2018年07月06日

「爆風」連載を終えて

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載


労働運動は社会の米・野菜・肉だ。

2018年07月06日

「爆風」連載を終えて

 第1回が17年10月11日だからかれこれ9か月、やっと「爆風」連載を終えた。連載のきっかけは「関東軍火工廠史」後編だ。去年の春、何かの必要があってネットで「青酸カリ」を検索していた。敗戦直後、満州残留の女性に自決用の青酸カリを配布した記事があって出典は「関東軍火工廠史」となっていた。

 本の名前をクリックすると京都の「将軍堂」という古本屋に1冊だけあるという。非売品なのに本体2万円で送料450円だ。ちょっと高い買い物だったがネットで注文したら6月24日、A5版689ページの分厚い本が送られてきた。1980年9月1日発行。発行者は遼陽桜ヶ丘会。代表武井覚一。

 7月6日から29日までバリ島にロングステイ。帰ってからじっくり読み始めた。9月半ばに一応読み終わり、さてどうしょうかと考えた。この本をもとにおれの敗戦から帰国までを書いてみたい。それにはブログに連載するのが一番いいだろうという結論になった。それでとりあえず始めた。

 とりあえず始めたものだから準備不足は眼に見えている。特に事実認定が難しい。種本が百人を超える人々の証言で成り立っているため、そ人の記憶違いや物の見方で事実の判断が分かれる。仕方ないから矛盾した事実でもそのまま記述した。それにおれの勘違いも。例えば火工廠の面積を1000万坪、3300万uと書いたが、いくらなんでもそんなに広くない。1万坪、33キロuの間違いだ。

 書いていて一番引っかかったのが人名と地名だ。奉天や遼陽などはいいとして朴家溝、稠井子、韓家墳、錦西などの地名、袁肇業、江涛、韓振声などの人名はどう読んだらいいのか分からない。種本の「関東軍火工廠史」にも振り仮名がふっていない。どうしようもないのでそのままにした。

 その他では地名の位置関係だ。遼陽を中心にして北へ瀋陽(奉天)、鉄嶺、開原、四平街、長春(新京)、南に鞍山、海城、大連、東に撫順、海龍、吉林、通化、西に錦州、葫蘆島。ほんとは地図を書けばいいのだろうがおれのPC能力ではできない。冊子にまとめるときには地図をつけよう。

 「関東軍火工廠史」はいろんな人が執筆しているが大部分は元将校や火工廠幹部である。おれの親父のような平軍属の目で見るとまた随分違う光景だったのではないだろうか。ほんとは父母の存命中に話を聞いておけばよかったのだろうが、2人とも墓の下だ。勘弁してもらうしかない。

 いずれにしても書くだけ書いてほっとしている。これまでの分をまとめたのをつくっているので希望者はこのブログへの書き込みかメール(shosuke765アットマークyahoo.co.jp)で申し込んでください。

※メールを送る際は、「アットマーク」を「@」に直して、送ってください
posted by マスコミ9条の会 at 20:31| Comment(0) | 戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

爆風(103)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載


労働運動は社会の米・野菜・肉だ。

2018年07月02日

爆風(103)

 私が「母の胎内」と言ったのは多分、その年の4月3日に母戸塚せんが83歳で亡くなったせいだと思う。脳梗塞による腎不全だった。父陽太郎は10年前の1983年1月30日、脳血栓症で先に逝っている。

 私は中国旅行から帰ってすぐ、慶陽化学公司側の世話役をやってくれた姚鵬山副主任宛てにお礼の手紙を書いた。それに対する返事がその年の暮れに届く。2元の中国人民郵政発行の切手が貼ってあった。文面は中国語なので私には読めない。川村好正さんに相談すると、知り合いの中国人留学生に翻訳を頼んでみるという。しばらくして日本語文がファックスで届いた。

 戸塚章介先生
 あなたからのお手紙は10月12日に受け取りました。中国人民の週間から言えば、遼陽東京陵はあなたにとって第二の故郷≠ニなり、あなたのお手紙のなかにあふれている故郷への想いと、故郷の人々への友愛は、私を深く感動させました。
 遼陽の建設はまだ相当に遠く、このためにあなたのお国の工業化の水準に比較すれば、まだ相当に開きはあるものの、われわれの民族とわれわれの子孫のために中国は必ずや一生懸命建設に努めなければならず、永久に平和保持しなければなりません。平和の環境があってこそ初めてわれわれの建設の速度はスピードを増すことができます。
 われわれの友情のために、私はあなたとあなたの奥さんが、遼陽、千山、鞍山、瀋陽などの地に観光にこられることを歓迎します。 敬具
 あなたの故郷の姚鵬山 中華人民共和国遼寧省遼陽東京陵一区76棟2号房

 これで私のルーツ探しの旅を終えることにします。ご愛読ありがとうございました。

あとがき
 父は一度だけ遼陽桜ヶ丘の同窓会に出たことがある。帰ってきて「あの頃威張っていた将校たちが戦後30年も経つのにまだ偉ぶっている。もうあんな席に行くもんか」と怒っていた。「関東軍火工廠史」はそんな元将校たちが中心になって執筆・編集・刊行したもの。私の父のようなぺいぺいの視点と違うのかなと思いながら「爆風」を綴った。墓の下の父には叱られるかもしれない。
 1972年2月、新聞労連北信越地連の合理化学習会に講師で招かれた帰り、新潟県直江津市の小林隆助さん宅に寄った。嫁に行った延子さんも含めて歓迎してくれた。
 国民学校で2年生担任だった鈴木久子先生から1975年に便りがあった。「私は貴男の事よく覚えて居ります。日曜日と気がつかず、ランドセルを背負って登校した貴男、ちょうど私が日直で、教室に居て2人で大笑いしましたっけ・・・。頭を掻きかき又帰っていった貴男。一寸そそっかしいところがありましたね」。
 2012年6月、新聞OB九条の会で企画した「中国東北部(旧満州)の旅」にツアー団長として参加した。ハルピンから大連まで旧満鉄を乗り継いだ6日間。瀋陽(旧奉天)には1泊したが遼陽は素通りした。21世紀の旧満州は都市化と工業化の波に乗ってエネルギッシュだった。
posted by マスコミ9条の会 at 20:25| Comment(0) | 戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

爆風(102)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載


労働運動は社会の米・野菜・肉だ。

2018年07月01日

爆風(102)

 官舎街を案内してくれた工場関係者によれば、「工場も大きくなり従業員とその家族も増えたので、来年にはここへ集合住宅を建てる予定です」という。1年来るのが遅れたら官舎群は取り壊されているところであった。私の脳裏にあの8月25日夜、官舎のあちこちで上がった火の手の光景が蘇った。

 小1時間見て回った後、工場内の立派なレストランに案内された。ここは旧火工廠の東京陵第一工場だろう。あの頃私は子どもだったから中に入ったことがなかった。47年後こうして工場内にいることが感慨深い。レストランには我々を歓迎する宴席が用意されていて工場と総工会の幹部が顔を揃えていた。

 中華人民共和国成立後、旧関東軍火工廠は国営慶陽火工廠として工場を再開し生産復活を遂げた。そして現在、経済開放路線の中で海外からの資本や技術を導入し遼陽経済特別区の拠点工場に成長。名前も遼寧慶陽化学公司と変えた。職工2万人、技術者2,340人の大企業である。生産品はメインの火薬のほか、化学肥料、石鹸、医薬品、ティッシュペーパー、清涼飲料水など多様で幅広い。

 テーブルには豪華な料理とビール、高粱酒が並び、私たち夫婦は主賓の席に座らせられた。中国側列席者は次の通り。
遼寧慶陽化学公司副主任 佟傑然
   同    高級工程師 高玉恒
遼陽東京陵経済特区管理委員会副主任 姚鵬山
   同          辨公室副主任 翟瀋平
遼寧省遼陽市総工会副主席 王家國
   同     国際部連絡部長 鄂志本

 工場副主任の歓迎挨拶に続いて、技術者から生産現状の説明があった。中国の人たちが豊かに暮らせるよう生産量をあげている誇りが込められていた。次に総工会代表からは「技術者と職工の生産能力を高めるためには、日本との技術交流が不可欠だ。労働組合同士で手を結んで行こう」と呼びかけがあった。

 最後に、司会の姚さんに促されて私がお礼の挨拶に立った。「日本は半世紀前、中国を侵略し支配しようとしました。当然ながらそれは失敗しました。廃墟同然になった旧火工廠を復活され、いま立派に運営されている皆様の国造りの努力に驚嘆しております。本日の歓迎に心からお礼を申し上げます。50年ぶりに原体験を味わいました。私は今母の胎内にいるような安らかな気分です」。どのような通訳をしてくれたのかわからないが、中国側からどっと拍手が沸く。私は涙が込み上げてきた。
posted by マスコミ9条の会 at 20:22| Comment(0) | 戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

爆風(101)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載


労働運動は社会の米・野菜・肉だ。

2018年06月29日

爆風(101)

 6、47年ぶりに訪れた東京陵
 
 1993年8月、私は47年ぶりに遼陽を訪れる機会を得た。マスコミ文化情報労組会議(MIC)加盟の全印総連が中国総工会と交流していて、北京、瀋陽、西安、上海を巡る11日間のツアーを企画。瀋陽訪問では戸塚さんのいた遼陽・東京陵へも寄るので是非行かないかと誘われて夫婦で参加することにした。

 メンバーは8人、8月18日に成田を発ち、20日まで北京滞在。21日夕方国内航空で瀋陽の桃仙空港へ。その夜のホテルは遼寧賓館。このホテルは満州国当時大和ホテルと呼ばれていた。日本が建てた日本人のための豪華ホテルだ。通訳氏によれば、先ごろ映画「戦争と人間」のロケがここて行われたという。

 22日は朝8時に遼陽総工会の幹部が迎えに来る。私は、ツアーの事務局長役の川村好正さんを通じて、私の満州居住時の住所、学校、病院、工場、官舎などの位置を記した略図を提出していた。遼陽総工会はかつてこの地で横暴に振舞った日本人の子孫である私のために特別の計らい考えていてくれた。

 午前8時30分、私たちを乗せたバスは遼寧賓館を出発して高速道路を遼陽へ向かう。快適な走行だ。道の両側をビール工場や電機工場が現れては去っていく。瀋陽―遼陽間は74キロ、約1時間半で遼陽市内に入った。そこから私が住んでいた東京陵までさらに30分、途中大きな川を渡る。「太子河です」と通訳氏。47年前の3月、浜本宗三らが八路軍によって銃殺されたのがこの河原であった。

 東京陵に着いたのが11時少し前、今この地は東京陵経済特別区と呼ばれている。私たちは早速47年前に私が住んでいた官舎周辺を訪ねた。事前に送っておいた私が書いた略図が頼りだ。まず当時の国民学校。全員玉砕のために住民が集まり念仏を唱えた場所だ。今は中学校だというが、外装は変わっても建物の骨格はそのまま。45歳だという校長さんが私を出迎えて記念写真に納まってくれた。

 学校からなだらかな吉野山が見えた。中腹に日本が建てた吉野神社が今でも取り壊されずに残っている。あそこで柳中尉が拳銃自殺をしたのだ。病院も私が書いた略図通りの場所に建っていた。もちろん改装はされているのだろうが、外観は私の記憶通りだ。ここで妹の悦子が手当てもしてもらえず疫痢で死んだのだ。かつて官舎が並んでいた地域に移動する。なだらかな傾斜地に、レンガ造りの建物がそのまま残っていた。

 私の住んでいた朝日町の方向へ向かったが「ここがそうだ」という断定は難しい。もっと整然とした家並みだと思っていたが、家の配置はさまざまだ。今は工場従業員の家族が住んでいる。その一軒に入らせてもらった。1DKである。私たちが住んでいた家を間仕切りして2世帯で使っているようだ。土足でなく、靴を脱いで座敷に上がるという、日本式が守られていることに嬉しくなった。
posted by マスコミ9条の会 at 20:18| Comment(0) | 戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月28日

爆風(100) 

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載


労働運動は社会の米・野菜・肉だ。

2018年06月27日

爆風(100)

 一度大陸に残る決意をした私たち、桜ヶ丘にいられないなら国府軍とともに長沙でも台湾でも同行する気持ちが強かった。どんな事情があれ、我々の同志を銃殺した八路の下にだけは帰りたくない。そんな気持ちを伝えるため、吹野信平氏が国府軍幹部のところに談判に行った。

 相手は吹野さんに「私たちは八路軍に捕らわれると死ぬ目に遭うが日本人技術者なら大事にしてくれるはず。心配は要らない」と言う。吹野さんは襟を正して「私たちが望郷の心を抑えて何故残留したと思っているのか。私たちは蒋介石の言葉に感じ入り、国民政府統治への協力を選んだのだ。それが分からないのか。いわば同志である私たちを見捨ててあなた方だけが南方へ去るとは何事か」と詰め寄られた。これには先方も感動し、早速残った私達5家族を台湾へ同行するとして出発の日取りを6月某日と決めた。

 ところが48年5月下旬になって、満州在留日本人は全員日本に送還することになったと居留民会から通知があった。昨年6月にひとまず帰国した高碕達之介居留民会会長の、国民政府と米国の意向を受けた大局的判断だ。私たちも従わざるを得ない。慌ただしく帰国準備に入り、6月5日奉天出発、6月7日葫蘆島着、6月10日日本国籍の山澄丸に乗船、6月16日佐世保入港、翌17日に上陸して各自帰郷した。

 いよいよ奉天を去ることが決まったある日、知り合いのある老人と会った。彼は「30年後にきっとまたあなた方は満州へ来るようになる。今の八路の状態が長続きするとは思わない。また帰ってきてくれ」と懇願された。1980年の現在、中国は変わったのだろうか。何千年来の儒教道徳とマルクス主義は彼らの心の中でどのように消化されたのか。

 奉天の実験室で熱心に机に向かっていたある技術中尉は、実験でなく毛筆で詩を書いていた。詩を書くことが彼の人生の意義だったのだ。住民の1人が運よく廠の役職に就くと、親類縁者が何人も入職する。それが中国の民衆なのだ。八路軍の清潔さは今も続いているのだろうか。峻烈な人民裁判は今もあるのか。我々が接してきた中国の人々は簡単に説明できない深い人間性を持っていた。それを知るには経済だけでも政治だけでも足りない。それらを知った上で、中日両国民の相互理解に立った両国の協調を図らなければならない。それは人類平和に欠くことのできない礎石でもあると信じる》。
 
 このようにして5000人を擁した関東軍火工廠は、日本人全員が引き揚げて官舎も工場もがらんどうになった。
posted by マスコミ9条の会 at 20:15| Comment(0) | 戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

引き返した特攻隊員の心の中

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載


労働運動は社会の米・野菜・肉だ。

2018年06月26日

引き返した特攻隊員の心の中

 昨日、今日と晴天で最高気温が30度を超す。6月なのにもう梅雨が明けたかのようだ。梅雨前線が東北地方まで押し上がっており、青森、岩手は大雨だという。もっとも梅雨前線そのものは消滅したわけではないので、また下がってくれば雨が戻る可能性が高い。梅雨の晴れ間と見た方が無難だ。

 昼飯にカレーライスを食べた。カレーはスーパーで買ってきた4袋300円の業務用レトルト食品。これが超辛口で結構うまい。福神漬けと一緒に一息に食い終わり、満足して昼寝した。マットレスを敷き、風通し良くして1時間。すっきりして目が覚めた。バリ島以来、昼寝が習慣になってしまった。

 パソコンを起動させて、この前から少しづつ見ている映画「月光の夏」を見終えた。話は特攻隊が題材の「戦争の悲劇」ものだが、人の心の奥に誰でも持っている「疑わしさ」のようなものを突き詰めて考えさせられる。元音楽教師役の渡辺美佐子が小学生の前で、敗戦間際に特攻隊員がピアノを弾く話をする。ところが証人が出ないため「作り話」ではないかと疑われる。自宅へ詰問の電話までかかってくる。

 山本圭扮するジャーナリストがピアノを弾いた元特攻隊員(仲代達矢)を探し出す。最初証言を拒んでいたが、音楽教師の手紙の訴えに打たれて真実を話す決意をする。45年6月、6機編隊で沖縄沖のアメリカ艦船体当たりに向かう。途中飛行機のエンジン故障で自分だけ引き返す。これを上官から「命が惜しくなって引き返したのだろう」と責められる。同じように天候不良や乗機のトラブルで引き返した隊員と一緒に一室に閉じ込められる。「生き神様の特攻隊員の面汚し」というわけだ。死ぬよりつらい日々を送らせらされる。

 当時特攻隊員の指名を受けたら断るのは事実上できなかった。しかしやはり死ぬのは怖い、生きていたい」と思った時、天候不良でも機体トラブルでもいいから引き返したいと思うのは人情だ。すくなくともおれならそう思う。幸いエンジンの調子が悪い。僚機の乗組員も引き返せと合図する。おれなら「しめた」と安どして引き返す。心の中の動きだから後で何とでも言い訳できる。

 この映画では人間の心に潜む「疑わしさ」に深い究明のメスを入れることなく、特攻美談で終わらせている。だから泣ける。おれも泣いた。映画としてはそれでよかったのだろうが、現実のところはそんな簡単な心の動きでなかったような気がする。これは世の中全体に言えることだと思うが。
 
posted by マスコミ9条の会 at 20:13| Comment(0) | 戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

爆風(99)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載


労働運動は社会の米・野菜・肉だ。

2018年06月25日

爆風(99)

 八路の人たちは上から下まで真面目であった。私の会った中で地位の一番上の人は日本式に言えば検察庁や工業庁の長官であり、下は兵卒であった。しかし八路では職種や階級の別なくいかにも軍人という雰囲気を持っていた。一般に規律は守られ、殊に幹部の身を処することの清潔さと論理的判断の峻厳さには感服した。唯物論に徹していて、疑わしきは実証ができるまで絶対に許さない。ワイロ等は通用しない。情状酌量などはありえない。何事によらずマルクス主義を前提としていた。

 旧火工廠にも政治委員なるものがいて、廠長も厳重に監視されているようだった。これはそれなりに正しく立派なことではあるが、我々留用者を統治するにあたっても、スパイを放ち、デマをまき、壁に耳あり障子に目ありで、果ては互いに信じられなくなり息もつけない陰鬱な日々を送らされたのには参った。

 国民政府側の人たちはどうであったか。私共が直に接したのは軍服は着ていても軍人ではない技術者と、少数の事務屋であった。最高の地位は廠長で、ここには八路と違って政治委員はいなかった。廠長はじめ幹部の多くは上海、南京など南方の出身者で、尉官以上は殆ど大学を出ていた。

 新国家建設に一応の情熱を持っていて、希れには威張る男もいたが、総じて明るく、人なつっこく、大らかであり、言うなれば何千年の歴史ある儒教精神の持主であり、我々と同じ世界の人たちであった。戦後親日的に方向転換した蒋介石の感化だと思うが、我々を迫害するようなことはなかった。

 ソ連軍は満州を荒らしまわって国へ帰った。彼らは中国人、日本人の見境なく犯した。八路はソ連の友人と見られていた。終戦直後に国府軍と八路軍が満州各地で兵を募ったとき、八路側にはごく僅かしか人が集まらなかった。46年にソ連軍が満州を引き払った後、国府軍が断然優位に立ち、南満州から八路勢力を駆逐したのは当然の成り行きだった。住民はもろ手を挙げて国府軍に帰した。

 ところが日が経つにつれ情況が変わってきた。南から進駐してきた国府軍が威張りちらし始める。満州従来人を排斥して政治経済の実権を奪う。加えてワイロは取る、態度が尊大で言葉が通じない。次第に国府軍に対する期待は崩れ去って怨磋に変わっていった。「満州国時代の方がよかった。満州国時代が懐かしい」という空気になる。「やっぱり蒋介石も自分の欲で動くのか」との声も聞こえるようになった。

 勇躍国府軍兵士になった満州の若者たちも期待外れで急速に戦闘意欲を失い、集団で武器を捨て戦線を離脱したり、八路軍に寝返ったりするようになる。一気に満州を席捲した国府軍だったが、1年そこそこで一転して戦線を縮小、敗走するに至った。儒教精神の染みついた満州の人々も八路軍支持へと回った。

 1948年春になると、国府軍が満州で支配している地域はごく限られた都市だけになる。奉天も八路軍に包囲され、西の方から砲声が轟くようになった。兵工廠を統治していた国府軍幹部が1人また1人と飛行機で南方へ去っていく。私たちと密接な関係にあった人も一言も告げずに姿を消した。
 
posted by マスコミ9条の会 at 20:12| Comment(0) | 戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月23日

爆風(98)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載


労働運動は社会の米・野菜・肉だ。

2018年06月23日

爆風(98)

 一般引揚者を見送った国府軍留用者92人とその家族163人は、すっかり寂しくなった官舎街で、寄り添って日々を送った。当初国府軍が企図した火工廠工場再開は見通しが立たない。八路軍との戦闘も次第に雲行きが悪くなるばかりだ。そうなると多数の日本人を家族ごと留め置く理由がなくなる。国府軍は留用解除と全員を帰国させる方向へ方針を変更した。こうして留用者の帰国が始まることになった。

 第一次留用解除者の1人稲月光は46年10月10日に唐戸屯官舎を出発、遼陽、奉天を経由して錦州駅に翌11日に到着した。しかしすぐには葫蘆島へ向かえず、錦県の収容所で24日まで過ごす。土間にアンペラを敷いて寝た。24日早朝に出発して葫蘆島港へ。すぐ乗船する。船はアメリカ籍だがフリゲート艦でなくリバティ型の貨物船「ベンジャミン・フランクリン号」。26日博多湾入口に着き11月10日に上陸した。

 松野徹は第二次留用解除組で、47年5月25日に唐戸屯を出る。遼陽駅で満州紡績などの引揚者と合流して奉天まで到達したが、そこで大きな倉庫に入れられた。約1か月の収容所生活の後、6月30日に奉天駅から無蓋貨車で葫蘆島へ。日本の貨物船大久丸に乗船。7月2日に出港して7日に佐世保入港、11日に上陸した。

 ほぼ時を同じくして第三次留用解除が行われ、医師の勝野六郎、第三工場の和泉正一もその中に入った。250人いた留用者とその家族は一次、二次の留用解除を経て150人ほどになっていたが、そのうち138人が第三次組に含まれる。第二次と同様まず奉天で収容所へ。そこでほぼ2ヶ月過ごして7月25日に葫蘆島へ向けて出発した。引揚船は日本船籍の大瑞丸。7月27日に出港して佐世保へ。上陸は8月2日。

 第三次組の帰国で旧火工廠残留者は、総責任者だった吹野信平をはじめ加藤治久、鈴木貢、鈴木弓俊、石川浩太郎、武藤茂保ら数人になった。これらの人たちはさらに1年留用生活を続けることになるのだが、その間の事情について「関東軍火工廠史」の編集者である鈴木弓俊が「留用雑感」と題する手記を書いている。敗戦後のソ連軍、八路軍、国府軍に関する感想、批評もあって面白いので抜粋して紹介したい。

 《22年夏以降内線の戦況は、日を追って国民政府軍に不利となり、23年に入ってからは、国府軍の手による遼陽の工場再開は絶望となった。
 私は元々大陸に就職したい希望あったのが、軍人として満州の土を踏むこととなり、「その国の文化を知るには先ず言葉から」と教本を求め、通訳の資格のある軍属氏に話をつけて3、4人で勉強を始めたのは昭和17年であった。しかも「中国語会話」は日本語での議論に転じ、中国語は実用には程遠い状態で敗戦を迎えてしまった。しかも直接中国人と仕事で接渉するようになったのは、中国人と自分自身で交渉しなければ日常の用も足せなくなった22年度以降なので、自分自身の耳と口で中国人に直接あたった期間は1年そこそこに過ぎず「中国を語る」などと、大きな口はきけない。それでもこの短い期間に中国について大きな感銘を受けた。
posted by マスコミ9条の会 at 16:07| Comment(0) | 戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

爆風(97)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載


労働運動は社会の米・野菜・肉だ。

2018年06月21日

爆風(97)

 船長は「つまらぬことにこだわって意固地になるな」とお冠。この時とばかりに米泥棒の濡れ衣を証拠を示して告発した。船長は顔面を緊張させて聞き入っていたが、「すぐさま調べるので待ってほしい」と引っ込んだ。暫くして戻ってきた船長は深々と頭を下げて今までの非礼の段を詫びた。そしてこのことは上陸後当局に報告しないよう嘆願する。こちらも真相を分かってくれればそれでいいので承諾した。

 船室のどこからともなく歓声が上がった。一斉に冷たくなったカレーライスを、温かい気持ちで食べ始め、賑やかな会話が戻った。子どもたちは大きな声で「ご馳走様」とスプーンを置く。船は穏やかな航行を続けていた。その夜は上陸を控え、船員と引揚者が入れ混じってのど自慢大会が開かれた》。

 一方第三大隊が乗ったLST―606は7月7日に葫蘆島を出発して、10日には無事博多港外に到着した。しかしそれですぐ上陸とはならず、港外に停泊したまま再度の検疫が行われる。日本の山々が見える。心は逸るが他の引揚げ船で伝染病患者が発生したとかで、検疫は念入りだ。筆者の記憶では全員DDTを噴霧され白いお化けのようだった。もっともお化けたちは嬉しそうに笑っていたけどね。

 12日に博多港内に入ったが、そこでまた検疫、上陸が許されたのは14日午前10時だった。上陸はしたがその日は海岸の松原寮という収容所(休息所)に一泊、15日早朝から復員局で復員手続きを行うことになる。まず所帯主が引揚げ時に満州で交付された罹災証明書、退去証明書を提示して外地引揚証明書を受け取る。これによって新居住地(引揚げ先)への転入手続きや生活物資の特配を受けられる。

 次に引揚げ先毎の外食券(1枚4食分)を受給する。戸塚家は関東地方だから1人8枚である。さらに全国各線に乗車できる無賃乗車券が配られる。引揚者の中には内地旅行に差し支えるような服装の者がいるので、当該者には相当の被服の支給もある。最後に帰郷雑費として1人50円が支給される。

 博多駅からは引揚者専用列車が毎日運行されていた。大阪行き11時46分、門司行き16時04分、名古屋行き19時01分の3本だが、引揚者多数の場合は増発もある。戸塚家は15日午前中に手続きが終わったとしても、大阪行きに乗ることは無理だ。多分夕方の名古屋行きに乗ったのではないか。

 名古屋から東海道線で東京へ向かったはずだ。東京では親戚の家で何泊かしたような気もするがはっきりしない。東京から常磐線、常総筑波鉄道を乗り継いで、今の茨城県常総市、当時の結城郡菅原村へ着いたのはいつ頃だったのだろうか。筆者の記憶では着いた時には小学校が夏休みに入っていた。とすれば、7月20日以降だったのだろう。遼陽・桜ヶ丘を発ってひと月近く、日本の土を踏んでからでも1週間を超える長い旅だった。
posted by マスコミ9条の会 at 16:05| Comment(0) | 戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

爆風(96)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載


労働運動は社会の米・野菜・肉だ。

2018年06月16日

爆風(96)

 引揚船の中の私の記憶としては米の飯のほかに、船中で死んだ人の水葬風景がある。船首なのか船尾なのか、開く方の扉を開けて遺体を海に流した。子どもの遺体だったような気がする。もう一つ、日本への航行中気が狂って海に飛び込んだ人の記憶。もちろん知らない人だが、子ども心にショックを受けた。

 この投身事故については同じ船に乗っていた西村操の手記がある。《船が葫蘆島を離れる頃から彼(小川某)は狂った。明日乗船という日、彼の妻が懸命に背負ってきた母が死んだのだ。体が弱く盲目であった。みんな疲れてはいたが山の崖に穴を掘って泣きながら埋めた。彼は放心して喚き、暴れ、ひと時も目を離せなくなった。男たちは代わる代わる彼の見張りにつく。彼の妻は幼児を抱いて泣き続けた。やがて乗船し船が玄界灘にさしかかった。船酔いで長男が苦しむので甲板に出た私の目の前で彼が見事なダイビングをした。彼は抜き手を切ってしばらく泳いだがやがて海面から消えた》。

 引揚船に使用されたのは米軍のLST(上陸用舟艇)だが、船長はじめ乗組員はすべて日本人だった。だから乗船とともに既に日本に帰ったような気になった。しかしその日本人乗組員との軋轢を経験した引揚者もいた。少し長くなるが、第一大隊の隊長を務めた加々路仁の手記を次に掲げる。

 《船が玄界灘を出た頃である。炊事の使役に出た者から「船の倉庫から米が盗まれた。船長と機関長は引揚者を疑っている」との情報が入った。私は引揚に際してくれぐれも不正がないようにと注意してきた。乗船時の挨拶でも強調したのに、このような事が起こるとは夢想だにしなかった。やっと日本へ帰れるとの気のゆるみか。残念でたまらない。一か年の苦難の体験は何ら得るところがなかったのか。

 早速中隊長の集合を命じて協議した。中隊長たちは果たしてそんな悪事を働く人がいるのか、と不審を抱いて真相の究明に動き出した。船員には覚られぬよう部内の調査を始める。しかし調査には時間がかかる。その間船長や機関長に何も言わないでいるわけにもいかない。とりあえず詫びに行くことにした。船長は「引揚者の皆さんはご苦労されてこられ、又内地に帰られても家もない方もあり、生活の不安から少しでも食料を持ち帰りたいのは人情だ。お米の件は何とかするから心配するな」と寛大な態度だった。

 内密の調査の結果「米泥棒」の真相が次第に判明してきた。船員の中には不心得者がいて、引揚者用の米をピンハネしておいて博多上陸の際ヤミ屋に流すらしい。今回の事件もその一つで、盗まれたと称する米が倉庫とは別のところに隠してあるという確証も掴んだ。

 そのことを直接船長に告発すると事態が難しくなることが予想される。そこで一計を案じた。船長に対して「今日の昼御飯を抜きにしてその分の米を弁償に充てる」と申し出た。昼飯はカレーライスの予定だった。船長は「引揚者に昼飯を食わせなかったら上陸後問題になるからどうか食べてほしい」と出来立てのカレーライスを各人の前に並べさせた。船室にカレーの香りが立ち込める。

 20分、30分しても誰もカレーに手を出さない。いままでざわめいていた船内は静まり返る。40分くらいした頃、船長と機関長が私のところへきて「折角おいしいカレーライスを作ったのに冷めてしまう。早く食べるように命令しなさい。米泥棒のことなど気にするな」と言う。「船長の言われることはもっともだが、我々引揚者の中に不心得者がいたのだから連帯責任で現物を返済する」とこちらもがんばった。
posted by マスコミ9条の会 at 16:02| Comment(0) | 戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月07日

爆風(94)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載


労働運動は社会の米・野菜・肉だ。

2018年06月06日

爆風(94)

 隊長山口克己少佐率いる第四大隊総勢1054人は6月27日午前8時、集合地点の太子河駅に向けて出発した。太子河駅は旧満鉄大連ー新京線の遼陽駅から旧火工廠に資材を運ぶため敷設された引き込み線の仮設駅である。引揚げ者たちは長年住んだ東京陵の官舎街に別れを告げ、思い思いに歩を進めた。

 第一中隊長の印東和は特大のリュックサックに荷物を詰め込んで妻子とともに歩いていたが、途中で4歳の長女が「もう歩けない」とベソをかいて道端に座ってしまった。夫婦ともに特大のリュックを背負っているので子どもをおんぶできない。かといって荷物を捨てるわけにもいかず途方に暮れた。

 後からどんどん追いこされる。中隊長としてはこれ以上遅れるわけにはいかない。そこへ声をかけてくれたのが顔見知りの南満工専動員学生の岩佐君で、「私のリュックは小さいので印東さんのを背負いましょう」と言って軽々と背負ってくれた。地獄に仏とはこのこと。印東は涙が出るほど嬉しかった。

 全員が太子河駅に到着し照り付ける炎天下で列車の来るのを待ったが、夕方になっても姿を現さない。隊の渉外係が八方手を尽くして連絡の結果、列車到着は明朝になることが判明した。初夏の満州は日が沈むとぐんと気温が下がる。東京陵へ引き返すこともできず、近くの村落で野営することになった。

 (筆者は本ブログで戸塚家の所属した第三大隊の出発も1日延び、その原因は27日が朝から大雨だったと記した。それは第三大隊の幹部だった田中弥一氏の記録によるものである。ところが第四大隊の印東氏は予定された列車が来なかったためという。第三大隊と第四大隊は同時に桜ヶ丘を出発したことがはっきりしている。そうすると出発が1日延びたのは雨のためか、列車遅延のためか、という疑問が残る。

 そこで当時9歳だった筆者の記憶がどうなのか、じっと思い返してみた。私の記憶では、戸塚家の6人は朝日町の人たちとともに鉄道線路を目指した。それは駅というより線路の際で、炎天下にじっと列車を待っていた。雨が降っていた記憶はない。列車は来ない。もう東京陵へは戻れない。夜を徹して線路の際に座り込んでいた。第四大隊のように近くの村落の軒下を借りたような記憶はない)。

印東和の手記。《近くの村落で野営することになったが、我々のような軍隊経験者ならともかく老幼婦女子には苦痛の夜だったろう。真っ暗闇の中を満人村落を訪れ、家屋の土間ならいい方で、大部分は軒下で夜を明かした。翌朝無蓋貨車で遼陽へ行き、駅前広場で荷物検査。午前中いっぱいかかる。遼陽からの列車も石炭運搬用の無蓋貨車。出発したのが28日午後1時。その夜は奉天の貨物駅で貨車に乗ったまま眠る。翌朝奉天を発った列車はその後ものろのろで、葫蘆島のある錦西駅に着いたのは30日の午後だった》。
posted by マスコミ9条の会 at 20:59| Comment(0) | 戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

爆風(93)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載


労働運動は社会の米・野菜・肉だ。

2018年06月03日

爆風(93)

 火工廠のあった桜ヶ丘から錦西駅までの列車の旅はどんなものであったのか。6月26日に出発した第二大隊の隊長だった松岡道夫と28日出発の印東和の手記に基づいて辿ってみよう。

 26日は朝から晴れた穏やかな日だった。東京陵の官舎から引き込み線の太子河無人駅まで2キロ余の道を、一ヶ大隊1000人で歩いた。老人や病人を乗せた素人づくりの手押し車はすぐ車輪が外れる。手早く修理して皆に遅れまいと先を急ぐ。妊婦が顔から汗を流して歯を食いしばりながら歩いている。途中で妊婦を担架に乗せる応急措置をした。それでも遅れる人が続出して隊列は延々と伸びた。

 やっと太子河無人駅に着き、10輌の無蓋貨車に分乗する。後部に繋がれた3輌には引揚船乗船までの食料と燃料を積む。見送りの加藤治久大尉ら留用組の人たちと手を振って別れ、13輌の列車はゴトンと動き出した。間もなく遼陽駅到着。野木遼陽居留民会会長をはじめ多くの人々が迎えてくれた。

 遼陽からは旧満鉄を奉天に向かう。既に満鉄は国民政府に接収されており、この引揚げ列車も運転手、乗務員は皆中国人である。列車運行の命運はすべてこれら中国人に握られている。運行の便宜を図ってもらうため、乗務員に一定のチップを渡す。そうしないと予期せぬ小駅に停車し、警備員に服装検査と称して金品を巻き上げられると聞いてきたからだ。お蔭で途中停車もなく奉天駅に着いた。

 列車は奉天で大連ー新京線と別れ、錦州方面から北京まで行く路線に入る。ここで困ったことが起きた。奉天駅に列車が止まると国府軍の停車場司令官が松岡隊長を呼びつけた。プラットホームに降りると「この列車は規定以上の車両をつないでいるので後部の2輌を切り外す。発車は30分後だ」と言う。彼はそのまま返事も聞かずにどこかへ行ってしまった。後部2輌には食料、燃料の3分の2が積んである。移し替える時間はない。

 乗船まで何があるか分からない。後ろ2輌の切り離しは部隊にとって致命傷になる。部隊幹部が緊急招集された。相談の結果、賄賂を使うしか方法がないという結論になった。当時の金で1万円、それをだれが司令官に渡すのか。結局松岡隊長の役目となり、機会をうかがったがなかなか難しい。彼が1人でいるところでなければならない。そのうち全員列車を下りて駅前広場に整列せよとの命令が出た。

 司令官が広場の隅に1人で立っている。他の兵士は引揚げ者を整列させるために忙しい。松岡は司令官の傍に寄り、そっとお金を渡す。司令官はお金を確かめてからその場を去った。間もなく全員乗車の命令。列車はすぐ錦州へ向けて動き出した。松岡はほっとして水筒の高粱酒を側近にも注ぎ、苦笑いしながら乾杯した。列車は夜を徹して走る。無蓋貨車は風が強く当たり、病弱者や子どもたちは震え上がった。乗船港葫蘆島に近い錦西駅に着いたのは28日午後3時を過ぎていた。
posted by マスコミ9条の会 at 20:47| Comment(0) | 戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

爆風(92)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載


労働運動は社会の米・野菜・肉だ。

2018年06月02日

爆風(92)

12、錦州錦西葫蘆島収容所に滞在中は医療班長は主力を防疫患者発見及其処理手続、死者処理手続、清掃指導、保健生活指導に置き診療は簡易なる処理投薬をなし複雑なる治療は其他に於ける日僑総処事務所所属医療機関に委託若しくは協力を求めること。

13、船内に於いては医療班は唯一の衛生機関なるにより全力を挙げて患者発見並に其処置保健生活指導に任ずる。


14、遼陽総站錦州、錦西葫蘆島に於ける保健機関は次の如くなるに付き之と緊密なる連絡を保つこと。
遼陽総站=防疫診療所 錦州=辨事処衛生班医療隊 錦西=同左 葫蘆島=辨事処衛生科医療隊防疫隊

15、救急箱は中国の寛大な(1字不明)ひにより認許されたものにして時価約6,000円の薬物を納めあるに付き其管理保存投薬方法には慎重且つ厳格を期すべく若し内地港到着後残余品あらば船中に留め置くこと。

 この事務室通達を見ると、伝染病患者及び「普通旅行に耐えざる者」はそもそも引揚者から除外され、また途中で病気や怪我をしたら置いていかれることになる。何としても健康でなければならない。集団の足手まといになってもいけない。年寄りや幼児といえども自力でがんばるしかない。

 引揚げ時の戸塚家の構成は戸塚陽太郎(40)、せん(37)、和子(13)、章介(9)、栄子(5)、順子(生後2か月)の6人。父と姉はリュックサック、母は赤ん坊を背負い、私は2月に死んだ妹悦子の遺骨の箱を白い布に包んで首から下げた。栄子は隊の移動に遅れないよう自分の身を処するのに精一杯だ。

 桜ヶ丘部隊の出発は46年6月26日に第一大隊と第二大隊、翌27日に第三大隊と第四大隊の予定だった。6月26日は穏やかな晴天で予定通りに出発したが、27日は朝から大雨、出発は28日に延期された。戸塚家が所属していた第三大隊は出発の準備を整えてじっと天気恢復を待った。

 28日は快晴。まず満鉄遼陽駅からの引き込み線の太子河無人駅まで約2キロの道のりを歩く。迎えの無蓋貨車に乗り込んで、夜を徹して走る。途中停車してしまい、このままこの地で野宿かと心細い思いをしながら、それでも29日午後3時には引揚げ港のある錦州錦西駅に着いた。
posted by マスコミ9条の会 at 20:45| Comment(0) | 戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月31日

爆風(91)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載


労働運動は社会の米・野菜・肉だ。

2018年05月31日

爆風(91)

 部隊の中で医療班の果たす役割は他に増して大きい。引揚者は女子どもが過半数であり、病人、妊婦もいる。過酷な移動条件を克服して日本まで送り届けなければならない。遼陽市日僑善後連絡所は46年6月9日付で次のような「遣送事務室通達」を出した。

1、大隊医療班は医師1、医学生2、看護婦1、を以て構成する。過剰の要員を附せざること。但し患者遣送を開始せば班員を増員することも之は別途指示す。


2、医療班長は成るべく早く分処主任並びに大隊長と緊密なる連絡を取ること。

3、分処主任若しくは大隊長は大隊出隊2乃至3日前に医療班長をして隊員の健康診断を施工せしめ普通旅行に耐えざる患者特に伝染病患者を除外すること。従って出発駅に於いて伝染病患者若しくは旅行に耐えざる患者を発見されたる場合は分処主任、大隊長医療班長の責任とす。

4、分処主任は少なくとも出発3日前に大隊救急薬格納用函を総処衛生科に持参し薬品並びに格納薬品一覧表の配布を受け厳重に保管すること。上記配布薬品は己に四拾以上の検査経験ある品目にして不合格の憂なきものに付き此の活用を維持する為医療班長の私見により薬品の加除は行わざること。従って検査の際不合格を出したる時は医療班長の責任とす。

5、医療班長は出発前衛生科医療股に出頭赤十字旗並びに班員の赤十字腕章を受け取ること。其の他の手続きは一切分処主任並びに大隊長に於いてなすこと。


6、医療班長は自己の出発により診療所閉鎖となる場合は接収品目録作製の上少なくとも3日前に統一接収委員会衛生組に届出て且つ鍵の授受等につき打ち合わせること。

7、医療班長は出発の際聴診器1、検温器1、メス1、ピンセット1、剪1を携行すること。


8、医療班長は大隊編成決定後は大隊隊員の保健事故を防止するため特に健康診断をなし生活指導により伝染病患者発生防止に努力すること。

9、予防注射は種痘、発疹チフス、腸チフス、コレラの四種にして総処及び分処に於いて施工するも医療班長は大隊隊員の予防注射の結果を確認し予防注射未了者の皆無を期すこと。


10、瀋陽総站収容所収容中の診療は収容所医療班に於いて施工するも大隊付き医療班は之と緊密なる連絡をとり且つ可能なる範囲の協力をなすこと又、収容所収容中の清潔整頓に関し指導をなすこと。

11、列車内に於ける保健事故の処理は困難なるが故に其の方法に付き医療班長は大隊長と事前に打ち合わせを了し其の要領を中隊小隊長に周知せしめること。
posted by マスコミ9条の会 at 20:44| Comment(0) | 戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

爆風(90)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載


労働運動は社会の米・野菜・肉だ。

2018年05月28日

爆風(90)

 《再び満州に進出して来る日本人のための礎石になろう》と意気込んで留用に応じた松野徹だったが、46年暮れ頃になってみるとどうも気合が乗らなくなった。頼りにした国府軍に勢いがない。工場の本格再開には程遠い。毎日手持無沙汰でぶらぶらしている有様だ。そのうち1947年の正月になった。

 日頃実直な責任者の吹野信平少佐が「正月くらいは酒でも飲もうや」と言い出した。年末に国府軍紙幣で給料が出たばかりだ。部落の中国人に頼んで奉天に行ってもらい、日本酒の4斗樽を買ってきた。唐戸屯の官舎に集まって飲めや歌えの大騒ぎ。警備の国府軍兵士から文句を言われる始末。

 いろいろ手をまわして調べてみると、一旦北方に立ち去った八路軍が南下を始めたらしい。今や国府軍の方が押され気味だ。そういえば、彼ら八路軍はこの地を去るとき、我々に《1年後には必ず戻ってくる》と言っていた。そんなことを松野は思い出してはそれもありうると考えるようになった。

 正月が過ぎたある日、松野は吹野について奉天の満鉄官舎にいる居留民会の高碕達之介会長を訪ねた。高碕は2人に「蒋介石は偉い人物だが、中国の国情は彼の思うようには行かぬのではないか」と感想を述べた。松野はそれが真実だと感じた。国民党と中国共産党の軋轢の中で日本人ができることは何もないのではないか。それなら1日も早く日本へ帰りたい。日本の土を踏みたいとしみじみ思った。

 国府軍の形勢はますます悪くなる。その年の5月になると旧火工廠の工場再開は難しいとみたのか、留用者の一部を帰国させることになった。――留用者の帰国については後述する。

 戸塚家や小林家を含めた一般引揚げの準備は46年4月末から急速に進んだ。遼陽市の日僑善後連絡処(野木善保主任)のもとに東京陵、唐戸屯を一緒にした桜ヶ丘支部(宮川峯雄主任)が形成される。引揚げ事務は桜ヶ丘支部の手で滞りなく進み、吹野信平少佐ら約100人の残留者に心を残しながら出発の日を待つことになった。6月8日からは種痘、チブス、コレラ等の予防接種が実施され、出発間近かが予感された。

 桜ヶ丘支部の一般引揚者は約4000人。これが4大隊に編成された。大隊所属は居住官舎で決められ、戸塚家は第三大隊に組み入れられたと思われる。第三大隊は総員1083人で、市川隊長のもとに経理、書記、渉外、通訳、医療の直属班、その下に7中隊、中隊毎にさらに5小隊の編成である。中隊は150〜160人、小隊は30人前後でそれぞれに隊長が任命されている。戸塚家がどの中隊、どの小隊に入れられたかは分からない。

 (戸塚家が第三大隊だったことも推測による。関東軍火工廠史によると、4大隊はそれぞれ日本の帰港地が別々で、第一大隊と第三大隊は博多、第二大隊は佐世保、第四大隊は鹿児島となっている。戸塚家が博多に帰ってきたことは確かだから第一か第三だ。このうち第一大隊長の加々路仁は唐戸屯の第二工場長だった。居住官舎毎の編成だとすると東京陵居住の我が家は第三大隊になるはずだ)。
posted by マスコミ9条の会 at 20:40| Comment(0) | 戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

爆風(89)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載


労働運動は社会の米・野菜・肉だ。

2018年05月27日

爆風(89)

 留用者の大部分が唐戸屯地区に集められ、東京陵の第三工場に残ったのは和泉正一中尉ら10世帯になった。工場再開には程遠く、仕事といえば引き揚げていった空き家の残留物整理くらい。時間を持て余す日が続いた。ちょうど作物が獲れる時期で、空き家の庭の家庭菜園には胡瓜や南瓜が食べ頃だった。

 工場要員の1人盤若賢吉は7月のある日、暇つぶしに和泉正一と2人で太子河まで魚釣りに出かけた。大雨の後にできた池を迂回しているうちに帰り路がわからなくなる。2人で高粱畑の中をさまよううちに日が暮れてくる。やっと見つかった鉄道線路。地獄に仏とはこのこと。線路に沿って東京陵に戻ることができた。もう真っ暗で、心配した留守の人たちが迎えに出ており、2人は平謝り。その後は大笑いだった。

 46年秋になると留用者の第一次帰国の話が出てきた。しかし盤若は帰国どころではない。妻が臨月なのだ。唐戸屯には勝野医師がいるが東京陵には誰もいない。急ぎの場合どんな方法で連絡すればいいのか。悩んでるうちにも妻のお腹は金魚のように膨らんでくる。爆弾を抱えているような毎日だ。

 10月半ばには10世帯のうち8世帯が帰国して、残りは和泉、盤若の2世帯になってしまった。その2世帯にも東京陵から唐戸屯への移動通達がくる。明日馬車に荷物を積んで東京陵を離れようとした夜中の2時頃、妻が陣痛を訴えた。和泉中尉と相談してとりあえず唐戸屯まで歩くことに。暗闇の中を歩き始めた。

 箱根山の山道で突然「誰呼(セイヤ)」と厳しい声で誰何された。国府軍の分隊らしい。言葉は通じなかったが妻のお腹を指さしたら「アイヤー快走、快走」と手のひらを返したように親切な扱い。人の情に国境はない。若い兵士の顔から柔和な温かさが溢れていた。

 東の空が白む頃やっと唐戸屯の官舎地区に着き、第三工場で同僚だった中尾宅に落ち着いた。盤若は妻を預けて荷物を取りに東京陵へ戻る。玄関を開けると中国人の女や子どもが蜘蛛の子を散らすように逃げて行った。彼らにすればどうせ捨てていったものだから失敬してもいいだろうと思ったに違いない。衣類や家具は取られたが、出産用品を入れた行李は無事だった。そこへ迎えの馬車が来た。

 唐戸屯の決められた宿舎に荷物を置き、その足で中尾宅へ直行。「まだだよ」と勝野医師ののんびりした声。妻は苦痛で呻吟していたが盤若は大船に乗った気分になる。どちらが生まれるだろう。男なら命名を偉い人に頼むとして女なら桂子にしよう、と決めた。長い陣痛の末、和泉医師に励まされ、和泉夫人の手により無事女の子が誕生した。46年10月16日、早朝からの目まぐるしい一日が暮れていった。
posted by マスコミ9条の会 at 20:39| Comment(0) | 戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月24日

爆風(88)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載


労働運動は社会の米・野菜・肉だ。

2018年05月23日

爆風(88)

 留用者の給与はどうだったのか。国府軍は留用者に対して「生活は保証する」と約束、46年7月分から支給された。賃金レベルは旧日本軍隊時代の階級に応じて決められる。例えば旧大尉であった者は、国府軍の中尉程度の金額が支給される。給与のほかに白米の無料配布が少量ながらあった。

 給与額が旧軍隊の階級に基づくため、火工廠当時の賃金体系との矛盾が出た。火工廠当時、軍人でない古参の職制は将校以上の額をとっていた。それが極端に低くされる。当然不公平感が出る。そこで46年10月分から日本人内で賃金の再配分が行われるようになった。生活費に基づく均等化である。

 まず日本人全員の給料を国府軍から一括して受領する。そして一定の配分係数により算出した額を各人に支給する。どんな係数が決められたか不明な点もあるが、和泉正一の記憶によると《主人(10)、妻(8)、子供(5)》であったらしい。係数配分の提案者は吹野信平少佐だったといわれている。

 年が明けて47年春になると、それまで八路軍に対して優勢だった国府軍が劣勢を伝えられるようになった。それに伴って国府軍紙幣の信用が急落し、八路軍による物資の流通遮断も相まって猛烈なインフレに襲われる。給料も毎月引き上げられたがインフレの速度には追い付かない。給料が出るとすぐ、生活必需品の米、調味料、豚肉、粉ミルク、煙草などを買いに市場へ走った。

 木山敏隆の手記。《インフレは激しく、家族数に応じて再配分してもらった給料と現物支給の雑穀は、数日中に生活必需品に交換された。貴重な所持品の物々交換でタンパク質を補充する。日曜日、遼陽市内へ菅野氏、中尾氏らと買い出しに行く。すべてに飢えている我々にとっては、見るもの聞くもの皆楽しいものばかり。米国製品が氾濫している。長年見たこともない洋モク、初めて見るナイロン製品等店頭にずらり並んでいた》。

 留用者の中には一般引揚当時肺結核等の重病で、残留せざるを得なかった人たちがいた。そのうち緒方少尉が46年6月28日、小林雅男が同9月20日、南満工専学生の工藤が同9月中旬に相次いで亡くなった。また勝野六郎医師の義理の母勝野せいを始め、1歳の幼女から大人まで10数人がジフテリア、疫痢、肝疾患などで日本の土を踏むことなく大地に骨を埋めた。

 勝野六郎医師の手記。《引揚げの数日前、丘の上の墓地を訪れた。親戚の反対を押し切って、満州まで私たち夫婦についてきた時の義母の嬉しそうな顔が思い浮かぶ。満州の地に骨を埋めることになった霊に敬虔の黙祷をし、同時に安らかに眠る人々のために冥福を祈って丘を降りて帰ったが感慨無量だった》。
posted by マスコミ9条の会 at 21:08| Comment(0) | 戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月17日

爆風(87)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載


労働運動は社会の米・野菜・肉だ。

2018年05月17日

爆風(87)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 河田哲(南満高専学生)「46年3月、松本百公さんに呼ばれて峨嵋荘というところまで会いに行った。八路軍の急な撤退と国府軍の進攻に挟まれて一夜を日本人宅で過ごした。その時の話し合いで、日本へ帰るより中国に残る方がかえって日本のためになるのではないかということになり残留を決意した」
 玉井林(奉天工大学生)「内地の混然たる状況を想像して、慌てて帰るより内地の安定を待った方が身が処し易いだろうと判断した」

 工場再開を図った国府軍だったが、旧火工廠の工場設備はソ連軍、八路軍により大方接収され主要部分は壊滅状態だった。そのため設備の残存している旧奉天造兵所から東京陵、唐戸屯の各工場へ機器を移転、軍用火薬の製造を開始した。工場の日本人最高責任者は吹野信平少佐で、松野徹は庶務課長、辻薦、和泉正一は工程師、玉井林は工程師補、木山敏隆は技術員などそれぞれ役職を与えられた。

 国府軍はこの工場を「聯合勤務総司令部第九十工廠遼陽分廠」と命名し、黄大佐が廠長として業務を管轄した。幹部の中には女性も含まれ、奉天工大など日本の学校を出た技術者が大半を占めた。このようにして工場生産は再開されたが、設備不足のため本格操業には程遠かった。

 生産準備のために各工場に残存している図面の整理、補充がまず最初の仕事だ。成田正三は中国人の技術者に補充図面の作成を指導したが、製図能力、理解力に欠けほとんど役に立たない。敗戦時に焼却した工場配置図と水道管敷設図を新たに作成する作業も困難をきたした。

 工場によっては全然仕事がなく、自宅待機状態の部署もあった。日本人留用者たちは自宅で豆腐や飴をつくって生活の糧にした。時には太子河に釣り糸を垂れたり、一般引揚後の空き家の残品整理をしたりして日を過ごす。吹野信平をはじめ日本人幹部数人で囲碁を楽しむ姿も見られた。

 仕事らしい仕事としては46年10に設置された研究室がある。国府軍将校の銭が責任者で、日本側は鈴木弓俊が業務を仕切った。中国側から発煙弾の分析法、発煙剤の製造法などについての質問があり、それに丁寧に答えた。ダイナマイトの製造と爆破実験も行われた。

 留用者の子供は30人で、1人は中学生だが他は国民学校の生徒だった。桜ヶ丘国民学校の教師で残留に応じた鈴木久子と岡島悦子が教育に当たった。旧火工廠幹部の伊藤礼三、稲月光、和泉正一、佐野肇、鈴木弓俊らがカバー、勝野六郎が校医として名を連ねた。この桜ヶ丘国民学校は在満教務部の正式承認を得ており、校長・伊藤礼三名で卒業(終業)証書が授与された。

 家族のいる留用者の宿舎は一般引揚者が帰った後の弥生町の官舎を使った。独身者は旧松風寮に中国人独身者とともに住まわされた。食事は金を払って中国人と同じものを食堂で食べた。火工廠幹部将校が住んでいた職員宿舎は中国人高官の住まいとなる。元の吹野信平宅には黄廠長が住んだ。
posted by マスコミ9条の会 at 21:43| Comment(0) | 戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

爆風(86)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載


労働運動は社会の米・野菜・肉だ。

2018年05月15日

爆風(86)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 次に国府軍留用者について記す。1946年3月18日に八路軍が火工廠を撤退し、替わりに国府軍が進駐してきた。国府軍も八路軍と同様、火工廠を活用して工場復旧、火薬製造再開を企図していた。そのためには日本人技術者の大量残留、つまり留用が必須条件だ。一方、一般引揚げの動きも本格化する。国府軍は引揚げに協力する見返りとして工場再開に必要な人材の提供を火工廠幹部に迫った。

 居留民会に責任を持つ吹野信平少佐は、全員揃っての引揚げを念願しながらも、引揚げ業務を円滑に進めるため一定の人員の残留を承諾する決断をした。留用者の人選は日本側に任され、吹野は旧職場のそれぞれの担当者に選考を依頼する。留用者の中には個人的判断で残留した人もあったが、大部分は旧上司の依頼・説得によるものであった。一般引揚げの促進というのが説得の材料になった。

 このようにして92人の留用者の名簿がつくられた。その家族163人を加えると総勢255人になる。この名簿の中には吹野信平をはじめ、これまで本稿に登場した火工廠幹部の名前が多く見られる。

 吹野信平、松野徹、勝野六郎、木山敏隆、成田正三、鈴木一郎、井上二郎、鈴木弓俊、伊藤礼三、佐野肇、稲月光、加藤治久、麻殖生成信、井上富由、和泉正一、辻薦、鈴木久子などである。ほとんどが技術者だが、残留者の健康と生命を守るために勝野医師が、残留者の子弟の教育を任務として国民学校教師の鈴木久子も残った。

 残留者の胸中にはそれぞれの複雑な思いが去来した。「関東軍火工廠史」に寄せられた手記の中からその「思い」の一端を抜き出してみよう。

 松野徹「こうして留用されるのも、後に再び進出して来る日本人のために、辛かろうが、我々はその捨て石になろう」。
 勝野六郎「淋しさと悲しさを乗り越え、留用者の生命を何とか病気から守ってあげたい強い医師の願望が私を支えていたのみだった」。
 和泉正一「(工場長の立場として)私の場合は、覚悟せざるを得なかったが、さて9名となるとまるで説得の自信はなかった。しかし私を信じて、思ったより早く残る決意をしてくれた」。

 木山敏隆「ある日浅野中尉がやってきて、国府軍から留用の要請がある、日本人の引揚げ促進のためでもある、君に残ってもらいたいと言われた。納得できかねるのでいろんな質問をして抵抗した。しかしまだ若いし健康だ、君の専門の土木関係は老齢者ばかりだ、何とか残ってくれと頭を下げられてしぶしぶ承諾した」。

 野久尾良雄「終戦の日、敗戦を認めずソ連軍と決戦するべく首山堡に立てこもった青年工員の一人として燃えたことがあった。留用に応じ、いつの日か、祖国のために戦おうとの気持ちがまだあったように思う。独身者としての自由さ、身軽さだったのではないか。そこに目をつけられた気もするが」。
 井上富吉「第二工場には愛着があった。復旧して元通りにしてから帰るのが人情、また班長以上の大部分が残るということで、再三すすめられて残ることに決めた」。
 小田政衛「実は迷っていた。親友と相談したらやはり留用の話がきていて承諾したという。医療の保証が心配だったが、勝野医師が残るというので留用に決めた」。
posted by マスコミ9条の会 at 21:38| Comment(0) | 戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

爆風(85)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載


労働運動は社会の米・野菜・肉だ。

2018年05月14日

爆風(85)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 (須本佐和子の手紙の続き)漢口を前にして、美しい揚子江に大阪の街を想像しました。感無量です。革命が成功するのも最早目前に迫っております。でも我々は元々は捕虜なわけですから如何になることやら。しかしどんなことになっても私は日本人として中共軍とともに戦います。立派な薬剤師になって帰ります。日本人男女合計60名余りいますが、まだ外国人には結婚を許しておれません。そのため44歳の方を始めとして全員独身です。

 またこの軍隊は、思想の悪い者、日本でいう右翼主義者は、全部、始めから叩き直されます。昔の日本の軍隊とは、全然違った、厳しい軍隊です。我々も戦います。(中略)今宵も美しい星が輝いております。まだまだ書きたいけれど、これにて止めます。この手紙が無事にお母さまの手に渡るよう神様に祈ってぺんを置きます》。所属「中国人民解放軍第三野戦軍 第四〇軍 衛生部野戦第三所」

 外国人の結婚について、49年当時は許されていなかったようだが、解放後は結婚が奨励されたらしい。須本佐和子の51年10月25日付の手紙によれば、同僚の藤野看護婦が結婚し可愛い坊やの母親になったことが書かれている。須本自身は一度婚約したが、相手が病身のため取り消している。

 52年11月19日発信の須本佐和子の手紙。《ご両親様御許へ お父様お母様からお手紙を頂いてもうすぐ4〜5ヶ月になりますが、種々何かと取り紛れ、忙しく今日に至りました。今私、体を少し悪くし、手術を要するので病院に入院しております。別に心配する程の病気でもありません故、気にかけないで下さいませ。病院生活も2ヶ月になりますが、毎日皆様良く面倒を見て下さいますのでいつも感謝しております。

 日本人の多くが結婚生活に入っておりますが、生活に何の心配もなく、毎日幸福な日々を送っており、生まれてくる子供は、国家の子とし、育てられ、1人の子供に何万円と保育費がつき、成長すれば、日本人の育児所、幼稚園、小学校、中学、大学と進学でき、教育程度もうんと高く、子供も希望のある将来を望めます。

 働けば働くほど豊かになる、楽しい生活、私達もこうして入院しておりましても、入院費もいらなければ、治療代もいらず、給料は普通のように頂け、美味しい栄養価のある食事に感謝しながら、休養いたしております。日本の現在の状況と違って働くものの国は、日一日と豊かになり、私達の生活も益々幸福になって行きます。思いついたまま筆をとりました。皆様お元気で。漢口市 61病院にて》。

 須本佐和子はこの手紙の後日本人男性と結婚し、都村佐和子となって1954年7月に帰国している。
posted by マスコミ9条の会 at 21:37| Comment(0) | 戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

マスコミ9条の会ブログ