず、そこでも孤立していた。援軍のない部隊の孤立は死を待つしかない。最期を決意した海軍の太田司令官が海軍次官あてに次のような電文を送っている。
「沖縄に敵が上陸をはじめてから、陸軍も海軍も戦闘に専念し、県民のことはほとんどかえりみるひまがなかった。しかし私の知る範囲では、県民は青壮年の全部が防衛招集になり、残った老幼婦女子は、あいつぐ砲爆撃で家や財産は全部焼かれてしまい、きのみきのままで、軍の作戦に邪魔にならない所の小さな防空壕に避難し、風雨にさらされながら困難な生活をおくっている。(中略)陸海軍は沖縄に駐留してから、ずっと勤労奉仕や物資の節約を強いられながら奉公したが、報われることなく、戦争は末期になり、沖縄島は焦土となるであろう。沖縄県民かく戦えり、県民にたいし後世特別の御高配を賜らんことを」
 その後、太田司令官が自決したことを思えば、電文は良心の吐露ともとれる。絶望的戦況も住民の惨状も書かれている。だが、軍による住民虐殺の事実をどれほど知っていただろうか。

殺戮と集団自決
 沖縄では、軍人9万4000人、住民15万人といわれる人命が失われ、生き残った人々も地獄と化した戦場をさまよった。その80日あまりの沖縄戦は、6月23日にようやく終結する。
 沖縄戦といえば、ひめゆり学徒隊や鉄血勤皇隊が語り草ともなるのだが、沖縄では、さまざまな殺戮があったことが語り継がれている。沖縄戦は、日本軍の蛮行による血塗られた悲劇でもあった。兵隊と住民が雑居する洞窟(ガマ)で何が起きたのか。
 ガマに逃げ込んだ軍隊と住民の食糧は、日を追うごとに底をつきはじめ、弾雨あられの中で、飲み水を探すことさえできなかった。傷ついた体は、やがて腐り、兵と住民がともに隠れるガマの中には腐臭が漂っていた。
絶望的な日々を暮らすうち、兵士たちの恐怖が住民に対する猜疑心を増幅させた。米兵に居所を知られたくない彼らは、住民の密告を恐れ、それが、同胞住民の殺戮へと向かった。
 兵たちは、ガマを出ようとする住民を背後から射殺した。米兵に気づかれるのを怖れ、泣く子を母親から引き離し殺した。そして住民を集団自決へと追いやった。陣地付近をうろつく住民がいると、それをスパイだとし、殺した。見せしめに同じ住民を使って殺させることもあった。
 軍は住民に集団自決を強要した。米軍最初の上陸地点となった慶良間列島の渡嘉敷島では、日本軍によって島民329人が集団自決に追い込まれた。座間味島では、軍が農産物と食糧を統制し、供出に違反する島民をつぎつぎと殺した。日本兵が同胞である住民を殺すことをためらわなかったのは、太田司令官軍の電文から読み取れるように、軍の目的が住民の生命を守ることではなかったからだが、それに加えて、兵たちが他民族の殺戮を当たり前とする中国などの戦地から配備されていたことが考えられる。(以上は、主に池宮城秀意著『戦争と沖縄』を資料とし、筆者の考えたことも加えて書いたものだが、住民の死者数が前出著『沖縄現代史』の数とは異なっている。「(その数は)いまだに明らかになっていない」と新崎盛暉氏は著書のなかで述べている)。

さまざまな殺戮
 次は、著書と国頭村の村史から殺戮の証言を拾い出したものである(村史は赤旗から引用)。
◇15歳の時、目の見えない母と10歳の弟二人を連れて逃げ回った。飲む水もなく、池から水を汲んできて飲んだ。その池には死体が浮かんでいた。いつかは日本軍が助けに来ると思っていた。だが信じていた日本軍は沖縄の人を殺した。戦争に負けるのをわかっていた日本軍は民間人を壕(ガマ)の入り口近くに追い出し、自分たちはガマの奥に隠れていた。子供が泣くと、口にタオルを押しこんたり、子供を母親からとりあげて殺した。自分の子供を日本軍に殺されるより、親子ともガマを出て弾に当たって死ぬ方がいいといって出ていく人が多かった。アメリカに助けられたのはありがたい。でも戦争をしたのが憎い。(国頭村制度施行百周年記念村史「くんじゃん」)
◇「五、六人の白ハチマキの女が、エイ、エイと声をあげながら、電柱に縛り付けられた女を短刀で交互に突き刺している。傍らに立つ兵が、しっかり突かんか、と大声をあげている。女の泣き声は断末魔の声となった。と同時に、短刀を突き刺す女たちの掛け声は泣き声に変わった。この時、どけ、どけ、と日本兵が女たちを押しのけると、腰の刀を抜き放ち、縛られた女めがけて刀を振り下ろした。すると女は首を垂れ、動かなくなった」(首里近くで目撃した学徒兵の証言)
◇伊江島では、アメリカ軍の命令で若い女五人と男一人が赤松の日本軍陣地に白旗をかかげ向かった。彼らは陣地近くで捕縛され、それぞれの穴を掘ることを命じられ、その後は、後ろ手に縛られ、穴の前に座らされた。日本刀を抜きはらった下士官が「言い残すことはないか」ときいた。三人の女が歌を歌わせてほしいと答えると、許され、軍歌「海ゆかば」を歌ったが、男女五人とも斬殺された。(岩波新書『沖縄』63年刊)
◇半地(地名)に読谷村から多くの人が避難していた。「知花屋」に居住していた数名の読谷村民が日本兵に「スパイ」だとされ、百メートル先のザークービー(座峠)に連行され、4人から5人が手首を縛られ、めった斬りされ、一面に血が飛び散っていた。(同記念村史)

◇戦火が及ばなかった浜に近い桃原で、「盛栄オジー」は、山中の小屋に避難している人の下山を促していたことから、スパイの嫌疑をかけられていた。そんな折、那覇市から桃原に避難していた高嶺さん一家を日本兵が襲撃し、手榴弾のような爆発物を投げ込んで妻を死亡させた。狙われていた「盛栄オジー」一家と間違えたのではないのかと囁かれた。死亡した妻の死体は頭から顔面、手足が焼けただれた無残な姿だった。(同記念村史)

◇沖縄戦終焉の6月23日から、その10日後の7月4日、宣名真、辺戸の住民4人(男)が、米軍が設置した収容所から解放され部落に帰る途中、追いかけてきた敗残日本兵数人に襲われ殺された。敗残兵は「収容所に入った者はスパイだ」と言っていた。(同記念村史)
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