2017年12月14日

沖縄ノート(9)屈辱の戦後@ 

17年12月10日
沖縄ノート(9)屈辱の戦後@ 

■坂本陸郎(JCJ運営委員;広告支部会員)


(参考文献は岩波新書『沖縄』、大田昌秀著『沖縄のこころ』、林博史『沖縄戦が問うもの』等)

沖縄守備隊の最後
 6月下旬になると砲声も途絶え、23日には32軍牛島満司令官、長勇参謀長が自決し、司令部のあった摩文仁の丘が敵の手中に落ちると、守備軍首脳は自刃した。
 その日、嘉手納飛行場近くにあった米第十軍司令部では、軍楽隊がアメリカ国歌を吹奏し、星条旗が高々と掲げられた。その戦況を三日後の「朝日新聞」がこのように報じている。
 「沖縄戦局は、今や地上における主力戦の終了によって事実上最終段階を迎えた。敵が本土正面に左右両翼の本土進攻基地を完成したことを意味するもので、大東亜戦争は沖縄戦の最終局面到達により、まさに本土を戦場とする最終決戦の段階に突入するものである」。
 だがそのとき、地下壕に取り残されていた部隊が、命令に従ってなおゲリラ戦をかまえており、住民の多くも洞窟の中に潜んでいた。当時沖縄戦最後の32軍の拠点となった摩文仁の丘で見た光景を、大田昌秀氏が著書『沖縄のこころ』の中で次のように記している。
 摩文仁の丘が陥落して以来、米兵たちは朝の8時ごろから自動小銃をかかえて丘の頂上に現れた。かれらは4、5人ずつ組をなして頂上のここかしこに陣取ると、上半身裸になって日光浴を楽しみながら眼下にひろがる岩山に向かってめちゃくちゃに撃ちまくった。敗残兵狩りがその目的だったにちがいないが、わたしには、戦い勝って無事に故国へ帰れるよろこびを発散させているとしか思えなかった。だが時折、飢えに我を忘れたのか、敗残兵がふらりふらりと岩陰から姿を現して、米兵たちに狙い撃ちのたのしみを満喫させることもあった。こうして戦勝者たちは、有り余るほどの食料を持参して、スポーツを楽しむと、夕方5時ごろにはいっせいに摩文仁の陣地に引き上げた。かれらが引き揚げた後、丘の頂上には残飯整理をするため、どこからともなく飢えた敗残兵たちが蝟集した。米兵は惜しげもなく缶詰を放置したまま引き揚げたが、ほとんどは銃剣で穴があけられていた。それでも餓鬼犬と化したわたしたちにとって、それは最後の贈り物で、その奪い合いから友軍同志のあいだで手榴弾が飛び交い、毎日のように命を落とす者が続出した。こうして米兵たちは、手をこまぬいたまま、敗残兵狩りをすることができた

 これは当時米兵たちが口にしていた「ジャップ狩り」の最後の光景であろう。米兵が食べ残した食料を奪い合う日本兵の姿はおぞましく痛ましい。

屈辱の第一歩
 沖縄戦が終息すると、敗残兵たちは捕虜となり、DDTを全身にかけられたのちに、肩とズボンの脇にPW(捕虜の目印)のマークのついた服を着せられ、捕虜収容所に収容された。
 かれらが収容所に運ばれるトラックの上で見たものは、道路といわず畑といわず放置された死体の累々とした光景であり、変わり果てた沖縄の街と村の姿であった。戦闘が行われる間、米軍は戦死者を埋葬し、その上に十字架を立てていたのだが、日本軍は戦況の悪化とともに戦死者を放置していた。その戦友たちの無残な姿が捕虜たちの目に映ったのだった。7月に建てられた金武町の収容所では、最大時,本土と沖縄出身の兵約1万人が別々に収容されたのだが、精神に異常をきたした兵のための収容所もあった。そこでは、家族を殺された沖縄出身者や、同胞を殺され、虐待された朝鮮人軍夫らが、日本軍将校や下士官にリンチを加えることもあったという。
 沖縄出身の捕虜約3000人は、ハワイにいったんは移送され、翌年10月ごろから順次送り返された。朝鮮人捕虜は45年秋に朝鮮半島へ、日本本土の捕虜は本土へ返還された。
 ガマ(壕)の中に潜んでいて助かった住民たちも、兵隊たちと同じように、テント小屋(住民用の収容所)に運ばれた。なかには家畜小屋に押し込まれる住民もいた。「捕虜になれば、戦車でひき殺される」と信じ込まされていた住民たちは、米軍の扱いに安堵した。
 彼らは命以外のすべてを失っていた。中部や南部では、戸籍簿が失われたために、死者の実数さえわからなかった。全員が犠牲となった一家は、戦前に生存した痕跡さえ残されていなかった。
 住民たちは、毎日のように、ハエが群がり膨れ上がり、腐臭のする遺体を集め、穴を掘って埋めた。彼らは出歩くことを禁じられ、米軍が支給するわずかばかりの食料で飢えをしのいでいた。
 米軍は、収容した住民に軍の作業をさせ、しばらくは住民にわずかばかりの食料を無償で支給したのだが、使役にたいする代価はいっさい支払わなかった。住民は米兵からタバコをもらい、海岸に流れ着いた米兵の食べ残しを拾い、乾かして食料とするなどしていた。
 そのころ、戦争による衛生環境悪化のため「戦争マラリア」が流行した。日本本土では米軍の上陸に備えて予防対策が講じられていたのだが、沖縄では無防備だったため、マラリアが猖獗を極め、罹患者は20万人に及んだという。それでも住民は米軍への依存を深めていった。そうせざるをえなかったのは、沖縄戦で日本軍から受けた酷い体験の記憶があったからでもあった。
 日本軍は銃を突きつけて、わずかばかりの食料を奪い、壕から追い出して、自分たちだけの安全をはかった。あげくは住民をスパイ呼ばわりして殺し、集団自決を強要した。それに比べれば、敵国人に食料を与える米軍の扱いは日本軍のそれとは違い、ありがたいとも思われた。そのため、米国は人道的で民主主義の国だという米支配者の宣伝は抵抗なく受け入れられていった。だが、そうした宣伝が覆るのに、それほどの時間はかからなかった。

餓死の指令
 軍政府は48年6月以来、入荷した資材陸揚げのため1千人の住民を強制徴用していた。宿舎とされた使い古したテント下の地面で、労働者たちは藁や草を敷いて寝泊まりし、洗面用の水も与えられず、食事といえば、汚れたアルミの皿に乗せられた塩味のメリケン粉や、腐ったような、ふやけた蒸しパン一つだけであった。労働のあとに手足を洗う水さえなかった。そうした条件下で、労働者は日を追うごとに減り続け、陸揚げができない状況となった。市町村会は何度か改善を求めたのだが、軍政府は応じなかったばかりか、軍政府は報復として全島の売店の閉鎖を指令した。命綱である売店がなくなれば餓死するしかない。新聞は号外を出し、全島が騒然となった。その後は、軍政府要路への陳情が繰り返され、市民大会が開かれ、指令の実施はようやく中止となった。
 この事件は、自由と民主主義を宣伝する米軍政の真実の姿を示すものであったから、住民の米国に対する見方を一変させることになった。米国の軍政府支配下の沖縄では、このようにして屈辱の第一歩が踏み出されたのだったが、その屈辱の戦後はその後も続いた。



(つづく)
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2017年12月10日

爆風(23)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765
労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年12月10日
爆風(23)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 至急東亜寮に将校を集め、ソ連軍司令部との再交渉の余地があることを説いた。交渉は沈着冷静でみんなから信望の厚い浜本宗三大尉に頼むしかない。川原少尉を先頭に数人の将校が学校にいる浜本大尉の説得にあたった。当初「俺はもうこんなしち面倒くさい世の中は嫌になった。死ぬのが一番いい」と断っていたが、川原少尉らの衷心からの要請に最後は首を縦に振って承諾した。

 即座に浜本大尉を主席とする川原少尉、伊藤礼三中尉、鈴木弓彦中佐の4人で交渉団が結成された。すぐさまソ連軍司令部のある遼陽へ向かおうとしたが車がない。将校たちは手分けして車捜しに各所へ散った。しばらくして病院から連絡があり、トラックを1台確保できたという。乗っていたのは吹野夫人と母堂を病院に連れてきた稲月光中尉。稲月は将校らと一緒に夜中の遼陽往復を運転手に承諾させた。

 4人の交渉団は将校たちに見送られて、月明かりの道を遼陽へ向かった。ソ連軍は、関東軍憲兵隊のあった旧軍人会館を接収して司令部としていた。交渉団の到着は既に10時になろうとしていた。建物に入ると、通訳の菅野軍曹が待ち構えていた。「火工廠の部隊だけが指定の時間に集結しない。林部隊長が来られたが司令官に会えずに帰られた。松風塾の加々路塾長は必ず来ると言うのだが、その後どうなったか分からない。部隊は来るのですか来ないのですか」。

 この詰問に対し「ソ連軍司令官に直接お話ししたい。取り次いでもらえないか」と浜本大尉。菅野軍曹はその気迫に押されるように司令官室に向かった。5分ほどして戻ってきた菅野軍曹が「司令官は会うと言っています。しばらくお待ちください」と言ったので4人の交渉団はひとまずほっと胸を撫で下ろした。待ち時間に4人で交渉作戦を練る。まず指定時間に集結しなかったことを詫びる。そして軍人は明日にも来ると約束する。ここまではここへ来る道々4人で考えたのだが、その後の口上が難しい。4人は頭をひねった。

 《火工廠には火薬製造設備と約250トンの爆薬がある。住人は軍人のほかに技術者、工員、その家族ら1万人に近い。もし軍人だけでなく、非戦闘員の男子までいなくなったと判れば必ず暴徒が襲撃するだろう。そうなれば工場施設が壊されるだけでなく、何らかのはずみで火薬の大爆発の恐れもある。ここ遼陽まで被害は及ぶであろう。工場を無傷でソ連に引き渡すのは我々の責務であると考える。

 技術者までいなくなれば工場の引き渡し作業は誰がするのか。どうか非戦闘員の連行は思いとどまってもらいたい。それでも男子全員の集結を命じられるか、または我々軍使が夜半までに帰隊しない場合は将校全員ハラキリする覚悟である》。

 最後の「ハラキリ」のところは格別の工夫だった。もし「全員玉砕」とやって、ソ連軍に即座に兵を差し向けられてはたまらない。ここは世界に知れ渡っている「ハラキリ」にした方がよかろう。博学の川原中尉の知恵であった。
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爆風(22)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765
労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年12月8日
爆風(22)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 8月25日午前、独身で東亜寮居住の稲月光中尉は唐戸屯の部隊本部で勤務していた。そこへ男子全員集合の命令が来る。稲月中尉はバスで東京陵の東亜寮に戻り、衣類や食糧をリュックに詰め玄関に行く。そこに数人の将校がいて、ビールの栓を抜いて乾杯だという。何のための乾杯か分からないけれど、冷えたビールは美味い。コップのビールを飲み干してみんなでロータリーへ向かった。

 ロータリーに着くと既に海城行きは中止になっていて、集団が散り始めている。唐戸屯へ戻ろうとバスの停留所へ。そこへ近くの消防署から人が走ってきて、部隊本部から電話があり、唐戸屯との中間地点にある変電所付近に盗賊が現れたので至急応援を頼む、とのこと。すぐ消防車に数人が乗り込み現地に向かう。賊は消防車を見て散り散りに逃げていった。深追いはせずそのまま唐戸屯に行き消防車を降りた。

 夕方になって稲月中尉は唐戸屯部隊本部を出て、加々路塾長や加藤治久大尉のいる松風寮を訪れた。加藤大尉が待ち構えていて「二つのお願いがあるのだが」と切り出した。「一つはこれからすぐ吹野信平少佐の夫人と母堂を官舎から東京陵病院へ送り届けること。二つは玉砕のため国民学校に積んである爆薬の導火線の火付け役になること。これは林部隊長の指名だ」。一つ目はいいとして、第二の依頼は気が重い。しかし部隊長の指名とあっては断れない。

 病院へ行く手ごろな車がないので苦労したが、工事請負の清水組のトラックがやっと見つかった。朝鮮人の運転手に手当をはずんで承諾させ、吹野夫人と母堂を助手席に乗せる。自分は荷台に乗って夕暮れの中を東京陵へ向かった。病院まで2人を無事送り届け稲月中尉がほっとしていると、突然車ごと数人の将校に囲まれた。このトラックを貸して欲しいと言う。運転手と相談の末承諾した。稲月中尉はすぐ近くにある国民学校へ足取り重く歩いた。玉砕について加藤大尉は詳しいことを言わなかった。どうしてそういう成り行きになったのだろう。しかも自分が集団爆死の火付け役となるとは。

 また少し時間が遡る。病院での緊急将校会議では何の打開策も見出せなかったが、川原鳳策少尉はなおも玉砕回避の道を模索していた。そこへ飛び込んできたのが、唐戸屯の加々路松風塾長からの情報である。ソ連軍司令部との間にまだ交渉の余地が残されている。最後まで努力を尽くすべきではないか。ソ連軍との交渉には勇気と決断力が試される。最適なのは浜本宗三大尉しかいない。川原少尉は決断した。
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2017年12月03日

爆風(21)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765
労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年12月3日
爆風(21)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 2人は隣室の佐野中尉の部屋に行き、青雲塾の重田中尉、麻殖生(まいお)見習士官らを呼び寄せた。《唐戸屯地区としてこれからどうすればいいのか》。大半の将校が爆死には反対の意見を吐いた。「ソ連軍との停戦ができ、敗戦になった今、ソ連の命令に逆らって家族を巻き込む玉砕戦法は承服しかねる」。ではどうすればいいのか。奇跡でも起こらぬ限り、この窮地から抜け出せない。みんな頭を抱えた。

 そこへ寮生が「塾長、お電話です」と呼びにきた。(後にして思えばこの電話が奇跡の始まりだった)。電話に出ると「こちらは遼陽のソ連軍司令部、自分は日本人通訳の菅野軍曹です」と早口で名乗る。「塾長の加々路ですが、何故私に電話されたのですか」と尋ねた。「東京陵の部隊本部に何度も電話したのですが林部隊長に取り次いでもらえません。やむなくそちらにかけました」との返事。なるほど、既に死を覚悟した部隊長にはソ連軍司令部との折衝などは無意味というわけだ。

 「ところで用件は何ですか」。加々路大尉は先方の返答次第では電話を切るつもりだ。「約束の時間に他の部隊は到着したのにあなたたちの部隊はどうしたのですか。それをお聞きしたい」。「我々は一般の軍隊と違って火薬製造の工場付属部隊であり、工場と同時に婦人、子どもも守らなければならない。他の部隊のように即座に行動するのは難しいのです」。「女子どもまで集合せよとは言っていない」。

 これ以上問答しても電話では分かってもらえそうにない。加々路は電話口で沈黙する。「ソ連軍司令部は、現在遼陽に集結した部隊を先に海城へ向けて出発させると言っています。自分の任務はあなた方の部隊が、時間に遅れてもいいから来るのか来ないのかそれを伺うことです」。これは重要な質問だ。どう答えるか加々路塾長は判断に迷った。《行かないと答えるとソ連軍との交信は切れたことになり、武力による報復もあり得る。かと言って唐戸屯部隊だけで、しかも責任者の吹野少佐を差し置いて松風塾長の自分が「行きます」と言えるものだろうか》。緊張で受話器を持つ手が震えた。

 「必ずそちらへ参ります」。決断の重みで一瞬息が止まる。「お待ちします」と言って電話は切れた。電話の周りに集まっていた将校たちが、電話の内容を察知して大きくうなずいた。塾長の決断から生じるあらゆる事態を、連帯責任でともに背負う覚悟が加々路に伝わる。さあこれで数時間の余裕ができた。やるべきことは何か。ソ連軍司令部との再交渉だ。頭の回転が速そうで、腰が据わった菅野軍曹がきっと手助けしてくれるに違いない。加々路、加藤両大尉は東京陵の川原鳳策少尉に連絡すべく立ちあがった。
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爆風(20)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765
労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年12月2日
爆風(20)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 久子の母が袱紗に入れて持ってきた現金や貯金通帳を「もうこんなもの必要ない」と言って草むらに投げ捨てた。国民学校の校門のところで「先生」の声とともに白鉢巻き姿の女の子に飛び付かれた。今年4月まで担任だった4年生の阿部容子だ。この子も10歳で短い一生を終えるのかと思うと不憫だった。校舎は廊下まで人で埋まっている。女学校の先輩でもある浜本大尉夫人の顔が見えたので会釈をした。

 担任の2年生の教室を覗く。机や椅子が窓際に片付けられ、中央に爆薬の箱がピラミッド状に2山積まれていた。教室の脇の階段を2階へ上る。爆薬の真上の教室に人が溢れ身動きもできない。教室前の廊下に車座になり、盃を前に置いて手を合わせている家族がいた。盃の中味は溶かした青酸カリに違いない。爆発の前に自ら命を絶つつもりか。その隣ではアルバム持参の人がいて、見せ合っては泣いている.

 人混みの中で浅野中尉が尺八を吹き始めた。曲目が進んで「海ゆかば」になるとそれに唱和する声が次第に高まっていった。8月末の満州の夜はもう寒いくらいだ。窓から外を見る。数か所で火の手が上がっている。避難した人たちがわが家に火を放ったのだ。久子は紅(くれない)の炎にそっと手を合わせた。

 久子は用事を思い出して職員室への階段を降りた。自分の机からチリ紙を取り出していると、突如電話が鳴りだした。とっさに受話器を取ると「至急柳中尉を呼んでください」と息の弾んだ声。林部隊長や幹部将校のいる部屋まで急ぎ、手近の将校に「柳中尉に電話です」と告げた。

 林部隊長への諫言が入れられず無力感にとらわれていた柳尚雄中尉は「今頃の電話、誰だろう」といぶかりながら職員室へ急ぐ。受話器を取ると耳慣れた鈴木弓俊少佐の声だ。「今遼陽にいる。詳しい話の余裕はない。ソ連軍との談判がうまくいきそうだ。導火線に火をつけるのだけは阻止してほしい」。

 ここで話は8時間ほど遡る。一度出発した唐戸屯部隊が「遼陽行き中止」の命令を受け、回れ右して部隊本部に引き返したのが午後3時半。吹野信平少佐から「逐次流れ解散せよ」と言われて加藤治久大尉は不審の念を深くした。「一体どうなっていんるんだ」。加藤は松風塾長の加々路仁大尉を訪ねて疑問をぶつけた。「私にも分からないが、林部隊長が遼陽行きの中止を決めたようだ。そうなればソ連軍の報復が目に見えている。部隊長は玉砕のハラではないだろうか」。《玉砕だけは避けなければならない》と2人の意見は一致した。
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紛争処理は対話(外交)しかない

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765
労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年12月1日
紛争処理は対話(外交)しかない

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 北朝鮮がまたミサイルをぶっ放した。おれはあらゆる紛争処理において話し合い、対話、交渉、労使関係で言えば団交が絶対に必要だと思っている。国家間の紛争の場合はやはり外交だろう。紛争だから双方に言い分がある。それをきちんと出し合い、合意点を探る努力が今こそ必要なのではないか。

 おれは18年間、都労委労働者委員として労使紛争処理の現場にいた。労働委員会は労使紛争の調整と不当労働行為の審査という二つの機能を持っている。調整は労使どちらからも申請できるが、審査の申立権は労働者の側にしかない。いずれにしても紛争は解雇、差別、支配介入などの使用者の行為に原因がある。もっとも使用者に言わせればそれらの行為は企業存続のための正当な措置だと主張する。

 おれは18年間に219件の不当労働行為事件に関与した。労働委員会に持ち込まれた段階では労使が取っ組み合いの最中で、双方カッカときていることが多い。労働委員会の最初の仕事は「紛争の争点整理」である。頭に来て熱くなっている当事者にはそもそも何が争点なのか整理できない事件が多い。

 次に双方の言い分を公開の席上で証言する「審問」という手続きに入る。この頃になると双方とも大分冷静になる。それぞれ弁護士がつくのであまり無茶な主張は言いにくくなる(もっとも当事者に輪をかけた暴論を吐く弁護士もたまにはいるけどね)。そして結審、命令待ちということになる。

 この段階で都労委では必ず「和解」の打診をすることにしている。和解手続きというのは要するに労働委員会の会議室で行う「団体交渉」だ。ただし基本的には労使別々に面接し、公労使三者委員が主張を聞いて調整する。つまり労使の直接交渉ではない。しかしこれも団交の一形態だとおれは思っている。

 これで一応和解の枠組みはできたと言えるが、だからと言ってそう簡単には話は進まない。特に10年来の差別事件などはもう駄目かと何度も諦めかける。おれが関わった富士火災の差別事件は54回の和解期日、5年を費やして和解成立にこぎつけた。話し合えば必ず結果が付いてくるとおれは確信する。

 逆に話し合いを拒否して、労働者を敵視し続けている企業もある。株式会社明治・明治乳業だ。裁判長に勧告されても、「『労務上がり社長』は絶滅品種」(「ZAITEN」17年10月号)と揶揄されても断固話し合いに応じない。そんな経営者の顔がどこかの国の首相に見える。
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2017年11月30日

爆風(19)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765
労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年11月26日
爆風(19)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 酔いの醒めた小林隆助は戸塚陽太郎ら庶務科警備の同僚とともに、あちこちが発生する火事の消火に奔走していた。小林家の食卓には、いざという時に服用する青酸カリのカプセルとサイダ―、カルピスの瓶が並んでいる。私たち貴重品のサイダ―やカルピスに目を奪われて、母親に早く飲ませろとせがんだがもちろん拒否された。このようにして、玉砕へ向けて時は一刻一刻進んでいった。

 国民学校2年生担任の鈴木久子先生は、朝日町の官舎で母親と兄夫婦、その長男の邦昭、預かっている挺身隊員の栗原松江、萩原愛子の7人で8月25日を迎えた。朝食後に町内会を通じて「男性は全員ロータリーに集結すること」との伝達を受ける。兄は冬用の衣類と食糧を持って出かけた。兄が出て行くと急に心細くなった。《東京陵はこれからどうなるのだろう。電気も水道も止まり、無防備になった町はソ連軍の進駐より先に、満人の暴徒に襲われるに違いない。しかしこちらには青酸カリがある。いざとなったら飲めばいい。何も怖がることはない》。鈴木先生は居直りの気持ちに達し気が楽になった。

 午後1時頃、道路が男達の声で騒がしくなった。遼陽へ向けて出発したはずの兄が帰ってきて「男たちがいなくなって家族を死地へ放り出すより、みんな一緒に死のうということになった」と言う。久子は《もちろんその方がいいに決まっている》と思った。

 夕方になると「国民学校に火薬を積んで玉砕する。行動を共にする者は9時に半鐘を鳴らすのでそれを合図に集合すること」との指示が町内会から伝達された。挺身隊員の栗原、萩原の両名から「一緒に学校へ連れて行ってください」と頼まれた。甥の邦昭は生後46日、兄嫁はしっかり抱きしめて頬ずりしている。母は薄化粧をして和服に着替えた。久子はいつもの教師の服装で学校へ行くことにした。

 そこへ同じ朝日町に住む軍属の猪野が来て久子の母に「うちの家内が恥ずかしくない最後を迎えられるようご指導ください」と頭を下げた。本人は部隊の任務があって奥さんと同道できないという。久子の母は目に涙を浮かべながら引き受けた。午後7時、今まで大事にとっておいた配給のカニ缶を開け、畑のさつま芋を掘りだして食卓を飾り最後の宴とした。

 夕食が終わると町内の半鐘が鳴る中を一同揃って学校へ向かった。月が煌々と照らす道に学校を目指す流れができている。逆に迫りくる死を逃れて東へ向かう流れもある。路上で生と死が交錯する。すれ違う際、知っている顔が見みえるとしばらく立ち止まって深々と無言で頭を下げ合った。
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爆風(18)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765
労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年11月26日
爆風(18)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 東京陵には第一工場の他に新しく建てられた第三工場がある。そこで働く工員の坂本吉次は、和泉正一中尉に命じられて7人の同僚とともに爆砕のための火薬運搬にあたった。消防車で第三工場の火薬庫と国民学校との間を数回往復し、50キロ入りの茶褐薬(TNT火薬)の木箱40個、総量2トンを運んだ。

 学校は2階建てで、1階に講堂、職員室、1年生から4年生までの教室、2階には5年生、6年生の教室があった。火薬が運び込まれたのは東端から2つ目の2年生の教室。隣の3年生の教室の間に2階へ上る階段がある。2年生の教室の真上が5年生、隣が6年生の教室で、もし爆発が起これば木っ端みじんに吹っ飛ぶはずだ。火薬は2年生の教室の中央に2山に積まれた。

 坂本たちが作業を終えたのは夕暮れだった。坂本自身は玉砕に加わる気はない。吉野山を越えて逃げるつもりだ。さっさと自宅へ戻り準備をした。単身の身軽さで荷物も少ない。出がけにやはり気になって学校を覗いてみた。各教室とも人がいっぱいだ。特に爆薬の真上の教室はぎっしり詰まっていて、中に念仏を唱える年寄りも見られた。坂本は火薬を運んだ自分の行為に複雑な思いを抱きながら学校を後にした。

 爆薬の点火役は独身の稲月光中尉と柳尚雄中尉が林部隊長から指名された。2人はピラミッド状に積まれた爆薬の頂上に登って、導火線を差し込む穴をドリルで開ける。導火線を差し込んで点火の準備は整った。作業を終えた柳が「何故自爆しなければならないんだろう」と呟くように稲月に訊いた。「林部隊長も吹野少佐殿も死ぬんだ。一緒に死んでもいいではないか」と答えた稲月だが、自分でも納得いかない。

 そこへ岡崎大尉、竹村大尉、得能中尉がどやどやと入ってきて「今一度林閣下に自爆中止を諫言しようではないか」と柳、稲月に声をかけた。2人は即座に賛同し、5人揃って林部隊長の前へ進み出た。話を聞いた部隊長は目を剥いて怒った。「お前たちは若いからどこへでも行けるが、年寄りや婦人子どもはどうする。敵に辱めを受けるくらいなら死んだ方がいいのだ。死ぬのが嫌なら勝手にどこへでも行けばいい」。部隊長の剣幕に諫言を諦め、岡崎たち3人は席を立つ。「我々は死にません」。

 戸塚家と小林家が合流した朝日町の小林隆助宅では、2人の母親とそれぞれの長女の戸塚和子、小林延子は今夜死ぬ覚悟を決め、青ざめた顔で時を待っていた。国民学校2年生の私をはじめ幼い子どもたちは玉砕の意味が分からず、まるで遠足に来たようなはしゃぎ方。あちこちから上がる火の手が窓から見えた。
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爆風(17)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765
労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年11月25日
爆風(17)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 夜の9時を過ぎると、遠くから近くから町会毎に鳴らす鐘の音が聞こえてきた。死を誘う陰気な響きだ。武井技手は再び通りへ出た。日頃懇意にしている吉井技手宅を訪ねる。夫人が寄宿していた2人の挺身隊員に別れを告げているところだった。「ご主人はいますか」と言うとすぐ吉井技手が顔を出した。武井が「貴殿はどうする」と聞くと、「僕はこのままで人生を終わりたくない。この吉井という男をもう一度世の中に具現したいので、太子河を越えて逃げる」と言う。「娘さんはどうする」「もう大人だから自由にさせる」。吉井技手はわずかな荷物を持って夫人と2人で弥生町を去っていった。

 武井技手はその足で東京陵病院に柏樹医務局員を訪ねた。病院の中庭の芝生に軍医の岡野大尉が軍刀を杖に腰を下ろしている。「岡野さん、あなたも死ぬのですか」と問うと「俺も軍人の端くれだ。林閣下のお供をする」と答える。武井技手は「岡野さん、もう戦争は終わったんですよ。この非衛生的な満州で満人を病気や怪我から救えるのはあなたたちお医者さんだけではないですか。満人のためにも生き残ってください」と励ましたが「やはり僕は閣下のお供をするよ」と意思を変えない。そこへ柏樹医局員と看護婦が出てきて岡野軍医の手を取って立ち上がらせた。3人は一緒に国民学校へ向かうらしい。

 次は浜本宗三大尉の家だ。玄関の硝子戸を叩くと、喪服姿の大尉が現れた。「浜本さんも死にに行くんですか」と聞くと「もうこんなしち面倒臭い世の中は嫌になった。死ぬのが一番いい」と取り付く島もない。武井は回れ右をして自宅へ帰ることにした。

 家の玄関を入ると電話が鳴っている。国民学校にいる政井中尉からだ。「あなたの弥生町だけがまだ誰も来ない。早く半鐘を叩いてください」と命令口調。「私は鐘は叩きません。皆さん死にに行ってくださいというような鐘は叩けません」と強気に断る。「そんなこと言わずに叩け」「叩きません」と押し問答の末政井中尉は「それなら宮川大尉に叩くよう伝えてほしい」と折れてきたが、武井はそれも拒否した。

 武井の留守中に工事部旋盤班の菊池班長が来たそうだ。武井の妻に「私のところは年寄りもいるので逃げることもできません。これから一家で国民学校へ参ります。長い間武井様には大変お世話になりました。よろしくお伝えください」と挨拶し、鉢巻き白装束姿で去っていったという。武井は、死を前にしていろんな人がいろんな選択をしていることに改めて思いを馳せる。さて俺はどうしようと考え込んてじまった。 
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2017年11月23日

爆風(16)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765
労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年11月20日
爆風(16)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 武井技手は宮城少尉に「ありがとうございます。その時は一緒にお願いします」と頭を下げて別れ、自宅へ引き返した。しばらくすると同僚の小野伴作技手が玄関を開け、「私は逃げるので家で預かっている電話交換手の女性2人をお願いします」と言う。武井は「預かりましょうう」と即座に引き受けた。

 そこへ慌しく駆けこんできた30人ほどの一隊。左官の大蔵班長に率いられた工員たちだ。「武井技手殿、一緒に戦いましょう。我々はこのままただ死ぬのは嫌だ。ソ連軍に一矢報いて死にたい。警戒の人たちが軽機関銃を持って吉野山に籠ったそうです。我々も合流して戦いましょう」。と意気込む。

 武井はみんなを宥めて「諸君の気持ちはよく分かる。しかし陛下は何と仰せられたか。忍び難きを忍び、耐え難きを耐えと申されたではないか。今我々が一時の感情に逸り、ソ連軍に歯向かえば逆に殲滅されることは必至だ。私は戦わない。諸君も軽挙妄動を慎んでくれ」と諭した。てっきり先頭で戦ってくれると信じていた武井の言葉に拍子抜けした大蔵班長たちはうなだれて引き上げていった。

 それから間もなく近所の田島夫人が顔を出した。「武井さん。お宅はどうします」と聞く。「私のところは死にには行きません」と答えると夫人は考え込んた顔で帰っていった。

 すぐに隣家の山崎藤三次技手から声がかかった。「ほとほと弱りました。私は部隊長のお供をして死ぬつもりでした。覚悟を決めて身辺を片付け、書類や神棚を焼却しました。夕方になったので子ども6人と妻、私と8人揃って食卓を囲みました。妻がつくった精一杯のご馳走です。

 食事が終わって私は記章や勲章を胸につけて正装し、『俺は部隊長のお供をする。これから学校へ行くが、お前たちも一緒に行かないか』と言いました。すると11歳の長女と10歳の長男が『お父さん、行かないでください。死ぬのは嫌です』と泣きながら私にすがってくるのです。私は身動きできず途方に暮れています。どうしたらいいのでしょう」。山崎技手は心底困惑の様子だ。

 武井は「山崎さん死ぬのは止めましょう。なんとかなるかも知れませんよ。なんでしたら私の家へ皆で来ませんか」と誘った。武井の言葉に触発されて山崎の頭に冷静な思考が戻った。《ここは一つ運を天に任せてみるか。いざという時にはカプセルの白い粉を飲めばいい》。山崎は妻子を促して家庭用防空壕に入り、じっと様子をうかがうことにした
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2017年11月16日

爆風(15)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年11月16日
爆風(15)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 朝日町に住む庶務科の田中弥一雇員宅には奉天高女の勤労学徒が2人寄宿していた。田中は玉砕の報を聞いた後彼女らに「どうするか」と尋ねた。「私たちも行動を共にします」との返事。「自分たち一家は防空壕で待避することにしている。状況次第では青酸カリを飲んで自決する覚悟だ」と言うと2人とも頷いた。長期退避に備えて食料品、衣類を壕内に持ち込む。壕に入る前、今生の別れになるやも知れず、皆で別れの杯を交わした。酒に弱い者ばかりだったので、壕に入ると熟睡してしまった。

 町内の住民の中には爆砕を逃れるため吉野山を越えて避難する家族もあり、出がけに火をつけたのかあちこちで赤い炎が上がっている。東京陵に夜が訪れつつあった。

 武井覚一技手はロータリーの集まりが流れ解散になったので弥生町の官舎に戻った。弥生町は軍属の判任官が住む。町会から「今後の相談をするのでテニスコートに集まるように」という伝達。武井技手が出向くと既に議論が沸騰していた。ある者は死ぬと言い、ある者は逃げると言う。

 武井は議論を制して静かに自説を説いた。「皆さん死に急ぐことはない。ソ連軍といえども鬼でもなければ畜生でもあるまい。我々は今日まで五族協和、大東亜共栄圏の拠点としてこの関東軍火工廠を建設してきた。1棟の家、1本の電柱、1枚の瓦、1本の道路、皆我々が精魂込めて造ったものだ。もしソ連軍が無理無体なことをしたら、その時こそこの町を灰燼にしてしまおう。大人しく交渉に応じ我々の意見も聞くようならきれいな町のまま引き渡そうではないか」。

 しかし議論の一本化は難しい。結局皆それぞれ思った道を行くしかない。武井技手は重い心で家に戻った。玄関で出迎えた義母が「私は這ってでも内地へ帰るよ。こんな満州なんかで死ぬのは嫌だよ」とすがるように訴える。武井は言葉もなく道路へ出て、将校官舎の方角に足を向けた。

 人の行き交う道端で顔見知りの宮城少尉から「武井さん、如何しますか」と声をかけられた。「様子を見ます」と答えると「そうですか。国民学校もろとも爆砕したら大変なことになりますよ。周辺の満人が押し寄せてきて略奪が始まります。だから今、川原少尉たちがなんとかならないかと工作しています。もう少し様子を見ましょう。場合によっては大連へ脱出して内地へ帰れるかも知れません」と元気づけてくれた。
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爆風(14)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年11月14日
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■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 加藤大尉はリュック替わりの背嚢に支給された乾パンを詰め、部隊出発の合図をした。集合順の混成部隊で隊列は4列縦隊。箱根峠を越え東京陵の工場が見える頃になって、「全員止まれ」との伝達がある。加藤大尉は隊列を道路脇に寄せ、後令を待つことにした。30分ほどして「唐戸屯へ引き返せ」の命令が届く。理由も分からず、みんなブツブツ言いながら腰を上げた。唐戸屯本部前で「逐次流れ解散せよ」と言われ、狐につままれた気持ちで加藤大尉が松風寮に戻ったのは午後3時半だった。

 朝日町に住む軍属(雇員)小林隆助の長女延子は国民学校5年生。下に弟妹が5人もいるので日頃から母を助け家事の一端をこなしていた。8月25日朝、父親がシベリアへ連れて行かれるかも知れないと聞いて、母のつくった大きなおにぎりを沢山焼いた。父に「すぐ帰ってくるからそんなにいらない」と笑われる。正午近く父はロータリーの集合場所へ出かけた。

 そのまま出発したものと覚悟していたら、夕方になって近所の男たちが続々戻ってきた。出発は取り止めになったという。父はなかなか帰ってこない。延子は母に促されてロータリーまで父を迎えに行くことにした。夕日が真っ赤に染めている広場の真ん中で父は酔いつぶれていた。周りの人の助けを借りてやっとこさ、朝日町の自宅まで連れて帰る。着いたとたん父は、玄関の上がり縁で寝込んでしまった。

 延子は近所の人から《今夜12時に国民学校で全員爆砕する》との話を聞いた。「うちは小さい子もいるから学校へ行くのは無理なので、爆発の音を聞いたら青酸カリを飲みましょう」と母が言う。楽に飲めるよう、大事に取っておいたサイダ―やカルピスを台所の床下から取り出した。

 母が子どもたちに着せる晴れ着をタンスから出しているところへ、家族ぐるみ懇意にしている戸塚家の母親せんが顔を出した。後ろに長女和子(12歳・遼陽高女1年)、長男章介(8歳・桜ヶ丘国民学校2年)、二女栄子(5歳)、三女悦子(3歳)が従っている。せんは「学校へいきませんか」と言う。延子の母は「うちはここで死ぬつもりです」と答えた。「ではうちもご一緒させてもらいます」「どうぞ」ということになった。父親の戸塚陽太郎は火事の消火や警備のために動きまわっているという。延子は《うちの父は酔いつぶれて寝込んでいるというのに》と肩身の狭い思いをした。
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爆風(13)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年11月13日
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■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 空しく引き返すことになった林光道部隊長は、車に揺られながら奈落の底に落ちて行く心境になった。そこで彼が行きついたのは《やはり死ぬしかない》という諦念だった。

 東京陵の広場はまだ町中の男たちで埋まっている。林部隊長は壇上に立ち、ざわめく群衆を前に「我々の遼陽行きは不首尾に終わった。関東軍918部隊は即時解散する。従って各自の行動は自由である。自分はソ連軍命令に違反した責任をとって今夜自決する。国民学校に火薬を積んで玉砕する。玉砕に加わるも可、どこかへ逃げるのも可、各人の自由である。これは命令ではない」と宣言した。

 この部隊長宣言を受けて夕方5時、病院の一室で幹部将校による緊急会議が持たれた。召集したのは川原凰策少尉、参集者は15人ほど。まず川原少尉が「部隊長は死ぬと言うが、詔勅には『耐え難きを耐え、忍び難きを忍び』とある。今どんなに苦しくとも、生き永らえて日本再興に尽くすことが我々の使命ではないか」と口火を切った。全員が頷いて同感の意を示した。

 ついで浜本宗三大尉から「遼陽のソ連軍司令官と再度交渉するよう部隊長を説得してはどうか」との提案があったが、「部隊長は死を覚悟しているからもう無理だろう」という結論になった。玉砕阻止に最後まで全力を尽くすということでは一致したが方策は見つからない。最後に「我々は死ぬにしても、女子挺身隊や勤労学徒は玉砕に巻きこませずに親元へ送り返す」ことを確認して6時半に散会した。

 将校会議に参加した第三工場の竹村正大尉は帰り路が浜本大尉と一緒だった。浜本はメンデルスゾーンの「バイオリン協奏曲」を口ずさみ、「死ぬとするか」と寂しくつぶやいた。竹村は官舎に帰り、預かっている3人の挺身隊員に「私たち家族は今夜24時に国民学校で爆死する。貴女方は唐戸屯へ逃げなさい」と食糧を持たせて外へ出した。竹村夫人は別室に入って晴れ着に着替え薄化粧をした。

 唐戸屯の第二工場長加藤治久大尉は、集合場所の唐戸屯本部に12時40分に着いた。本部前の広場には既に吹野信平少佐以下数十人が集まっている。吹野少佐より「13時になったら先発隊の指揮を執って出発し、東京陵の部隊と合流せよ」と命じられた。
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爆風(12)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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2017年11月12日
爆風(12)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 工事部工手班の岡田栄吉工員長は、集合通知を受けて自転車で酒保前の広場に向かった。家族と別れて自宅を出る前に酒をコップで飲んだ。岡田は考えれば考えるほど今回の全員捕虜、シベリア行きは理不尽に思えた。《なんで一工員の俺まで引っ張られなければならないんだ》次第に怒りが込み上げてきた。

 岡田工員長は優秀なとび職で、工場建設にはなくてはならない存在だった。元は王子の造兵廠で工場設備の組み立て、重量物の運搬などに従事していた。関東軍火工廠を立ち上げるとき、最高責任者の植松達巳大佐が無理をいって王子からもらい受けて満州に連れてきたといわれる。とにかく仕事は素早やかった。工事現場では地下足袋ならぬ防寒靴(ドタ靴)で、わずか15センチの勾配のある棟木の上を猿のように歩き回る。また高さ10メートルの鉄骨の上を地上のように渡り歩くこともあった。

 広場の群衆の中で突然大声が響き、周りのガヤガヤが静まる。声の主は岡田栄吉工員長だった。「このザマは何だ。普段威張っていた将校は何をしているんだ。このままみんなをシベリアへ遣るつもりか。この混乱を放っておくのか。威張っていた将校は何もできないのか」。この怒声に触発されて「そうだ。残された家族を見殺しにするのか」「部隊長はソ連に掛け合うべきだ」などの声が広場を覆った。

 岡田工員長は将校非難の演説を終えると自転車を押して広場から姿を消した。自宅に戻ると家族は出かけて留守だ。彼は自宅に火を放ち玄関前の空き地で切腹した上、酒に混ぜた青酸カリを飲んで果てた。長年岡田と仕事をしていた技手の武井覚一は「翌朝彼の死を知らされて焼け跡に行ってみますと、遺骸がまだ片付けられないでそのままありました。惜しい人を亡くした思いで胸が一杯になりました。岡田君は混乱の犠牲、敗戦の犠牲になったのです」と後年述懐している。

 騒然とする群衆を壇上から見ていた林部隊長は、このまま全員を率いて遼陽へ向かうことは不可能だと悟った。《遼陽に駐在しているソ連軍司令官に直接会って、集結命令の留保を嘆願するしかない》。林部隊長は庶務科自動車班の鈴木太一を呼び、随行者数名と遼陽へ向けて出発した。

 遼陽に着き、ソ連軍司令部のある旧関東軍憲兵隊の建物に行ったが司令官は奉天に行っていて不在だった。じりじりしながら小一時間待ったが司令官は帰着せず面会は果たせなかった。何の成果もなく手ぶらで東京陵へ引き返すしかない。その時点でソ連軍指定時間の集結は不可能になった。
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2017年11月08日

爆風(11)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年11月08日
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■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

3、町ぐるみの玉砕
 8月25日朝、関東軍918部隊長林光道少将宛てにソ連軍から一通の命令書が届いた。開くと、@軍人、軍属の男子全員、A冬服着用、毛布1枚、10日分の食糧を携行して、B17時までに遼陽第二陸軍病院前に集結、C列車で海城へ行き他部隊と合流せよ、という内容。海城は遼陽から大連へ向かう途中の駅である。

 林部隊長は即座に将校会議を招集、東京陵と唐戸屯に分けて部隊を編成し、遼陽へ向かうよう指示した。東京陵組を本隊、唐戸屯組を支隊とし、本隊は林部隊長、支隊は吹野信平少佐が指揮を執る。出発時間は東京陵14時、唐戸屯13時とし、遼陽で落ち合った後集結地点の海城へ列車で移動する。

 庶務科の米田穣賢軍属は25日午前、「毛布2枚を持って午後2時までに広場に集合せよ」との伝達を受けた。米田は家族と食事をし水杯を交わすと妻に「お前も職業軍人の娘だ。分かっておろうが、もしソ連兵から辱めを受けるようなことがあったら3人の子どもとともに自決せよ。俺は多分シベリヤ行きだ」と言い渡した。妻は子どもたちに「お父さんの顔をよく見ておきなさい」と言い、広場まで見送った。

 工務科技手の武井覚一が受け取った命令は次のようなものだった。「男子17歳から55歳までの全員、14時までに火工廠酒保前のロータリーに集合せよ。携帯品は冬物衣類と食糧。行き先は不明」。武井は「いよいよ来るものがきた」との思いで、自宅に預かっていた女子挺身隊員2人を呼んだ。「私はこれから出かけるが、どこへ行くのか、どうなるか分からない。貴女たちにもどんな辛い苦しいことが待っているかも知れない。こんな思いをするくらいならいっそ配られた青酸カリを飲んでしまおうと思う時があるだろう。しかし決して飲んではいけない。とにかく生きて日本に帰ることだ」。

 妻には「お前もどんなことをしても日本へ帰れ。もし内地へ帰れたらどこに住むことになっても、本籍地の役場に行き先を知らせておきなさい。私は生きて必ず訪ねていくから」と言い、一同と水杯を交わした後、リュックサックを背負って集合場所へ向かった。

 空は快晴で広場はじりじり焼きつけるような日差しが照りつけていた。午後1時を過ぎる頃から荷物を担いだ男たちが続々と集まりだした。中には酒気を帯びた者もいる。群衆が100人を超えるころから広場に異様な空気が渦巻きはじめた。「戦争は終わったんだ」「戦闘要員でない軍属まで捕虜にするのか」「無防備て残された家族はどうなるのか」「部隊長は何している」「ソ連のいいなりなのか」など日頃考えられない部隊への不満が噴出し、不穏な形勢になってきた。
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爆風(10)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年11月05日
爆風(10)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 唐戸屯に着くと事務所には煌々と電灯が点いていて男の人たちが物も言わずに書類を作成していた。すぐさま会計庶務科の千葉敏雄係員の指示で、ソ連に引き渡す物資の一覧表など関係書類をタイプする。仕事が一段落したのは午前8時を回っていた。川口雪乃は身も心もくたくただった。

 8月21日、ソ連軍本隊の進駐に先行してクリロフ中尉一行24人が車で乗り付けた。事前の指示で機関銃、小銃などの武器は唐戸屯工場の会議室に集められてあったが、一行はその前を素通りして食糧倉庫へ直行。彼らが真っ先に接収したのは乾パンの袋で、次は酒保に備蓄してあった食料品だった。

 敗戦の翌日16日午前、918部隊本部で将校会議が持たれた。席上林光道部隊長は「ソ連軍の進駐に際し、暴行等の危害から身を守るため婦女子をはじめ全家庭に青酸カリを配布したい」と提案。これに対して川原鳳策中尉が「青酸カリ配布は安易に死を選ぶことに通じる恐れがあるのでは」と意見を具申したが受け入れられなかった。火工廠技術研究所には約3キロの青酸カリが保管されてあった。

 火工廠事務員の佐竹数枝、森昌子は17日の出勤早々、バスで東京陵病院へ行くよう上司から指示された。病院に着くと一室に数十人の女子事務員が集められ、そこへ1匹の図体のでかい黒犬が引き出された。研究所の係員が犬に白い粉を舐めさせると、口から泡を吹きもがき苦しんで息絶えた。

 「これが青酸カリだ。今からこれをカプセルに詰める作業を行う。時間が限られているので終わるまで病院から出られない」と係員から告げられた。佐竹数枝ら女子事務員は無言のまま作業を始めた。直径5ミリ、長さ5センチのガラス管に0.5グラムの青酸カリを詰めて、アルコールランプの熱で口を閉ざす。ガラス管の真ん中にヤスリで切れ目を入れる。根気と注意力が要る危険な仕事だった。手が粉に触れると慌てて消毒薬で手洗いした。

 その夜は徹夜し、2時間の睡眠をとって翌日も作業は続いた。こうして子ども用も含めて1万本のカプセルが製造され、22日までに隣組を通じて全家庭に配られた。結果は川原中尉が指摘したように、死が人々の身近に存在することになり、多くの悲劇を生むことになった。
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2017年11月03日

爆風(9)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年10月31日
爆風(9)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 新京駅に着いた。照明弾が炸裂し近くで銃撃の音もする。駅員の話では、線路を挟んで満軍との交戦中だという。「吉林からここまで日本人の集団が列車で来るなんて信じられない。これからも責任は持てない」と駅員。家族たちはとりあえず持参の弁当を開くことにした。長友中尉は依然音信不通だ。他の主人は戻ってきて家族と食事をしているのに。いさ子は不安な気持ちで子ども3人と弁当を囲んだ。
 
 この時、長友たち将校は機関車の運転室にいた。満人の運転士はもうこの先には行かないと言う。軍刀に手をかけて運転士を脅したが首を縦に振らない。どうしたものか。1人の将校が軍服の内ポケットから財布を取り出した。札ビラを押し付けて説得し、やっと運転続行を承知させた。

 列車はゆるゆると動きだし、昼近くになって四平路というところまで来た。砲弾の音も遠のく。やっと危険地帯を脱出したらしい。工員の1人が「長友中尉のご家族はいますか」と弁当を取りにきた。いさ子は夫の無事が確認できてほっと胸を撫で下ろす。貨車の扉を開けて大きく息を吸った。

 停まる駅ごとに列車は難民の集団に取り囲まれた。「この汽車はどこへ行くのですか」「日本は敗けたのですか」「私どもはどうなるのでしょう」と口々に問いかける。「敗けていません。あの放送はソ連のデマです。しっかりがんばりましょう」と励ますだけで、これらの人々を置き去りにして列車は進んだ。

 17日午後5時、列車は懐かしい遼陽駅に着いた。林廠長をはじめ火工廠の幹部が出迎えてくれた。家族の1人が「ソ連のデマに惑わされて危うく敗戦を信じるところでしたよ」と笑顔で言うと、林廠長は何も言わずに下を向いた。やはり日本の敗戦は本当だったのだ。いさ子は真実を悟った。でもこれが遼陽到着後でよかった。逃避行の途中だったら、みんな落胆してどうなっていたか分からない。いさ子は夫の腕を掴みながら「ソ連のデマ」説を流したのは夫たちだったのではないかとふと思ったが口には出さなかった。

 8月18日の深夜午前2時、会計科タイピストの川口滝乃は吉野寮で睡眠中「電話ですよ」と芦田寮監の奥さんによって起こされた。電話は唐戸屯の事務所からで「すぐ来るように」とのこと。車は出せないという。こんな夜中に東京陵からどうやって行ったらいいのか。川口タイピストは覚悟を決めて通りに出る。疾走するトラックの前に命がけで飛びだして乗せてもらった。
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2017年10月29日

爆風(8)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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2017年10月26日
爆風(8)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 夜中1時頃、長友中尉が濡れ鼠になって帰宅した。ほっとして、一体私たちはどうなるのと聞くと「がんばってここまで来たが日本はもはや敗ける。918部隊に帰り最後のご奉公だ。遼陽に着くまで何があるか分からない。まさかの場合は日本人として恥ずかしくない行動をとるようお前も覚悟して欲しい」と言う。いさ子は「覚悟はできております」と答えた。

 一睡もしないで夜が明けた、遼陽へ帰る将校、技手、工員らとその家族数百人で部隊をつくり、龍単山駅で貨車20輌に乗り込んだ。長友中尉は家族と離れて別車輛へ。10時になってやっと新京へ向け列車はのろのろと動き出す。吉林までは普通20分なのに1時間もかかった。駅には包帯を巻いた負傷兵が集団で列車を待っていた。苦痛と絶望の目がいさ子たちに何かを訴えかける。だが何もできない。

 長い停車、いつ動くのか。じっと待ついさ子たちのところへ「重大放送があるのでそのまま待機するように」との指示が伝わってきた。いよいよソ連への宣戦布告か。人びとは決意を固めた。そこへ田宮技官が部隊司令部から戻ってきて「日本は無条件降伏しました。ただ今天皇陛下のお声で放送がありました」とみんなに告げた。一同晴天のへきれきの思いで声もなくうなだれた。

 しばらくして列車は吉林駅のホームを滑り出した。長友中尉は戻ってこない。果たしてこの列車に乗っていることやら。いさ子は心細さに3歳のわが子を抱きしめた。貨車の中は蒸し風呂のようだ。列車は高粱畑の中をゆるゆると進む。午後3時頃田宮技手が再び伝令に来て「先ほどの放送はソ連の謀略だった。いよいよソ連に宣戦布告だ」と息を切らせながら言って歩いた。意気消沈していた家族たちは新しい光を見出したように奮い立った。

 夕方から雨が降り出し、たちまち土砂降りなった。ガラスのない貨車の窓から雨水が降りこんでくる。毛布で窓を覆ったが効果はない。暗くなった。雷鳴か砲弾か、バリバリドーンという音がする。突然列車が停止した。「日本軍新潟県部隊何某であります。ただ今満軍が反乱を起こし、ここまで逃げてまいりました」と報告、何人かが列車に乗った様子だ。

 《満軍は日本の友軍だったはずだが》といさ子たちは不安になった。そこへまた伝令が来て「子どもを絶対に泣かせるな」との指示。もしこの列車にこれだけの日本人が乗っていることがばれればいつ満人に襲われるかも知れないということだ。今まで日本に服従していた満軍、満人が一夜にして豹変したのだ。
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爆風(7)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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2017年10月22日
爆風(7)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 居合わせた人々は直立不動の姿勢で泣いた。満人もともに泣いた。武井技手は満人傭工たちを集め「君たちも今日まで我々に協力し、日本のため満州国のため懸命に働いてくれた。本当にありがとう。君たちも聞いたように日本は敗けました。長い間の協力にお礼を言います。と頭を下げた。午後2時頃、部隊本部よりの伝達で満人傭工は全員退社させた。

 工場の一角が騒がしい。ある若い中尉がそこら辺を鞭で叩きながら「今の放送は陛下のお声ではない。あれは敵の謀略だ。みんな仕事を続けろ。騙されるな」と喚いている。そこへ林廠長から「作業はすべて中止せよ」との命令が伝えられた。喚いていた某中尉も静かになった。

 武井技手は午後3時、工場の全従業員を集め次のように訓示した。「我々のこれからの運命はどうなるか分からない。戦争に敗けたのは我々が彼らより能力において劣っていたからではない。敗けたのは物量が不足していたからである。人間性においても智能においても彼らに劣るものではない。戦争に敗けたからといって自ら三等国民、四等国民になり下がることはない。玉音放送にあった通り、耐え難きを耐え忍び難きを忍び、軽挙妄動することなく日本人の誇りをもってこれからも行動していただきたい。長い間皆さんには随分無理なことを言ってきたが、戦争に勝ちたいとの一念からであり許していただきたい」。

 庶務科の吉岡等少尉は敗戦翌日の16日、満人傭工・苦力の責任者を呼集し敗戦の事実を告げた。さらにこれからのことについて「工場が閉鎖されたので全員辞めてもらう。列車の手配はできないので各自適宜帰郷してほしい。帰郷費用はできる範囲で支給する」と説明、倉庫に保管してあった食糧、衣料品を分配した。これを受け取って、数千人の満人傭工・苦力たちは全員混乱なく火工廠を去っていった。

 火工廠から吉林に派遣されて新工場建設にあたっていた長友安中尉の妻いさ子は、8月14日夕方夫の帰りを待って夕食の支度を始めた。外は篠突く雨である。玄関が激しく叩かれ、急いで出ると町内会の通達文書を渡された。「明15日午前8時龍単山駅に集合し列車で遼陽本部に帰隊する。荷物は1人2個、主人のみ軍用行季可、食糧3日分携帯のこと」。一体何事が起こったのだろう。いさ子は隣家の田宮技手夫人と相談して、とりあえず荷物づくりにかかった。長女の恵子(13)が手つだってくれた。
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2017年10月21日

爆風(6)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765
労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年10月21日
爆風(6)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 満州西部のハイラル方面から進攻したソ連軍は、12日にも新京に達することが想定された。一方蒙古方面からの敵は11日には赤峰を陥れ、錦州に迫りつつある。この勢いでは13日夕刻にも火工廠の前面に出現する可能性があった。火工廠の関東軍918部隊は、通化に異動した総司令部からの命令を受けるべく、再三手を尽くしたが駄目だった。こうなっては林部隊長の権限で作戦を立てるしかない。

 将校たちが召集された会議で示された方針は次のようなものであった。@迫りくる敵にできる限りの損害を与える、A火工廠の施設を一切敵に使わせないため破壊し尽くす、B敵の捕虜になる前に、婦女子を先頭に最後は全員玉砕する。敵にできる限りの損害を与えると言っても、918部隊はそもそも戦闘を目的としていない。武器といえば数丁の機関銃とあとは小銃と軍刀くらいしかない。抵抗はたかが知れている。結局は、工場を破壊し全員玉砕するというだけの絶望を絵に描いたような方針だった。

2、日本敗戦
 8月15日朝、猪野健二雇員、岸田義衛会計科員ら数人は、奉天の様子を探るべくトラックで東京陵を出発した。正午に重大放送があると聞いていたので、途中の煙台という部落に立ち寄り、屯長さんの家でラジオを聞かせてもらった、天皇が日本の敗戦を宣告したことが分かった。悔しいとか悲しいとかいう先に、これからの日本はどうなるのか、自分たちはどうなるのか、が心配だった。とりあえずそのまま奉天に向かったが司令部は空き家同然だった。夕方帰路につき激しくなる風雨の中をトラックを走らせた。

 技術将校の稲月光中尉は8月15日正午、工場の控室で他の将校や技手たちとともにラジオを囲んで「重大放送」を聞いた。初めジージーピーピーと雑音だけだったが、やがて「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」という天皇の言葉が聞き取れた。どうやら戦争は負けたらしい。稲月中尉は火工廠の部隊本部へ急いだ。ちょうど本部会議室から林部隊長以下が出てくるところで、どの顔も悄然としていた。稲月中尉はすぐ各工場を回り、敗戦の事実を報せ、軽挙妄動をしないよう注意して歩いた。

 東京陵第一工場では12日から連続3日、徹夜で急造地雷の製造に必死に取り組んでいた。工場責任者の武井覚一技手は15日11時半に、工場事務所のラジオを事務所全体に聞こえるよう調整して玉音放送を待った。事務所には事務員、班長のほか満人たちも集まっていて足の踏み場もない状態。やがて放送が始まり日本の敗戦が明らかになった。
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