2017年05月31日

沖縄の反基地運動を「犬畜生」のように弾圧

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765
労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年05月14日
海外旅行・中国東北部(2012年)A

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 『週刊金曜日』5月12日号に佐高信(72)、山城博治(64)、照屋寛徳(71)の鼎談が載っている。山城さんは1952年生まれ、法政大学卒、82年に沖縄県庁に入庁、08年に退職、その後は反基地運動に専念という経歴。昨年10月に威力業務妨害で逮捕され、152日間も拘留されていた。

 山城さんは言う。「正直に申しますと、沖縄県警と私たちはうまく調整しながらやっていました。毎日、機動隊の責任者とは『逮捕者もけが人も出さないでおこうな』『こっちはちゃんと仕切るからな』というような言葉を交わしあっていた」。それが東京から警視庁が入ってきて強硬路線に一変した。

 おれはこの部分を読んで45年前のある情景を思い出した。その頃おれは新聞労連東京地連の専従書記長。日比谷公園から東京駅の鍛冶橋まで歩く地連独自の春闘デモを企画した。副委員長の安塚正敏さんとデモ申請に桜田門の警視庁本庁へ行った。コースが丸の内警察と築地警察両管内にまたがるためだ。

 当時沖縄返還デモが激しく行われ、逮捕者やけが人が出ていた。おれたちはデモが規制されるのではないかと緊張しながら受付で来意を告げた。予想に反して応接室に通されお茶が出るという和やかな応対。私服の公安係が入室して丁寧に名刺を出し「ご苦労さん」と頭を下げた。デモの申請はすらすら運んだが「うまく仕切ってください。新聞の部隊は沖縄返還デモでも目立っていますから」と釘を刺された。

 警察権力の本質はやはり冷酷無残なのだと思う。和やかな応対に見えて実は衣の下に鎧を隠している。山城さんはそれを実感させられた。それが下記の山城さんの述懐部分だ。

 「(拘留が長くなると髭がもじゃもじゃ、痩せてきて目つきも変わってくる)今思い返すと印象操作だったと思うんですが、取り調べで、名護署から裁判所や検察に移動する時の私の格好はと言えば、裸足にゴム草履、手錠をされ、さらに腰に縄をつけられた状態なんです」「まるで犬畜生みたいにね」「極悪非道の犯罪者であるという印象を周囲に植え付けようとしていたんでしょうね」。

 この情景はまさに戦前の治安維持法の世界である。いま国会では「共謀罪」の審議が大詰めに来たと報道されている。国家権力に反抗する運動を「犬畜生」のように弾圧し世間の晒し者にする。そんな時代の再来だけは止めさせなければならない。
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海外旅行・中国東北部(2012年)A

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年05月12日
海外旅行・中国東北部(2012年)A

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 6月29日、10:29の列車で長春を発ち瀋陽へ。2時間半の快適な旅。車中で弁当を食う。瀋陽駅は来年の新幹線開通に向けて工事中のため、一つ手前の瀋陽北駅で降りる。出迎えのバスが止まっているところまで雨の中を20分近く歩かされた。激しくなった雨の中を「9.18歴史博物館」を目指す。

 1931年9月18日、日本軍が列車を爆破、それを張学良の仕業だと偽って「満州事変」を引き起こした。博物館は89年建設だからまだ新しい。当時の関東軍司令部を再現した展示物が生々しい。ガイドの路さんは32年9月に起こった「村ぐるみ大虐殺」の平頂山事件の説明に力を入れていた。

 5日目の30日、瀋陽郊外の「鉄路陳列館」に行く。ここの目玉は、旧満鉄時代に一世を風靡した機関車「亜細亜号」。おれには何となく既視感がある。5〜6歳の頃、親父に連れられて瀋陽(奉天)に相撲の巡業を見に来たときに奉天駅でたまたま停車中の亜細亜号を見たんじゃないかな。そんな気がする。

 瀋陽には2泊したが、夕食は街の酒店(レストラン)でとった。中国東北料理というのかな、炒め物や川魚、水餃子などと白酒(パイチュー)。日本人の口に合う。ハルピンのロシア料理より旨かった。

 月が変わって7月1日。午前7時にホテル(ホリディイン瀋陽)を出て再び瀋陽北駅へ。8:07発の列車で最後の訪問地大連へ向かう。ちなみに70年前おれたち家族がいたのは途中の遼陽だ。引き上げの時は奉天に戻って別の線に乗り換え、葫蘆島へ行き船に乗った。満州へ来たときは大連に上陸したのだと思うが、もちろん3歳のことなので記憶はない。大連には敗戦まで50万人の日本人がいたそうだ。

 大連の市内観光で印象的だったのは、人民広場の一角にある旧ヤマトホテル。玄関ロビーに入ってトイレを借りたり絵葉書を買ったりした。旧満鉄社員の社宅のあった地域は、今高級住宅地になっている。2億円もする邸宅が並んでいるが空き家が多い。金持ちが投機目的で建てたものなのだそうだ。

 大連駅前の渤海明珠大酒店に1泊。夕食は餃子中心の街中の居酒屋。おれたちだけの個室で今回の旅行の反省会。よく飲み、よく食い、よく喋った2時間でした。翌7月2日は早朝6時にホテルを出て大連空港へ。朝食は車中で弁当。8:40に大連を発ち、00:15に成田着。ご苦労さんでした。
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マクロン氏の仏大統領当選に思う

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年05月10日
マクロン氏の仏大統領当選に思う

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 5月7日に投開票されたフランス大統領選の決選投票は、中道・独立系といわれるエマニュエル・マクロン氏が予想以上の大差で当選した。「仏大統領にマクロン氏」「『欧州の共同体守る』」「ルペン氏破る 親EU維持」(9日付『毎日』1面)。英国のEU離脱で欧州統合が揺らぐ中、フランス国民の穏健な選択に安堵したというのが一般的な受け取り方だ。日本の株式市場も数百円の高騰だったらしい。

 おれがおやっと思ったのは「『負け組』の声聴け」と題した福島良典元パリ支局長の解説記事だ。見出しだけでは何のことか分からないので中身を読んでみた。――EUは「人、物、資本、サービスの移動が自由」であり、それに恩恵を受ける「勝ち組」としわ寄せを食う中間、労働者層の「負け組」という「社会の分断」を深めた。この負け組の不満を吸収したのが極右のペロン氏だという論法だ。

 EUという形で欧州統合を進める中で「格差と貧困」が広がっていることは確かだ(それを「勝ち組」「負け組」と表現するのが正しいかどうかは議論の余地があるが)。マクロン氏が、EUの緊縮政策に無批判で労働者層から反発を受けていることは間違いない。しかしだからといって極右のマリ―ヌ・ペロン氏が労働者の味方ということにはならない。そこはフランスの労働者は見抜いたんじゃないかな。

 本10日付『赤旗』は早速フランスの労働者が反マクロンで立ち上がったことを報じている。「新自由主義政策やめて」「仏労組デモ マクロン氏に抗議」。新大統領が決まった翌日の8日、CGTなどが呼びかけてパリ市内でデモ。1500人が集まった。デモはリヨンなど地方都市でも行われたという。

 おれはCGTなどのフランスの労働組合、欧州労連(ETUC)の存在に信頼をおいている。EUの経済政策が反労働者的なのはアメリカ系の多国籍企業やIMFの影響などから脱していないからだ。ヨーロッパの労働運動はきちんとそれを捉えて対決している。日本ともアメリカとも違う。

 確かに今回の仏大統領選では旧来の左翼政党が決選投票以前に脱落したが、トランプを当選させたアメリカと違って、衣の袖に鎧を隠したペロン氏を大統領にはしなかった。つい72年前まで戦争をしていた欧州が、国境をなくす統合を目指している。それがEUだ。歴史的にはまだ端緒に着いたばかり。これからまだ紆余曲折はあるだろうが、必ず理想は実現するとおれは信じている。
posted by マスコミ9条の会 at 16:46| Comment(0) | フランス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

失言・虚言より悪質な言論封殺の首相発言

水久保文明さんのブログ「ヘボやんの独り言」より転載
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17年05月06日
11538 失言・虚言より悪質な言論封殺の首相発言

■水久保文明(JCJ会員 千代田区労協事務局長 元毎日新聞労組書記)

 実に情けない。これが政治家を自認している人の言葉か。笑うに嗤えず、怒りさえ覚える。

                              ◇
 「自民党総裁としての考え方は読売新聞に相当詳しく書いてあるから、ぜひ熟読していただきたい」「党総裁としての考えをここで縷々述べるべきではなく、そこで知っていただきたいということ。その中で、草案との考え方についても説明している。そもそも、新聞記事などを発端に質問をされている」
                              ◇

 きのうの国会で民進党の長妻昭議員の質問へのアベ答弁である。

 新聞記事などを発端にした質問だから新聞を読め。そうすれば質問する必要はないし答弁も必要ない、と言っているのである。しかも国会で読売新聞の大宣伝をやってくれた。やはりあの人は読売の広告塔だった。読売新聞が政府・自民党の広報紙的役割を果たしていることに強く納得。こういうのを相思相愛、というのか。それとも忖度した上での阿吽(あうん)の呼吸か。

 野党は「国会軽視」であるとして一斉に反発している。当然だ。こういう手法が許されるのなら、国会はいらない。新聞紙上や出版物で自らの主張や考えを述べることは、言論・表現の自由である。その意見に対して、質問をすることもまた自由である。

 が、今回の問題は実に深刻だ。よく考えてみると長妻議員の質問をアベさんは封じたことになるからだ。つまり、自分の自由は保障しながら、相手の質問の自由を切って捨てたのである。これはもっとよく考えてみると、ファッショである。

 つい先日、小ブログで「失言」と「虚言」の問題を書いた。失言も虚言もある意味「言論・表現の自由」の範疇に入る。だからと言って、何でもOKではない。政治家、とりわけ大臣の席に座った人は、国の代表なのだから発言には責任がついて回る。(平気な人もいるが)だから大臣としての資質を問われ、失言した場合、辞任を求められるのだ。虚言が問われないのは釈然としないが……。

 今回のアベ発言は、失言や虚言よりも悪質である。言論を封殺したからだ。フランスで新大統領が誕生したとき「(新大統領とともに)平和や自由、民主主義を守る」と言ったその日の、いわば舌の根も乾かない時間差の答弁だった。この言葉自体がウソだったのだ。

 この人はもう何枚のレッドカードを突き付けられただろうか。「嘘つき総理大臣」は、即刻退場しかない。

★脈絡のないきょうの一行
忖度させる典型。首相夫人との記念撮影提示は、効果てきめん。やるねー、籠池さん。
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豊洲市場移転に思う

17年05月08日
豊洲市場移転に思う

■坂本陸郎(JCJ運営委員;広告支部会員)

 広告会社の社員となって1年ほどして、勤務先が銀座から築地となり、長い年月をそこで過ごした。その後は、50代半ばの頃であったか、社の引っ越しで、勤務先が築地のビルから墨田川縁の高層ビルに移った。
 銀座に出かけた折に、かつての築地のビルまで足を運んだ。建物はすでに売却されているらしく、屋上に置かれた社名の看板は取り外されている。丹下健三氏設計の、セメントの地肌がむき出しの14階建てのビルが、巨大なモニュメントのように突っ立っていた。
 その、人気のないビルに近づくと、なんとも殺伐としてきた。人の住む家であれば空き家または廃屋というべきだが、これは、そそり立つ無人のビルである。これを何と呼んだらよいのだろう。「空きビル」とだけいっても、その感じは伝わってこない。暗いビルの中に人ひとりいないと思うと、かつての内部を知る者には、いっそう異様な感じが伝わってくる。
 築地のビルで過ごしたのは、15年ほどだっただろうか。当時、暇に任せて築地界隈を、しばしばぶらついたものだった。昼時になると、誘うか誘われるかして、築地市場まで足をのばして食事をした。退社後の夕刻、閉店間際の場外で干物を買って帰ったりもした。
 築地市場を眼下に見たこともあった。亡妻が築地癌センターに入院していたからだった。その各階の病室が並ぶ外れに、見晴らしの良いコーナーがあった。そこから、ガラス越しに夕暮れ時の東京湾を眺め、築地市場の全景を俯瞰した。80年前に日本橋から移設されたという、広大な敷地に造られた魚市場は、放射線状の建物と空間がバランス良く配置されているようだった。当時としては先を見越した斬新な設計ではなかったのだろうか。
 眼下を眺めながら、ふと思った。築地市場がなくなると、この一帯はどうなるのだろう。すると、無人のビルの下に立った時の殺伐とした感じが蘇ってきて、私のなかで何かが、いまにも壊されそうな心持ちになった。
 なぜ、築地市場を壊すのか。なぜ、豊洲に移さなければならないのだろうか。
 築地にいた当時、早朝の築地市場の場内に足を踏み入れたことがあった。釣り好きで魚に詳しい同僚の案内だったように記憶する。その時、場内の活気とにぎわいに圧倒されたものだった。魚と氷を詰め込んだトロ箱を重ねたターレが、かなりな速さで走り回っている。クラクションではなく大声が素人客を慌てさせている。黙々とマグロを切り裂く仲卸たち、見たこともない魚、海老、ウニなどが店先にふんだんに置かれている。
 築地市場の敷地は23万平方メートル、東京ドーム五個分の面積である。水産だけで7社の卸業者と、575社の仲卸業者がそこで商っているという。その市場の規模は世界最大規模で、日本漁業の表看板なのだ。だから、外国の観光客がマグロを裁くのを見ようと次々に訪れている。目の前で切り落とすマグロの「切り落とし」が人気だった。それが目当ての婦人方が連れ立ってやって来ていた。
もし豊洲に移ったら、こんな情景が再び見られるのだろうか。
 マグロ仲卸業者たちがこのように話している。
 「豊洲移転は土壌汚染だけが問題ではない。豊洲新市場の一店当たりの面積は四畳半と狭い。間口は1メートル50センチほどでしかない」
 「冷蔵庫だけで幅1メートル10センチ、マグロもさばけない、足の踏み場もない」
 「床の耐荷重が1平方メートル当たり700キロ、これでは、水槽に70センチしか水が入れられない」
 「ターレは運転手と荷物で2トン、フオークリフトやターレが走れば床が抜ける」
 「築地では使う水も魚を洗うのも海水なのに、豊洲では建物が傷むからといって、海水を床に流せない」。
 耳を疑う話ではないか。なんと狭いスペース、それが仕切りで囲われているのだという。しかも、築地のように魚を洗うのに海水を床に流せない。魚を満載したターレは重量オーバーを気にしなければならない。これでは商売上がったりではないのか。
 48年間築地市場で働いてきた仲卸業者が豊洲市場の設計ミスを指摘している。
 「考えたのは素人、都はわれわれ築地業者の意見はほとんど聞かなかった。豊洲で営業許可を得るには、都が定めた設備への買い替えが必要、当店の場合、冷凍庫などで約650万円の出費となる」。
 問題はそれだけではない。豊洲は1956年から30年間、東京ガスが都市ガスを製造していた工場跡地である。その製造過程で、ヒ素が使われ、ベンゼン、シアン化合物が生成されていた。それが今までの9回の調査でも、とてつもない数値で検出されているではないか。
 ガスをつくった後にはタールも生み出される。その大量のタールがドラム缶に保管されたまま長期間放置され、ドラム缶が腐食してタールが地中に浸透しているのだという。
 こんな会話が聞こえてくる。
 「豊洲で売る方も不安でしょうけれど、買う方もすごく不安」、「魚屋はみんな困っているよ。お客さんからも、安心して魚を買えなくなるといわれているよ」、「“築地で仕入れた”は誇り、“だ、 ”豊洲で仕入れた”といって喜ぶ客がいるのか」。
 もはや豊洲移転は中止するしかないと思わざるを得ない。この豊洲移転の目的とは、そもそも何だったのだろうか、次の指摘を考えてみたい。
 「単なる移転ではなく、大企業のための大規模物流センターの建設であることは、都の卸売市場整備計画からも明らかである。市場というより、大型産地や輸入商社からの大量の食糧を効率よく配送するための施設だ。移設計画は食の安全を脅かすだけでなく、日本の食文化を支えてきた食の流通を破壊するものだ」(農民運動全国連合会常任委員・斎藤敏之氏) 。
 そうだとすれば、豊洲移転はとても「都民ファースト」などとはいえないだろう。なぜ豊洲移転が持ち上がったのか。今までの都議会での議論を検証し、翻って考えることが必要ではないのだろうか。
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海外旅行・中国東北部(2012年)@

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765
労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年05月07日
海外旅行・中国東北部(2012年)@

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 09年の韓国に続いて、新聞OB九条の会がたびせん・つなぐとタイアップして企画した海外ツアー第2弾。今回は中国東北部(旧満州)の中心部を5泊6日で回る。新聞の石坂、石塚、今井、岩田夫妻、岩月夫妻、狩野、河合、小林豊、斉藤哲、斉藤康、清水、田原、戸塚夫妻、平沼、藤木、山川、それに出版の生駒夫妻、元日立争議団の篠田夫妻の計23人。添乗員はたびせんの荒井恵梨香さん。

 6月26日13:25に成田を発って15:30(現地時間)にハルピン空港着。空港を出ると大型バスが待っていてハルピン医科大学に直行。ここでメンバーの1人今井茂冨さん(東京中日)が会社定年後7年間日本語教師をしていた。ちょうど卒業式にあたり、構内は角帽にガウンの卒業生でいっぱい。

 大学食堂の特別室で先生や生徒たちと交流会。今井さんはおおもて。おれは団長として「日中友好の活力になるよう願う」と挨拶した。「雪花」という銘柄のハルピンの地ビールで乾杯。6台のテーブルに分かれて飲み、食い、交流の時間を過ごした。ハルピンの宿舎は繁華街に近い崑崙大酒店。

 2日目は朝早くホテルを出てまず七三一記念館へ。正式名称は「中国侵略旧日本軍七三一部隊遺跡」。ここで日本軍は中国人を使って細菌の生体実験をした。ガイドの説明を聞いておれが腹立ったのは、ここで悪業の限りを尽くした石井四郎らが敗戦直後さっさと日本に逃げ帰ったという話。おれたちは敗戦後1年間帰るに帰れず辛酸をなめた。しかも石井は米軍に実験資料を差し出したため戦犯にもならなかった。

 午後はソフィア教会を見た後、キタヤスカヤと呼ばれる中央大通りを散策。松花江のほとりのスターリン公園で一休みした。夜はロシア料理のちょっと高級な店へ。ワインの高かったこと。

 翌28日は列車で長春へ移動する日。ホテルを出てトランクを転がしながらハルピン駅へ。石畳の道はデコボコだし、交差点の信号はあてにならないし、駅に着くまでが命がけ。しかし、列車の旅は快適だった。約2時間後に長春に着く。緑の多い長春は仙台市と姉妹都市だ。

 昼食後「偽満皇居博物館」へ。玄関に「勿忘九・一八」のばかでかい石碑。江沢民の書だ。ここで皇帝溥儀が暮らしたが、日本軍が用意した玉座には決して座ろうとしなかったという。一寸の虫にも五分の魂というところか。溥儀は日本敗戦後戦犯として服役、出所後は一般市民として暮らし61歳まで生きた。
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私がなぜ、「日本ナショナリズムの歴史」にとりくんだのか

私がなぜ、「日本ナショナリズムの歴史」にとりくんだのか

梅田 正己(編集者)

 1945年の敗戦の年、私は国民学校(小学校)4年生でした。 教育勅語を暗誦させられた最後の世代です。 一学期、やっと暗記できたと思ったら、夏休みに8・15を迎え、以後は一度も暗誦させられずに終わりました。 ナショナリズムは、したがって私には過去の遺物で終わっていました。
 それが今日の問題として立ち現われてきたのは、私が出版社に入り、高校生対象の月刊誌の編集を担当するようになってからです。 1965年、文部大臣の諮問機関・中教審は高校生世代に向けて「期待される人間像」中間草案を発表しました。 その中にこんな言葉があったのです。
 「われわれは日本の象徴として国旗をもち、国歌を歌い、また天皇を敬愛してきた。…われわれは祖国日本を敬愛することが、天皇を敬愛することと一つであることを深く考えるべきである」
 戦前日本の青少年にとって最高の命題は「忠君愛国」でした。 表現はソフトになっていますが、指し示している方向は同じです。
 この翌々年、「神話史観」にもとづく戦前の紀元節が「建国記念の日」として復活しました。
 その後、月刊誌が会社の方針で廃刊とされたため、72年、仲間と共に出版社・高文研(当初の社名は高校生文化研究会)を設立、『月刊・考える高校生』(後に『月刊ジュ・パンス』と改題)を創刊しました。市販の条件はなかったため創刊時のマニフェスト「生徒と教師を主権者とする高校教育の創造をめざす」に共鳴した全国の先生たちの同志的〞熱意に支えられての出発でした。
 月刊誌の刊行とあわせて教育書を中心に人文書の単行本の刊行も開始し、以後、低空飛行ながら出版活動を続けることができました。 
 文部省による国家統制の強風で教育現場が波立ってきたのは、80年代の半ばからでした。 主題は日の丸・君が代の問題です。 その掲揚・斉唱の完全実施に向けて、文部省は徐々に圧力を強め、99年2月には広島県立高校長の自殺という痛ましい事件を生みます。 そして、あろうことか、政府はこの事件を奇貨〞として同年8月、「国旗・国歌法」を成立させたのでした。
 こうした中、教育現場からは次第に自由な空気が失われ、息苦しくなってきます。 それと共に、先生たちの自主性のみに依拠していた私たちの月刊誌もその基盤を突き崩されてゆき、2006年、ついに34年の経歴を閉じたのでした。 あわせて同年、戦後文部行政の総仕上げ〞として、教育基本法の「改正」が強行されたのです。
 「教育勅語」に象徴されるように、戦前日本において国家主義の形成・確立の主舞台とされたのは学校教育でした。 戦後日本においてもその復活の主戦場となったのはやはり学校教育の現場でした。その現場をずっと見続けてきた書籍編集者として、私が国家主義の問題を引きずってきたのは考えてみれば当然かも知れません。
 大日本帝国の崩壊とともに滅び去ったはずの日本ナショナリズムが、戦後70年をかけてよみがえってきた、このしたたかな生命力の源泉はどこにあるのか、それを解明するにはその発生の地点からたどってみる必要がありはしないか――。
 そう考えて、現役引退後、私はそれにとりくんだのでした。 日本ナショナリズムの解明は、同時にこの国の政治のあり方を根底から再検討する手がかりを、きっと与えてくれるはずです。

 (『日本ナショナリズムの歴史』販促パンフレットより)
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祝・第88回メーデー――私の生い立ちとメーデーB

水久保文明さんのブログ「ヘボやんの独り言」より転載
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17年05月06日
11537 祝・第88回メーデー――私の生い立ちとメーデーB

■水久保文明(JCJ会員 千代田区労協事務局長 元毎日新聞労組書記)

 当時、中卒者は「金の卵」ともてはやされていた。高度成長期にあって、重要な働き手だったからだ。子どもたちは金≠生んだのである。ちなみに、現在すすんでいるNHKの朝ドラ(ひよっこ)は東北地方出身の子どもたちが多いが、九州、四国からの集団就職は大阪、愛知に配属されていた。

 東京に出てきたのは良かったが、仕事を探すのに苦労した。みつかったのは新聞配達だった。集金はなく朝夕の配達だけで宿舎や社会保険も完備しているという。有楽町にあるその新聞販売店に飛び込んだ。前述したように、同じような勤労学生ばかりだった。店は全ての新聞を扱っている「合売店」だった。

 配達先は企業だったため、一般家庭のように早起きは必要ない。販売店が借り上げたアパートから電車通勤で十分間に合った。企業相手の配達は、かなりの量になった。自転車に積むと、自分の背丈ほどになった。当時はまだ路面電車が走っており、雪が降った日はその線路に自転車のタイヤがはまり、新聞ごと倒してしまい泣き≠ェ入ったものである。

 その新聞販売店が、私が労働運動を始めるスタートになったのである。1964年に上京し翌65年に初めてメーデーに参加。ということは、組合活動に参加したのは17歳だったことになる。(自分で言うのも変だが)実にませた高校生だったといえる。

 私がそうなった背景はあった。父の影響である。父の具体的な活動の中身は覚えていないが、一生懸命に労働組合活動をやっていた。当時、炭鉱労働者の組合は「炭労」と呼ばれ総評の中ではいわゆる闘う労働組合だった。父の思想的背景には、九州大学教授の向坂逸郎教授がいた。

 私が炭住街で暮らしていたころ、エネルギーが石炭から石油に変わっていった。そのため炭鉱は次々と閉鎖され、そこで働いていた労働者は職を失っていった。その最大の闘いが「三井・三池闘争」だった。この闘争を指導したのが向坂逸郎氏だと言われている。当時の社会党内にあった、いわゆる協会派である。

 私の父はこれに影響を受けていたのではなかろうか。中学生のころ、「向坂先生」という言葉を幾度となく耳にしたことがある。中身は覚えていない。が、父は向坂理論を糧にして活動していたと思われる。その意味において組合活動は徹底してやっていたし、レッドパージの対象者にもなったのだろう。

 その父の影響が、私の中にあったことは事実だと思う。新聞販売店の待遇改善は当然だと思ったし、組合に入るのに抵抗はなかった。以上、やや長くなったが、私がメーデーに参加するようになったきっかけを述べてきた。その労働運動が今でもつづいていることに、誇りをもっていいだろう、そう考えている。

★脈絡のないきょうの一行
7日・フランス、9日・韓国で大統領選挙。目が離せないぞ。

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コンベアシステムと「手のひらのうた

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年05月05日
メーデー、60年ぶりの不参加

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 朝ドラの「ひよっこ」が面白い。茨城県が舞台なんて初めてなんじゃないかな。主人公のみね子さんが高校を出て東京・向島の電機工場に就職。トランジスタラジオの組み立てが仕事。一定の速さで回るコンベアに組み立てるラジオの原型が乗っていて自分の前にある間に部品を差し込まなければならない。みね子さんは不器用なため、差し込みが間に合わなくて緊急ストップボタンを押してコンベアを止める。

 そんな場面を見ていて、おれの61年前を思い出した。1956年4月、茨城県の高校を出て毎日新聞東京本社印刷局に入社。輪転職場に配属された。仕事は「紙取り」といって輪転機で刷られた新聞を揃えて発送に渡す役目。刷り上がって輪転機から吐き出された新聞は、ワイヤベルトに挟まれて2階の発送場に上がる。おれたちも発送場へはしごで上って紙取り台に流れてくる新聞を手で揃えるのだ。

 なにしろ輪転機はこちらの都合は考えてくれない。おれは不器用だからスムースに新聞を取って揃えることができない。慌てるとますます揃え方が雑になる。そうすると発送部員から「こんなんじゃ梱包できない」といって叱られる。あの頃の発送部員は梱包する縄を切るため腰に鎌を刺していた。怖かったな。

 この紙取りという作業は、64年の東京オリンピックあたりで終わりになった。カウンターステッカーという機械が導入されて、紙揃え、梱包が自動化されたからだ。不器用なおれも最後の頃はきれいに新聞を揃えられるようになった。おれの手の甲には当初毛が生えていたが、そのうち右手の甲は毛が擦り減ってなくなってしまった。新聞と新聞の間に右手を差し込んで紙を取っていたためである。

 朝ドラに話は戻るが、みね子さんは自分のドジさ加減に自己嫌悪に陥るが、上司も現場監督も「そのうちできるようになる」と暖かい目で励ましてくれる。実際彼女は見事にコンベア仕事をこなすようになるのだが、現実はそんなに甘いものではなかったと思う。おれもそうだったからだ。

 この工場には合唱サークルがあって、新入りのみね子さんたちを「手のひらのうた」で歓迎してくれる。その場面はあの吉永小百合の「キューポラのある街」を思い出させる。あの映画でも女子工員たちが合唱していた。当時うたごえ運動が盛んだったんだよな。それが労働者の団結になり、組合運動が沸き起こる。そんな若者躍動の時代だった。「ひよっこ」がこれからどんな展開になるか知らないが、期待が高まってくる。
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祝・第88回メーデー――私の生い立ちとメーデーA

水久保文明さんのブログ「ヘボやんの独り言」より転載
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17年05月02日
11536 祝・第88回メーデー――私の生い立ちとメーデーA

■水久保文明(JCJ会員 千代田区労協事務局長 元毎日新聞労組書記)

 私のルーツは、五島列島にある。だからと言って、五島で暮らしたことはない。聞いたところによると、父の家族が詐欺に遭い田畑すべてを失くし労働者化≠オて、島を離れて手っ取り早い炭鉱夫になったという。私が生まれたときに祖父はすでに他界していたが、父もその兄弟も長崎県、佐賀県、福岡県の炭鉱街で炭鉱夫として働いていた。

 私が生まれたのは、父が戦地・中国から帰ってきた1947年。団塊の世代だ。佐賀県伊万里市の炭住街だったがすでに二人の姉がいた。私が生まれた直後、福岡県直方市に移っている。父は労働組合の活動をやっていたらしく、レットパージを受けている。そのため、炭鉱を転々としている。もちろん、子どもである私も一緒に動いた。

 小学校2校、中学校は3校を経験している。その度に教科書が違い、苦労したことを覚えている。考えてみれば、当時は学校ごとに教科書を決めていたようだ。教師が選んでいたと思われるが、国の検定を受けたものではなく、それが本来の姿ではなかろうか。

 話が横道に外れた。私の下に妹と弟3人が生まれた。「貧乏の子沢山」の典型で、両親は7人の子どもを育てることになったのである。手元に写真家・土門拳の「筑豊のこどもたち」という写真集がある。

 1960年の作品であるが、この中に学校に弁当を持って行けない子供の写真がある。昼食時間に本を読んでいる。私はその子と同じだった。私の場合は学校の図書館に籠った。子どもに弁当を持たせてやれない母の気持ちはいかほどであったか、それを思うと今でも心が痛む。

 そういう生活のなかで、私は小学生の頃から定時制高校に通う、ことを決めていた。したがって中学卒業とともに、集団就職列車に揺られ愛知県刈谷市の鉄工所に勤めた。ふるさとを離れるとき母が見送りにきてくれた。15歳の少年の旅立ちだった。母はずっと手を振っていた。その姿を見て、小林多喜二の言葉を借りれば「泣かさって、泣かさって」仕方がなかった。

 ちょうど今、NHKの朝ドラが集団就職で上京して仕事をする子供たちの姿を描いている。あれとオーバーラップする。私は仕事が終わって、刈谷から(今では)JR東海道線で6駅離れた岡崎の工業高校の定時制に通った。もちろん電車通学は初めてだった。

 ところが、大学に行きたいと考えていた私はショッキングな話を聞かされた。大学に行くには、工業高校は不利だというのだ。悩んだ挙句、普通高校に乗り換えるため当時東京に住んでいた姉を頼って上京した。東京オリンピックが開かれた1964年であった。

(次回につづく)

★脈絡のないきょうの一行
祝・憲法制定70年。平和主義はいつまでも元気であってほしい。
posted by マスコミ9条の会 at 16:24| Comment(0) | 労働運動 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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