2017年10月21日

爆風(6)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765
労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年10月21日
爆風(6)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 満州西部のハイラル方面から進攻したソ連軍は、12日にも新京に達することが想定された。一方蒙古方面からの敵は11日には赤峰を陥れ、錦州に迫りつつある。この勢いでは13日夕刻にも火工廠の前面に出現する可能性があった。火工廠の関東軍918部隊は、通化に異動した総司令部からの命令を受けるべく、再三手を尽くしたが駄目だった。こうなっては林部隊長の権限で作戦を立てるしかない。

 将校たちが召集された会議で示された方針は次のようなものであった。@迫りくる敵にできる限りの損害を与える、A火工廠の施設を一切敵に使わせないため破壊し尽くす、B敵の捕虜になる前に、婦女子を先頭に最後は全員玉砕する。敵にできる限りの損害を与えると言っても、918部隊はそもそも戦闘を目的としていない。武器といえば数丁の機関銃とあとは小銃と軍刀くらいしかない。抵抗はたかが知れている。結局は、工場を破壊し全員玉砕するというだけの絶望を絵に描いたような方針だった。

2、日本敗戦
 8月15日朝、猪野健二雇員、岸田義衛会計科員ら数人は、奉天の様子を探るべくトラックで東京陵を出発した。正午に重大放送があると聞いていたので、途中の煙台という部落に立ち寄り、屯長さんの家でラジオを聞かせてもらった、天皇が日本の敗戦を宣告したことが分かった。悔しいとか悲しいとかいう先に、これからの日本はどうなるのか、自分たちはどうなるのか、が心配だった。とりあえずそのまま奉天に向かったが司令部は空き家同然だった。夕方帰路につき激しくなる風雨の中をトラックを走らせた。

 技術将校の稲月光中尉は8月15日正午、工場の控室で他の将校や技手たちとともにラジオを囲んで「重大放送」を聞いた。初めジージーピーピーと雑音だけだったが、やがて「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」という天皇の言葉が聞き取れた。どうやら戦争は負けたらしい。稲月中尉は火工廠の部隊本部へ急いだ。ちょうど本部会議室から林部隊長以下が出てくるところで、どの顔も悄然としていた。稲月中尉はすぐ各工場を回り、敗戦の事実を報せ、軽挙妄動をしないよう注意して歩いた。

 東京陵第一工場では12日から連続3日、徹夜で急造地雷の製造に必死に取り組んでいた。工場責任者の武井覚一技手は15日11時半に、工場事務所のラジオを事務所全体に聞こえるよう調整して玉音放送を待った。事務所には事務員、班長のほか満人たちも集まっていて足の踏み場もない状態。やがて放送が始まり日本の敗戦が明らかになった。
posted by マスコミ9条の会 at 18:16| Comment(0) | 戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

爆風(5)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765
労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年10月19日
爆風(5)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 朝になりギラギラした太陽が照りつけてくる。貨車なので窓がない。室温はどんどん上り、気分の悪くなる乗客のうめき声がする。病人が出ても手当のしようがない。ただ耐えるのみだ。新京から一昼夜かかって11日の夜10時に奉天に着いた。

 井上技手は奉天で鞍山行きの客車に乗り替えることができた。これで遼陽へは行ける。しかし遼陽に着いても東京陵までの交通手段が不明だ。一つ手前の張台子からなら歩くのが可能だ。そう考えて張台子で下車、漆黒の満人部落に入っていった。小高い山があった。ここで関東軍が抵抗線を引くらしく兵士たちが陣地を構築していた。満人部落では深夜だというのに男たちが何事か話し合っている。そのそばをびくびくしながら通り抜ける。東の空が明るくなる頃やっと東京陵に着きほっと胸を撫で下ろした。

 勤労奉仕学徒(勤奉学徒)として火工廠に派遣されていた奉天工大生の伊藤信は、8月12日、部隊本部前の広場に集合を命じられた。そこで林廠長から「勤奉学徒も部隊とともに行動をとり、最後までソ連軍に抵抗する。各自覚悟を決めよ」と訓示された。

 8月9日朝、東京陵第一工場の西村秀夫中尉が官舎で目を覚ますと近くでサイレンが鳴っている。急いで身支度をして部隊司令部に顔を出した。既に多くの将校がいて、彼らからソ連軍参戦の報を聞かされた。壁に掛けられた満州の大地図には、堤防を突き破った洪水のようなソ連軍の進攻ぶりが矢印で示されていた。国境を固めていたはずの関東軍は無抵抗だったようだ。

 その場で火工廠防衛の作戦会議が始まる。林部隊長から「既に掘られているたこ壺塹壕に潜んで敵戦車を待つ。迫ってきたら爆薬を抱えて突入する。1台でも多くの戦車を破砕し、もし生き残ったら陣地中央の高台に結集して玉砕戦法で戦う」との訓示。西村中尉はこの玉砕戦法に違和感を覚えた。

 西村中尉の妻は間もなく初めての子を出産する。「家族を朝鮮に疎開させる列車が出る」という情報が広がっていた。西村中尉は妻を疎開させることを考えたが《朝鮮までの鉄道はソ連軍の脅威に晒されている、そもそも朝鮮そのものが安全かどうか分からない》と思いなおし、しばらくこちらで様子を見ることにする。同じような迷いを持つ家族が寄り集まってこれからの事態に対処することになった。
posted by マスコミ9条の会 at 18:11| Comment(0) | 戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

爆風(4)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765
労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年10月15日
爆風(4)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 関東軍火工廠は全国の造兵廠から転勤者を募った。王子陸軍造兵廠でも募集が行われ、父はそれに応募した。30代半ばで中国大陸へ海を渡るのはそれなりの決断を要したはずだが、多分給料や住宅などの待遇がよかったからだと思われる。1940年に単身で赴任し、その年の12月に二女栄子が生まれるのを待って家族を呼び寄せた。42年に三女悦子が生まれ、45年8月時点で母は3ヵ月の身重だった。

 吉林の満州電化に硝酸工場を建設するため出張していた井上富由技手は、8月9日払暁、部屋の窓が急に明るくなったのに驚いて飛び起きた。とりあえず硝酸工場の建設現場に急ぐ。空から照明弾が落とされているようだ。時折爆発音も聞こえる。アメリカのB29かと思った。照明弾は落下傘に吊り下げられていた。その落下傘が近くに落ち、拾うと粗末な木綿生地にロシア語が。ソ連の空爆だと分かった。

 翌10日、出張目的を終えて遼陽へ帰るため、最寄りの龍胆山という無人駅へ行った。10時頃、定刻遅れの列車がきたので、とりあえず新京へ向かう。途中吉林市内を窓から見たが、爆撃の被害は分からなかった。新京に着いたが、駅員の話ではすべての列車が停まったままで運行の目途は立たないという。仕方がないので、駅を出て関東軍総司令部で様子を聞くことにした。

 しかしどの部屋にも人影はない。たまたま兵器部の部屋を覗くと、火工廠から出向いたきたという柳尚雄中尉がいた。情勢を聞いてみると「戦況はすこぶる悪い。ソ連軍が今日、明日中にも新京に到着するかも知れない。総司令部は昨日通化に向けて出発した。鉄道は全面停止だが、本日10時に軍人、軍属の家族を避難させる列車が動くかも知れない」と的確に答えてくれた。

 この時柳中尉は「自分はしばらくここで様子をみるつもりだ。火工廠東亜寮の自分の部屋に拳銃が置いてある。何かの時に役立たせてほしい」と井上技手に言った。柳中尉は独身で寮住まいだった。井上技手は火工廠に戻ってからも拳銃の件を忘れていた。後にこの拳銃が悲劇を生むことになる。

 司令部を出ると通りは家財を積んだ荷車や馬車で混乱していた。とにかく駅まで歩き、列車の動くのを待つことにする。9時頃、ホームを外れた線路に有蓋貨車が停まった。老人と女子どもを中心にした日本人の集団がが乗っていた。井上技手は無理を言って割りこませてもらう。列車は真っ暗な中をのろのろ走りだした。
posted by マスコミ9条の会 at 18:07| Comment(0) | 戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

爆風(3)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765
労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年10月14日
爆風(3)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 弥生町、朝日町には火工廠で働く軍属とその家族が住んでいた。陸軍軍属には傭人、雇員、判任官、高等官という階級があった。軍隊でいうと傭人、雇員は上等兵までの兵卒、判任官が軍曹、曹長などの下士官、高等官が少尉以上の将校である。

 関東軍火工廠を管轄するのは918部隊だが、戦闘部隊とは違って一般兵卒はいない。林光道少将(廠長)が部隊長で、将校、下士官が工場各部署の管理運営に当たっていた。工場の生産工程には軍属の技官(高等官)、技手(判任官)が配置され、武器弾薬製造の現場を監督した。工員、事務員、守衛などの一般従業員も軍属(傭人、雇員)で、工場にはそのほか満人傭工と呼ばれる中国人労働者が働いていた。

 官舎はそれぞれの身分、階級によって分けられ、軍属の場合は朝日町が雇員、弥生町が判任官で高等官は曙町となっていた。朝日町は吉野山の麓のなだらかな傾斜地にあった。西側に国民学校と病院、南東の方角に火工廠工場の高い塀が見えた。煉瓦づくりの平屋で、焼打ちや火災の類焼に備えて敷地が広い。玄関の引き戸を開けると靴脱ぎ場と2畳の小上がり、南向きの6畳間が2部屋並び、北側は4畳半の座敷と台所と風呂場。厳寒に耐えられるよう頑丈な二重窓で各部屋に暖房用スチームが通っていた。

 私の一家はこの朝日町の官舎に住んでいた。父は陸軍軍属で身分は雇員、火工廠の職場は庶務科警戒。つまり工場の守衛だった。父戸塚陽太郎は1906年(明治39年)生まれの39歳。出生地は茨城県結城郡菅原村大字大生郷133番地(現常総市大生郷町)。30年(昭和5年)に09年生まれの母せんと結婚して上京、北区王子にあった陸軍造兵廠に就職。33年に姉和子、37年に私章介が生まれた。

 私が生まれた年に日中戦争が始まる。戦争遂行のためには武器弾薬の補給が必須条件だ。大規模な製造工場の建設が急務とされ、陸軍造兵廠直轄工場として関東軍火工廠が開設された。場所は満鉄の遼陽駅から20キロほどのところで、工場、住宅、付属施設などの敷地は約1,000万坪(3,300万u)。敷地内に山あり川あり満人部落ありで、満人の耕作地も含まれていた。

 関東軍はこれらの土地を現地農民から有無を言わさず取り上げた。現在の沖縄における米軍基地と同じである。ここに関東軍918部隊の将校、軍属、それらの家族など1万人の日本人町が形成されたのである。
posted by マスコミ9条の会 at 18:05| Comment(0) | 戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

沖縄ノート(8)海に沈んだ学童と疎開者たち

17年10月12日
沖縄ノート(8)海に沈んだ学童と疎開者たち

■坂本陸郎(JCJ運営委員;広告支部会員)

疎開へ
 沖縄戦が始まる前年の1944年になると、沖縄では米軍の沖縄本島上陸が、怖れとともに、ささやかれるようになった。サイパンなど南方諸島での日本軍の敗北の事実が島民の間に知られるようになったからだった。さらに、中国戦線から部隊を沖縄に移す噂が伝わると、いよいよ米軍の沖縄上陸が現実味を帯びてきた。沖縄が戦場になれば、四方を海にかこまれた沖縄では逃げ場がない、島を出るしかない、と住民はしだいに、そう思うようになった。
 やがて怖れは現実のものとなった。小磯国昭内閣は7月7日緊急閣議を開き、沖縄本島、奄美大島、徳之島に居住する老人、子供、婦女子を日本本土と台湾(当時の日本の植民地)に疎開させることを決定し、鹿児島県と沖縄県両知事にその旨通達した。
 その計画は7月中を疎開の実施期間とし、那覇港から本土に8万人、台湾に2万人を避難させるというもので、疎開に該当する者として、17歳から45歳までの軍に協力できる男子を除く、老人、子供、婦女子に限るとしていた。
 この計画を知らされた沖縄県知事と県当局は当惑した。疎開を実施するとしても、県は輸送船を用意することはもちろん不可能である。船舶の用意は政府に頼らざるを得ない。だが果たして、政府は10万人の疎開者を乗せる船舶を那覇港に差し向けることができるのだろうか。
 県当局は難しい判断を迫られた。当時沖縄近海には、しばしば米軍の潜水艦が出没していたからだった。一方、住民は、住み慣れた島を離れて本土や台湾で暮らすことへの不安をぬぐい切れなかった。さらに、疎開に際しては「敗戦思想に陥ってはならない」とする政府通達があったことから、県知事としても、住民にたいして、米軍上陸を予告したうえで疎開を指示することもできず、ためらわざるを得ない。
 とはいえ、沖縄県としては、政府の指示に従わざるを得なかった。警察部に特別援護室を設けて、学校などをとおして島民に疎開を勧めることになった。ところが、疎開を希望する者がほとんどなく、沖縄で暮らしていたわずかな他府県出身者だけが申し込むにとどまり、しかたなく、警察官や県庁職員の家族から疎開させることになった。
 その後は、戦況の悪化とともに、米軍の沖縄上陸がいっそう怖れられるようになる。沖縄が戦場になるのであれば、家族が別れ別れになることもしかたない、家族が分散していれば、家族全員の犠牲は免れるであろう、と考えるようになった。そうしたなか、疎開を希望する住民が徐々に増え、乗船にそなえて荷物をまとめ始めた。だが、輸送船が那覇港にいつ来るのかがわからない。じっと通知を待つしかなかった。
 疎開の期間とされた7月が過ぎ、その翌月になって、対馬丸、曙空丸、和浦丸の3隻の輸送船が那覇港に寄港した。8月21日、5000人の島民を乗せた三隻の最初の疎開船が那覇港を出港することとなった。

対馬丸遭難
 那覇港を出港した翌日の8月22日、対馬丸の甲板で学童たちは引率の先生の指示に従って、救命胴衣をつけ、不安な面持ちでうずくまっていた。対馬丸は那覇港を出てしばらくは無事に航路をたどった。
 その日の夕刻、津島丸は悪石島近海を航行していた。艦の指揮官が、「この近海がもっとも危険な水域である。だから注意事項をきびしく守るよう、今日一日を無事に過ごせば、きっと無事に鹿児島に着くことができる」と、甲板の一段高くなったところから学童全員に安心と注意をうながした。
 日が落ちると、月明かりだけの甲板の闇のなかで、学童たちは無事に疎開できることをねがいながら、不安げに友人たちと話し合っていた。
 不運が襲ったのは、その日の夜10時過ぎであった。爆発音のような轟音が数回轟くと、船体が揺らいで、しばらくすると甲板が傾きだした。立つことができない。先生が大声をあげている。学童たちは斜めになった甲板の上を滑りながら、次々と海の上に投げ出されている。船が沈むのだから、海に飛び込まなければならない。月明かりで微かに見える海の上には、おびただしい大小の破片が浮き沈みし、重油が流れ出したのか、引火して何かが燃えている。
 対馬丸は6754トン、最大10ノットという低速の老朽船であった。その陸軍が所有する運搬船に、学童1661人が乗船し鹿児島港へと向かっていた。その航路で、対馬丸は米軍による三発の魚雷によって撃沈され、1558人の学童が犠牲となった。救助された学童はわずか177名であった。犠牲となった学童の数が多かったのは、護衛のために航行していた「宇治」「蓮」の二隻の護衛艦が危険を避けて、漂流する人々を救助せず、そのまま鹿児島港に向かったからだったといわれている。海に投げ出され漂流する遭難者たちは、漂流物にすがりながら、鹿児島から救助船が来るまで一夜を過ごすしかなかった。なかには、三日間も一週間も漂流して無人島に流れ着いた遭難者もいた。
 当時9歳の学童だった女性が、その時の様子を手記に記している。
 ―ドシンというものすごい音に目が覚めて、気が付いた時には、船体はほとんど沈みかけていた。救命胴衣を身にまとい、甲板にひとかたまりにいたはずの家族5人の姿が見つからない。わたしは恐ろしさと心細さにわめきたいのをぐっとこらえて、暗闇のなかを家族を探し求めた。船体は無残に破壊され、人々は波の渦と大小さまざまな物体に挟みうちにされながら悲鳴を上げ、助けを求めていた。
 人々のうめき声や、泣きわめく声が遠く細く聞こえていた。私が、あっちへ行こうか、こっちへ逃げようかと、おどおどしていると、従妹の時子に出会った。私に出合ったとたん時子は声を張り上げて泣きわめいた。もちろん私も泣きたかった。
二人は沈みかけた船の上で流れてきた醤油樽に取りすがることができた。ときどき大波がドッとかぶさって来る。
 煙突がぐらぐらと倒れていった。子供をおぶったまま海へ落ちていく夫人の姿も見えた。そのときである。ふいに大波がおおいかぶさってきて、時子が醤油樽から手を放してしまった。一人ぼっちになった私は、どうすればよいのかわからず、おろおろしながら自分の体にぶつかって来るものを取り払うのに精いっぱいだった。
 救命胴衣を頼りに泳いでいった。そこでは、一つのイカダをなん十人もの人が奪い合っている。一夜明けると、乳飲み子の男の子以外は全員女性であった。そのうち女の子は、私を含めて二人だけだった。漂流二日目の昼過ぎ、あちらこちらに、幾人かが組みになって漂流していた。漂流中、流れてきた竹筒を拾い、なかに入っていたすえたご飯を一口ずつ食べた。ふたりの老女が、ひとことも言わず死んで流されていった。40歳ぐらいのおばさん二人もいない。いつどうしていなくなったのかわからない。うっすらとした夜明けが近い頃、島はすぐ目の前にあった。イカダは島をめがけてどんどん流されていった。島に着くと、イカダを降り、四つん這いになって陸地へ向かった。私たちは助かったのです。一週間目にやっと自然漂着したのです。―

 この対馬丸の遭難は極秘とされ、沖縄では固く口留めされていた。だが、うわさは徐々に広がった。そのため疎開を希望する住民はその後しばらく途絶えた。しかし、1944年10月10日、那覇が米軍の空爆で1200人が犠牲になると、疎開を希望する住民は増大し、県当局が疎開を勧める必要がなくなった。その結果、1944年7月から45年3月までの疎開者数はおよそ7万人に達した。(資料は『戦争と沖縄』岩波新書1981年刊から)

もう一人の証言者
 対馬丸遭難について一人の証言者を紹介したい。3年ほど前に、地域誌「日時計」の編集部が埼玉新聞のインタビユー記事を目にして、対馬丸の生存者が同じ春日部市の庄和地域に居住していることを知り、取材したことがあった。その後は、当地春日部市での「平和フェスティバル」(年一回の市民による平和イベント)に講師として招いたりした。
 当時、天妃国民学校の生徒であった仲田清一郎氏は、疎開の求めに応じて、8月21日、対馬丸に乗船する。その仲田氏の証言によれば、乗船した天妃国民学校の生徒100人のうち、生き残った生徒は、仲田氏をふくめてわずか3人であった。
埼玉新聞のインタビュー記事〈2014年8月17日付〉は次のようなものだった。
 「対馬丸に乗り込んだ二日目の夜、ドカーンという爆音が、寝ていた仲田さんを襲った。理性というより本能にせかされ、甲板に出た。漆黒の闇のなか、ずるずると海水に沈んだ。海面に出たところで丸太につかまった。船は沈んだようだった。仲田さんは何が起こったかわからぬまま海面を漂った。丸太に子供を背負った女性がつかまってきた。暗闇の中、何を話したかおぼえていないが、心が和み、勇気を得たように思う。だが力尽きたのだろうか、気が付くと、女性の姿はなかった。海面に浮かんでいた人影がどんどん減っていく。上級生が仲田さんをいかだに引き上げてくれた。近くに島が見えた。上級生が、イモを取ってくると言って泳ぎ始めたが、波間に浮く頭の影はまもなく消えた。
 いかだは幾度も高波にさらわれ、仲田さんは、いつしか一本の孟宗竹に半身をあずけ一人で浮いていた。意識が遠のき、視界が暗くなってきた。漁船が近づいてきたところで意識を失った。気が付くと、鹿児島県内の病院にいた」

なぜ疎開船が攻撃されたのか
 春日部市で市民が発行する地域誌「日時計」の記述をもとに考えてみたい。
ハーグ海戦条約〈1907年ハーグ国際平和会議での決定)が、交戦国の病院船など非軍事的な船舶への攻撃を禁じている。であるのに、米潜水艦はなぜ対馬丸を攻撃したのか。それを考えるとき、まず、米潜水艦が、攻撃目標とした船舶が疎開船であることを知っていたのかどうかが問題となるだろう。
 それについて、「高性能の潜望鏡で多数の学童を確認できなかったはずがない」(當間栄安著『対馬丸遭難の真相(琉球新報社)』)とする見方と、それが困難であったとする立場とがある。魚雷攻撃の任にあったアーサー・カーター元二等兵曹が琉球新報の取材に応じて次のように話している。「艦長も子供たちの乗船は知らなかった。夜間に見分けることは困難であった」。どちらが正しいかを判断するのは難しい。
 注目すべきは、ハーグ条約が「軍事物資の輸送に従事する敵国商戦」を攻撃目標とすることを認めていることである。だとすると、沖縄・奄美近海で軍事物資を輸送する27隻の船舶が米軍の魚雷攻撃を受けていたこともあり得ることであった。
では対馬丸はどのような船舶だったのだろうか。
 対馬丸は陸軍徴備の輸送船として、1944年4月から6月の間、マニラからハルマヘラへの軍事輸送に使われたことがあった。しかも、疎開船として出航する直前の8月19日に、第62師団2409名の兵と馬40頭を本土から沖縄に移送していた。そのような役割を担う対馬丸であれば、対馬丸が疎開者を鹿児島へ運んだ後、地上戦に備えて軍事物資を沖縄まで運ぶ計画があったことも想像されるのではなかろうか。
 以上から、米潜水艦ボーフイン号が、航行中の船舶が軍用船対馬丸であることは目視によって確認できたことが推測される。同時に、対馬丸の船内、あるいは甲板に子供たちが乗船していることを確認できたかどうかは定かではない。
仮に子供たちの姿を見たとしても、対馬丸が軍用の輸送船であることには変わりはない。それを知る艦長の命令によって攻撃が行われた可能性は否定できない。それが,當間栄安氏の「多数の学童を確認できなかったはずがない」という見方とも符合する。
 対馬丸は国際法上、攻撃対象として認められる「敵国商船」であっただろう。とすれば、政府と軍部は、対馬丸が軍事輸送船であるが故の危険性を、当初から認識すべきではなかったのか。1944年7月から45年3月まで、対馬丸と同時に航行した2隻をふくめ、延べ187隻の疎開船が航行したなかで、撃沈されたのが対馬丸1隻であった事実に照らすと、遭難の原因がどこにあったのかが、おのずと見えてくるのではなかろうか。
 仲田清一郎氏は講演のなかで、最後にこのように語っていた。
 「当時はショックを受け、主体的なものの捉え方ができなかった。怖れのようなものは今でも残っている。心のなかに悲しみが沈殿している。今こそ基本的なものを再認識する必要がある。沖縄だけでなく日本のあらゆる所で苦労があった。犠牲となった人々の礎があり、今の日本が繁栄している。歴史を隠すことなく、私たちは認識しておかなければならない」
posted by マスコミ9条の会 at 17:59| Comment(0) | 戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月13日

爆風(2)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765
労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年10月12日
爆風(2)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 8月9日朝、火工廠連絡将校の鈴木弓俊少佐は耐酸材料に関する調査のために撫順にいた。ラジオでソ連参戦を知り、空襲警報の鳴る中駅へ急いだ。火工廠に帰着すると林光道廠長から、命令受領のため新京の関東軍総司令部へ行くよう命じられた。往きの列車は順調で一等車の個室でゆったりできた。

 新京駅に着き総司令部に直行したが、建物は白い煙に覆われていた。庭で大量の書類を燃やしているのだ。部屋には人影がなかった。参謀室の扉を開けると1人の将校がウイスキーを傾けていた。命令受領を求めたが要領を得ない。諦めて総司令部を出て駅に向かった。駅は避難する軍人の家族でごった返している。やっと大連行きの列車に乗ることができ、通常の数倍時間をかけて遼陽に戻った。

 総司令部の模様を林廠長に報告すると、今度は奉天の第三方面軍司令部へ行くよう指示される。鈴木少佐は息つくひまもなく和泉正一中尉とともに奉天へ向かった。司令部では司令官の後宮(うしろく)淳大将に面会できた。鈴木、和泉両名が、火工廠防空強化のため高射砲の増設を具申したが「その余裕はない」と断られた。

 鈴木少佐の報告を聞いた林廠長は自ら状況把握のため奉天に行く決断をした。随員は政井中尉他1名で、矢口清一輸送班長が車を運転した。奉天に着くと司令部は慌ただしい雰囲気に包まれており、書類を焼却している光景も見られた。第三方面軍司令官後宮大将から事情説明があり、「ソ連軍に対して徹底抗戦する。そのために火工廠は対戦車急造爆雷の製造を急ぐこと」との命令を受けた。

 対戦車急造爆雷とは、直径30センチほどの木箱に鋳鉄の椀と黄色薬を装填し、これに柄をつけてソ連軍戦車に投げつける。うまく当たれば戦車を破壊できるというのだが、実行されないうちに日本の敗戦になった。対戦車兵器としてはほかに夕弾式急造地雷もあった。石油缶より一回り大きい爆缶を導火線の遠隔操作で爆発させる。実験では戦車のキャタピラを粉砕し、威力が実証されたがこれも使われなかった。

 ソ連軍は急速度で南下していた。数日で火工廠に達する恐れがある。火工廠部隊司令部は11日、住民に対戦車用たこ壺型塹壕を掘るよう命じた。翌12は晴天の日曜日、弥生町、朝日町の人たちは吉野山の麓に集まり、家族総出で穴掘りにあたった。地盤は固い。粘土質なので水分を含めば柔らかになるのだが、乾燥しているのでスコップもツルハシも受け付けない。大変な苦労をしてやっと塹壕を完成させた。
posted by マスコミ9条の会 at 15:33| Comment(0) | 戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月11日

爆風(1)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765
労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年10月11日
爆風(1)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 日本敗戦から72年、私が満州から引き揚げて71年になる。終活の意味も込めて敗戦から引き揚げまでを詳しく辿ってみたい。種本は非売品・会員限定頒布の『関東軍火工廠史』後編。関東軍火工廠の在籍者とその家族の、敗戦から引き揚げまでの体験を綴った手記を集めて編集したもので、発行者は「遼陽桜ケ丘会」。1980年(昭和55年)9月1日刊行で、A5判689ページである。
 年号表示は西暦に統一したが、人名、地名は手記に書かれたものをそのまま記した。種本のほかに、私の記憶、父母から聞いた話を随所に挿入した。どのくらい長いものになるか不明だが、いずれにしてもこれでもって私のルーツ探しの決定版としたい。
 
◇    ◇     ◇     ◇     ◇     ◇

1、ソ連参戦
 1945年8月9日未明、ソヴィエト極東軍は国境を越えて満州の日本軍への攻撃を開始した。以後、160万在満日本居留民は突然襲った爆風に身を晒されることになった。

 この日関東軍火工廠の林光道少将(廠長)はラジオのニュースでソ連の参戦を知った。すぐに総司令部より何らかの命令があるものと待っていたが、簡単な公電以外は何もない。後に分かったことだが、新京にあった関東軍総司令部は朝鮮との国境に近い通化への移動中で、的確な命令を発することのできる状態ではなかった。満州国皇帝愛新覚羅溥儀も同行しており、新京は既に首都としての機能を放棄していた。

 この「新京撤退、通化移動」は規定の極秘作戦だった。満州国中央政府国務院総務庁の古海忠之次長は44年10月、関東軍池田純久参謀副長に呼ばれて「これから私が伝える事柄は軍の最高機密に属し絶対極秘である」と釘を刺された上で、次のような決定事項を通達された。

 「関東軍は伝統的な対ソ攻撃作戦を取り止め、満鮮一体となっての全面持久防衛作戦に切り替えざるを得なくなり、東辺道に立て籠もる作戦をとる。日ソ開戦となれば関東軍総司令部は通化に移動し、関東軍に命令し、朝鮮軍を区処することを決定した」。

 こんな作戦計画があったとは、少将の地位にある林廠長さえ知らなかった。関東軍100万の兵力は、十分ソ連と戦えると信じていた。
posted by マスコミ9条の会 at 17:02| Comment(0) | 戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月06日

沖縄ノート(7)少年少女たちの戦場

17年09月22日
沖縄ノート(7)少年少女たちの戦場

■坂本陸郎(JCJ運営委員;広告支部会員)

「鉄血勤皇隊」と「ひめゆり学徒隊」
 沖縄守備隊32軍司令部は、兵員不足を補うために現地の男子中学生、高校生を「鉄血勤皇隊」として編成し戦場におくり出した(「沖縄健児隊」の呼称も)。その動員された男子生徒は、10台半ばから成人前の少年たちで、生徒の所属校と動員数は、県立第一中学校398人、第二中学校140人、第三中学校363人、八重山中学校20人、県立工業高校78人、県立水産高校49人、農林学校170人、那覇私立商業学校82人など、生徒数の合計は約1300人であった(資料は大田昌秀著『沖縄のこころ』72年刊から)。
 「ひめゆり学徒隊」も「鉄血勤皇隊」同様に、県下の学校から生徒を編成したもので、学校毎では、沖縄師範学校女子部120人、県立第一高女200人のほか、県立第二高女(白梅隊)65人、第三高女(名護欄隊)10人、首里高女(瑞泉隊)83人、私立積徳高女(積徳隊)25人、同じく昭和高女生徒(でいご隊)40人、計543人の女子生徒たちは、看護と救急措置について急場の教育を軍医から受けたのちに戦場に送られた。その任務は傷痍兵の看護のほか、壕を掘ることでもあったという。戦死者の埋葬のためだったのだろうか。一般の住民も徴用され、16歳から45歳までの約4万人の一般男子住民が現地入隊させられ、その後は46歳以上の男子までもが徴用された(それについては前号でも触れた。徴用人数は前出の大田昌秀氏著書による。学校毎の隊の名前は毎日新聞社刊『太平洋戦争』から引いた)。
 その犠牲者数は夥しかった。沖縄で集められた住民兵4万人のうち約3万人が犠牲となっている。その死者のなかには、「鉄血勤皇隊」と「ひめゆり隊」の少年少女たちも含まれている。

少年たちの戦場  
 前出『沖縄のこころ』の著者大田昌秀氏(戦後は沖縄県知事を歴任)が、鉄血勤皇隊員であった自らの体験を次のように記している。やや長くなるが証言として引用する。
 ―補佐係に下士官がどなってまわった。一瞬、だれもがバネ仕掛けの人形のように、いっせいに飛び起きた。本部壕の前で隊列を整えて待っていると、少佐の襟章をつけた一人の将校が、つかつかとみんなの前に歩み寄った。「みんなよく聞け、諸君は学生ではあるが、銃を執り国家の危機に対処するに兵と変わるところはない。戦況が緊迫していることは諸君も承知の通りだ。残念なことに、いましがた近くの陸軍病院が敵に占領された。よって敵が本陣地に攻撃をかけてくるのも今明日と予想される。諸君は、今こそ郷土防衛の覚悟をあらたにして、あくまで本陣地を死守せよ」。
 いよいよ来た。言われるまでもなく、わたしたちは決意を固めなければならなかった。内心にうごめく不安を押しのけるように、わたしたちはお互いに顔を見合わして頷いた。いまさら不安におののき、ジタバタしたところでどうなるものではない。一歩壕外へ出ると、砲声が間近に炸裂し、肉迫してくる敵の気配がじかに感じられておのずと身が引き締まる。
 わたしたちは、壕全面の丘陵の手前斜面に、ほぼ4メートルおきに横に散開した。各人は、交互に警戒に当たりながら蛸壺壕を掘り始めた。時刻は午前2時を回ったところ、雨は小降りのまま続いており、あたりの空気は、いやにひんやりとしていた。ときどき打ち上げられる曳行弾に続いて、タタタタ、機関銃がひときわ高く咆哮すると、つぎの瞬間、不気味な沈黙に戻った。5、600メートルはあろうか。敵に占領されたという軍病院壕のある丘が前方に黒々と横たわっていた。(中略)急遽、蛸壺壕に腰まで入って銃を構えていると、奇妙にも心は平静で、第一線にいるという深刻さはない。路上で砲弾の餌食となるより、せめて死ぬ前に一発でも侵入者にぶっ放してやりたいというのが、隊員の切実な願望であったせいだろうか。(中略)「なあみんな、ひめゆり部隊も最後をとげたようだから、俺たちもここで死のうや」、隊長の伊豆味君が冗談とも本気ともなく言った。情報宣伝の途中、千早隊員はしばしば軍病院に立ち寄り、女子学生たちの奮闘ぶりを目撃していた彼が、ひめゆり部隊や女子挺身隊の活躍ぶりは、銃をとる男子学生の労苦にまさるものだった、と言った−。

 その後、首里の32軍司令本部が陥落し、軍部と生き残った兵が本島南部へと逃れると、各所の陣地(壕)の兵も南へと敗走した。その時、小銃とわずかな銃弾を手にした少年兵たちは、米軍の火力と兵器に対して、ほとんど無力であっただろう。少年兵の一人が洞窟で看護する少女たちの労苦を讃え、自らを励ましている。死を覚悟しなければならなかった少年たちの心情が健気なだけに、いっそう痛ましい。

少女たちの悲劇
 少女たちは、傷病兵の看護のために野戦病院に配備されたのだが、そこは病院とは名ばかりで、傷痍兵を収容するための壕(洞窟、ガマ)であった。
 壕の中は暗く、傷痍兵たちのうめき声と腐臭に満ち、横たわる兵たちの看護を求める声が絶えなかった。洞窟の中で献身する500人余の16、7歳の少女たちは、傷痍兵の看護に献身した。そうしたなか、壕の中で米軍のガス弾や火炎銃によって殺され、あるいは手榴弾によって自ら命を絶っていった。自決を迫られたのは、兵、住民同様に捕虜となることが禁じられていたからだった。それらの死者数は「ひめゆり学徒隊」の半数以上であったという。
 壕に危険が迫ると、軍は移動が困難な傷痍兵を残して壕を去り、少女たちは軍とともに南へ南へと逃れていった。5月になると陣地は次々と陥落し、米軍の壕への攻撃はいっそう熾烈となった。壕を後にした少女たちは、梅雨時の泥沼の中を、傷痍兵を助けながら歩き続け、島の最南端まで追い詰められていった。
戦後奇跡的に生き残った少女が、その時の壕の中の様子を次のように記している。
 ―壕の中はランプが一つ二つ、夜昼なく灯されていた。雨降りのあとのように、しずくがひっきりなしに頭の上に滴り落ちていた。歩くと、ばたばたとズボンの裾が泥だらけになった。地面から高さ10センチとない寝台がぎっしりと並べられ、傷痍兵が3、40人、ずらりと横たわっていた。寝台といっても、薬品の空箱や雨戸を利用したものばかりであった。頭、顔、胸、腹、背、手、足と、包帯で巻き付けられた負傷兵のうめき声が昼夜絶えることがなかった。これが私たちの勤務する陸軍病院の壕であった。
(中略)「便器を貸してください」「尿器をください」と前後左右からひっきりなしに呼びつけられる。そのうち、「看護婦さん、包帯を取り換えてくれませんか」と弱々しい声がする。見ると、膿で表面までがすっかり濡れている。包帯を解きガーゼを離したとたん、膿が水のように流れ出した。「この患者は少し切断する。足をつかまえておけ」と軍医にいわれて、傷口をメスで切り取るのを見ていると、血の気が引いてふらふらした。「これくらいのことで貧血を起こして看護婦といえるか、ばかやろう」、軍医の声にはっとして気を取り戻す。血と膿が手から流れ落ちる。患者は泣き声をたてる。また軍医が怒鳴る。すばやくふき取って包帯を巻く。壕の中で息絶える兵が増えていった。死体は毎日4、5人、朝夕の空襲の合間を見出して埋葬した。4、5メートルおきに弾痕がある。崩れかかった坂道をタンカで運ぶときの苦しさ、なんどか死体を置いて、またタンカを運んだ−(以上は池宮城秀意著『戦争と沖縄』からの引用)。


 こうした実話を知る人は決して多くはないであろう。日本で唯一地上戦となった沖縄での少年少女たちのこのような悲劇は、現在、私たちに何を語りかけ、何を訴えているのだろうか。
posted by マスコミ9条の会 at 16:38| Comment(0) | 戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月25日

閑話休題(32)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765
労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年09月24日
閑話休題(32)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 近所に曹洞宗のお寺祖光院がある。ここの境内に彼岸花が群生していて、近郷近在から特にお年寄りが見物に訪れる。おれも自転車で見に行ったがもう盛りを過ぎていた。そのまま通り過ぎて五香のラーメン屋「むどう」へ行き、煮干し出汁醤油ラーメン(730円)を食う。若い店主が1人で切り盛りしていて店はカウンターだけ。たまに塩味も注文するが、こちらも「コクがあるのにさっぱり」していて美味だ。

 駅前通りの「白樺書店」に寄ってから常盤平に戻る。懇意の花屋で750円の仏花を買う。この花屋は駅前のスーパーのひと隅で営業していたが、2年前に新京成の線路際に独立の店を構えた。店主のおばちゃんとはよく世間話をする。「生前親不孝していたから仏壇に花だけは絶やしたくない」と言うと「それはいいことよ」と目を細めて喜ぶ。たまに鉢植えのベコニアやミニバラをタダでくれる。

 家に帰ると89歳の大村さんから電話。地元の地酒の会「豊友会」の常連だ。この前の例会の席で、大村さんが知っている箱根小涌谷の会社保養所へ有志で一泊旅行しようということになった。早速その下相談をしたいという。家へ来てもらって、昼間からお酒をちびちびやりながら2人で計画を練った。

 大村さんは昭和3年、東京市豊多摩郡(渋谷区幡ヶ谷)で生まれた。小学校2年の時、2・26事件に遭遇している。東京空襲を経験した後、終戦間際に早稲田大学に入る。すぐ長野へ勤労動員で行かされ、地下軍需工場の建設を手伝わされた。あまりに労働環境が悪いので同盟罷業をしたという。

 大村さんには今度地域の日本共産党後援会で「私の戦争体験」と題してお話をしてもらう。この後援会も発足20年、ずっとおれが会長をしている。年会費500を納める会員が全盛期50人を超えたが、最近では40人そこそこ。亡くなったり病気だったりしてじり貧ではあるが、きちんと定期的に世話人会を開き、2ヵ月に1回はニュースも出している。読者は100人を超える。

 夕方、女房が小金原の石原魚点に行くというので車に同乗する。おれはまだ自転車に乗れるが女房は数年前から乗らなくなった。車だけである。その車もいつまで乗れるか。今高齢者の車の事故が増えていると言うからね。もし女房の車が駄目になったら困っちゃうな。心配だ。魚屋で鯛のアラをひと山500円で買ってきた。塩を振って熱湯をくぐらせ、少し砂糖を多めにしてアラ煮にした。酒の肴に抜群だった。
posted by マスコミ9条の会 at 15:42| Comment(0) | 戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月13日

沖縄ノート(6)「沖縄戦」とはどのようなものだったのか(後)

17年08月25日
沖縄ノート(6)「沖縄戦」とはどのようなものだったのか(後)

■坂本陸郎(JCJ運営委員;広告支部会員)


避難と敗走
 アメリカ軍の上陸地点となった読谷山、嘉手納、北村付近の住民が米軍上陸の事実を知ったのは上陸の三日後だった。それまで、住民は空襲を避けて防空壕や墓の中に身を潜めていた(沖縄の墓は丘の斜面などに掘られていることから壕として避難に適していた)。
 米軍上陸後は、手榴弾によって自決した住民もいたのだが、米兵の指示に従って恐る恐る壕から出て捕虜となり、米軍が用意した収容所に送られる住民もいた。あるいは激戦地を離れて南へと逃れて行った住民も多かった。
 首里防衛を断念した沖縄第三十二軍は、住民に続いて南部の島尻への移動を始めた。空軍の特攻攻撃も敵軍の戦力を削ぐまでには至らず、海軍に援護を求めたのだが、主力艦「浜風」「大和」「矢矧」はすでに撃沈され、海の藻屑と化していた。

鉄血勤皇隊
 沖縄戦では、本土出身の約6万5000人の兵(その多くが中国と南方からの配備)と、沖縄で集められた約3万人の即製の兵と、一般民間人約9万4000人が犠牲となった。そのほかに、朝鮮半島から軍夫(強制徴用された労働者)と従軍慰安婦約1万人も犠牲となっている。一般民間人の犠牲者数はおそらくそれ以上であっただろう。それら正確な数はいまなお明らかになっていない(新崎盛暉著『沖縄現代史』岩波新書から) 。
 沖縄の青少年の犠牲も少なくなかった。中学生や師範学校の生徒が兵(学徒)とされ、下級生は電話線の仮設工事、発電機の操作などに動員され、上級生は「鉄血勤皇隊」として編成され、機雷を担いで突撃する「肉薄攻撃」に使途されたが、半数以上が戦死した。首里攻防最後の砦であった弁ケ岳の戦闘では、学徒だけで編成した一個分隊全員が「肉薄攻撃」によって全員が戦死した。15歳で徴用された『戦争と沖縄』の著者池宮城秀意氏が、徴用された当時の様子をこのように語っている。
「私たちの集団には軍人らしいものは一人もいませんでした。小隊とか中隊といっても全部社会人ばかりです。ちょうど今でいえば、PTAの人たちを急に招集して軍隊にしたようなものです。巻脚絆を絞めたことさえない者ばかりでしたので、まずこれを練習しなければならないというありさまでした。これでは軍隊にならない、ただの集団にすぎません。日本陸軍の二等兵ということになっていましたが、まさに子供と大人の寄せ集めをしたものが防衛隊だったのです」

「かく戦えり」
 沖縄で最も川幅が広い国場川が軍と住民の南下を妨げていた。その橋を渡らなければ南の島尻へ行くことができなかった。その川の上に架かる真玉橋周辺をアメリカ軍は狙い撃ちした。そのため、真玉橋一帯は死屍累々となった。命をとりとめて渡り終えた住民も、その後は飢えに苦しみながら南部の戦場をさまようことになった。
 一方、南部の摩文仁へ撤退した第三十二軍は、完全に包囲されていた。中部の小禄にあった海軍の部隊は南下ができず、そこでも孤立していた。援軍のない部隊の孤立は死を待つしかない。最期を決意した海軍の太田司令官が海軍次官あてに次のような電文を送っている。
「沖縄に敵が上陸をはじめてから、陸軍も海軍も戦闘に専念し、県民のことはほとんどかえりみるひまがなかった。しかし私の知る範囲では、県民は青壮年の全部が防衛招集になり、残った老幼婦女子は、あいつぐ砲爆撃で家や財産は全部焼かれてしまい、きのみきのままで、軍の作戦に邪魔にならない所の小さな防空壕に避難し、風雨にさらされながら困難な生活をおくっている。(中略)陸海軍は沖縄に駐留してから、ずっと勤労奉仕や物資の節約を強いられながら奉公したが、報われることなく、戦争は末期になり、沖縄島は焦土となるであろう。沖縄県民かく戦えり、県民にたいし後世特別の御高配を賜らんことを」
 その後、太田司令官が自決したことを思えば、電文は良心の吐露ともとれる。絶望的戦況も住民の惨状も書かれている。だが、軍による住民虐殺の事実をどれほど知っていただろうか。

殺戮と集団自決
 沖縄では、軍人9万4000人、住民15万人といわれる人命が失われ、生き残った人々も地獄と化した戦場をさまよった。その80日あまりの沖縄戦は、6月23日にようやく終結する。
 沖縄戦といえば、ひめゆり学徒隊や鉄血勤皇隊が語り草ともなるのだが、沖縄では、さまざまな殺戮があったことが語り継がれている。沖縄戦は、日本軍の蛮行による血塗られた悲劇でもあった。兵隊と住民が雑居する洞窟(ガマ)で何が起きたのか。
 ガマに逃げ込んだ軍隊と住民の食糧は、日を追うごとに底をつきはじめ、弾雨あられの中で、飲み水を探すことさえできなかった。傷ついた体は、やがて腐り、兵と住民がともに隠れるガマの中には腐臭が漂っていた。
絶望的な日々を暮らすうち、兵士たちの恐怖が住民に対する猜疑心を増幅させた。米兵に居所を知られたくない彼らは、住民の密告を恐れ、それが、同胞住民の殺戮へと向かった。
 兵たちは、ガマを出ようとする住民を背後から射殺した。米兵に気づかれるのを怖れ、泣く子を母親から引き離し殺した。そして住民を集団自決へと追いやった。陣地付近をうろつく住民がいると、それをスパイだとし、殺した。見せしめに同じ住民を使って殺させることもあった。
 軍は住民に集団自決を強要した。米軍最初の上陸地点となった慶良間列島の渡嘉敷島では、日本軍によって島民329人が集団自決に追い込まれた。座間味島では、軍が農産物と食糧を統制し、供出に違反する島民をつぎつぎと殺した。日本兵が同胞である住民を殺すことをためらわなかったのは、太田司令官軍の電文から読み取れるように、軍の目的が住民の生命を守ることではなかったからだが、それに加えて、兵たちが他民族の殺戮を当たり前とする中国などの戦地から配備されていたことが考えられる。(以上は、主に池宮城秀意著『戦争と沖縄』を資料とし、筆者の考えたことも加えて書いたものだが、住民の死者数が前出著『沖縄現代史』の数とは異なっている。「(その数は)いまだに明らかになっていない」と新崎盛暉氏は著書のなかで述べている)。

さまざまな殺戮
 次は、著書と国頭村の村史から殺戮の証言を拾い出したものである(村史は赤旗から引用)。
◇15歳の時、目の見えない母と10歳の弟二人を連れて逃げ回った。飲む水もなく、池から水を汲んできて飲んだ。その池には死体が浮かんでいた。いつかは日本軍が助けに来ると思っていた。だが信じていた日本軍は沖縄の人を殺した。戦争に負けるのをわかっていた日本軍は民間人を壕(ガマ)の入り口近くに追い出し、自分たちはガマの奥に隠れていた。子供が泣くと、口にタオルを押しこんたり、子供を母親からとりあげて殺した。自分の子供を日本軍に殺されるより、親子ともガマを出て弾に当たって死ぬ方がいいといって出ていく人が多かった。アメリカに助けられたのはありがたい。でも戦争をしたのが憎い。(国頭村制度施行百周年記念村史「くんじゃん」)
◇「五、六人の白ハチマキの女が、エイ、エイと声をあげながら、電柱に縛り付けられた女を短刀で交互に突き刺している。傍らに立つ兵が、しっかり突かんか、と大声をあげている。女の泣き声は断末魔の声となった。と同時に、短刀を突き刺す女たちの掛け声は泣き声に変わった。この時、どけ、どけ、と日本兵が女たちを押しのけると、腰の刀を抜き放ち、縛られた女めがけて刀を振り下ろした。すると女は首を垂れ、動かなくなった」(首里近くで目撃した学徒兵の証言)
◇伊江島では、アメリカ軍の命令で若い女五人と男一人が赤松の日本軍陣地に白旗をかかげ向かった。彼らは陣地近くで捕縛され、それぞれの穴を掘ることを命じられ、その後は、後ろ手に縛られ、穴の前に座らされた。日本刀を抜きはらった下士官が「言い残すことはないか」ときいた。三人の女が歌を歌わせてほしいと答えると、許され、軍歌「海ゆかば」を歌ったが、男女五人とも斬殺された。(岩波新書『沖縄』63年刊)
◇半地(地名)に読谷村から多くの人が避難していた。「知花屋」に居住していた数名の読谷村民が日本兵に「スパイ」だとされ、百メートル先のザークービー(座峠)に連行され、4人から5人が手首を縛られ、めった斬りされ、一面に血が飛び散っていた。(同記念村史)

◇戦火が及ばなかった浜に近い桃原で、「盛栄オジー」は、山中の小屋に避難している人の下山を促していたことから、スパイの嫌疑をかけられていた。そんな折、那覇市から桃原に避難していた高嶺さん一家を日本兵が襲撃し、手榴弾のような爆発物を投げ込んで妻を死亡させた。狙われていた「盛栄オジー」一家と間違えたのではないのかと囁かれた。死亡した妻の死体は頭から顔面、手足が焼けただれた無残な姿だった。(同記念村史)

◇沖縄戦終焉の6月23日から、その10日後の7月4日、宣名真、辺戸の住民4人(男)が、米軍が設置した収容所から解放され部落に帰る途中、追いかけてきた敗残日本兵数人に襲われ殺された。敗残兵は「収容所に入った者はスパイだ」と言っていた。(同記念村史)
posted by マスコミ9条の会 at 15:50| Comment(0) | 戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月15日

敗戦から72年、おれのルーツを探る

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765
労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年08月13日
敗戦から72年、おれのルーツを探る

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 8月15日で敗戦から72年になる。8歳のおれが80歳になったのだから間違いない。今読んでいる『関東軍火工廠史』、676ページの本の266ページまでいった。小さい活字でしかも印刷が薄いので読むのに難儀している。おれの断片的な記憶と合致する記述がかなりある。戸塚陽太郎という父の名も出てきた。

 この軍需工場は関東軍の経営であって、関東軍の将校をはじめ軍人が直接工場建設・運営に当たっていた。父たち下っぱも陸軍軍属(雇員)として関東軍の組織に組み込まれた。工場労働は何千人かの中国人(満人)で、手記の中では苦力(クーリー)と呼ぶ人も。典型的な植民地経営だったと言える。

 さて工場の主体となった関東軍だが、もともとは遼東半島の関東州の守備隊だった。それが南満州鉄道も守るという名目でどんどん勢力を増大する。関東とは万里の長城の東という意味で満州全体を指した。関東軍はその後、張作霖爆殺、満州事変、満州国設立、支那事変、ノモンハン事件等を引き起こした。

 最初旅順に置いた司令部を1934年には新京(長春)に移す。太平洋戦争を始める41年には兵力74万を擁し「精強百万関東軍」と豪語した。おれたち一家はその関東軍全盛期の40年、満州へ渡った。親父もこんなに強い関東軍に絶大な信頼を置いていて何ら心配もしなかったに違いない。

 ところがである。いざソ連軍がソ満国境を越えて侵攻してくるとなすすべもなく敗退する。司令部は新京から朝鮮国境に近い通化に移す。つまり百万を超える在満避難民を見捨てるのだ。そんな中で起こったのが葛根廟事件。女子どもを中心にした避難民がソ連の戦車に蹂躙されて1000人以上が殺された。

 そこでおれたち一家がいた関東軍火工廠第一工場だが、ここにも沢山の関東軍将校がいた。20代後半から30代の若い将校で、ほとんどが少尉、中尉などの尉官だった。まだ読みかけだが『関東軍火工廠史』によれば、将校にもいろいろな人物がいたようだ。戦争の前線でなく、工場経営を任務とする軍人にはそれ相応の能力が要求される。特にソ連や八路軍との折衝能力の優劣は生死の分かれ目だったようだ。

 おれはかつて新聞OB会の文集に満州時代のことを書いたが、おれたちの町を占領したのはソ連ー国府軍ー八路軍とした。これは間違いで、ソ連ー八路軍ー国府軍だった。つまり引き揚げは蒋介石の国府軍によって行われたことになる。そんなことも含めておれの記憶違いがいくつも改められた。これからもおれのルーツを確かめるため暑さにめげずがんばるつもりだ。
posted by マスコミ9条の会 at 17:15| Comment(0) | 戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

沖縄ノート(5) 「沖縄戦」とはどのようなものだったのか(前)

17年07月30日
沖縄ノート(5) 「沖縄戦」とはどのようなものだったのか(前)

■坂本陸郎(JCJ運営委員;広告支部会員)

  沖縄戦について、その戦況をざっと追ってみる。


米軍上陸前
 沖縄に守備軍として12万の第32軍が配備されたのは米軍上陸前年の1944年であった。
 その動機となったのは、中部太平洋上のトラック島への米軍の侵攻であった。戦況を危ぶんだ大本営は急遽、作戦会議を開き、沖縄をふくむ南西諸島や台湾方面の防衛強化に乗り出した。
 それまで、沖縄では陣地や飛行場が造られ、その建設労働に住民が駆り出されるなどしていた。飛行場の建設は特攻隊の攻撃に備えるためだったのだが、それ以外は、沖縄本島の中城湾や西表島に要塞を建設する程度で、地上戦への備えらしきものはなかった。当時の兵隊たちは住民の家や学校などに寝泊まりし、住民と雑居する日々を過ごしていた。
 1944年10月、沖縄は大規模な空襲に見舞われ、建設した基地のほとんどが破壊された。その後は米軍の偵察機が上空を飛行するようになった。
 1945年3月23日、沖縄本島が再び激しい空襲に見舞われると、その日の夕刻には、本島の南90キロに、海一面を覆うかのような夥しい艦艇群が姿を現し、翌日には艦載機による空爆と、本島南部への艦砲射撃が一斉に始まった。沖縄戦の始まりである。


作戦の失敗
 沖縄に配備された32軍の司令部は、当初の沖縄南部への艦砲射撃から推して、米軍が本島南部の湊川方面に上陸するものと判断し、南部を固める作戦をとった。それにより、米軍の上陸地点を本島南部の島尻と見立て、軍の主力を集中させ攻勢に出る、本島中部の中頭方面に上陸した場合は、地上での持久戦で戦うという作戦を立てた。
 そのため、本島中部(嘉手納)、北飛行場(読谷)の高射砲部隊を南下させ、部隊を首里近くの識名に移した。さらに、北飛行場(読谷)と嘉手納飛行場を放棄し兵員を移動させた結果、本島中部は手薄となっていた。
 3月25日、米軍は本土の西20キロの、無防備であった慶良間列島に砲撃を加え、続いて座間味島、伊江島に上陸を開始した。本島南部に上陸するものと判断した軍司令部は裏をかかれる結果となった。さらに、米軍は那覇から10キロ離れた神山島にも上陸、砲台を据えて32軍の根拠地である首里に向けて砲火を浴びせ始めた。
 やがて本島の南と西の海上を、戦艦10隻、巡洋艦9隻、駆逐艦23隻、砲艦117隻、大型輸送船80隻、戦車上陸用舟艇(LST)80隻、小型舟艇400隻という、世界海戦史上最大ともいわれた艦隊が海上を埋め尽くし、慶良間列島から沖縄本島中部への上陸作戦を開始した。
 戦後、沖縄の或る参謀が、当時の作戦について率直に語っている。
 「アメリカ軍の上陸予想地は数か所あったが、兵力が不足するので全部は守れない。簡単に表現すれば、試験にやまをかけてはずれたということになる」。


エイプリルフール
 1945年4月1日、米軍は沖縄本島中部の北谷、嘉手納、読谷山の海岸に上陸した。その時、日本軍の主力は南部の島尻にあり、上陸は何の抵抗もなく行われた。
 日本軍の猛攻撃を覚悟していた米兵たちは、その日が4月1日であったことから「エイプリルフールではないのか」などと言って不思議がったという。兵員移動後、残されたわずかな兵力では、米軍機の空爆と海上からの砲撃の中で、なすすべはなかった。
 上陸した米軍は、無人の境を行くかのように、その日のうちに二個師団と戦車すべてを運び終えた。慶良間や座間味の離島でも、彼らが恐れていた戦闘はなかった。
 伊江島に上陸した従軍記者アーニー・パイルは、その時の様子を次のように書き残している。
 「みんなには、上陸するときは雨あられと降る弾丸、砂を跳ね飛ばす迫撃砲弾や野砲のうなりのなかに突っ込んで行くものだとの予想があった。だが、前方からは一発の弾丸も飛んでこない。ウソではないのだろうか。上陸作戦にはつきものの大量殺戮の場面は、そこでは見事と言っていいほどなかった。いまだかつて私は沖縄のような上陸作戦を見たことがなかった。部隊に一人の戦死者もなく、一人の負傷者もなかった。衛生兵たちは、ほうたいや医薬品、担架などのそばになすこともなく座っていた」。
 だが、やがて熾烈な戦闘が繰り広げられることになる。
20170815.JPG

「捨て石」
 米軍が戦わずして上陸ができたのは、前述のような上陸地点判断の誤りと同時に、沖縄守備隊には、沖縄を防衛するだけの戦力そのものが不足していたからであった。その兵員不足の背景には次のような事実があった。
 1944年、アメリカ軍がレイテ島に上陸、フィリピンでの戦闘が不可避となり、大本営はフィリピン方面へ兵団を移すことを決定した。そのため、大本営は、米軍の上陸を目前にした44年の12月、沖縄の精鋭師団であった第9師団を、現地司令官の反対を押し切って、台湾に移すという措置をとった。そのため、沖縄守備隊の戦力不足は決定的となっていた。
 大本営は、この作戦に一時は難色を示したともいわれるが、結局は、持久戦を認めながら、現地の派兵要求には応じなかった。しかも大本営は、米軍上陸の2週間前に32軍指揮官の入れ替えまで行い、沖縄の地形も部隊の実情も知らない指揮官二人を、中国戦線から移動させ、沖縄に着任させた。そのことからも沖縄防衛隊の弱体化は避け難かった。
 政府と大本営が、米軍の本土進攻を遅らせるために、沖縄を「捨て石」としたことは明らかである。米軍の沖縄上陸に直面し、一方、フィリピンへ増兵を迫られた大本営の狼狽と混乱をも窺がえるのではないのだろうか。


上陸後
 1945年4月、沖縄本島中部の嘉手納海岸に上陸したアメリカ軍は、無防備となった読谷山の北飛行場をその日のうちに占領、その後、東から南へと侵攻、北谷海岸に上陸した部隊も南へと向かった。アメリカ軍は西海岸と本島中心部、東海岸の三方から攻略し、沖縄本島を南北に断ち切る作戦であった。それを許したのは、32軍司令部が上陸地点となった中部の中頭地区を無防備としていたからだった。
 上陸後、アメリカ軍は日本軍の司令部が置かれていた首里を目指して南下を始めた。32軍司令部は動揺し、「攻勢」に出るか、「守勢」に回るかの作戦を迫られた。沖縄守備隊司令部は立場上、「攻勢」を主張したのだが、きわめて困難であった。


嘉数高地
 嘉数(かかず)高地は、陣地の置かれた浦添城址に近接し、沖縄守備隊32軍の「防壁」とされた最重要地点であった。その一帯で両軍の攻防が繰り返され、嘉数は沖縄戦最大の激戦地となった。そのことから沖縄戦の天王山ともいわれている。
 4月19日、沖縄守備隊は、奪われた嘉数「七〇高地」奪還のために夜襲攻撃を試みた。だが失敗する。その後、アメリカ軍は嘉数高地正面を攻撃、それに対し守備隊は、臼砲、迫撃砲、機関銃で反撃し、壮絶な地上戦となった。
 だが、45万の兵に対し兵12万、衆寡敵せず、武器、火力で圧倒された沖縄守備隊は三分の一の兵を失う結果となった。その後も日本軍は各地で苦戦を重ね、守備隊は嘉数高地からの後退を余儀なくされ、南へと軍を移した。
 4月下旬、米軍の攻撃はいっそう激しさを増し、守備隊の兵員は減り続け、残った兵員を合同せざるを得なかった。戦況の悪化とともに、新たな戦略を迫られた守備隊は、東と西の海岸から北上し、丸木舟や特攻艇によって米軍の後方からの攻撃を試み、西海岸から上陸した部隊が死闘を挑み、米軍を怖れさせ、かなりの損害を与えたものの、自軍のほとんどが戦死した。
20170815a.JPG

「肉薄攻撃」
 5月になると、日本軍は包囲され完全に孤立し、司令部との連絡さえつかない状態となった。戦況が絶望的となると、歩兵に機雷を担がせ米軍の戦車めがけて突っ込むという「肉迫攻撃」を繰り返した。海上でも、魚雷を積んだ魚雷艇で米艦船に突っ込む「肉迫攻撃」で戦った。
 当時の政府は沖縄の戦況をどう理解し、何を考えていたのだろうか。
 当時の鈴木貫太郎首相が、現地将校と官民向けの放送〈4月26日〉を通じて、一億国民の一致団結を訴え、天皇に仕えるべきと諭し、そのうえで次のように伝達している。
 「我が肉弾による特攻兵器の威力に対しては、敵は恐怖をきたしつつある。今後、日本独特の作戦に対して、敵の辟易することは火を見るよりも明らかである。私は、諸君がこの神機をつかみ、勝利への鍵を確かと握られることを期待してやまぬ。わたしども本土にある国民もまた、時来たらば、一人残らず特攻隊員となり、敵に体当たりをなし、いかなる事態に立ち至ろうとも、絶対にひるむことなく、最後まで戦い抜いて、終局の勝利を得んことを固く決意している」。
 肉弾攻撃を賞賛する勇ましい内容である。だが、「終局の勝利」とは何を意味していたのか。沖縄戦は勝利を掴む「神機」だったのか。その年の8月、日本は降伏し戦争は終結した。鈴木首相の回顧録には、就任当時から終戦を決意していたと書かれているという。

※以上は主に池宮城秀意著『戦争と沖縄』(1980年版)を資料とした。戦闘経過を示す地図も同著から。写真は『大日本帝国の戦争』(毎日新聞社)から転載した。沖縄出身の著者は、少年のころ「沖縄防衛隊」に徴用され、米軍の捕虜となった経験を持っている。戦後は「うるま新報」編集局長、琉球新報社長、会長を歴任した。次号では著者の見た戦場での沖縄県民の悲劇に触れてみたい。
posted by マスコミ9条の会 at 16:49| Comment(0) | 戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月07日

玉砕はなぜ決行されなかったか

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765
労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年08月05日
玉砕はなぜ決行されなかったか

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 手元に「関東軍火工廠史」(後編)と題したA5版689ページの本がある。関東軍火工廠はおれの父が働いていた軍需工場で、中国東北部(旧満州)遼寧省遼陽県遼陽市にあった。父はもともと東京・王子にあった陸軍造兵廠に勤めていた。1940年(昭和15年)に転勤になり家族揃って渡満した。

 1945年8月9日、ソ連軍が突如国境を越えて満州へ攻め込んできた。「世界最強」を豪語していた関東軍だが実は張り子の虎で、なすすべもなくソ連軍に蹂躙された。そして8月15日の敗戦、父の勤めるていた工場は大波に晒された。工場の配属将校たちは右往左往するだけで何もてにつかなかった。

 結局、ソ連軍が工場を占拠する前に住民を巻き込んで玉砕することになる。決行日は8月25日。多量の爆薬が小学校の床下に仕掛けられ、その上で住民たちがお経を上げた。おれの父は自警団のようなものを組織して放火された家屋の消火などにあたった。おれの家族は父の友人の家に合流して玉砕を待った。

 玉砕は実行寸前に中止された。決行されていれば、日本敗戦史でもまれに見る集団自決になったろうし、第一今のおれは存在しなかった。父の生前、この玉砕中止のいきさつについて聞いたことがあるが、父も詳しくは知らないようだった。それがずっとおれの心の中に澱(おり)のように残っていた。

 今年6月8日おれは80歳になった。そろそろ終活に本腰を入れなければならない。そんな気持ちで「関東軍火工廠」をネットで検索、冒頭の本に辿り着いた。京都にある「将軍堂」という古本屋に1冊だけ在庫があった。2万円というのはちょっと高価だが背に腹は代えられない。早速購買の手続きをした。

 前後編2分冊の「関東軍火工廠史」(後編・1980年発行)は遼陽桜ヶ丘会の編集・発行。遼陽桜ヶ丘会というのは関東軍火工廠に勤めていた人たちの同窓会組織だ。本は会員頒布で定価がない。父は1983年死んだが、亡くなる前に郵便で本の購読を勧める宣伝物が来ていた記憶がある。

 本を読み始めたところだが、貴重な証言が盛り沢山だ。1980年というとまだ戦後35年で、おれの父もそうだが、まだ多くの当事者が生きていた。もう今では殆ど他界されていることだろう。これからじっくり読み砕いて「集団自決」の真相に迫ろうと思う。できればおれ流にまとめてみたい。
posted by マスコミ9条の会 at 16:13| Comment(0) | 戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月14日

名護市長選をめぐり沖縄情勢は緊迫

100人会 沖縄 14・1・13
      名護市長選をめぐり沖縄情勢は緊迫


                         池田龍夫

 沖縄米軍普天間飛行場(宜野湾市)の名護市辺野古への移設問題が最大の争点となる名護市長選挙が1月12日、告示された。いずれも無所属で、再選を目指す現職稲嶺進氏(68)=共産、生活、社民、沖縄社大推薦=と新人の前県議末松文信氏(65)=自民推薦=、の2人が立候補を届け出た。19日に投票、即日開票される。日米両政府が普天間の移設・返還で合意した1996年以降、移設が争点の市長選は5回目。前々回までの3回は容認派が勝利し、前回初めて反対派の稲嶺氏が当選した。今回は、反対を掲げる稲嶺氏に移設推進の末松氏が挑む構図で、沖縄はもとより日本の命運を左右する重大な選挙だ。

県議会が「言語道断、仲井知事は信を問え」と決議
 
 沖縄県議会は10日、「仲井真弘多知事は、米軍基地建設のための辺野古埋め立てを承認しながら、『県外移設の公約を変えてない』と非を認めず、開き直る態度は不誠実の極みだ。これほど民意に背を向けた県知事はいない。戦後69年、復帰後42年を迎えようとする中、昨年1月の県民総意の『建白書』に込めた決意を否定し、県民の中に対立を持ち込むもので、言語道断である。沖縄の自立を遠ざける方向へ後戻りを始めた仲井真知事は、公約違反の責を認め、その任を辞して県民に信を問うよう求める」との決議文を知事宛に提出した。

「沖縄人の苦難を永続させる」と世界の著名人が声明
 
 本土の関心は今ひとつの感じで、マスコミの取り上げ方も弱い印象をぬぐえない。ところが、海外著名人の関心は高く、オリバー・ストーン氏ら29人が1月7日、辺野古移設反対の声明を発表。『県民の民意を反映しておらず、沖縄の人々の苦難を永続させることになる』と批判した。
毎日新聞8日付夕刊が伝えたもので、「ストーン氏(アカデミー賞受賞者)に加え、『敗北を抱きしめて』の著書で知られるジョン・ダワー氏、ベトナム戦争時の国防総省極秘文書を暴露したダニエル・エルズバーグ元国防次官補佐官も名を連ねている」という。

      本土からの抗議が希薄だ

 琉球新報11日付朝刊は「沖縄の正当性の証明だ、もっと世界に訴えよう」と題する社説を掲載。「声明は、その内容に意義がある。日米両政府に対する本質的批判が並んでいるからだ。中でも、沖縄の現状を『軍事植民地状態』と言い切ったのが画期的だ」と高く評価している。また同紙は「毎日」が挙げた著名人3氏のほか、ノーム・チョムスキー氏(言語学者)マイレッド・マグワイア氏(ノーベル平和賞受賞者)マイケル・ムーア氏(アカデミー賞受賞者)らの文化人を紹介していた。

 本土の知識人をはじめ国民がもっと声を大にして、沖縄差別の実態を批判すべきではなかったか。いまからでも遅くはない。日米両政府に対し再検討を迫るべきである。

(いけだ・たつお)1953年毎日新聞入社、中部本社編集局長・紙面審査委員長など。
posted by マスコミ9条の会 at 11:13| Comment(0) | 戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年07月26日

2012年04月13日

2012年03月13日

マスコミ9条の会ブログ