2017年09月13日

沖縄ノート(6)「沖縄戦」とはどのようなものだったのか(後)

17年08月25日
沖縄ノート(6)「沖縄戦」とはどのようなものだったのか(後)

■坂本陸郎(JCJ運営委員;広告支部会員)


避難と敗走
 アメリカ軍の上陸地点となった読谷山、嘉手納、北村付近の住民が米軍上陸の事実を知ったのは上陸の三日後だった。それまで、住民は空襲を避けて防空壕や墓の中に身を潜めていた(沖縄の墓は丘の斜面などに掘られていることから壕として避難に適していた)。
 米軍上陸後は、手榴弾によって自決した住民もいたのだが、米兵の指示に従って恐る恐る壕から出て捕虜となり、米軍が用意した収容所に送られる住民もいた。あるいは激戦地を離れて南へと逃れて行った住民も多かった。
 首里防衛を断念した沖縄第三十二軍は、住民に続いて南部の島尻への移動を始めた。空軍の特攻攻撃も敵軍の戦力を削ぐまでには至らず、海軍に援護を求めたのだが、主力艦「浜風」「大和」「矢矧」はすでに撃沈され、海の藻屑と化していた。

鉄血勤皇隊
 沖縄戦では、本土出身の約6万5000人の兵(その多くが中国と南方からの配備)と、沖縄で集められた約3万人の即製の兵と、一般民間人約9万4000人が犠牲となった。そのほかに、朝鮮半島から軍夫(強制徴用された労働者)と従軍慰安婦約1万人も犠牲となっている。一般民間人の犠牲者数はおそらくそれ以上であっただろう。それら正確な数はいまなお明らかになっていない(新崎盛暉著『沖縄現代史』岩波新書から) 。
 沖縄の青少年の犠牲も少なくなかった。中学生や師範学校の生徒が兵(学徒)とされ、下級生は電話線の仮設工事、発電機の操作などに動員され、上級生は「鉄血勤皇隊」として編成され、機雷を担いで突撃する「肉薄攻撃」に使途されたが、半数以上が戦死した。首里攻防最後の砦であった弁ケ岳の戦闘では、学徒だけで編成した一個分隊全員が「肉薄攻撃」によって全員が戦死した。15歳で徴用された『戦争と沖縄』の著者池宮城秀意氏が、徴用された当時の様子をこのように語っている。
「私たちの集団には軍人らしいものは一人もいませんでした。小隊とか中隊といっても全部社会人ばかりです。ちょうど今でいえば、PTAの人たちを急に招集して軍隊にしたようなものです。巻脚絆を絞めたことさえない者ばかりでしたので、まずこれを練習しなければならないというありさまでした。これでは軍隊にならない、ただの集団にすぎません。日本陸軍の二等兵ということになっていましたが、まさに子供と大人の寄せ集めをしたものが防衛隊だったのです」

「かく戦えり」
 沖縄で最も川幅が広い国場川が軍と住民の南下を妨げていた。その橋を渡らなければ南の島尻へ行くことができなかった。その川の上に架かる真玉橋周辺をアメリカ軍は狙い撃ちした。そのため、真玉橋一帯は死屍累々となった。命をとりとめて渡り終えた住民も、その後は飢えに苦しみながら南部の戦場をさまようことになった。
 一方、南部の摩文仁へ撤退した第三十二軍は、完全に包囲されていた。中部の小禄にあった海軍の部隊は南下ができず、そこでも孤立していた。援軍のない部隊の孤立は死を待つしかない。最期を決意した海軍の太田司令官が海軍次官あてに次のような電文を送っている。
「沖縄に敵が上陸をはじめてから、陸軍も海軍も戦闘に専念し、県民のことはほとんどかえりみるひまがなかった。しかし私の知る範囲では、県民は青壮年の全部が防衛招集になり、残った老幼婦女子は、あいつぐ砲爆撃で家や財産は全部焼かれてしまい、きのみきのままで、軍の作戦に邪魔にならない所の小さな防空壕に避難し、風雨にさらされながら困難な生活をおくっている。(中略)陸海軍は沖縄に駐留してから、ずっと勤労奉仕や物資の節約を強いられながら奉公したが、報われることなく、戦争は末期になり、沖縄島は焦土となるであろう。沖縄県民かく戦えり、県民にたいし後世特別の御高配を賜らんことを」
 その後、太田司令官が自決したことを思えば、電文は良心の吐露ともとれる。絶望的戦況も住民の惨状も書かれている。だが、軍による住民虐殺の事実をどれほど知っていただろうか。

殺戮と集団自決
 沖縄では、軍人9万4000人、住民15万人といわれる人命が失われ、生き残った人々も地獄と化した戦場をさまよった。その80日あまりの沖縄戦は、6月23日にようやく終結する。
 沖縄戦といえば、ひめゆり学徒隊や鉄血勤皇隊が語り草ともなるのだが、沖縄では、さまざまな殺戮があったことが語り継がれている。沖縄戦は、日本軍の蛮行による血塗られた悲劇でもあった。兵隊と住民が雑居する洞窟(ガマ)で何が起きたのか。
 ガマに逃げ込んだ軍隊と住民の食糧は、日を追うごとに底をつきはじめ、弾雨あられの中で、飲み水を探すことさえできなかった。傷ついた体は、やがて腐り、兵と住民がともに隠れるガマの中には腐臭が漂っていた。
絶望的な日々を暮らすうち、兵士たちの恐怖が住民に対する猜疑心を増幅させた。米兵に居所を知られたくない彼らは、住民の密告を恐れ、それが、同胞住民の殺戮へと向かった。
 兵たちは、ガマを出ようとする住民を背後から射殺した。米兵に気づかれるのを怖れ、泣く子を母親から引き離し殺した。そして住民を集団自決へと追いやった。陣地付近をうろつく住民がいると、それをスパイだとし、殺した。見せしめに同じ住民を使って殺させることもあった。
 軍は住民に集団自決を強要した。米軍最初の上陸地点となった慶良間列島の渡嘉敷島では、日本軍によって島民329人が集団自決に追い込まれた。座間味島では、軍が農産物と食糧を統制し、供出に違反する島民をつぎつぎと殺した。日本兵が同胞である住民を殺すことをためらわなかったのは、太田司令官軍の電文から読み取れるように、軍の目的が住民の生命を守ることではなかったからだが、それに加えて、兵たちが他民族の殺戮を当たり前とする中国などの戦地から配備されていたことが考えられる。(以上は、主に池宮城秀意著『戦争と沖縄』を資料とし、筆者の考えたことも加えて書いたものだが、住民の死者数が前出著『沖縄現代史』の数とは異なっている。「(その数は)いまだに明らかになっていない」と新崎盛暉氏は著書のなかで述べている)。

さまざまな殺戮
 次は、著書と国頭村の村史から殺戮の証言を拾い出したものである(村史は赤旗から引用)。
◇15歳の時、目の見えない母と10歳の弟二人を連れて逃げ回った。飲む水もなく、池から水を汲んできて飲んだ。その池には死体が浮かんでいた。いつかは日本軍が助けに来ると思っていた。だが信じていた日本軍は沖縄の人を殺した。戦争に負けるのをわかっていた日本軍は民間人を壕(ガマ)の入り口近くに追い出し、自分たちはガマの奥に隠れていた。子供が泣くと、口にタオルを押しこんたり、子供を母親からとりあげて殺した。自分の子供を日本軍に殺されるより、親子ともガマを出て弾に当たって死ぬ方がいいといって出ていく人が多かった。アメリカに助けられたのはありがたい。でも戦争をしたのが憎い。(国頭村制度施行百周年記念村史「くんじゃん」)
◇「五、六人の白ハチマキの女が、エイ、エイと声をあげながら、電柱に縛り付けられた女を短刀で交互に突き刺している。傍らに立つ兵が、しっかり突かんか、と大声をあげている。女の泣き声は断末魔の声となった。と同時に、短刀を突き刺す女たちの掛け声は泣き声に変わった。この時、どけ、どけ、と日本兵が女たちを押しのけると、腰の刀を抜き放ち、縛られた女めがけて刀を振り下ろした。すると女は首を垂れ、動かなくなった」(首里近くで目撃した学徒兵の証言)
◇伊江島では、アメリカ軍の命令で若い女五人と男一人が赤松の日本軍陣地に白旗をかかげ向かった。彼らは陣地近くで捕縛され、それぞれの穴を掘ることを命じられ、その後は、後ろ手に縛られ、穴の前に座らされた。日本刀を抜きはらった下士官が「言い残すことはないか」ときいた。三人の女が歌を歌わせてほしいと答えると、許され、軍歌「海ゆかば」を歌ったが、男女五人とも斬殺された。(岩波新書『沖縄』63年刊)
◇半地(地名)に読谷村から多くの人が避難していた。「知花屋」に居住していた数名の読谷村民が日本兵に「スパイ」だとされ、百メートル先のザークービー(座峠)に連行され、4人から5人が手首を縛られ、めった斬りされ、一面に血が飛び散っていた。(同記念村史)

◇戦火が及ばなかった浜に近い桃原で、「盛栄オジー」は、山中の小屋に避難している人の下山を促していたことから、スパイの嫌疑をかけられていた。そんな折、那覇市から桃原に避難していた高嶺さん一家を日本兵が襲撃し、手榴弾のような爆発物を投げ込んで妻を死亡させた。狙われていた「盛栄オジー」一家と間違えたのではないのかと囁かれた。死亡した妻の死体は頭から顔面、手足が焼けただれた無残な姿だった。(同記念村史)

◇沖縄戦終焉の6月23日から、その10日後の7月4日、宣名真、辺戸の住民4人(男)が、米軍が設置した収容所から解放され部落に帰る途中、追いかけてきた敗残日本兵数人に襲われ殺された。敗残兵は「収容所に入った者はスパイだ」と言っていた。(同記念村史)
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2017年08月28日

世界を「敵」に回す北朝鮮の実相

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765
労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年08月25日
世界を「敵」に回す北朝鮮の実相

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 8月14日、北朝鮮の白頭山で「第5回白頭山偉人を讃える国際祭典」が開かれ、外国から58カ国73団体196人が参加した。日本からは18人、そのうちの1人が水谷研次さん。水谷さんはおれと入れ違いに都労委委員になった元連合東京のオルグで、おれより一回り若い。6年前に退任し今労働審判員をしている。

 白頭山の偉人というのは、ここを本拠にして抗日パルチザンをたたかった金日成とここで誕生した金正日のこと。祭典では「反帝国主義、社会主義の砦である朝鮮を支持する活動をさらに力強く展開していく」との「2017年白頭山宣言」を採択、シュプレヒコールを斉唱しデモ行進をした。

 ――水谷さんは「シジフォス/ウェブリブログ」というブログでほぼ毎日、労働運動をテーマにした小論文を発表している。これは情報量も物凄いし、方向性がしっかりしているので活動家必見だ。おれはしばしばパクリ(無断引用)をやっているが、年に一回会う都労委の同窓会「三睦会」の席上白状したら笑って許可してくれた。この文章も「シジフォス・・・」からの無断引用である。

 というわけで水谷さんの平壌寸景からいくつか拾って紹介する。「2年前はガラケ―が多かったが、今はスマホが全盛、白頭山頂でも使える」「次々に新しい建造物が設置されたり、リニューアルされている」「若い女性たちはさらにお洒落になっていた。プレスレッドやネックレスも」「最近開館した科学技術殿堂も巨大な施設で、その中心には2012年に人工衛星を打ち上げた銀河3号の模型が」。

 「(日本代表の中に)初めての訪朝という方が4人もいて、まったく見方が違ったと言っていた。社会主義が崩壊しなかったこの国は、未だに全世界を『敵』に回しても急速な発展途上にある。そして米国の圧力に苦しむ多くの非同盟諸国からは希望の光明として仰がれている。しかし、日本は未だに『過去の清算』を行わないどころか、仮想敵国として嫌い、差別(侮辱)し、『制裁』を続け、国交を結ばない」。

 水谷さんは「日本の青年は将来に希望を持てないでいるが、朝鮮の若者は未来への明るい展望がある」という。おれも北朝鮮に偏見や侮蔑意識を持っているとは思っていないが、水谷さんのいう「社会主義が崩壊しなかったこの国」という規定には直ちに同意できない。それは実際に見てきた人と日米メディアにミスリードされている者の違いなのかも知れないが・・・・。
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内閣人事局に首根っこを押さえられた官僚たち

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765
労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年08月22日
内閣人事局に首根っこを押さえられた官僚たち

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 高級官僚の人事を一手に握る「内閣人事局」が設置されたのが2014年6月、初代局長が加藤勝信、次が荻生田光一で今は杉田和博である。杉田氏は警視庁公安畑出身でこの前まで内閣官房副長官を務めていた。この内閣人事局、今更ながら多くの問題が指摘されている。「疑惑隠しに批判の声」「安倍政権の官僚人事私物化」「隠ぺい加担に論功行賞=v「調査拒否を徹底」(8月21日付『赤旗』)。

 『赤旗』が疑惑隠し”栄転$l事だとして第一に問題にするのは、森友疑惑の渦中で財務省理財局長をしていた佐川宣寿氏の国税庁長官就任。佐川長官は歴代長官が恒例としてきた就任会見もしない。ひたすら批判を避け続けている。安倍明恵首相夫人付職員の谷査恵子氏もイタリア大使館一等書記官になった。

 この内閣人事局については22日付『毎日』も、「いびつな政権運営 内閣が掌握した人事」のタイトルでジャーナリストの森健氏にその異常さを語らせている。「人事権が官僚側だけで収められていた状況であれば、防衛省でも内閣府でも文科省でも、事実に基いた適切な証言がなされた可能性がある。だが、内閣人事局に官僚の人事も握られたことで、官僚は政治にモノが言えなくなってしまった」。

 森氏は福田康夫元首相が共同通信のインタビューで「政治家が人事をやってはいけない。安倍内閣最大の失敗だ」と発言したのを紹介、「こうした動きで思い出されるのは戦中の東条英機内閣である」と指摘する。東条は、憲兵を使って批判派を四六時中監視し、翼賛政治体制をつくりあげたというのだ。

 自民党内部から福田元首相のほかにも翼賛人事≠ノ対する不協和音が聞こえ始めた。次期総裁候補の1人石破茂氏は20日、佐川国税庁長官の態度を「国税庁長官は、みなさんに(税金を)払ってくださいという立場だ」「会見しないというのは、納税者1人ひとりと本当に向き合っているのか」と批判。

 同党の平沢勝栄議員も「官邸が官僚組織を、人事を通じて丸ごと掌握する形が果たしてよかったのかどうかは、再検討すべきと感じます」と疑問を投げかけている。

 日本の官僚というのはそれなりに優秀だし、力も発揮する。森氏が言うように「事実に基いた適切な証言」が得られる可能性もある。しかしそれは政治権力からの独立が保証されていることが前提になる。内閣人事局に首根っこを押さえられていては持っている能力を発揮することもできない。政権の狗に過ぎなくなるのではないか
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「テロのインスタント化」の恐怖

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年08月19日
「テロのインスタント化」の恐怖

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 スペインのバルセロナで13人が死亡するテロがあった。「スペイン北東部バルセロナ中心部のランプラス通りで17日午後5時(日本時間18日午前0時)ごろ、歩道に車が突っ込んだ。地元政府などによると死者数は13人、重軽症者は約100人に上り、うち15人が重篤な状態という」(19日付『毎日』)。事件後ISが犯行声明を出した。ランプラス通りというのは観光客でにぎわう繁華街である。

 1996年2月、おれは佐藤一晴さんが団長の「MICイベリア半島周遊旅行」に夫婦で参加してバルセロナに3泊した。佐藤さんと同じように故人になられた加藤親至さん夫妻、荒川恒行さんも一緒だった。市内見物でガウディが建てたホテルや公園を巡ったが、この時ランプラス通りも通った記憶がある。

 今回のテロの犯人は、レンタカーのワゴン車に乗って時速80キロのスピードのまま500メートルを、人をはねながら猛進したという。ISのテロというと前は銃や爆発物だったが、最近は車を凶器に使用することが多い。昨年7月、南仏ニースでトラックが花火見物客を襲い86人が轢き殺された。

 19日付『毎日』はこの「車を使ったテロ」を「テロのインスタント化」と分析した内藤正典同志社大教授の談話を紹介している。内藤教授によれば、車は誰でも簡単に入手できるし、テロ実行者としての特殊な訓練も要らない。ISの主張に共鳴した普通の人がいつでも凶行に及ぶ可能性があるという。

 ISがシリアの拠点を失い、集中していた戦闘員が世界に飛び散っている、と内藤教授は指摘する。「この種のテロはこれからも続くだろう。こうなると、人が集まる場所がいくつもある日本でも例外ではない。米国と協調する日本の中東政策は、イスラム教徒との緊張関係を強めるおそれがある」。

 バルセロナのテロを受けて安倍首相は「大きな衝撃と憤りを禁じ得ない。卑劣なテロを断固として避難する」というメッセージをスペイン首相にいち早く送った。文面は決まり文句の範囲を出ないが、アメリカ追随の日頃の言動と合わせれば、十分テロの標的となり得る。軽率に動いてもらいたくない。

 「車を使ったテロ」を防ぐ難しさが改めて浮き彫りになったのが今回の事件だ。戦力放棄の憲法を持つ日本の役割はどこにあるのか。今こそ世界史的に試されているのだとおれは思う。
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東京五輪を即時返上せよ

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765
労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年08月16日
東京五輪を即時返上せよ

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 異常気象てある。関東地方は8月に入ってから16日間連続して雨。最高気温も25度前後。まるで梅雨のようだ。昨日は女房の運転でお墓参りに行ってきたが、帰途、猛烈な雨に見舞われた。今日も断続的に雨が落ちている。床屋に行こうと思ったんだけど、途中で降られるのは嫌なので様子を見ている。

 ということで今年は雨に祟られているが、例年なら炎暑のはず。2年後の7月末から8月初めにかけての2週間、東京でオリンピックをやるという。おれは最初から今回のオリンピック開催に反対だった。東京開催が決まったIOC総会で安倍首相が「福島の放射能汚染水はアンダーコントロールされている」と大見えを切った。大ウソである。日本の最高責任者が先頭に立って世界を騙すのは国際的犯罪行為だ。

 8月7日(月)の『毎日』夕刊、牧太郎のコラム「大きな声では言えないが」で「東京五輪病を返上」は実に小気味よかった。「東京五輪を返上しろ」なんて書いていいのだろうか、何度もちゅうちょした末に『サンデー毎日』の「牧太郎の青い空白い雲」に書いたら賛同の声があったという。

 「(返上の)最大の理由は『非常識な酷暑での開催』である。日本の夏は温度も湿度も高い。太陽の熱やアスファルトの照り返し、気温35度、もしかして40度で行われるマラソン、サッカー、ゴルフ・・・・自殺行為ではあるまいか。沿道の観客もむぶっ倒れる」。それにしてもなぜこの時期なのか。

 「アメリカの3大ネットワークのゴリ押しを国際オリンピック委員会(IOC)が認めたからである。メディアの『稼ぎ』のために健康に最悪な条件でおこなう『スポーツの祭典』なんて理解できない」「安倍内閣は『東京五輪のため』という美名の下で人権を制限する『共謀罪』法を無理やり成立させた。東京五輪を口実に、民主主義が壊されようとしている」。――牧さんの指摘は鋭い。

 いま2020年の東京五輪開催へ向けて無理を承知の新国立競技場建設が進められている。ついこの前23歳の現場監督が過労自殺したばかりだというのに、早朝6時半からの現場労働者への教育訓練が行われている(8月9日付『赤旗』)。東京土建は早朝教育の是正を求めて抗議行動をしている。

 ついこの前もこの辺で震度3の地震があった。地震のない国からきた選手たちはびっくりすることだろう。もはやオリンピック開催には何の道理もない。「即座に返上」を提唱する牧さんに心から賛同する。
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2017年08月15日

敗戦から72年、おれのルーツを探る

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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2017年08月13日
敗戦から72年、おれのルーツを探る

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 8月15日で敗戦から72年になる。8歳のおれが80歳になったのだから間違いない。今読んでいる『関東軍火工廠史』、676ページの本の266ページまでいった。小さい活字でしかも印刷が薄いので読むのに難儀している。おれの断片的な記憶と合致する記述がかなりある。戸塚陽太郎という父の名も出てきた。

 この軍需工場は関東軍の経営であって、関東軍の将校をはじめ軍人が直接工場建設・運営に当たっていた。父たち下っぱも陸軍軍属(雇員)として関東軍の組織に組み込まれた。工場労働は何千人かの中国人(満人)で、手記の中では苦力(クーリー)と呼ぶ人も。典型的な植民地経営だったと言える。

 さて工場の主体となった関東軍だが、もともとは遼東半島の関東州の守備隊だった。それが南満州鉄道も守るという名目でどんどん勢力を増大する。関東とは万里の長城の東という意味で満州全体を指した。関東軍はその後、張作霖爆殺、満州事変、満州国設立、支那事変、ノモンハン事件等を引き起こした。

 最初旅順に置いた司令部を1934年には新京(長春)に移す。太平洋戦争を始める41年には兵力74万を擁し「精強百万関東軍」と豪語した。おれたち一家はその関東軍全盛期の40年、満州へ渡った。親父もこんなに強い関東軍に絶大な信頼を置いていて何ら心配もしなかったに違いない。

 ところがである。いざソ連軍がソ満国境を越えて侵攻してくるとなすすべもなく敗退する。司令部は新京から朝鮮国境に近い通化に移す。つまり百万を超える在満避難民を見捨てるのだ。そんな中で起こったのが葛根廟事件。女子どもを中心にした避難民がソ連の戦車に蹂躙されて1000人以上が殺された。

 そこでおれたち一家がいた関東軍火工廠第一工場だが、ここにも沢山の関東軍将校がいた。20代後半から30代の若い将校で、ほとんどが少尉、中尉などの尉官だった。まだ読みかけだが『関東軍火工廠史』によれば、将校にもいろいろな人物がいたようだ。戦争の前線でなく、工場経営を任務とする軍人にはそれ相応の能力が要求される。特にソ連や八路軍との折衝能力の優劣は生死の分かれ目だったようだ。

 おれはかつて新聞OB会の文集に満州時代のことを書いたが、おれたちの町を占領したのはソ連ー国府軍ー八路軍とした。これは間違いで、ソ連ー八路軍ー国府軍だった。つまり引き揚げは蒋介石の国府軍によって行われたことになる。そんなことも含めておれの記憶違いがいくつも改められた。これからもおれのルーツを確かめるため暑さにめげずがんばるつもりだ。
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病院で読んだ平野洋子「あじフライを有楽町で」

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765
労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年08月10日
病院で読んだ平野洋子「あじフライを有楽町で」

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 本10日午前10時、2泊3日の入院生活から解放された。結局大腸内視鏡検査でポリープが1個見つかりその場で切除。胃カメラの方は潰瘍の跡があるが治療は必要ないでしょうとのこと。この程度だと去年までの柏辻仲クリニックでは日帰りコースなのだが、今年はそうはいかない。2泊させられた。

 それでも検査前の「なんか嫌な感じ」が、大腸がん発見!などと的中しなくてひとまず安心。それにしても8日の夕食、9日の朝昼晩の4食絶食には参った。腹が減ってふらふらだ。相変わらず痛む腰をさすりながら柏の葉キャンパスから筑波エキスプレス、武蔵野線、新京成を乗り継いで帰ってきた。

 この間病室で文庫本を1冊読み終えた。平野洋子著「あじフライを有楽町で」。著者が『週刊文春』に連載した食に関するエッセイ78篇をまとめた読み物だ。タイトルに使われた有楽町であじフライを食わせる店というのは交通会館地下1階にある「大正軒」のこと。おれも都労委委員の頃よく通った店だ。

 その大正軒、おれが昼飯になると顔を出していたころはとんかつ定食が主だった。海老フライや牡蠣フライもあったが主力はとんかつで、鹿児島産黒豚使用という細長い板の看板が出ていた。おれはカウンターに座り、注文はロースかつ定食1本。1985年当時800円だったが、都庁が新宿に移転する91年には1100円になっていた。今はいくらなんだろう。それとももうとんかつはやってないのかな。

 この5日、江草さんの「三人展」を観に交通会館のエメラルドルームに行った。その際繁盛しているカウンターだけのラーメン屋の奥に「大正軒」の看板が見えたからまだやっていることは確かだろう。あれからかれこれ25年、ひたすらとんかつを揚げていた親父さんもいい加減の歳になったんだろうな。

 おれは77年に都労委委員になってから91年の新宿移転までの14年間、交通会館5階の事務局に通った。午前、午後と続けて審問があるときには会館内で昼飯を食った。大正軒のほかにも行きつけの店があった。おれは変なところが小まめで、手帳にその日の昼飯を記録したのが残っている・

 「小花寿司」にぎり1.5人前925 「桃園」ちゃんぽん720 {吉田」麦とろ670 「きしめんコーナー」てんぷらきしめん470 「おそめ」上天丼900 「多ちばな」うな重1100・・・。 
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沖縄ノート(5) 「沖縄戦」とはどのようなものだったのか(前)

17年07月30日
沖縄ノート(5) 「沖縄戦」とはどのようなものだったのか(前)

■坂本陸郎(JCJ運営委員;広告支部会員)

  沖縄戦について、その戦況をざっと追ってみる。


米軍上陸前
 沖縄に守備軍として12万の第32軍が配備されたのは米軍上陸前年の1944年であった。
 その動機となったのは、中部太平洋上のトラック島への米軍の侵攻であった。戦況を危ぶんだ大本営は急遽、作戦会議を開き、沖縄をふくむ南西諸島や台湾方面の防衛強化に乗り出した。
 それまで、沖縄では陣地や飛行場が造られ、その建設労働に住民が駆り出されるなどしていた。飛行場の建設は特攻隊の攻撃に備えるためだったのだが、それ以外は、沖縄本島の中城湾や西表島に要塞を建設する程度で、地上戦への備えらしきものはなかった。当時の兵隊たちは住民の家や学校などに寝泊まりし、住民と雑居する日々を過ごしていた。
 1944年10月、沖縄は大規模な空襲に見舞われ、建設した基地のほとんどが破壊された。その後は米軍の偵察機が上空を飛行するようになった。
 1945年3月23日、沖縄本島が再び激しい空襲に見舞われると、その日の夕刻には、本島の南90キロに、海一面を覆うかのような夥しい艦艇群が姿を現し、翌日には艦載機による空爆と、本島南部への艦砲射撃が一斉に始まった。沖縄戦の始まりである。


作戦の失敗
 沖縄に配備された32軍の司令部は、当初の沖縄南部への艦砲射撃から推して、米軍が本島南部の湊川方面に上陸するものと判断し、南部を固める作戦をとった。それにより、米軍の上陸地点を本島南部の島尻と見立て、軍の主力を集中させ攻勢に出る、本島中部の中頭方面に上陸した場合は、地上での持久戦で戦うという作戦を立てた。
 そのため、本島中部(嘉手納)、北飛行場(読谷)の高射砲部隊を南下させ、部隊を首里近くの識名に移した。さらに、北飛行場(読谷)と嘉手納飛行場を放棄し兵員を移動させた結果、本島中部は手薄となっていた。
 3月25日、米軍は本土の西20キロの、無防備であった慶良間列島に砲撃を加え、続いて座間味島、伊江島に上陸を開始した。本島南部に上陸するものと判断した軍司令部は裏をかかれる結果となった。さらに、米軍は那覇から10キロ離れた神山島にも上陸、砲台を据えて32軍の根拠地である首里に向けて砲火を浴びせ始めた。
 やがて本島の南と西の海上を、戦艦10隻、巡洋艦9隻、駆逐艦23隻、砲艦117隻、大型輸送船80隻、戦車上陸用舟艇(LST)80隻、小型舟艇400隻という、世界海戦史上最大ともいわれた艦隊が海上を埋め尽くし、慶良間列島から沖縄本島中部への上陸作戦を開始した。
 戦後、沖縄の或る参謀が、当時の作戦について率直に語っている。
 「アメリカ軍の上陸予想地は数か所あったが、兵力が不足するので全部は守れない。簡単に表現すれば、試験にやまをかけてはずれたということになる」。


エイプリルフール
 1945年4月1日、米軍は沖縄本島中部の北谷、嘉手納、読谷山の海岸に上陸した。その時、日本軍の主力は南部の島尻にあり、上陸は何の抵抗もなく行われた。
 日本軍の猛攻撃を覚悟していた米兵たちは、その日が4月1日であったことから「エイプリルフールではないのか」などと言って不思議がったという。兵員移動後、残されたわずかな兵力では、米軍機の空爆と海上からの砲撃の中で、なすすべはなかった。
 上陸した米軍は、無人の境を行くかのように、その日のうちに二個師団と戦車すべてを運び終えた。慶良間や座間味の離島でも、彼らが恐れていた戦闘はなかった。
 伊江島に上陸した従軍記者アーニー・パイルは、その時の様子を次のように書き残している。
 「みんなには、上陸するときは雨あられと降る弾丸、砂を跳ね飛ばす迫撃砲弾や野砲のうなりのなかに突っ込んで行くものだとの予想があった。だが、前方からは一発の弾丸も飛んでこない。ウソではないのだろうか。上陸作戦にはつきものの大量殺戮の場面は、そこでは見事と言っていいほどなかった。いまだかつて私は沖縄のような上陸作戦を見たことがなかった。部隊に一人の戦死者もなく、一人の負傷者もなかった。衛生兵たちは、ほうたいや医薬品、担架などのそばになすこともなく座っていた」。
 だが、やがて熾烈な戦闘が繰り広げられることになる。
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「捨て石」
 米軍が戦わずして上陸ができたのは、前述のような上陸地点判断の誤りと同時に、沖縄守備隊には、沖縄を防衛するだけの戦力そのものが不足していたからであった。その兵員不足の背景には次のような事実があった。
 1944年、アメリカ軍がレイテ島に上陸、フィリピンでの戦闘が不可避となり、大本営はフィリピン方面へ兵団を移すことを決定した。そのため、大本営は、米軍の上陸を目前にした44年の12月、沖縄の精鋭師団であった第9師団を、現地司令官の反対を押し切って、台湾に移すという措置をとった。そのため、沖縄守備隊の戦力不足は決定的となっていた。
 大本営は、この作戦に一時は難色を示したともいわれるが、結局は、持久戦を認めながら、現地の派兵要求には応じなかった。しかも大本営は、米軍上陸の2週間前に32軍指揮官の入れ替えまで行い、沖縄の地形も部隊の実情も知らない指揮官二人を、中国戦線から移動させ、沖縄に着任させた。そのことからも沖縄防衛隊の弱体化は避け難かった。
 政府と大本営が、米軍の本土進攻を遅らせるために、沖縄を「捨て石」としたことは明らかである。米軍の沖縄上陸に直面し、一方、フィリピンへ増兵を迫られた大本営の狼狽と混乱をも窺がえるのではないのだろうか。


上陸後
 1945年4月、沖縄本島中部の嘉手納海岸に上陸したアメリカ軍は、無防備となった読谷山の北飛行場をその日のうちに占領、その後、東から南へと侵攻、北谷海岸に上陸した部隊も南へと向かった。アメリカ軍は西海岸と本島中心部、東海岸の三方から攻略し、沖縄本島を南北に断ち切る作戦であった。それを許したのは、32軍司令部が上陸地点となった中部の中頭地区を無防備としていたからだった。
 上陸後、アメリカ軍は日本軍の司令部が置かれていた首里を目指して南下を始めた。32軍司令部は動揺し、「攻勢」に出るか、「守勢」に回るかの作戦を迫られた。沖縄守備隊司令部は立場上、「攻勢」を主張したのだが、きわめて困難であった。


嘉数高地
 嘉数(かかず)高地は、陣地の置かれた浦添城址に近接し、沖縄守備隊32軍の「防壁」とされた最重要地点であった。その一帯で両軍の攻防が繰り返され、嘉数は沖縄戦最大の激戦地となった。そのことから沖縄戦の天王山ともいわれている。
 4月19日、沖縄守備隊は、奪われた嘉数「七〇高地」奪還のために夜襲攻撃を試みた。だが失敗する。その後、アメリカ軍は嘉数高地正面を攻撃、それに対し守備隊は、臼砲、迫撃砲、機関銃で反撃し、壮絶な地上戦となった。
 だが、45万の兵に対し兵12万、衆寡敵せず、武器、火力で圧倒された沖縄守備隊は三分の一の兵を失う結果となった。その後も日本軍は各地で苦戦を重ね、守備隊は嘉数高地からの後退を余儀なくされ、南へと軍を移した。
 4月下旬、米軍の攻撃はいっそう激しさを増し、守備隊の兵員は減り続け、残った兵員を合同せざるを得なかった。戦況の悪化とともに、新たな戦略を迫られた守備隊は、東と西の海岸から北上し、丸木舟や特攻艇によって米軍の後方からの攻撃を試み、西海岸から上陸した部隊が死闘を挑み、米軍を怖れさせ、かなりの損害を与えたものの、自軍のほとんどが戦死した。
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「肉薄攻撃」
 5月になると、日本軍は包囲され完全に孤立し、司令部との連絡さえつかない状態となった。戦況が絶望的となると、歩兵に機雷を担がせ米軍の戦車めがけて突っ込むという「肉迫攻撃」を繰り返した。海上でも、魚雷を積んだ魚雷艇で米艦船に突っ込む「肉迫攻撃」で戦った。
 当時の政府は沖縄の戦況をどう理解し、何を考えていたのだろうか。
 当時の鈴木貫太郎首相が、現地将校と官民向けの放送〈4月26日〉を通じて、一億国民の一致団結を訴え、天皇に仕えるべきと諭し、そのうえで次のように伝達している。
 「我が肉弾による特攻兵器の威力に対しては、敵は恐怖をきたしつつある。今後、日本独特の作戦に対して、敵の辟易することは火を見るよりも明らかである。私は、諸君がこの神機をつかみ、勝利への鍵を確かと握られることを期待してやまぬ。わたしども本土にある国民もまた、時来たらば、一人残らず特攻隊員となり、敵に体当たりをなし、いかなる事態に立ち至ろうとも、絶対にひるむことなく、最後まで戦い抜いて、終局の勝利を得んことを固く決意している」。
 肉弾攻撃を賞賛する勇ましい内容である。だが、「終局の勝利」とは何を意味していたのか。沖縄戦は勝利を掴む「神機」だったのか。その年の8月、日本は降伏し戦争は終結した。鈴木首相の回顧録には、就任当時から終戦を決意していたと書かれているという。

※以上は主に池宮城秀意著『戦争と沖縄』(1980年版)を資料とした。戦闘経過を示す地図も同著から。写真は『大日本帝国の戦争』(毎日新聞社)から転載した。沖縄出身の著者は、少年のころ「沖縄防衛隊」に徴用され、米軍の捕虜となった経験を持っている。戦後は「うるま新報」編集局長、琉球新報社長、会長を歴任した。次号では著者の見た戦場での沖縄県民の悲劇に触れてみたい。
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2017年08月10日

9条(戦争放棄、交戦権否認、戦力不保持)に「自衛隊」? 日本をどうする気?

JCJ・マスコミ9条の会講演会
9条(戦争放棄、交戦権否認、戦力不保持)に「自衛隊」? 日本をどうする気?
安倍改憲の、非核という国是への影響。9条に自衛隊項目をくわえる矛盾。
講師:太田昌克さん(共同通信編集委員・論説委員)
   白神優理子さん(弁護士)  
  
日時:9月2日(土)午後1時30分から午後4時30分まで
場所:文京区男女平等センター研修室A(文京区本郷4丁目8−3)
参加費:1000円(学生500円)
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※くわしくはPDFをご参考ください。
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2017年08月07日

明日は大腸内視鏡検査で入院だ

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765
労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年08月07日
明日は大腸内視鏡検査で入院だ

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 明日8日入院する。例年柏辻仲クリニックでやっていた大腸内視鏡検査。今年もお知らせが来たので6月14、辻仲クリニックに予備検査で行ったら「あなたは80歳になったのでここでは検査できません。柏の葉辻仲病院へ行ってください」と宣告された。しかも今まで日帰りでできたのに病院は前日から入院しなければならない。ポリープを摘出したらさらに入院させられる。やっかいな話だ。

 実はこの病院、以前に入院したことがある。東日本大地震のあった2011年の5月10日、辻仲クリニックで内視鏡検査をしたら変形のポリープが発見された。普通は小指のように突き出ているので、根元を針金で巻いてギュッと搾れば取れるのだがこの時のポリープは平べったくて大腸の内壁にへばりついていた。

 (ここまで書いて気が付いたんだけど、この時の入院の顛末は本ブログで書いているんだ。まいいや重複するのはご勘弁ということにしてください)。さて件の平べったいポリープだが、どうやって取るかというと、まず食塩水をポリープに注入する。その膨らんだポリープをやはり針金方式で取るんだが小指型と違って傷跡が大きい。クリップで止めてOKというわけにはいかない。それで入院が必要になるのだ。

 5月30日にポリープ摘出手術をし、その日と翌日2泊して6月1日午前に退院した。家でひと眠りしてトイレに行ったら鮮血がジャー。びっくりして病院に電話したらすぐ来いという。なるべく安静にというので電車でなくタクシーで乗り付けた。結局再度内視鏡の管を尻から挿入して止血手術。また2泊させられた。

 これは明らかに最初の手術の止血の仕方にミスがあったとおれは思った。それで担当の若い医師に「どうして出血したのか」と問い質したが答えにならない答えで聞き流された。カチンときたが医師を相手に喧嘩する度胸はない。黙って引き下がって追加の入院料を払ってすごすごと病院を出た。

 その柏の葉辻仲病院に再度入院・手術だ。なんとなく変な事が起こる予感がする。ここまで書いたところで柏の葉辻仲病院から電話があって、明日の入院は午後2時来院で手続きしてくださいとのこと。朝9時でなく午後2時なのだ。おれの聞き違いあるいは勘違いだったらしい。

 今晩から大腸内視鏡専用検査食だ。夕食はチキンクリームシチュウ、朝は鶏と卵の雑炊、昼は鮭がゆ。
もちろんアルコールはダメと書いてある。大型台風5号が近畿地方に上陸したらしい。明日はこちらも雨と風が激しくなるかもしれない。たかが大腸内視鏡検査(胃カメラもやる)なのに何となく気が重い。
posted by マスコミ9条の会 at 16:15| Comment(0) | 健康 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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