2018年06月07日

爆風(93)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載


労働運動は社会の米・野菜・肉だ。

2018年06月03日

爆風(93)

 火工廠のあった桜ヶ丘から錦西駅までの列車の旅はどんなものであったのか。6月26日に出発した第二大隊の隊長だった松岡道夫と28日出発の印東和の手記に基づいて辿ってみよう。

 26日は朝から晴れた穏やかな日だった。東京陵の官舎から引き込み線の太子河無人駅まで2キロ余の道を、一ヶ大隊1000人で歩いた。老人や病人を乗せた素人づくりの手押し車はすぐ車輪が外れる。手早く修理して皆に遅れまいと先を急ぐ。妊婦が顔から汗を流して歯を食いしばりながら歩いている。途中で妊婦を担架に乗せる応急措置をした。それでも遅れる人が続出して隊列は延々と伸びた。

 やっと太子河無人駅に着き、10輌の無蓋貨車に分乗する。後部に繋がれた3輌には引揚船乗船までの食料と燃料を積む。見送りの加藤治久大尉ら留用組の人たちと手を振って別れ、13輌の列車はゴトンと動き出した。間もなく遼陽駅到着。野木遼陽居留民会会長をはじめ多くの人々が迎えてくれた。

 遼陽からは旧満鉄を奉天に向かう。既に満鉄は国民政府に接収されており、この引揚げ列車も運転手、乗務員は皆中国人である。列車運行の命運はすべてこれら中国人に握られている。運行の便宜を図ってもらうため、乗務員に一定のチップを渡す。そうしないと予期せぬ小駅に停車し、警備員に服装検査と称して金品を巻き上げられると聞いてきたからだ。お蔭で途中停車もなく奉天駅に着いた。

 列車は奉天で大連ー新京線と別れ、錦州方面から北京まで行く路線に入る。ここで困ったことが起きた。奉天駅に列車が止まると国府軍の停車場司令官が松岡隊長を呼びつけた。プラットホームに降りると「この列車は規定以上の車両をつないでいるので後部の2輌を切り外す。発車は30分後だ」と言う。彼はそのまま返事も聞かずにどこかへ行ってしまった。後部2輌には食料、燃料の3分の2が積んである。移し替える時間はない。

 乗船まで何があるか分からない。後ろ2輌の切り離しは部隊にとって致命傷になる。部隊幹部が緊急招集された。相談の結果、賄賂を使うしか方法がないという結論になった。当時の金で1万円、それをだれが司令官に渡すのか。結局松岡隊長の役目となり、機会をうかがったがなかなか難しい。彼が1人でいるところでなければならない。そのうち全員列車を下りて駅前広場に整列せよとの命令が出た。

 司令官が広場の隅に1人で立っている。他の兵士は引揚げ者を整列させるために忙しい。松岡は司令官の傍に寄り、そっとお金を渡す。司令官はお金を確かめてからその場を去った。間もなく全員乗車の命令。列車はすぐ錦州へ向けて動き出した。松岡はほっとして水筒の高粱酒を側近にも注ぎ、苦笑いしながら乾杯した。列車は夜を徹して走る。無蓋貨車は風が強く当たり、病弱者や子どもたちは震え上がった。乗船港葫蘆島に近い錦西駅に着いたのは28日午後3時を過ぎていた。
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爆風(92)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載


労働運動は社会の米・野菜・肉だ。

2018年06月02日

爆風(92)

12、錦州錦西葫蘆島収容所に滞在中は医療班長は主力を防疫患者発見及其処理手続、死者処理手続、清掃指導、保健生活指導に置き診療は簡易なる処理投薬をなし複雑なる治療は其他に於ける日僑総処事務所所属医療機関に委託若しくは協力を求めること。

13、船内に於いては医療班は唯一の衛生機関なるにより全力を挙げて患者発見並に其処置保健生活指導に任ずる。


14、遼陽総站錦州、錦西葫蘆島に於ける保健機関は次の如くなるに付き之と緊密なる連絡を保つこと。
遼陽総站=防疫診療所 錦州=辨事処衛生班医療隊 錦西=同左 葫蘆島=辨事処衛生科医療隊防疫隊

15、救急箱は中国の寛大な(1字不明)ひにより認許されたものにして時価約6,000円の薬物を納めあるに付き其管理保存投薬方法には慎重且つ厳格を期すべく若し内地港到着後残余品あらば船中に留め置くこと。

 この事務室通達を見ると、伝染病患者及び「普通旅行に耐えざる者」はそもそも引揚者から除外され、また途中で病気や怪我をしたら置いていかれることになる。何としても健康でなければならない。集団の足手まといになってもいけない。年寄りや幼児といえども自力でがんばるしかない。

 引揚げ時の戸塚家の構成は戸塚陽太郎(40)、せん(37)、和子(13)、章介(9)、栄子(5)、順子(生後2か月)の6人。父と姉はリュックサック、母は赤ん坊を背負い、私は2月に死んだ妹悦子の遺骨の箱を白い布に包んで首から下げた。栄子は隊の移動に遅れないよう自分の身を処するのに精一杯だ。

 桜ヶ丘部隊の出発は46年6月26日に第一大隊と第二大隊、翌27日に第三大隊と第四大隊の予定だった。6月26日は穏やかな晴天で予定通りに出発したが、27日は朝から大雨、出発は28日に延期された。戸塚家が所属していた第三大隊は出発の準備を整えてじっと天気恢復を待った。

 28日は快晴。まず満鉄遼陽駅からの引き込み線の太子河無人駅まで約2キロの道のりを歩く。迎えの無蓋貨車に乗り込んで、夜を徹して走る。途中停車してしまい、このままこの地で野宿かと心細い思いをしながら、それでも29日午後3時には引揚げ港のある錦州錦西駅に着いた。
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2018年05月31日

爆風(91)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載


労働運動は社会の米・野菜・肉だ。

2018年05月31日

爆風(91)

 部隊の中で医療班の果たす役割は他に増して大きい。引揚者は女子どもが過半数であり、病人、妊婦もいる。過酷な移動条件を克服して日本まで送り届けなければならない。遼陽市日僑善後連絡所は46年6月9日付で次のような「遣送事務室通達」を出した。

1、大隊医療班は医師1、医学生2、看護婦1、を以て構成する。過剰の要員を附せざること。但し患者遣送を開始せば班員を増員することも之は別途指示す。


2、医療班長は成るべく早く分処主任並びに大隊長と緊密なる連絡を取ること。

3、分処主任若しくは大隊長は大隊出隊2乃至3日前に医療班長をして隊員の健康診断を施工せしめ普通旅行に耐えざる患者特に伝染病患者を除外すること。従って出発駅に於いて伝染病患者若しくは旅行に耐えざる患者を発見されたる場合は分処主任、大隊長医療班長の責任とす。

4、分処主任は少なくとも出発3日前に大隊救急薬格納用函を総処衛生科に持参し薬品並びに格納薬品一覧表の配布を受け厳重に保管すること。上記配布薬品は己に四拾以上の検査経験ある品目にして不合格の憂なきものに付き此の活用を維持する為医療班長の私見により薬品の加除は行わざること。従って検査の際不合格を出したる時は医療班長の責任とす。

5、医療班長は出発前衛生科医療股に出頭赤十字旗並びに班員の赤十字腕章を受け取ること。其の他の手続きは一切分処主任並びに大隊長に於いてなすこと。


6、医療班長は自己の出発により診療所閉鎖となる場合は接収品目録作製の上少なくとも3日前に統一接収委員会衛生組に届出て且つ鍵の授受等につき打ち合わせること。

7、医療班長は出発の際聴診器1、検温器1、メス1、ピンセット1、剪1を携行すること。


8、医療班長は大隊編成決定後は大隊隊員の保健事故を防止するため特に健康診断をなし生活指導により伝染病患者発生防止に努力すること。

9、予防注射は種痘、発疹チフス、腸チフス、コレラの四種にして総処及び分処に於いて施工するも医療班長は大隊隊員の予防注射の結果を確認し予防注射未了者の皆無を期すこと。


10、瀋陽総站収容所収容中の診療は収容所医療班に於いて施工するも大隊付き医療班は之と緊密なる連絡をとり且つ可能なる範囲の協力をなすこと又、収容所収容中の清潔整頓に関し指導をなすこと。

11、列車内に於ける保健事故の処理は困難なるが故に其の方法に付き医療班長は大隊長と事前に打ち合わせを了し其の要領を中隊小隊長に周知せしめること。
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バリ島のお盆・ガルンガン

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載


労働運動は社会の米・野菜・肉だ。

2018年05月30日

バリ島のお盆・ガルンガン

 バリ島は住民の9割がヒンズー教だ。ヒンズー教はワク歴という210日で1年の暦を使う。ガルンガンは1年の区切りを祝う日でいわば正月みたいなもの。1年といっても西暦と比べると短いので西暦の1年の間に2度ある年もでてくる。今年は今日5月30日に当たったというわけだ。

 ガルンガンはは故事で世の中の善が悪に勝利した日ということになっている。勝利を祝って先祖の霊が各家庭に帰ってくる。各家々ではご馳走を作ってご先祖を迎える。帰ってきた先祖は10日後にまたあの世に旅発つ。その日をクニンガンという。奇しくもおれがバリを発つ日だ。

 今朝、朝食の後にボクちゃんがおれにお祀りの正装を着せてくれた。短パンの上からスカーフを巻き、真ん中に派手な布を垂らしてギュッと縛る。スカートをはいたようだ。上は日本から来るとき着てきた長袖のワイシャツ。頭はターバンのようなものを被って帽子替わり。鏡に映したらサマになっていた。

 9時半にストウさんがやってきて、光森夫妻とおれを車で村はずれのお寺に連れて行ってくれた。お寺の境内はお祈りをする善男善女で一杯。日陰を選んで腰を下ろす。坊さんが鈴を振りながらお経を始める。合図があって参列者も手を合わせる。その時花びらを指に挟む。それを何回か繰り返した後何人かのお坊さんやお寺関係者が手分けして聖水をかけて歩く。手に聖水を受けて飲む真似をし、それで終わり。

 2つのお寺をはしごして同じセレモニー。強い日差しにもう勘弁してくれ、という気になる。小便もしたくなる。11時半前にストウさんの家へ。入口は狭いが奥行きが深い。親族が6世帯で住んでるそうだ。ここで奥さんの手料理をご馳走になった。辛い鶏のスープをご飯にかけて食う。美味だ。

 食い残したサテ(やきとり)や豚肉、果物、お菓子をお土産にもらって12時過ぎにストウさん宅を去る。そういえば7年前の2011年7月にもガルンガンに当たりお寺参りとストウさん宅での会食をしたな。あの時は孫の凌が3歳で、お寺の雰囲気でトランス状態になり火が付いたように泣き出したっけ。

 ちなみにストウさんは2年前までこの村の村長さんをしていた。今日お詣りしたお寺の改装に骨を折った。いわば村の顔役である。おれとは16年の付き合いだ。竹にきれいな飾りを施したペンジョールの林立するスウェタ通りをビラビンタンに向かったのでした。
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爆風(90)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載


労働運動は社会の米・野菜・肉だ。

2018年05月28日

爆風(90)

 《再び満州に進出して来る日本人のための礎石になろう》と意気込んで留用に応じた松野徹だったが、46年暮れ頃になってみるとどうも気合が乗らなくなった。頼りにした国府軍に勢いがない。工場の本格再開には程遠い。毎日手持無沙汰でぶらぶらしている有様だ。そのうち1947年の正月になった。

 日頃実直な責任者の吹野信平少佐が「正月くらいは酒でも飲もうや」と言い出した。年末に国府軍紙幣で給料が出たばかりだ。部落の中国人に頼んで奉天に行ってもらい、日本酒の4斗樽を買ってきた。唐戸屯の官舎に集まって飲めや歌えの大騒ぎ。警備の国府軍兵士から文句を言われる始末。

 いろいろ手をまわして調べてみると、一旦北方に立ち去った八路軍が南下を始めたらしい。今や国府軍の方が押され気味だ。そういえば、彼ら八路軍はこの地を去るとき、我々に《1年後には必ず戻ってくる》と言っていた。そんなことを松野は思い出してはそれもありうると考えるようになった。

 正月が過ぎたある日、松野は吹野について奉天の満鉄官舎にいる居留民会の高碕達之介会長を訪ねた。高碕は2人に「蒋介石は偉い人物だが、中国の国情は彼の思うようには行かぬのではないか」と感想を述べた。松野はそれが真実だと感じた。国民党と中国共産党の軋轢の中で日本人ができることは何もないのではないか。それなら1日も早く日本へ帰りたい。日本の土を踏みたいとしみじみ思った。

 国府軍の形勢はますます悪くなる。その年の5月になると旧火工廠の工場再開は難しいとみたのか、留用者の一部を帰国させることになった。――留用者の帰国については後述する。

 戸塚家や小林家を含めた一般引揚げの準備は46年4月末から急速に進んだ。遼陽市の日僑善後連絡処(野木善保主任)のもとに東京陵、唐戸屯を一緒にした桜ヶ丘支部(宮川峯雄主任)が形成される。引揚げ事務は桜ヶ丘支部の手で滞りなく進み、吹野信平少佐ら約100人の残留者に心を残しながら出発の日を待つことになった。6月8日からは種痘、チブス、コレラ等の予防接種が実施され、出発間近かが予感された。

 桜ヶ丘支部の一般引揚者は約4000人。これが4大隊に編成された。大隊所属は居住官舎で決められ、戸塚家は第三大隊に組み入れられたと思われる。第三大隊は総員1083人で、市川隊長のもとに経理、書記、渉外、通訳、医療の直属班、その下に7中隊、中隊毎にさらに5小隊の編成である。中隊は150〜160人、小隊は30人前後でそれぞれに隊長が任命されている。戸塚家がどの中隊、どの小隊に入れられたかは分からない。

 (戸塚家が第三大隊だったことも推測による。関東軍火工廠史によると、4大隊はそれぞれ日本の帰港地が別々で、第一大隊と第三大隊は博多、第二大隊は佐世保、第四大隊は鹿児島となっている。戸塚家が博多に帰ってきたことは確かだから第一か第三だ。このうち第一大隊長の加々路仁は唐戸屯の第二工場長だった。居住官舎毎の編成だとすると東京陵居住の我が家は第三大隊になるはずだ)。
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爆風(89)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載


労働運動は社会の米・野菜・肉だ。

2018年05月27日

爆風(89)

 留用者の大部分が唐戸屯地区に集められ、東京陵の第三工場に残ったのは和泉正一中尉ら10世帯になった。工場再開には程遠く、仕事といえば引き揚げていった空き家の残留物整理くらい。時間を持て余す日が続いた。ちょうど作物が獲れる時期で、空き家の庭の家庭菜園には胡瓜や南瓜が食べ頃だった。

 工場要員の1人盤若賢吉は7月のある日、暇つぶしに和泉正一と2人で太子河まで魚釣りに出かけた。大雨の後にできた池を迂回しているうちに帰り路がわからなくなる。2人で高粱畑の中をさまよううちに日が暮れてくる。やっと見つかった鉄道線路。地獄に仏とはこのこと。線路に沿って東京陵に戻ることができた。もう真っ暗で、心配した留守の人たちが迎えに出ており、2人は平謝り。その後は大笑いだった。

 46年秋になると留用者の第一次帰国の話が出てきた。しかし盤若は帰国どころではない。妻が臨月なのだ。唐戸屯には勝野医師がいるが東京陵には誰もいない。急ぎの場合どんな方法で連絡すればいいのか。悩んでるうちにも妻のお腹は金魚のように膨らんでくる。爆弾を抱えているような毎日だ。

 10月半ばには10世帯のうち8世帯が帰国して、残りは和泉、盤若の2世帯になってしまった。その2世帯にも東京陵から唐戸屯への移動通達がくる。明日馬車に荷物を積んで東京陵を離れようとした夜中の2時頃、妻が陣痛を訴えた。和泉中尉と相談してとりあえず唐戸屯まで歩くことに。暗闇の中を歩き始めた。

 箱根山の山道で突然「誰呼(セイヤ)」と厳しい声で誰何された。国府軍の分隊らしい。言葉は通じなかったが妻のお腹を指さしたら「アイヤー快走、快走」と手のひらを返したように親切な扱い。人の情に国境はない。若い兵士の顔から柔和な温かさが溢れていた。

 東の空が白む頃やっと唐戸屯の官舎地区に着き、第三工場で同僚だった中尾宅に落ち着いた。盤若は妻を預けて荷物を取りに東京陵へ戻る。玄関を開けると中国人の女や子どもが蜘蛛の子を散らすように逃げて行った。彼らにすればどうせ捨てていったものだから失敬してもいいだろうと思ったに違いない。衣類や家具は取られたが、出産用品を入れた行李は無事だった。そこへ迎えの馬車が来た。

 唐戸屯の決められた宿舎に荷物を置き、その足で中尾宅へ直行。「まだだよ」と勝野医師ののんびりした声。妻は苦痛で呻吟していたが盤若は大船に乗った気分になる。どちらが生まれるだろう。男なら命名を偉い人に頼むとして女なら桂子にしよう、と決めた。長い陣痛の末、和泉医師に励まされ、和泉夫人の手により無事女の子が誕生した。46年10月16日、早朝からの目まぐるしい一日が暮れていった。
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久しぶりに活動的な一日

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載


労働運動は社会の米・野菜・肉だ。

2018年05月26日

久しぶりに活動的な一日

 昨日は活動的な一日だった。まず午前2時、トイレに起きて小便しようとしたら停電。すぐ点くだろうと待ってたが点かない。暗闇で用を足して寝た。すぐ眠れて朝5時に目が覚めたら電気は点いていた。後でボンさんに聞いたら停電は広範囲だったが1時間ほどで回復したそうだ。

 午前10時にビラビンタンを出て王宮に向かう。太陽がギラギラ。熱中症が心配だ。そういえば水のボトルを忘れた。ウブド第一高校に沿って坂を下る。歩道の敷石がはがれているし、オートバイや酷いのは乗用車が歩道に乗り上げている。歩きにくいことこの上なし。それでも予定通り30分で王宮前に着いた。

 門を入って一休み。観光客が一杯。中国人が目立つ。交番前の交差点を渡って市場へ。時間が時間だけに観光客向けのお土産屋さんばかりだ。一回りして小道をサッカー場方面へ。サッカー場のヘリはおれの好きな通りだ。坂道を下りたところにワル・パタンというこぎれいな喫茶・食堂がある。ここのトイレは清潔で使いやすい。6人掛けのテーブルに座ってビールの小瓶を頼む。よく冷えててうまい。

 疲れがとれたので勘定をして(5万ルピア札出して釣りはトイレ代だ)サッカー場のヘリを進み突き当りを左へ曲がって王宮前通りへ出る。以前この道は路上駐車がびっしりだったが、今は規制されていて道が広くなった感じだ。坂を下ったり上ったりして三差路に突き当たる。マンガマドウという食堂。去年も孫たちと来た落ち着ける店だ。ガーリックスパゲティとビールの小瓶とミネラルウォーター。6万ルピア。

 そこから歩いて3分のスーパー(デルタデワタ)へ。卵10個300ルピア、缶ビール5本84,000ルピア、豆腐6700ルピア。午後1時20分、病院に行った帰りの光森さんの車に拾ってもらってビラビンタンに帰る。

 昼寝して夕方4時半に光森夫妻と一緒にボンさんの運転でサヌアへ。新しいガムランを創造している青年がヨーロッパに演奏旅行した成果を発表するお披露目会だという。途中夕飯を食べて会場のなんとかコンパスへ向かう。凝ったつくりの円形劇場風で、観客は200人ほど。なるほどおれが今まで聞いたガムランとは違う。リズム主体で歯切れがいい。最後に女性のピアノとの共演。ヨーロッパやアメリカでは鐘と共演するのだそうだ。8時40分頃終演して待っていたボンさん車で帰途へ。9時半に帰着。

 部屋でパソコンを開いたらロッテがオリックスに5対9で負けていた。涌井が打たれて逆転された。シャワーを浴び
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2018年05月24日

爆風(88)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載


労働運動は社会の米・野菜・肉だ。

2018年05月23日

爆風(88)

 留用者の給与はどうだったのか。国府軍は留用者に対して「生活は保証する」と約束、46年7月分から支給された。賃金レベルは旧日本軍隊時代の階級に応じて決められる。例えば旧大尉であった者は、国府軍の中尉程度の金額が支給される。給与のほかに白米の無料配布が少量ながらあった。

 給与額が旧軍隊の階級に基づくため、火工廠当時の賃金体系との矛盾が出た。火工廠当時、軍人でない古参の職制は将校以上の額をとっていた。それが極端に低くされる。当然不公平感が出る。そこで46年10月分から日本人内で賃金の再配分が行われるようになった。生活費に基づく均等化である。

 まず日本人全員の給料を国府軍から一括して受領する。そして一定の配分係数により算出した額を各人に支給する。どんな係数が決められたか不明な点もあるが、和泉正一の記憶によると《主人(10)、妻(8)、子供(5)》であったらしい。係数配分の提案者は吹野信平少佐だったといわれている。

 年が明けて47年春になると、それまで八路軍に対して優勢だった国府軍が劣勢を伝えられるようになった。それに伴って国府軍紙幣の信用が急落し、八路軍による物資の流通遮断も相まって猛烈なインフレに襲われる。給料も毎月引き上げられたがインフレの速度には追い付かない。給料が出るとすぐ、生活必需品の米、調味料、豚肉、粉ミルク、煙草などを買いに市場へ走った。

 木山敏隆の手記。《インフレは激しく、家族数に応じて再配分してもらった給料と現物支給の雑穀は、数日中に生活必需品に交換された。貴重な所持品の物々交換でタンパク質を補充する。日曜日、遼陽市内へ菅野氏、中尾氏らと買い出しに行く。すべてに飢えている我々にとっては、見るもの聞くもの皆楽しいものばかり。米国製品が氾濫している。長年見たこともない洋モク、初めて見るナイロン製品等店頭にずらり並んでいた》。

 留用者の中には一般引揚当時肺結核等の重病で、残留せざるを得なかった人たちがいた。そのうち緒方少尉が46年6月28日、小林雅男が同9月20日、南満工専学生の工藤が同9月中旬に相次いで亡くなった。また勝野六郎医師の義理の母勝野せいを始め、1歳の幼女から大人まで10数人がジフテリア、疫痢、肝疾患などで日本の土を踏むことなく大地に骨を埋めた。

 勝野六郎医師の手記。《引揚げの数日前、丘の上の墓地を訪れた。親戚の反対を押し切って、満州まで私たち夫婦についてきた時の義母の嬉しそうな顔が思い浮かぶ。満州の地に骨を埋めることになった霊に敬虔の黙祷をし、同時に安らかに眠る人々のために冥福を祈って丘を降りて帰ったが感慨無量だった》。
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インドネシア・ジョコウイ大統領の正念場

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載


労働運動は社会の米・野菜・肉だ。

2018年05月22日

インドネシア・ジョコウイ大統領の正念場

 バリ島に来ている。乾季の空は紺碧だ。確かに暑いが日本の蒸し暑さとはちょっと違う。どこか爽やかさが感じられる。午前中両替と買い出しに行ってきた。2万円が251万5000ルピア。財布に札束。気が大きくなる。そこでスーパーで買い物。地ワイン2本、地ビール缶5本、生ハム、サラミ、トマト、レタスで計55万6350ルピア。約5000円というところか。朝洗濯した丸首とパンツが手絞りなのにもう乾いた。

 インドネシアの日本語新聞「じゃかるた新聞」5月21日付に「レフォルマシ道半ば」「スハルト退陣から20年」の記事。レフォルマシとは改革の意味で、反スハルト運動の学生らのスローガン。当時の中心的活動家は今、ジョコウイ大統領を支える重鎮になっている。

 スハルト大統領に対するインドネシア国民の評価は下がり気味だが今でも歴代高位だという。民間調査機関インドバロメーターの「1945年の独立以来最も成功した大統領は誰か」という世論調査の結果が「じゃかるた新聞」に載っている。4月15日〜22日まで、1200人に対して面接調査をしたもの。

 1位はスハルトで32.9%。これは前回調査(2011年)より7.6ポイント落ちている。2位は初代大統領のスカルノで21.3%、3位が現大統領のジョコウイで17.8%。ジョコウイの前の大統領のメガワティは0.6%と歴代最低だ。この結果に対してスハルト打倒運動をした元活動家のプディマン・スジャトミコ氏は「スハルト氏がトップなのは当然。任期も最も長く、功績も多い」と認めている。

 とは言えスハルトが強権政治、汚職体質であった本質は消えない。スハルト退陣後4回の憲法改正を行い、政治の民主化の努力がなされた。特に深刻だったのが汚職の蔓延だった。2003年に独立捜査機関「汚職撲滅委員会」が設立され、汚職絶滅への機運が高まった。現職のジョコウイ大統領になってからやっとその効果が表れ、政権発足からの3年間で汚職摘発件数はそれまでの6倍に達している。

 来年はインドネシア大統領選挙の年である。6年間のジョコウイ大統領の実績が問われる。軍からも大資本からも独立した庶民政治家としての本領を発揮できたのかどうか。おれはこの間ずっとバリ島というインドネシアの一地方と付き合ってきたが、おれの見る限り島のリゾート開発、アメリカや日本の企業進出が著しいように思える。それが庶民の生活に寄与しているのかどうか。それが問われるように思う。
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連合と政府が「働き方改革」で一致 

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載


労働運動は社会の米・野菜・肉だ。

2018年05月19日

連合と政府が「働き方改革」で一致 

 ズサンな資料、インチキデータで法案自体が自爆するはずの「働き方改革関連法案」が、来週中にも衆議院を通過し、今国会で成立する運び(19日付『毎日』)だそうだ。国会内外で労働弁護団やエキタスなどの市民団体が反対運動をやっているが、どうも肝心の労働組合の影が薄い。

 折も折、連合の神津理季生会長が首相官邸で菅官房長官に会って「2019年度 連合の重点政策」を提示した。「連合は5月17日、菅官房長官に対して『2019年度 連合の重点政策』の実現を求める要請を行いました。連合からは神津会長、相原事務局長等が出席しました」(18日付『連合ニュース』)。

 連合が要請したとする「重点政策」は4本10項目から成り、「長時間労働是正に向けた法整備と労働者保護ルールの堅持・強化、医療・介護・保育で働く職員の処遇・勤務環境の改善をはじめとする人材確保対策の強化、待機児童の早期解決のための財源確保と質の担保された受け皿の整備に向けた政策の推進」などを内容とする。連合側からポイントを説明し、意見交換をしたという(連合ニュース)。

 俺もそうだがこれを見た労働者は「なんだこりゃ」と驚き怒りが湧いてくるはずだ。これじゃまるで現在争点になっている「働き方改革関連法案」の推進要請ではないか。連合が一応反対している「高度プロフェッショナル制度」については何もない。ということは容認するという意思表示ではないか。

 5月17日付『産経』は「神津理季生連合会長『高プロ』反対を自粛!?菅義偉官房長官と面会」と報じた。「(菅長官と神津会長は)働き方関連法案について、国会で論議を深めることが重要だとの認識で一致した。(連合が反対している高プロには)神津氏は特段、言及しなかった」「菅氏は『方向性は政府も全く同じで、働き方改革の実現にしっかり対応していきたい』と伝えた」。全く舐められている。

 今時連合が労働者の代表だなんて思っている人はいないだろうが、おれたちが思う思わないにかかわらず、少なくとも安倍政権は連合を労働者代表として都合よく利用している。この構図をぶっ壊したいものだ。

 明後日から3週間、バリ島滞在だ。向こうでインターネットにつないでもらえるはずだから、メールもブログもこれまでと同じだ。平常通りお付き合い願いたい。
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