2017年12月29日

爆風(29)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765
労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年12月24日
爆風(29)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 まず農場関係者を馬車で出発させ、ついで他部署の人たちを近くの部落に割り振った。皆を送りだした後西村中尉は、所員の佐々木、中村とともに朴家溝屯長の弟張福禎の馬車に乗る。管理事務所に備蓄してあった食糧と綿布、それに数丁の小銃と実弾も積み込んだ。馬車から振り返ると東京陵の方角に火事の炎が見えた。

 石橋子から稠井子へ向かう道で先発の馬車に追いついた。道が悪くて馬車がなかなか進まない。荷の重量を減らすため男たちは馬車を降りて歩いた。西村の妻は臨月だった。初産である。揺れる馬車の上で苦痛に耐えているに違いない。西村は気が気でなかった。

 稠井子の部落を過ぎる。東京陵からっ使いが来て「話し合いがついた。玉砕は中止だ。すぐ帰れ」と言う。同行の大部分は引き返したが、西村は「まだ当てにならない。先へ行こう」と佐々木、中村を促して馬車を進めた。

 稠井子の次の部落、陸甲房へ着いたのが26日午前3時。袁肇業屯長が出迎えてくれる。馬車を降りて休憩した。袁屯長を挟んでこれからの行き先を相談。屯長の知り合いで信頼のおける湯さんの家がこの先の高凹というところにある。そこならゆっくり休めるし長居もできる。屯長の勧めでその高凹を目指すことにした。

 高凹へ向かったのは西村夫妻の他、所員の佐々木、中村、小川、吉満、直営農場を営んでいる中島一夫、義勇軍宿舎の世話をしていた河合夫人とそのお子さんたち4人。袁屯長のお声がかりということで湯さんは快く一行を迎え入れてくれた。西村は湯さんの家の周りを素早く見て回る。《もしソ連軍が追ってきたらどこへ隠れるか、どこで応戦するか》。一瞬の油断もならない逃避行だったのである。

 湯さん宅で落ち着くとどっと疲れと眠気が襲ってきた。一行はオンドルの上に寝転がって眠った。目が醒めたのがもう昼時。湯さんの心づくしの昼食に腹を満たす。西村中尉は佐々木、中村両名に東京陵の状況を確かめるためるよう依頼し出発させた。 

 午後4時頃になって西村の妻の腹が痛みだした。初めてのお産なので見当がつかない。袁屯長が急報を受けて産婆さんを寄こしてくれたが話が通じない。何とか通訳のできる人はいても男である。産室には入れない。困っていたら河合夫人が「私は4人も子どもを産んだから何とかお手伝いできるでしょう」と産婆役を引き受けてくれた。西村は涙が出るほどありがたかった。
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爆風(28)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年12月24日
爆風(28)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 東京陵郊外の朴家溝は関東軍火工廠の管轄地だが、野菜や穀物の栽培、豚の飼育をする満人の農家が散在している。火工廠第一工場に所属する西村秀夫中尉は、それらの農家の管理にあたっていた。25日朝、いつも通り管理事務所に出勤。10時頃部隊本部から電話で「10日分の食糧と防寒衣類を持ってロータリーへ集合せよ」と伝達された。西村は自宅に戻って、乾パンと衣類、地下足袋とそれに聖書を1冊リュックに詰めた。

 指定時間に集合場所へ行くと、酒を飲んで喚いている人や空き瓶を投げる人もいて殺気立った雰囲気だ。あきれて眺めていると経理の山上中尉が寄ってきて「このままではシベリアへ連れて行かれる。脱走しよう」と言う。家族のためにもそれがいいだろうと考え、同意した。

 西村中尉は《この場から逃げ出すにしても林部隊長には話しておいた方がいいのではないか》と思いつき、部隊長宅を訪れた。部隊長は外出の用意中だったが顔を出し「よかろうが、他の人たちに動揺を与えないようにしたまえ」とそっけなく答えた。

 自宅に戻った西村は家族に手伝わせて家財道具や食糧を荷物にまとめ、逃げるための馬車の手配をした。終わったらもう夕方である。部隊のその後の様子はどうなっているか。心配なので懇意にしている浜本宗三大尉に電話した。「集合はしたがシベリア行きに疑問が出てまとまらない。部隊長が連行延期の懇請のため遼陽のソ連軍司令官に会いにいったが、留守で会えずに戻ってきた。部隊長は全員玉砕を考えておられる」。《戦争は終わったのに、何が玉砕なんだ》と西村は電話口で思ったが口には出さなかった。

 そこへ柳尚雄中尉から電話があり「希望者のみ国民学校に集まり自決することになった。部隊長が用があると言っておられる。電話してほしい」とのこと。西村は《死神にとりつかれた人たちにお付き合いをするなんてまっぴらごめんだ》と柳中尉の取り次ぎを無視した。

 こうなったら早いとこ逃げ出す算段をした方がいい。農場管理事務所に同僚の佐々木文麿、中村満を呼んで相談、脱出先を日頃親しくしている満人部落に決める。日が暮れて暗くなった。農場管理事務所の所員、家族が続々集まってくる。噂を聞いて他の部署の人たちも「お願いします」とやってきた。
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企業不正を正すのは労働組合だ

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年12月23日
企業不正を正すのは労働組合だ

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 「中堅の受注調整関与か」「リニア談合大手4社」。「神鋼役員 不正認識」「アルミ・銅部門3人更迭」「神鋼不正さらに拡大も」「統治不全 全容解明遠く」。「のぞみ台車『破断寸前』の衝撃」「JR全体で深刻さ認識を」(社説)。「経団連、自主調査を要請」「会員企業へ 信頼低下に危機感」。日産副社長、退任へ」「生産事業担当 不正検査で更迭か」「日産本社きよう 国交省立ち入り」。

 企業不祥事の記事が『毎日』22日付朝刊だけでこんなにある。このほか「東京海上代理店 顧客情報が流失 口座など5400件」「生産性上がらぬ日本 G7で最下位」などというのもある。日本の経済社会を日本共産党は「ルールなき資本主義」と名付けている。まさにその通りだ。

 資本主義はそもそも利益第一主義なのだが、それにしても上に挙げた企業は酷過ぎる。さすがの経団連も「品質管理のデータ改ざんなどの不正はないか年内をめどに自主的な調査を行い、法令違反などがあった場合は速やかに公表するよう」呼びかける始末だ。企業運営にルールのないことを自ら認めた形だ。

 どうしてこんなことになったのか。おれは労働組合の責任が大きいと思う。労働組合が企業のチェック機能を果たしていないことから企業の暴走に歯止めがかからない。チェック機能どころか企業の共犯者になっているのがいまの独占大企業の労働組合だ。30年前まではこれほどではなかった。

 労働組合のふがいなさと同時に指摘しなければならないのが国の経済政策だ。たとえばリニア新幹線。国民の交通利便性と全く関係ないところで立案され巨額の税金が投入されている。誰のためか。今度の「リニア疑惑」で名前の出た鹿島、大成建設、大林組、清水建設などの巨大ゼネコンのためだ。20年の東京オリンピック、原発、豊洲市場も同類だ。初めから談合ありきの腐った事業だったのだ。

 おれはこれら@リニア新幹線、A東京オリンピック、B原子力発電、C豊洲市場の「四つの中止」を呼びかける。昔、巨大ダムや空港建設、高速道路、本四架橋など「無駄な公共投資」反対を掲げて労働組合がたたかった時代があった。東京総行動で丸紅の企業責任を告発して社屋を包囲したこともあった。

 ルールなき資本主義を糾弾し、ルールある経済社会を求める運動に、今こそ労働組合が先頭に立つべきだとおれは思う。
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爆風(27)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年12月22日
爆風(27)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 庶務科自動車班の窪内運転手は、救急車を勝手に引き出して東京陵からの脱出を図ったが山道で車が故障。思案に窮して青酸カリで自殺した。同じく自動車班で経理係をしていた村上係員は、妻子を残して消防車で朝鮮方面へ逃げてしまった。東京陵に残された妻は2歳の子どもを柱に縛り付けて家に火を放ち、自らは青酸カリ自殺を遂げた。

 火工廠第二工場(唐戸屯)では、指揮官の吹野信平少佐が国民学校へ行ってしまったので工場長の加藤治久大尉が指揮を執っていた。加藤大尉はソ連軍の命令に従って海城へ集結することを視野に入れて部隊を解散させずに待機させた。12時過ぎ、松風塾の加々見仁塾長からの電話があり、玉砕中止、部隊は解散せよとの指示。加藤大尉は指示に従って集結していた部隊を解散した。

 唐戸屯部隊本部前には爆砕から逃れてきた東京陵の住民が数百人集まっていた。これらの人たちに事情を説明、とりあえず松風塾の2階大広間を宿舎に指定した。女子どもがほとんどだ。支給した毛布にくるまって安堵の表情を取り戻す。それを見て加藤大尉は自らも疲れのため倒れるようにして朝まで寝た。

 今生の別れに酒を酌み交わして防空壕で寝入ってしまった庶務科の田中弥一雇員一家と同居の挺身隊員は、騒がしい人の声で目が醒めた。満人かソ連兵かも知れない。耳で確かめるとどうやら日本語だ。ほっとて防空壕に入り口を開けると明るい朝日が飛びこんできた。

 同じく家庭用防空壕に退避した研究所技手の山崎藤三永は、壕の中でマッチを擦って腕時計を見た。爆発予定の12時を過ぎている。恐るおそる壕を出たところへ伝令が走ってきた。「玉砕は取り止めになった。近所の火を消せ」。すぐさま町会の何人かと協力して消火にあたった。ここが済めばあちらと夢中で飛びまわる。大方の火事が消えほっとしたら東の空が白みはじめていた。腹も空いたので家に帰る。壕から出た家族が「ご苦労さん」と出迎えてくれた。

 東京陵山崎町官舎の渡辺秀夫は近所の数家族と相談、知り合いの満人を頼って朴家溝へ避難した。満人の家で落ち着かぬ時を過ごしていたが、明け方、玉砕中止の情報が入る。すぐ帰ることに。世話になった満人が馬車を出しくれた。26日朝9時頃山崎町へ。そこには悲惨な光景が待っていた。

 開け放しの隣家の玄関を覗くと、あるじ夫妻が白装束で正座している。早まって子どもたちに青酸カリを飲ませてしまったので後を追うという。渡辺は「何としても祖国の土を踏むことが子どもさんへの最大の供養ではありませんか」と必死に説得して死ぬのを思いとどまらせた。
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2017年12月21日

爆風(26)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年12月20日
爆風(26)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 敷島町の西村仙吉町会長は、家族を学校へやり自身は自宅で爆発を待っていた。隣近所で火災が起こる。予告の時間が過ぎても爆発の気配はない。そのうち玉砕中止の電話連絡があった。すぐ隣家の消火作業にあたる。他の火災も大方消し止められたようだ。敷島町は平穏に朝を迎えた。

 国民学校へ爆薬を運んだ坂本吉次は一家で逃避行の途中、玉砕中止を知らされた。回れ右して自宅へ引き返すことにする。玉砕は中止になったが多くの犠牲者が出たことが分かった。娘の同級生が親に青酸カリを飲まされ幼い命を落としたのもその1人。坂本はやるせない気持ちで妻と娘を抱いた。

 林光道部隊長の爆薬点火命令を柳尚雄中尉とともに拒否した稲月光中尉は、軍人としての自分の行動に頷き難いものを感じていた。玉砕中止の後病院へ行き、信頼する岡野軍医大尉に気持ちをぶつけた。岡野は話を聞くと無言で一升瓶の栓を抜き、夜の明けるまで酒を酌み交わした。

 電話交換所に詰めていた工務部電話班の上川生夫班長は、玉砕中止を知らされた午前1時頃、寝たきりの病妻と子どもたちが気になって自宅へ向かった。道々大きな荷物を背負った人や、満人の馬車で家財道具を運ぶ人などとすれ違った。玉砕中止の報がまだ行きわたっていないようだ。

 家に帰り家族の無事を確かめ唐戸屯へ向かう。箱根峠の守衛詰め所に20人ほどの避難民が固まっている。玉砕中止を知らせるとホッとした顔で自宅へ引き返した。唐戸屯の住宅地に入る。焼け落ちた家の前で呆然自失の人、くすぶる家財で死んだ家族を荼毘にふす人など悲惨な光景が見られた。

 どんな混乱時でも電気、水道、電話などのライフラインを止めてはならない。電気掛の小野伴作技手は、35日早朝からの異常事態に関わらず平常通りの供給を保つため全力を挙げた。電気班の岡田班長、電話班の上川班長、給水班の小林班長らと共同して、大きな停電、断水の事故もなく混乱を乗り切った。

 小野技手は玉砕中止の知らせで弥生町の自宅に戻ったが、周辺では目を覆う悲惨な光景が見られた。青酸カリを飲ませたわが子を胸に抱きしめている母親、家族を日本刀で殺し自分も腹を切ろうとする男、母と娘が青酸カリを溶かしたコップを前に手を合わせている姿もあった。それらの人々に玉砕中止を知らせ死を思いとどまらせる。どこへ怒りをぶつければいいのか。小野技手は漆黒の空を仰いだ。
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理研労組の都労委申立に思う

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年12月19日
爆風(25)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 「理研が無期逃れ」「5年雇い止め 組合、都労委に」申し立て」(19日付『赤旗』)。2014年春、小保方晴子さんのSTAP細胞捏造で問題になった理研。小保方さんは1年更新の非常勤職員だった。めぼしい研究成果をあげないと契約更新が危ない。そんな事情が彼女の焦りを呼んだ。

 理研(理化学研究所)は100年前の1917年に財団法人として設立。戦後の一時期は株式会社になったこともある。58年に特殊法人、小泉内閣の時代に独立行政法人となり現在に至っている。国からの研究費交付が運営の財源だ。小保方さんのような非常勤職員が4209人もいる。

 ところで5年前の民主党政権時代に法改正になった労働契約法第18条が来年4月に発効する。有期雇用契約の労働者が5年経って無期契約を申し出れば使用者は受け入れざるを得ない。この「無期転換ルール」の適用を巡って今いろんな企業で問題が起こっており、今回の理研事件もその一つだ。 

 理研はこの無期転換ルールを逃れるため16年4月、終業規則を「非常勤職員の契約は5年を上限」と変更。さらに「再雇用に6ヵ月のクーリング期間を設ける」とした。これには労働者過半数代表も理研労働組合も反対したが当局はそれを無視して5年を超える非常勤職員を雇い止めするする構えだ。

 「組合側は団体交渉で(雇い止めの)撤回を申し入れましたが、当局側は撤回を拒否し、雇い止めの理由や必要性を具体的に明らかにしないため、不当労働行為の救済を申し立てたものです」。形式的には団交に応じても具体的な説明もしないのは「不誠実団交」として労組法7条違反になる。

 都労委申立後の記者会見で、雇い止めの対象にされている労働者は「引き継ぎの職員は、すぐには理解できず、私に聞きにくる。こんな無駄な雇い止めをなぜするのか」「競争している研究成果の緊急発表の支援など、規定を理解した職員がいないとできない」と訴えている。

 金井保之理研労組委員長も「職員は研究がスムーズにいくよう支えている。ベテランがいなくなれば研究現場は混乱し、回らなくなる」と指摘する。小保方さんが辛い思いをした理研の雇用・組織の環境がそのまま現在に引きずられている。それにしても小保方さんは今どこで何をしているのだろう。
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爆風(25)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年12月17日
爆風(25)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 「柳中尉がやらないならお前がやれ」林部隊長は稲月光中尉を指差した。稲月も動かない。「俺の命令が聞けないのか。お前らを斬る」と抜刀する。そぱにいた吹野少佐、政井中尉、石部中尉、長友中尉らが一斉に駆け寄って刀を押さえる。他の将校は柳、稲月を囲んで部隊長から遮った。

 吹野少佐が「浜本大尉の帰着まで待つわけにはまいりませんか」と懇願したが、「交渉成立なんぞ嘘に決まっておる。彼は逃亡したのだ」と言い張って聞かない。「浜本大尉のご家族はここにおられるではありませんか。大尉は自分を捨ててもこの火工廠を守る任務に忠実な男です」と吹野少佐。その気迫にさすがの部隊長も刀を納めた。しかし激高は収まらない。部隊長は柳、稲月を斬ることを諦め次の行動に出た。

 「わしは切腹する。政井中尉介錯せよ」と叫んで玄関から外に出ようとした。再び将校たちに抑えられる。ようやく正気を取り戻した部隊長は「点火を待つが、12時までだ」と時間を切った。この場は部隊長の俺が仕切る、という軍人としての最後のプライドだ。「閣下、了解です。12時になったら自分が点火します」と吹野少佐。これで部隊長のプライドは保たれたが、同時にあと10分で浜本大尉らが戻るかどうか、数千人の命のかかった賭けになった。

 ソ連軍司令官は「早く帰れ」と促したが、検問を通過する通行証は出せぬという。こんな時間に車を走らせていたら、いつソ連軍の検問に引っかかって拿捕されるか分からない。事情を説明しようにも誰もロシア語を話せない。浜本大尉ら4人は運を天に任せてオンボロトラックの荷台に身を伏せた。しかし結果的にはこのオンボロトラックが幸いした。もし消防車や軍用自動車だったりしたらきっと検問に引っかかっていたに違いない。検問は簡単にパス。故障もせずに快調に走り0時5分前、国民学校の庭に滑り込んだ。

 トラックの音を聞いて林部隊長と政井中尉が抜刀して玄関に出た。ソ連軍かも知れない。そこへ「交渉成立」「爆死の中止を」と叫びながら川原大尉が駆けこんできた。続いた浜本大尉が抜刀した部隊長を見て前へ進み出る。「閣下、私を斬ってください。命令も受けずに勝手なことをいたしました」。それを身近で見ていた浜本夫人は後日、《本当に斬られると覚悟しました》と述懐している。

 部隊長は電灯の灯りで浜本中尉を確かめ、刀を鞘に納めた。浜本は肝心なところだけ手短かに報告。それを聞いて部隊長は吹野少佐に「態勢は維持したままとりあえず玉砕は中止する」と指示した。即座に将校会議が持たれ、混乱に乗じた満人の襲撃を防ぎ、放火された家屋の消火にあたるべく各自の持ち場に散った。伝令が校舎中を走りまわり、爆砕中止を告げた。死の絶望から解放されてほっとしている顔がある一方、早まって青酸カリを飲ませてしまったわが子を抱きしめる母親もいた。
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爆風(24)

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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年12月16日
爆風(24)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 会見室には主席の浜本大尉のみが入った。机の対角に司令官、両脇に自動小銃を構えたソ連兵が。通訳の菅野軍曹がやや離れて立つ。浜本大尉は微動だにせず司令官と対峙した。菅野軍曹が目配せをする。浜本は先ほどの打合せ通りの口上を堂々と延べ、最後に「もし私の願いを聞き入れていただけないなら、私はもちろん、待っている3人もこの建物の玄関でハラキリをします」と付け加えた。

 菅野薫層がどのような通訳をしたのか分からないが、会見の決着はあっけなくついた。「分かった。非戦闘員のみならず、軍人の集結も免除する。工場には後刻わが軍も守備隊を出すが、当面は日本人で工場保全に全力を挙げて欲しい。ハラキリ前に早く帰れ」。司令官はそれだけ言うとさっさと退室した。

 事態の好転を知らされた鈴木弓俊少佐は、すぐさま国民学校に電話することにした。導火線の火付け役の柳尚雄少尉を呼び出すためだ。電話は職員室にあるが、混乱していて誰も出ない恐れがある。鈴木は神に祈る気持ちで通話音を数えた。「はい、こちら桜ヶ丘国民学校です」。若い女性の声がてきぱき応対し、待つほどのこともなく柳小尉が電話に出た。「こちらの談判がうまくいった。すぐ帰るから導火線への点火だけは何としても阻止してほしい」。「了解しました。自分の命に換えても阻止します」。

 柳少尉は、林部隊長を囲んで集まっている玄関脇の教室に戻った。吹野信平少佐に耳打ちする。吹野は部隊長の正面に正座し「閣下、浜本大尉以下が遼陽のソ連軍司令部に行き、男子全員の連行免除を約束させました。軍使一行が帰着するまでしはし点火をお待ちください」と嘆願した。しかし部隊長は「そんなものソ連の策略に決まっておる。誰が信用するか」と頭から受け付けない。

 まだ午前0時には間があるのに、林部隊長が立ちあがった。《ここで手間取ってソ連軍がやってきたらどうする。生き恥を晒すことになる》そう思った部隊長は「柳少尉、即座に点火せよ」と命じた。柳は坐したまま「閣下、しばらくお待ちください。妻子をこの場に送りこんでソ連軍に直訴しに行った浜本大尉の意を汲んでください。大尉が帰るまで私は点火しません」と決死の思いで命令を拒否した。

 部隊長はかっと目を見開き「柳、臆したのか。貴様はそれでも軍人か。4時間も前に出発したというのに今だに帰らない。浜本大尉らは殺されたか、逮捕されたに違いない。ソ連軍が行動を起こせばもうすぐ到着する時刻だ。それが着様には分からんのか」と軍刀に手をかけた。
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2017年12月14日

明乳よ、道義に基く企業であれ

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年12月12日
明乳よ、道義に基く企業であれ

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 昨11日10時から東京地裁で明乳事件の口頭弁論があった。9月7日の期日で春名裁判長は会社に和解を打診したが、10月2日、けんもほろろに断わられた。こんな分からず屋の会社は裁判長も初めてなんじゃないかな。それで仕切り直しになった。判決を前提に本格的な主張・立証に入る。

 裁判長の和解打診は、中労委命令の趣旨に基くものだった。命令は申立人の訴えを棄却した不当なものだったが、末尾に「付言」の一項を設け「話し合いによる解決」を会社に要請している。確かに付言には法的拘束力はない。だから会社が話し合いを拒否しても命令違反にはならない。しかしだからと言って「話し合いはしません」「そうですか」で済む問題ではなかろう。

 世の中を律するには法的拘束力のほかに道義というものがあるとおれは思う。広辞苑によれば「人として行うべき正しい道」とある。要するに人の道だ。古来から人間は人の道を踏まえて政治や経済を成り立たせてきた。人の道から外れた行為は歴史によって淘汰されてきた。人の道がそうであるように企業にも「企業として行うべき正しい道」があるはずだ。それはどんな企業も踏まえなければならない。

 企業活動に工場や機械がなければならないのはもちろんだが、それだけで物は生産されない。工場や機械を動かす労働者がいなければ1台の車も1瓶の牛乳もできない。明治乳業が現在あるのは工場で機械を使って営々と仕事に従事してきた労働者あってこそだろう。それは否定できない事実なのだ。

 では明治乳業の64人の本件申立人は仕事をしなかったのか。生産活動に従事しなかったのか。ま他の労働者より幾分口うるさい人たちだったかも知れないが、入社してから40年もひたすら乳製品づくりに携わってきたのは事実だろう。おれの言葉で言えば「会社は40年間労働を搾取してきた」のだ。

 会社から見ればこれら申立人の思想は「アカ」で気に入らないだろう。しかしアカでもシロでも労動力の価値に違いはない。それをどう企業運営に活用するかは会社に任されているかも知れないが、「アカだから仕事をしても評価しない」「話し相手になんかなるもんか」と半世紀も言い続けるのはいかがなものか。人の道に外れていることはもちろん、企業の道にも外れているのではないか。

 おれは明乳経営陣の中に企業の正しい道を志向する人たちが必ず出てくると信じている。そのきっかけをつくるためにも東京地裁が申立人を主張を汲み入れた判決を出されることを切に願う。
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沖縄ノート(9)屈辱の戦後@ 

17年12月10日
沖縄ノート(9)屈辱の戦後@ 

■坂本陸郎(JCJ運営委員;広告支部会員)


(参考文献は岩波新書『沖縄』、大田昌秀著『沖縄のこころ』、林博史『沖縄戦が問うもの』等)

沖縄守備隊の最後
 6月下旬になると砲声も途絶え、23日には32軍牛島満司令官、長勇参謀長が自決し、司令部のあった摩文仁の丘が敵の手中に落ちると、守備軍首脳は自刃した。
 その日、嘉手納飛行場近くにあった米第十軍司令部では、軍楽隊がアメリカ国歌を吹奏し、星条旗が高々と掲げられた。その戦況を三日後の「朝日新聞」がこのように報じている。
 「沖縄戦局は、今や地上における主力戦の終了によって事実上最終段階を迎えた。敵が本土正面に左右両翼の本土進攻基地を完成したことを意味するもので、大東亜戦争は沖縄戦の最終局面到達により、まさに本土を戦場とする最終決戦の段階に突入するものである」。
 だがそのとき、地下壕に取り残されていた部隊が、命令に従ってなおゲリラ戦をかまえており、住民の多くも洞窟の中に潜んでいた。当時沖縄戦最後の32軍の拠点となった摩文仁の丘で見た光景を、大田昌秀氏が著書『沖縄のこころ』の中で次のように記している。
 摩文仁の丘が陥落して以来、米兵たちは朝の8時ごろから自動小銃をかかえて丘の頂上に現れた。かれらは4、5人ずつ組をなして頂上のここかしこに陣取ると、上半身裸になって日光浴を楽しみながら眼下にひろがる岩山に向かってめちゃくちゃに撃ちまくった。敗残兵狩りがその目的だったにちがいないが、わたしには、戦い勝って無事に故国へ帰れるよろこびを発散させているとしか思えなかった。だが時折、飢えに我を忘れたのか、敗残兵がふらりふらりと岩陰から姿を現して、米兵たちに狙い撃ちのたのしみを満喫させることもあった。こうして戦勝者たちは、有り余るほどの食料を持参して、スポーツを楽しむと、夕方5時ごろにはいっせいに摩文仁の陣地に引き上げた。かれらが引き揚げた後、丘の頂上には残飯整理をするため、どこからともなく飢えた敗残兵たちが蝟集した。米兵は惜しげもなく缶詰を放置したまま引き揚げたが、ほとんどは銃剣で穴があけられていた。それでも餓鬼犬と化したわたしたちにとって、それは最後の贈り物で、その奪い合いから友軍同志のあいだで手榴弾が飛び交い、毎日のように命を落とす者が続出した。こうして米兵たちは、手をこまぬいたまま、敗残兵狩りをすることができた

 これは当時米兵たちが口にしていた「ジャップ狩り」の最後の光景であろう。米兵が食べ残した食料を奪い合う日本兵の姿はおぞましく痛ましい。

屈辱の第一歩
 沖縄戦が終息すると、敗残兵たちは捕虜となり、DDTを全身にかけられたのちに、肩とズボンの脇にPW(捕虜の目印)のマークのついた服を着せられ、捕虜収容所に収容された。
 かれらが収容所に運ばれるトラックの上で見たものは、道路といわず畑といわず放置された死体の累々とした光景であり、変わり果てた沖縄の街と村の姿であった。戦闘が行われる間、米軍は戦死者を埋葬し、その上に十字架を立てていたのだが、日本軍は戦況の悪化とともに戦死者を放置していた。その戦友たちの無残な姿が捕虜たちの目に映ったのだった。7月に建てられた金武町の収容所では、最大時,本土と沖縄出身の兵約1万人が別々に収容されたのだが、精神に異常をきたした兵のための収容所もあった。そこでは、家族を殺された沖縄出身者や、同胞を殺され、虐待された朝鮮人軍夫らが、日本軍将校や下士官にリンチを加えることもあったという。
 沖縄出身の捕虜約3000人は、ハワイにいったんは移送され、翌年10月ごろから順次送り返された。朝鮮人捕虜は45年秋に朝鮮半島へ、日本本土の捕虜は本土へ返還された。
 ガマ(壕)の中に潜んでいて助かった住民たちも、兵隊たちと同じように、テント小屋(住民用の収容所)に運ばれた。なかには家畜小屋に押し込まれる住民もいた。「捕虜になれば、戦車でひき殺される」と信じ込まされていた住民たちは、米軍の扱いに安堵した。
 彼らは命以外のすべてを失っていた。中部や南部では、戸籍簿が失われたために、死者の実数さえわからなかった。全員が犠牲となった一家は、戦前に生存した痕跡さえ残されていなかった。
 住民たちは、毎日のように、ハエが群がり膨れ上がり、腐臭のする遺体を集め、穴を掘って埋めた。彼らは出歩くことを禁じられ、米軍が支給するわずかばかりの食料で飢えをしのいでいた。
 米軍は、収容した住民に軍の作業をさせ、しばらくは住民にわずかばかりの食料を無償で支給したのだが、使役にたいする代価はいっさい支払わなかった。住民は米兵からタバコをもらい、海岸に流れ着いた米兵の食べ残しを拾い、乾かして食料とするなどしていた。
 そのころ、戦争による衛生環境悪化のため「戦争マラリア」が流行した。日本本土では米軍の上陸に備えて予防対策が講じられていたのだが、沖縄では無防備だったため、マラリアが猖獗を極め、罹患者は20万人に及んだという。それでも住民は米軍への依存を深めていった。そうせざるをえなかったのは、沖縄戦で日本軍から受けた酷い体験の記憶があったからでもあった。
 日本軍は銃を突きつけて、わずかばかりの食料を奪い、壕から追い出して、自分たちだけの安全をはかった。あげくは住民をスパイ呼ばわりして殺し、集団自決を強要した。それに比べれば、敵国人に食料を与える米軍の扱いは日本軍のそれとは違い、ありがたいとも思われた。そのため、米国は人道的で民主主義の国だという米支配者の宣伝は抵抗なく受け入れられていった。だが、そうした宣伝が覆るのに、それほどの時間はかからなかった。

餓死の指令
 軍政府は48年6月以来、入荷した資材陸揚げのため1千人の住民を強制徴用していた。宿舎とされた使い古したテント下の地面で、労働者たちは藁や草を敷いて寝泊まりし、洗面用の水も与えられず、食事といえば、汚れたアルミの皿に乗せられた塩味のメリケン粉や、腐ったような、ふやけた蒸しパン一つだけであった。労働のあとに手足を洗う水さえなかった。そうした条件下で、労働者は日を追うごとに減り続け、陸揚げができない状況となった。市町村会は何度か改善を求めたのだが、軍政府は応じなかったばかりか、軍政府は報復として全島の売店の閉鎖を指令した。命綱である売店がなくなれば餓死するしかない。新聞は号外を出し、全島が騒然となった。その後は、軍政府要路への陳情が繰り返され、市民大会が開かれ、指令の実施はようやく中止となった。
 この事件は、自由と民主主義を宣伝する米軍政の真実の姿を示すものであったから、住民の米国に対する見方を一変させることになった。米国の軍政府支配下の沖縄では、このようにして屈辱の第一歩が踏み出されたのだったが、その屈辱の戦後はその後も続いた。



(つづく)
posted by マスコミ9条の会 at 20:55| Comment(0) | 戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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