2018年01月25日

ICAN代表との面会拒否、問われる首相の品格

水久保文明さんのブログ「ヘボやんの独り言」より転載
http://96k.blog98.fc2.com/
18年01月22日
11552 ICAN代表との面会拒否、問われる首相の品格

■水久保文明(JCJ会員 千代田区労協事務局長 元毎日新聞労組書記)

 安倍晋三首相はICANの事務局長との面会を拒否し続け、ついに実現しなかった。アメリカのトランプ大統領が「(大統領としての)適正に疑問がある」と言われることと同じように、日本の総理大臣も幼児性を越えて、首相としての適正さを疑いたくなる事件だった。

 ICANのフルネーム表示は「International Campaign to Abolish Nuclear Weapons」となり、和訳は読んでの通り「核兵器廃絶国際キャンペーン」となる。核兵器を廃絶するための国際的な組織であり、ご承知のように2017年のノーベル平和賞を受賞している。

 核問題についていえば、日本はアメリカの核の傘≠フ下にあり、それゆえにアメリカの「核抑止論」を支持する立場をとっている。核抑止論は、核兵器を認めることを前提にしている。三段論法になるが、よって日本は核兵器を認めざるを得ないのだ。

 「日本は被爆国なのにどうして反核の立場に立たないのか」という疑問がよく出される。にもかかわらず、核兵器を支持しているのが今の日本政府である。これを変えさせるには、言い古された言葉だが政府を変える≠オかない。つまり、自民党政権を終わらせるしかないのである。

 さて、本題。そういう日本政府の考え方について、ICANの代表に説明すべきだったのではなかったか。もちろん、批判はされるだろう。しかし、日本政府が考えていることは、国際組織としての相手にきちんと説明すべきだった。それを門前払いしてしまったその態度は、核問題以前の人として≠フ質、つまり品格を問われることになるのではなかろうか。

 それとも、説明できない別の問題があるのだろうか。たとえば、核抑止論を越えて「核兵器を持ちたい」という野望を抱いているとか。これまた、ありそうでイヤな予感が走る。原発の核燃料廃棄物から核兵器が作られることを考えれば、原発推進にこだわる姿勢も理解≠ナきるというものだ。

 もののついでで恐縮だが、北朝鮮が核を持ったことについて、あの人は羨ましがっているのではないか。それゆえに北朝鮮を異常なほど敵視しているのではないか。さらにもう一つ。彼には核兵器が使われた時、自らも死ぬという想像力がないのだろうか。だとしたらこの人は、首相としての適性はない、と断言できる。


★脈絡のないきょうの一行
関東地方に大雪警報がしつっこく出されている。Jアラートはやり過ぎだが、警報は許容範囲か。
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2018年01月18日

慰安婦問題の「日韓合意」を考えるA止

水久保文明さんのブログ「ヘボやんの独り言」より転載
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18年01月18日
11551 慰安婦問題の「日韓合意」を考えるA止

■水久保文明(JCJ会員 千代田区労協事務局長 元毎日新聞労組書記)

 ナヌムの家のハルモニたちは、(日本に)きちんと謝罪して欲しいと言う。これが偽らざる真実だ。彼女たちは、日本を恨んでいるわけではないともいう。そういう社会にしたことへの反省を表してほしいという意味なのだ。

 この意見は実に深い。深層にあの戦争について日本が総括≠オていないことへの批判がある。いや、逆説的に見れば、あの戦争責任を日本が明確にしていないところに、慰安婦問題を根底から解決できない原因があるのではないか。だから、日韓合意に「心からおわびと反省の気持ちを表明する」と盛り込んだところで空疎に聞こえるのだろう。

 もしかすると、この問題は日本側がまともな歴史の総括をしない限り解決できないのかもしれない。一方で韓国では安倍首相個人に対する根強い批判もある。従軍慰安婦問題でNHKに圧力をかけたことや、歴史修正主義を擁護する発言を行ったことへの反発もある。それらのことについても、韓国側は「新たな措置」を求めているのかもしれない。

 そういうことに気づく日本の総理大臣ではないが、あの人に「合意は国と国との約束で、これを守ることは国際的かつ普遍的な原則だ。」と言う資格はない。彼は何をやったか。一例に過ぎないが、集団的自衛権について政府自らが違憲であると確認し、憲法学者もそういう見解が大勢であったにもかかわらず、強引にこれを認め、戦争法(安保法制)を作った。政府間の合意とは質が違うが、自国の憲法を平然と破る人にそういう発言をする資格はない。

 そう考えてみると韓国政府の新たな提案に対する首相見解は、盗人が「盗人は悪い」と言っているようなもので、盗人猛々しい表明である。集団的自衛権は違憲である、ということこそ「普遍的な原則」だったのではないか。それを平然と破り去ったのは誰だったのか。無恥さ加減に辟易してくる。

 改めて申し上げておくが、国と国の協定(合意)は変更や破棄があっていいと考える。「合意」より重い「条約」には、通常、期限が入ったり破棄のための規定が入ったりする。日韓合意は慰安婦問題に特化されたもので条約ではない。「共に民主党」の姜昌一議員の発言のように、合意は「安倍晋三政権と朴槿恵政権の約束にすぎない」のであり、それに未来永劫に両国が縛られるということはない。

 今回はたまたま合意直後に朴槿恵政権が倒れ、新たな政権が生まれるという短期間に起きたことに過ぎない。政権が代われば合意内容に疑義が生じることを読み切れなかった、日本政府の関係者の責任もなしとしない。


★脈絡のないきょうの一行
希望の党と民進党の統一会派づくり破談。排除した側とされた側が一緒になるのは土台、無理。
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爆風(39)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765
労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2018年01月18日
爆風(39)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 柳中尉は翌26日1日中、東京陵の工場と官舎を守るための防衛柵設置工事の指揮にあたっている。夜は浜本大尉宅で今後の火工廠のあり方について意見を交わした。防衛柵工事は27日も続けられ、柳は引き続き作業に従事する。夕方東亜寮内の白塔クラブに有志が集まり、浜本大尉を中心に会議を持った。明日開かれる林部隊長召集の火工廠の将来方針を討議する会議への対策を練るためだ。

 会議では浜本大尉が提案した将来方針の基本理念をたたき台にして議論され、大方の同意、意思統一ができた。この議論の中で柳中尉は林部隊長に対する批判的意見を吐いたものと思われるが、「関東軍火工廠史」にはその内容は記されていない。会議は午後10時頃終了したが、柳その他3,4人はさらに深夜2時頃まで話し合った様子である。その後柳は徹夜で行われていた防衛柵づくりを視察し2時間ほど仮眠した。

 28日6時半頃起床すると柳は鈴木弓俊中佐の部屋を訪れ、「これからの日本を救う道は、科学の新生面を開くしかないなあ」としみじみした口調で述懐した。鈴木中佐は押入れの布団の下から拳銃を取り出した。関東軍総司令部に出向していた柳から預かっていたものである。鈴木が開け放された窓から外の電柱に向かって1発発射。柳は驚いて「露助を刺激しては大変だ」と鈴木を宥め拳銃を引き取った。

 柳中尉のその後の足取りは既に記したように、稲月中尉の部屋をふらりと訪れ、何ということもない話をしてまたふらりと出る。午後は浜本大尉宅へ回ったが大尉は留守。夫人に挨拶してどこかへ姿を消す。そして夕方、吉野神社の裏でピストル自殺している。

 柳中尉の自決は覚悟のものだったか、あるいは衝動的な行為だったか。両方が絡んで複合的に動機が形成されたというのが筆者の見方だ。もちろん、ソ連参戦以来の身辺の激変、特に8月25日の異常な体験が若い心を激しく揺さぶったことは間違いない。それが覚悟の自殺へとつながったことは十分考えられる。

 しかしそれらの身辺の激変は自決の背景としてはあったとしても直接の動機ではないのではなかろうか。柳中尉は、火工廠の将来だけでなく敗戦日本の今後にも思いを馳せている。これからは科学を大切にしなければならないときちんと日本の将来像を描いている。それを誰かと共有したかった。それで浜本大尉宅を訪れたが留守だった。一気に絶望の念に捕われたのではないか。その時ちょうど拳銃が手元にあった。それが衝動的に自殺へと走らせたのではないか。いずれにしても「戦争の犠牲者」であったことは間違いない。
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爆風(38)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765
労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2018年01月17日
爆風(38)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 柳中尉は優秀な技術将校だった。鈴木弓俊少佐は二つの事例を挙げて絶賛している。第一「私は20年7月初め、耐酸材料の実態を勉強するため、唐戸屯の第二工場に日参した。井上富由技手から渡された資料の中に数冊の大学ノートに記された耐酸材料試験記録があった。その内容の非凡さに圧倒された。筆者の柳中尉にぜひ会って教えていただきたいと思ったものだ」。

 第二「その頃柳中尉は火薬、化学行政の強化を任務として新京の関東軍総司令部に出向していた。それが火工廠で、夕弾型式の対戦車地雷の威力試験をやるというので来廠した。中尉は実験条件設定のために自ら手を貸して、実に行動的、実証的に試験を取りまとめて成功させた」。

 井上技手は8月10日、新京の関東軍総司令部の兵器部の部屋で柳中尉に会っている。みんな退散してがらんとした建物の中で「自分はしばらくここで様子をみるつもりだ。火工廠東亜寮の自分の部屋に拳銃が置いてある。何かの時に役立たせてほしい」と言った。それが自決用に使われた拳銃である。

 柳中尉が関東軍総司令部から火工廠に復帰したのは敗戦直前の8月13日で、その日から製造科に配属された。製造科事務所では、鈴木中佐、井上技手、浜本宗三大尉らがソ連参戦の非常事態にどう対処するかなどの議論が夜半に及んだ。復帰第一夜は布団などの荷物が未着なため鈴木中佐の部屋に泊まった。

 そして運命の8月25日、柳中尉は爆死を決意した林部隊長から火薬点火役を仰せつかることになる。この玉砕に批判的な川原鳳策少佐が主導して、浜本宗三大尉を主席とするソ連軍司令官への再陳情の方針が立てられた。至急東亜寮に十数名の将校が集められる。玉砕回避へ向けての各自の任務分担を話し合うためで、この会議に柳中尉も出席していた。「関東軍火工廠史」の鈴木弓俊の手記によれば、席上柳中尉はおおよそ次のような発言をしたと記されている。

 「自分は廠長の信任を得ており、もし玉砕現場にいないとなると林廠長を不安にし混乱を招くことになりかねない。従って玉砕場から離れるわけにはいかない。ソ連軍司令部への軍使の帰還が遅れて、林廠長が点火を命じることがあっても極力点火を遅らせるよう努力する。万一点火しても爆発を防げるよう導火線に細工をする」。

 その夜柳中尉のとった行動はまさにこの発言通りであった。玉砕を回避できたのは浜本大尉らの決死のソ連軍説得が功を奏した賜物であることは間違いないが、直接的には導火線への点火を拒んだ柳中尉、稲月光中尉の決断によるところが大きい。
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慰安婦問題の「日韓合意」を考える@

水久保文明さんのブログ「ヘボやんの独り言」より転載
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18年01月16日
11550 慰安婦問題の「日韓合意」を考える@

■水久保文明(JCJ会員 千代田区労協事務局長 元毎日新聞労組書記)

 慰安婦問題に関する2015年12月28日の日韓合意について、韓国側から新たな措置を求めることを提案された問題で、安倍首相は「合意は国と国との約束で、これを守ることは国際的かつ普遍的な原則だ。韓国側が一方的にさらなる措置を求めることは、全く受け入れることはできない」と表明した。国と国の間での取り決めについて、変更あるいはキャンセルはあり得ないのだろうか。

 結論的には「あってもいい」というのが私の意見である。なぜなら政権が代われば、ものの見方や価値判断が変わるのは当然だし、それに沿った運営(政策)がなされることはあり得ることだからだ。

 この慰安婦問題は合意された経過をみても、中身においても小さくない問題をはらんでいる。最大の問題は、当事者のハルモニたちの思いや意見が反映されていない点だ。本音で言えば韓国側はあの合意を破棄したかったはずだ。しかし日本との国交を考えたうえで、破棄しないで日本側に再考を求めた形になっている。韓国のほうがよほど大人≠セと言える。

 何が問題だったか。一言でいえば、当事者抜きの合意だったからである。昨年3月、ソウルに行き元慰安婦のみなさんが共同生活している「ナヌムの家」を訪ねた。そのときナヌムの家のスタッフのみなさん、そしてハルモニと懇談した。こちら側から注文した訳ではないが、日韓合意について話題になった。

 当時の政府関係者は突然ナヌムの家に来て「日韓合意が成立しました。それに基づいて補償金を支払いたいので、銀行口座と確認のサインをしてほしい」と言ったという。政府間で合意の内容を検討する際、ナヌムの家のハルモニたちには何一つ相談はなかったという。スタッフは「一方的なあの合意は承服できない」と否定した。ハルモニたちも一人としてサインしていないし、銀行口座も教えていないという。

 ナヌムの家の関係者だけでなく、市民の間にもこの合意に批判する声は少なくない。『2016年9月には合意に反対している「共に民主党」所属の姜昌一議員(日韓議員連盟幹事長)はインタビューで「(合意は)国家を拘束する条約や協定ではなく、安倍(晋三)政権と朴槿恵政権の約束にすぎない」として「両政権がやったことだから、再交渉の必要はないが、われわれは認めていないと主張」』(Wikipedia)しているという。

 この発言が今回の韓国側からの提案のポイントになりそうだ。

(次回につづく)



★脈絡のないきょうの一行
安倍首相、ICANの代表との面会を拒絶。相変わらずの幼児対応だね。恥ずかしい。
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労働組合としての今年の課題F止 争議解決

水久保文明さんのブログ「ヘボやんの独り言」より転載
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18年01月15日
11549 労働組合としての今年の課題F止 争議解決

■水久保文明(JCJ会員 千代田区労協事務局長 元毎日新聞労組書記)

 解雇闘争などの支援の必要性について私は「合理化の頂点に立つ人たち」だからだ、と強調してきた。この問題についてそんなに説明はいらないだろう。企業の論理によって解雇を受ける、それはすべての場合「合理化」の一環だからだ。

 1978年に沖電気で1,350人大量解雇が強行された。「企業として生き残るため」というのがその理由だった。電気労連(当時)に加盟していた労働組合は、形の上では反対したが受け入れた。解雇されたなかの70人近い人たちは、争議団を結成し職場復帰を求めて闘いを開始した。まだ総評が健在で、電気労連では取り組むことができなかったが、少なくない労働組合が支援に立ち上がった。

 闘争の中で、とんでもないことも明らかになった。会社は解雇した人たちの一部を密かに再雇用していたのである。これはひどい。解雇された人たちのなかには、労働組合活動に積極的な人、会社にモノいう人が多く含まれていた。こういう人たちを追い出すためにそのほかの人たちを道連れ≠ノしたのではないかと考えたくなる事件だった。10年余の闘いを経て争議は解決したが、この闘いは典型的な「合理化」大量解雇だった。

 同様なのが現在も闘われている日本航空である。2010年、経営が危なくなったとして日本航空経営は退職勧奨をおこなった。その数は予定数に達したが、それを超えて165人もの人たちをなんと年末の12月31日に解雇したのである。

 紙数の関係で詳細は省くが、解雇事件は最高裁まで闘われたが組合側は敗訴した。しかし、管財人が「スト権を立てると国からの支援が受けられなくなる」という発言の不当労働行為について、東京都労働委員会がこれを認め、最高裁まで争われたが最高裁もこれを認めた。最高裁は、「不当労働行為があったことを認め、解雇は正当」というちぐはぐな判断をしたことになる。

 裁判は終わったが、解雇撤回闘争は8年目に入った。この間日本航空は、客室乗務員を新規に3000人雇ったという。パイロットも不足している。経営が判断さえすれば、この人たちを職場に戻すことはできるのだ。支援運動も広がっている。

 争議解決に必要なのは経営の判断だけだ。それを引き出す取り組みを反合化闘争の頂点≠ニ位置づけ、労働組合全体が展開できるのかどうか、試される時期にきたといえる。日本航空だけではなく、30年を超えた明治乳業の賃金差別闘争にも終止符を打つ取り組みが必要になっている。



★脈絡のないきょうの一行
「企業の利益の割に、(労働者の)給料が上がっていない。」(14日・朝日デジタル新聞)と麻生財務大臣。暗に連合批判。珍しく的を射ているかも。
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籠池氏長男の恨み節

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2018年01月14日
籠池氏長男の恨み節

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 昨年12月16日付「週刊現代」の記事をネットで見た。あの籠池泰典氏の長男籠池佳茂氏(37歳)が「父母拘留4カ月。いくらなんでも酷過ぎる」と訴えている。この間家族さえ接見は許されず、外部と完全にシャットオフされている。大阪拘置所には暖房設備がないという。これはあんまりではないか。

 「もうすぐ真冬ですから、母には厚手の靴下を差し入れています。母が父と同じように拘留されていること自体ありえないことです。接見禁止のまま拘留4カ月、はっきり言って囚人扱いですよ」「『これ自体が懲罰ではないか。日本の司法制度は中世並みだ』と言った人がいますが、本当にそうかもしれない」

 「父も母も逃亡するはずはない。証拠隠滅する気もないから、逮捕はないと思っていた。下の妹は泣き崩れていましたが、夢を見ているようでした」「逮捕前、父は一貫して誠意ある対応をしてきました。国有地払い下げに関して、情報も資料も、出したものは全部父の側からです。政権からは一つも出ていない」

 ――11月20日、籠池夫妻は保釈申請を出したが却下された。「特捜部として総理が『詐欺』だと繰り返している以上、詐欺罪で立証して『総理の意向』とのあいだに整合性をつけなければならないのでしょう。これが日本という国の実態かと思うと愕然とします」「いま安倍首相をヨイショしている人たちの中には・・・自分も一歩間違えれば籠池のようになりかねないと。それは一種の恐怖政治なんです」

 「(昨年)2月、安倍総理が国会答弁で『しつこい方だ』と手のひらを返すやいなや、保守団体・日本会議は『6年前に退会している』と言い出し、塚本幼稚園を素晴らしいと言っていた人たちも一気に離れていったのです」「(松井大坂知事に至っては小学校建設の地鎮祭に祝電までくれたのに)『籠池さんとは会ったこともない』なんて、よく言えたもんやなと・・・」

 最後に佳茂氏は首相夫人明恵氏について「周囲から黙っているように言われてかなり苦しんでいると思うのです」とおもんぱかる。「幼稚園の園児たちの姿に本当に感動していたのですから」「思い切って本当のことをお話になった方が楽になるんじゃないでしょうか」。

 おれは籠池某の思想も生き方も100%否定する立場だが、口封じのための長期拘留は絶対認められない。これは首相の犯罪を隠ぺいするための国家暴力だ。内幕を喋った籠池氏を牢屋に閉じ込め、白を黒と言い逃れした佐川とかいう男が国税庁長官としてのさばっている。世も末だ。
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沖縄ノート(10)屈辱の戦後A

17年01月14日
沖縄ノート(10)屈辱の戦後A 

■坂本陸郎(JCJ運営委員;広告支部会員)

良民の戦後
 沖縄の人々は、戦前の天皇制国家に対して忠実であった。天皇を敬い、皇国に忠誠を尽くそうとする心情は、本土の住民以上であったとも言われている。それは、沖縄が同じ日本でありながら、地理的に本土から遠く離れた島であったからであった。そこでは、本土への一体化を求める感情が強くはたらいていた。
 去年(2017)の暮、乗換駅のホームで、沖縄ノート(8)で紹介した対馬丸遭難者、仲田清一郎氏と偶然会い、車中で会話を交わす機会があった。その折、仲田氏は、辺境であればあるほど、住民は国家に対して忠実になるものだ、という話をされた。そのとき私は、戦時下の沖縄では、本島のみならず離島の隅々まで皇国の思想が行き渡っていただろうことを想像した。
 彼らは素朴さゆえに、それを抵抗なく受け入れていたのではなかろうか。だが、天皇に帰依し国家に尽くそうとする心情は、やがて裏切られることになる。沖縄戦で頼りとした皇軍は、彼らが想う軍とは違ったものであった。天皇の軍は一般住民に対する加害者としての顔を持っていた。そうした軍の一面を、本土の国民の多くは信じ難いと思うであろう。
 敗戦後は、生きる手だてを失った沖縄の住民(本土の住民もだが)は、征服者であった米軍政府の庇護に頼らざるを得なかった。当時沖縄では、米国を自由と民主主義の国だとする宣伝が行われていたからでもあった。
 その限りでいえば、沖縄は本土と共通していた。だが沖縄では、その支配が、本土では想像できないほど横暴非道なものであった。そのことによって住民の軍政府に対する期待は短時日のうちに打ち砕かれることになる。それが、占領下の沖縄と民主化が行われた植民地であった本土との、戦後における違いである。
 1946年4月、ワトキンス少佐が、「アメリカ軍政府は、例えるなら猫であり、沖縄の住民は鼠である。猫と鼠の考え方の違いはあってはならない。講和会議〈51年〉がすむまでは鼠の声は認められない。アメリカ軍政府の権力は絶対である」と語っている。
 彼らは、沖縄を占領支配することを当然のように考えていた。その支配は、講和条約締結後にいっそう絶対的、暴力的なものとなっていった。その背景に何があったのか。
 詳しくは後述するが、1947年に天皇が、沖縄を米国に差し出す意思を米国政府に伝えている。その後の51年日本政府は、沖縄を日本領土から切り離すサンフランシスコ講和条約に同意し締結した。それによってアメリカの極東戦略のもとに沖縄の占領は固定化することになった。日本政府の希望に沿って、それが合意された点は重要である。

占領統治
 戦後の沖縄が日本本土とは異なる占領地であったため、支配者は傍若無人に振る舞うことができた。軍政府は、非人間的環境で荷揚げに従事する住民の働き方が気に入らないからといって、その報復として、命綱の食料などを扱う売店を閉鎖する指令を全島に告知した(前号で触れた)。1949年には、軍が供給する食料品の一方的な値上げを行うなどした。
 当時は、軍政府の指示によって、民間人による行政機関がつくられ、志喜屋孝信氏が知事職に就いていたのだが、彼は軍政府におもね、住民の声に耳を傾けようとしなかった。それが住民の反発を買い、辞職を迫られ、沖縄県議会議員全員が辞表を提出するに至り、売店閉鎖の指令は取り消された。これは「窮鼠猫をかむ」戦後初めての事件であった。
 一年が過ぎると、収容所で暮らす住民に、以前の居住地に帰ることが許され、まず首里と那覇の一部の住民が町や村に帰っていった。だが、多くの住民が帰るに帰れなかった。かつての村や町、集落が、戦禍で跡形もなく消えていたからだった。
そこには、有刺鉄線が張り巡らされ、「立ち入り禁止」のプレートが掛けられていた。しかたなく住民は、わずかに残った集落に、他の集落の住民と共に暮らすことになったのだが、当時は米兵の家宅侵入が横行し、女たちは床下や天井裏に隠れなければならなかった。
 住む家と土地を奪われた住民の悲しみは大きかった。鉄条網がめぐらされた基地建設予定地の敷地内には、先祖代々の墓があったのだが、その墓を見ることさえできなかった。それは、1950年代に始まる、基地拡張のための私有地強奪のまえぶれであった。

苦難と混乱
 住民は、耕すに土地なく、働き口といえば、米軍に雇われて働く以外になく、その職種も限られていた。しかたなく住民は、くず鉄を拾い集めたり、米軍の物資を横流しするなどして、日々しのぐしかなかった。
 1948年に本土並みの6・3制が敷かれたのだが、学校に行けず、働かなければならない多くの子供たちがいた。教育の場を奪われた子供たちは、米軍将校の身の回りの世話をするハウスボーイやメイドとなって働いた。親を失い一家の生計を支える12,3歳の少年、少女たちも数多くいた。そのころは、学歴を気にする親も少なかった。たとえ進学したとしても、沖縄では米軍の基地で働く以外に就職の見込みがなかったからだった。
 壮年の男たちは基地建設現場で、わずかな賃金で働いた。かつての教師も基地で働く大工になり、検事だった人が米軍基地ゲートの守衛になるなどした。
 さらに、1946年8月になると、中国、朝鮮、台湾などの外地から引揚者が続々と帰ってきた。引揚者たちは、沖縄に残っていた家族すべてを失った人や、学童疎開中の沖縄戦で両親を失った子供たちや、妻子を失った軍人など、それぞれの不幸を背負う人々であった。
 そうした引揚者たちも加わり、社会は混乱した。戦後一年が過ぎても、失業者が巷にあふれ、食糧が不足し、なんらかの方策をとらざるを得なかった。
 対応を迫られた軍政府は「沖縄開拓庁」を設置させ、食糧の調達と生産を図り、ハワイやアメリカ本土、日本本土から豚や牛、山羊、雛鳥などを調達し、住民に飼育させ、漁民には上陸用舟艇を払い下げ、漁業の再開を促すなどしていたのだが、当時の沖縄の人口45万人の食を満たすには、ほど遠かった。
 その頃、本土では戦後の経済復興が緒につき始めていた。そのような本土から見ると、沖縄は有望な市場に映った。沖縄では生産活動がほとんど無に等しかったからだった。

切り離された沖縄
 沖縄の占領支配を可能とした歴史上の事実を書き留めておきたい。
 当時、戦後に占領地をそのまま支配、統治することを、他の連合国は同意しなかった。国際法上からも、それが認められていなかった。そのため、米国は国際世論の非難から逃れるために、サンフランシスコ講和条約の中に、やがて沖縄を国連の信託統治に移すかのような条文を書き入れている。
 日本政府に関しては何ら問題なかった。当時の吉田茂首相が講和条約締結に先だって、99年間の租借(バミューダ方式)を提案することを西村熊雄条約局長に指示し、沖縄の半永久的占領を希望する旨を米国側に伝えている。この日本政府の意向は、他の連合国の承認を得るうえで有効であっただろう。したがって、その後米国は国連に対して、沖縄を信託統治に置く提案をいちども行っていない。
(資料)サンフランシスコ講和条約第二章・第三項 
『日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島および大東諸島を含む)、そう婦岩の南方諸島(小笠原群島、西の鳥島および火山列島をふくむ)ならびに沖ノ鳥島および南鳥島を、合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度のもとにおくことを、国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ、かつ可決されるまで、合衆国は、領水をふくむこれらの諸島の領域および住民に対して、行政、立法および司法上の権力の全部および一部を行使する権利を有するものとする』

  
 講和条約締結以前の1947年に、昭和天皇が沖縄の占領継続を希望する旨を米国側に伝えている。これが、世に言う「天皇の沖縄メッセージ」である。当時は連合国によって戦後処理を話し合う「極東委員会(FEC)」が置かれていたのだが、そこでは天皇を戦犯として起訴すべきという意見が支配的であった。また、アメリカ国内でも、天皇の戦争責任を求める世論が多数を占めていた。それを天皇は知っていたであろう。


 以下は、林博史著『沖縄戦が問うもの』から。
「戦後になり、日本国憲法が制定され、第9条により日本が軍隊と戦争を放棄したことに危惧を抱いた天皇は、日本と天皇制の安全のために、密かにアメリカと連絡をとった。1947年9月に天皇の側近である寺崎英成を通じてGHQの外交局長シーボルトに、『天皇は、アメリカが沖縄を含む、琉球の他の島々を軍事占領し続けることを希望している』こと、『長期の貸与』という形で占領を継続することなどを提案した。このことは米本土にも伝えられた。当時、米政府内では、沖縄の軍事占領を継続したい軍部と、連合国の建前から、沖縄を返還すべきと主張していた国務省が対立していた時期である。その時に、天皇は自らの安全のために沖縄を売り渡す提案をしていたのである。沖縄は天皇制を維持するために、ふたたび捨て石にされた」。この「天皇メッセージ」について、琉球新報の新垣毅氏が自著『沖縄のアイデンテイテイー』の中でこのように書いている。「25年から50年、あるいはそれ以上にわたる長期の貸与(リース)という『擬制(フイクション)』によって、沖縄の軍事占領を続けることを求めた内容は、『貸与』という見せかけの下、沖縄を『自由に使ってよい』というものだった。対日政策をめぐって混乱していた米政府にとって、(天皇の)提案は”渡りに船“だった。」   
             

(つづく)
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JCJ 2月緊急集会

安倍政権、憲法改悪を国会に発議のかまえ
メディアに喝!
市民が政治の主体です。
講師:中野晃一(上智大学教授)、望月衣塑子(東京新聞記者)
日時:2月3日(土)14:00〜
場所:エディカス東京 7階ホール
資料代:800円(学生・障害者手帳をお持ちの方 無料)

※連絡等、くわしくはチラシPDFをご覧ください。
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2018年01月13日

爆風(37)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765
労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2018年01月13日
爆風(37)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 柳中尉は何故自決したのか。遺書らしきものはないので憶測するしかない。「関東軍火工廠史」は「自決した柳中尉を偲ぶ」と一項を立てて関係者の証言を集めている。手記を寄せたのは庶務科の米田穣賢軍属、鈴木弓俊中佐、稲月光中尉、木山敏隆雇員、鴨沢弘(工務科の将校だが階級不明)らである。これらの手記をもとに「柳中尉の死」を検証してみようと思う。

 柳尚雄は25歳か26歳で、東京帝大理学部工学科を卒業した陸軍技術中尉。相手によっては激論をたたかわす熱情の持ち主であった(稲月)。食事しながらでも本を読む一方、厳しい国粋主義者で「大和は神の国なり、決して滅びず」と今次戦争の勝利を確信していた(鴨沢)。

 28日は午前に稲月中尉の部屋に寄ったが、夕方近くなって浜本宗三大尉宅を訪れている。浜本は留守で奥さんが対応した。帰宅後その話を聞いた浜本は「あいつ今日は会議に出て来ず、どこへ行ったのかと思っていたらうちへ来たのか。前の会議で言ったことに少し気になることがあるな」とつぶやいた。(後述するが、浜本大尉はこの5カ月後に命を落としている。この日の浜本の行動は米田の手記による)。

 「前の会議」とは前日に浜本大尉を中心に集まった「28日の将校会議でどういう方針を提起するか」という非公式な対策会議のことで、ここには柳中尉も出席していた。浜本と柳は火工廠の将来図について「大局の洞察、愛情と正義」を基本とすることで一致、打てば響くの如くであった(鈴木)。

 この対策会議において柳中尉は、8月25日の林部隊長の対応を強く批判する発言をした。それが浜本大尉の頭の隅に引っかかっていたと思われる。ところで、米田の手記では28日の林部隊長召集の将校会議には柳は出ていなかったことになっている。稲月の手記もそれと同じなので筆者は柳欠席説を採用したが、柳が出席していたという見方もある。鈴木弓俊中佐と工務科・鴨沢弘の手記である。

 鈴木手記《8月28日、柳さんは6時半頃に起床した。私の部屋で誠にしみじみと一点を見つめながら「これからの日本を救う道は、科学の新生面を展くしかない」旨を述懐された。私は押入れの布団の下から預かっていたピストルを取り出して返却を申し出、あけてあった窓から電柱を目がけて1発発射した。柳さんは驚いて「露助を刺激したら大変だ」と私を宥めてピストルを引き取った。

 28日の会議に当たって浜本、柳氏らの狙いは、平穏裡に新体制に移行する決議を得ることにあった。私はこの会議に出席せず、1人で製造科事務室の留守番をしていた。会議が終わって柳さんが部屋に入ってこられたのは午後に入っていたのではないか。呆然とした表情で、私が会議の首尾を尋ねたのに対し、言葉少なにあしらってすぐ部屋を出られた。この後浜本さんの留守宅へ立ち寄り、夕方には吉野山でピストルを発射し自らの眼窩を撃ち抜かれたのである》。

 鴨沢手記《8月28日の会議には私は出席していない。8月25日夜の事件の処置についての会議だったと思う。柳中尉がその責任の所在について林閣下に迫ったということを、出席者の誰かに聞いたことを覚えている》。

 2人とも会議に出席して直接に柳を見たわけではない。すると米田手記の、浜本大尉が「あいつ今日の会議に出て来ず」と言ったという方がリアルで真実味がある。ただ、柳の林批判が本人のいない27日の対策会議なのか、28日に本人を前にして言ったのかでは意味が違ってくる。しかしそれを今や検証する術はない。
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