2017年12月10日

爆風(23)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765
労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年12月10日
爆風(23)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 至急東亜寮に将校を集め、ソ連軍司令部との再交渉の余地があることを説いた。交渉は沈着冷静でみんなから信望の厚い浜本宗三大尉に頼むしかない。川原少尉を先頭に数人の将校が学校にいる浜本大尉の説得にあたった。当初「俺はもうこんなしち面倒くさい世の中は嫌になった。死ぬのが一番いい」と断っていたが、川原少尉らの衷心からの要請に最後は首を縦に振って承諾した。

 即座に浜本大尉を主席とする川原少尉、伊藤礼三中尉、鈴木弓彦中佐の4人で交渉団が結成された。すぐさまソ連軍司令部のある遼陽へ向かおうとしたが車がない。将校たちは手分けして車捜しに各所へ散った。しばらくして病院から連絡があり、トラックを1台確保できたという。乗っていたのは吹野夫人と母堂を病院に連れてきた稲月光中尉。稲月は将校らと一緒に夜中の遼陽往復を運転手に承諾させた。

 4人の交渉団は将校たちに見送られて、月明かりの道を遼陽へ向かった。ソ連軍は、関東軍憲兵隊のあった旧軍人会館を接収して司令部としていた。交渉団の到着は既に10時になろうとしていた。建物に入ると、通訳の菅野軍曹が待ち構えていた。「火工廠の部隊だけが指定の時間に集結しない。林部隊長が来られたが司令官に会えずに帰られた。松風塾の加々路塾長は必ず来ると言うのだが、その後どうなったか分からない。部隊は来るのですか来ないのですか」。

 この詰問に対し「ソ連軍司令官に直接お話ししたい。取り次いでもらえないか」と浜本大尉。菅野軍曹はその気迫に押されるように司令官室に向かった。5分ほどして戻ってきた菅野軍曹が「司令官は会うと言っています。しばらくお待ちください」と言ったので4人の交渉団はひとまずほっと胸を撫で下ろした。待ち時間に4人で交渉作戦を練る。まず指定時間に集結しなかったことを詫びる。そして軍人は明日にも来ると約束する。ここまではここへ来る道々4人で考えたのだが、その後の口上が難しい。4人は頭をひねった。

 《火工廠には火薬製造設備と約250トンの爆薬がある。住人は軍人のほかに技術者、工員、その家族ら1万人に近い。もし軍人だけでなく、非戦闘員の男子までいなくなったと判れば必ず暴徒が襲撃するだろう。そうなれば工場施設が壊されるだけでなく、何らかのはずみで火薬の大爆発の恐れもある。ここ遼陽まで被害は及ぶであろう。工場を無傷でソ連に引き渡すのは我々の責務であると考える。

 技術者までいなくなれば工場の引き渡し作業は誰がするのか。どうか非戦闘員の連行は思いとどまってもらいたい。それでも男子全員の集結を命じられるか、または我々軍使が夜半までに帰隊しない場合は将校全員ハラキリする覚悟である》。

 最後の「ハラキリ」のところは格別の工夫だった。もし「全員玉砕」とやって、ソ連軍に即座に兵を差し向けられてはたまらない。ここは世界に知れ渡っている「ハラキリ」にした方がよかろう。博学の川原中尉の知恵であった。
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原寿雄さんの死を悼みながら

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年12月9日
原寿雄さんの死を悼みながら

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 元共同通信の原寿雄さんが92歳で亡くなった。『赤旗』が7日付の社会面(死亡欄)で報じ、9日付の「潮流」で追悼の言葉を贈っている。「亡くなるまで、ジャーナリズムのあり方や表現の自由の大切さを語っていた原さん。その熱いメッセージから学んだ記者は多い。ジャーナリストは自由の消費者ではない。自由の生産者、構築者たれ」。原さんが労働運動家としても優れていたのはあまり知られていない。

 おれは茨城の高校を出て、1956年に毎日新聞東京本社印刷局に入社した。1年の試用期間を過ぎて組合員になるとすぐ職場新聞を発行。それが認められて58年に青年部書記、59年には新聞労連東京地連青婦協議長に選出された。その時新聞労連副委員長・東京地連委員長をしていたのが原寿雄さんだ。

 60年安保最盛期には新聞労連も連日500〜1000人の動員をしたが、始めの頃はちょぼちょぼだった。原委員長の後に労連旗を持ったおれしかいないなんてこともあった。「なんだブル新しっかりしろ」などと野次られたりした。それでも原さんは毅然として前を向いて行進していた。

 60年は安保とともに三池闘争もたたかわれた。原さんは総評の常駐オルグとして現地闘争本部に派遣された。総評は5月27日から30日まで全国からオルグ団を結集、東京地連も8人を現地に送り込んだ。おれはその一員だったが、ホッパー前でデモを指揮する原委員長を誇らしく思ったものだ。

 安保も三池もたたかいが終結した61年7月、新聞労連東京地連定期総会でおれは書記長になった。委員長は4期目の原さん。当時新聞労連書記局は京橋にあった。非専従書記長のおれは有楽町駅前の毎日新聞社から歩いて通った。原さんは労連副委員長の仕事が主なので地連関係はおれに任された形だった。

 役選の難航のため開催の遅れた62年11月の労連大会で原さんは専従を降り共同通信の職場に戻った。同時に東京地連委員長も退任したのだが、最後の議案書づくりでアクシデントがあった。原さんとおれで分担してつくった議案書の原稿を印刷屋が紛失してしまったというのだ。

 さあ大変。今日中に原稿を書かないと定期総会に間に合わない。原さんは原稿用紙を広げて資料も見ずに書き出した。その早いこと。最初のより幾分分量は減ったが一応形を成して印刷屋に渡した。おれにとっては懐かしい思い出である。――数年新聞労連主催で前原さんの講演会があって、終わってから挨拶したらちゃんとおれを覚えていてくれた。嬉しかった。原さんのご冥福をお祈りします。
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爆風(22)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年12月8日
爆風(22)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 8月25日午前、独身で東亜寮居住の稲月光中尉は唐戸屯の部隊本部で勤務していた。そこへ男子全員集合の命令が来る。稲月中尉はバスで東京陵の東亜寮に戻り、衣類や食糧をリュックに詰め玄関に行く。そこに数人の将校がいて、ビールの栓を抜いて乾杯だという。何のための乾杯か分からないけれど、冷えたビールは美味い。コップのビールを飲み干してみんなでロータリーへ向かった。

 ロータリーに着くと既に海城行きは中止になっていて、集団が散り始めている。唐戸屯へ戻ろうとバスの停留所へ。そこへ近くの消防署から人が走ってきて、部隊本部から電話があり、唐戸屯との中間地点にある変電所付近に盗賊が現れたので至急応援を頼む、とのこと。すぐ消防車に数人が乗り込み現地に向かう。賊は消防車を見て散り散りに逃げていった。深追いはせずそのまま唐戸屯に行き消防車を降りた。

 夕方になって稲月中尉は唐戸屯部隊本部を出て、加々路塾長や加藤治久大尉のいる松風寮を訪れた。加藤大尉が待ち構えていて「二つのお願いがあるのだが」と切り出した。「一つはこれからすぐ吹野信平少佐の夫人と母堂を官舎から東京陵病院へ送り届けること。二つは玉砕のため国民学校に積んである爆薬の導火線の火付け役になること。これは林部隊長の指名だ」。一つ目はいいとして、第二の依頼は気が重い。しかし部隊長の指名とあっては断れない。

 病院へ行く手ごろな車がないので苦労したが、工事請負の清水組のトラックがやっと見つかった。朝鮮人の運転手に手当をはずんで承諾させ、吹野夫人と母堂を助手席に乗せる。自分は荷台に乗って夕暮れの中を東京陵へ向かった。病院まで2人を無事送り届け稲月中尉がほっとしていると、突然車ごと数人の将校に囲まれた。このトラックを貸して欲しいと言う。運転手と相談の末承諾した。稲月中尉はすぐ近くにある国民学校へ足取り重く歩いた。玉砕について加藤大尉は詳しいことを言わなかった。どうしてそういう成り行きになったのだろう。しかも自分が集団爆死の火付け役となるとは。

 また少し時間が遡る。病院での緊急将校会議では何の打開策も見出せなかったが、川原鳳策少尉はなおも玉砕回避の道を模索していた。そこへ飛び込んできたのが、唐戸屯の加々路松風塾長からの情報である。ソ連軍司令部との間にまだ交渉の余地が残されている。最後まで努力を尽くすべきではないか。ソ連軍との交渉には勇気と決断力が試される。最適なのは浜本宗三大尉しかいない。川原少尉は決断した。
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2017年12月07日

女房の入院、結構毎日忙しい

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年12月7日
女房の入院、結構毎日忙しい

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 4日午前、女房が胃の調子悪いと言って自分で車運転してかかりつけの新松戸診療所へ行った。午後2時過ぎても帰ってこないので診療所に電話する。「こちらで具合悪くなって、今点滴中です。終わったら救急車で東葛病院へ送ります。病院で病状の説明がありますから行ってください」と言う。

 とりあえず自転車で常盤平駅へ。八柱でJR武蔵野線乗り換えて南流山へ。つくばエキスプレスで一つ目の流山セントラルパーク。駅前の東葛病院に着いたのが午後4時。救急病棟で待つこと30分。「家族の方どうぞ」と呼ばれる。胆のうに結石があってその一つが胆管に詰まったのだそうだ。それでこの10ほど痛みと吐き気が続いていた。すぐ入院して明5日にも石を吸引して取り出す、との説明。

 おれは5日は豊友会の箱根一泊旅行で、みんなのチケットや宿泊予約書類などを持っている。6階の病室に落ち着いてから女房に相談したら「簡単な手術だからいなくていい。箱根へどうぞ」と言うので箱根へ行くことにした。その場で必要な書類を何通か書いて、7時頃病院を退出した。

 そうは言っても手術の後誰も家族がいないというのはまずいと思い、長女の正子に明日夕方面会に行ってくれるよう頼んだ。5日は16人で北千住から小田急ロマンスカーで小田原へ。だるま食堂で鯵寿司の昼食を食べて、バスで箱根へ。小涌谷のハイランドリゾートに着いたのが2時半。

 風呂に入ってビールを飲んでひと眠りして、5時過ぎに娘の携帯に電話した。「手術は20分くらいで終わって今病室にいるけど元気だよ」。安心して宴会に。男13人、女3人で持込みの日本酒4本。さんざん飲んで食って、ホテル内のカラオケルームへ。おれは途中で失礼して寝てしまった。

 6日は快晴。みんなは登山電車、ケーブルカー、ロープウエイ、芦ノ湖海賊船と箱根周遊だが、おれは一行にさよならして帰路へ。小田急の急行で代々木上原乗り換え、千代田線で松戸まで直行。コンビニでおにぎりを買い家で食う。すぐさま女房の常備薬とコートを持って病院へ。ああ忙しい。

 受付で入院にともなう書類を何通か提出し、面会許可をもらって6階病室へ。女房は元気だったが、絶食で点滴だけ、お腹が空いたとこぼしている。退院はまだ見当つかないようだ。さて今日も、ラジオ、携帯、昨日忘れた薬、この2日分の『毎日』などを持って3時の面会時間には病院へ行こう。
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2017年12月03日

爆風(21)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年12月3日
爆風(21)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 2人は隣室の佐野中尉の部屋に行き、青雲塾の重田中尉、麻殖生(まいお)見習士官らを呼び寄せた。《唐戸屯地区としてこれからどうすればいいのか》。大半の将校が爆死には反対の意見を吐いた。「ソ連軍との停戦ができ、敗戦になった今、ソ連の命令に逆らって家族を巻き込む玉砕戦法は承服しかねる」。ではどうすればいいのか。奇跡でも起こらぬ限り、この窮地から抜け出せない。みんな頭を抱えた。

 そこへ寮生が「塾長、お電話です」と呼びにきた。(後にして思えばこの電話が奇跡の始まりだった)。電話に出ると「こちらは遼陽のソ連軍司令部、自分は日本人通訳の菅野軍曹です」と早口で名乗る。「塾長の加々路ですが、何故私に電話されたのですか」と尋ねた。「東京陵の部隊本部に何度も電話したのですが林部隊長に取り次いでもらえません。やむなくそちらにかけました」との返事。なるほど、既に死を覚悟した部隊長にはソ連軍司令部との折衝などは無意味というわけだ。

 「ところで用件は何ですか」。加々路大尉は先方の返答次第では電話を切るつもりだ。「約束の時間に他の部隊は到着したのにあなたたちの部隊はどうしたのですか。それをお聞きしたい」。「我々は一般の軍隊と違って火薬製造の工場付属部隊であり、工場と同時に婦人、子どもも守らなければならない。他の部隊のように即座に行動するのは難しいのです」。「女子どもまで集合せよとは言っていない」。

 これ以上問答しても電話では分かってもらえそうにない。加々路は電話口で沈黙する。「ソ連軍司令部は、現在遼陽に集結した部隊を先に海城へ向けて出発させると言っています。自分の任務はあなた方の部隊が、時間に遅れてもいいから来るのか来ないのかそれを伺うことです」。これは重要な質問だ。どう答えるか加々路塾長は判断に迷った。《行かないと答えるとソ連軍との交信は切れたことになり、武力による報復もあり得る。かと言って唐戸屯部隊だけで、しかも責任者の吹野少佐を差し置いて松風塾長の自分が「行きます」と言えるものだろうか》。緊張で受話器を持つ手が震えた。

 「必ずそちらへ参ります」。決断の重みで一瞬息が止まる。「お待ちします」と言って電話は切れた。電話の周りに集まっていた将校たちが、電話の内容を察知して大きくうなずいた。塾長の決断から生じるあらゆる事態を、連帯責任でともに背負う覚悟が加々路に伝わる。さあこれで数時間の余裕ができた。やるべきことは何か。ソ連軍司令部との再交渉だ。頭の回転が速そうで、腰が据わった菅野軍曹がきっと手助けしてくれるに違いない。加々路、加藤両大尉は東京陵の川原鳳策少尉に連絡すべく立ちあがった。
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爆風(20)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年12月2日
爆風(20)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 久子の母が袱紗に入れて持ってきた現金や貯金通帳を「もうこんなもの必要ない」と言って草むらに投げ捨てた。国民学校の校門のところで「先生」の声とともに白鉢巻き姿の女の子に飛び付かれた。今年4月まで担任だった4年生の阿部容子だ。この子も10歳で短い一生を終えるのかと思うと不憫だった。校舎は廊下まで人で埋まっている。女学校の先輩でもある浜本大尉夫人の顔が見えたので会釈をした。

 担任の2年生の教室を覗く。机や椅子が窓際に片付けられ、中央に爆薬の箱がピラミッド状に2山積まれていた。教室の脇の階段を2階へ上る。爆薬の真上の教室に人が溢れ身動きもできない。教室前の廊下に車座になり、盃を前に置いて手を合わせている家族がいた。盃の中味は溶かした青酸カリに違いない。爆発の前に自ら命を絶つつもりか。その隣ではアルバム持参の人がいて、見せ合っては泣いている.

 人混みの中で浅野中尉が尺八を吹き始めた。曲目が進んで「海ゆかば」になるとそれに唱和する声が次第に高まっていった。8月末の満州の夜はもう寒いくらいだ。窓から外を見る。数か所で火の手が上がっている。避難した人たちがわが家に火を放ったのだ。久子は紅(くれない)の炎にそっと手を合わせた。

 久子は用事を思い出して職員室への階段を降りた。自分の机からチリ紙を取り出していると、突如電話が鳴りだした。とっさに受話器を取ると「至急柳中尉を呼んでください」と息の弾んだ声。林部隊長や幹部将校のいる部屋まで急ぎ、手近の将校に「柳中尉に電話です」と告げた。

 林部隊長への諫言が入れられず無力感にとらわれていた柳尚雄中尉は「今頃の電話、誰だろう」といぶかりながら職員室へ急ぐ。受話器を取ると耳慣れた鈴木弓俊少佐の声だ。「今遼陽にいる。詳しい話の余裕はない。ソ連軍との談判がうまくいきそうだ。導火線に火をつけるのだけは阻止してほしい」。

 ここで話は8時間ほど遡る。一度出発した唐戸屯部隊が「遼陽行き中止」の命令を受け、回れ右して部隊本部に引き返したのが午後3時半。吹野信平少佐から「逐次流れ解散せよ」と言われて加藤治久大尉は不審の念を深くした。「一体どうなっていんるんだ」。加藤は松風塾長の加々路仁大尉を訪ねて疑問をぶつけた。「私にも分からないが、林部隊長が遼陽行きの中止を決めたようだ。そうなればソ連軍の報復が目に見えている。部隊長は玉砕のハラではないだろうか」。《玉砕だけは避けなければならない》と2人の意見は一致した。
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紛争処理は対話(外交)しかない

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年12月1日
紛争処理は対話(外交)しかない

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 北朝鮮がまたミサイルをぶっ放した。おれはあらゆる紛争処理において話し合い、対話、交渉、労使関係で言えば団交が絶対に必要だと思っている。国家間の紛争の場合はやはり外交だろう。紛争だから双方に言い分がある。それをきちんと出し合い、合意点を探る努力が今こそ必要なのではないか。

 おれは18年間、都労委労働者委員として労使紛争処理の現場にいた。労働委員会は労使紛争の調整と不当労働行為の審査という二つの機能を持っている。調整は労使どちらからも申請できるが、審査の申立権は労働者の側にしかない。いずれにしても紛争は解雇、差別、支配介入などの使用者の行為に原因がある。もっとも使用者に言わせればそれらの行為は企業存続のための正当な措置だと主張する。

 おれは18年間に219件の不当労働行為事件に関与した。労働委員会に持ち込まれた段階では労使が取っ組み合いの最中で、双方カッカときていることが多い。労働委員会の最初の仕事は「紛争の争点整理」である。頭に来て熱くなっている当事者にはそもそも何が争点なのか整理できない事件が多い。

 次に双方の言い分を公開の席上で証言する「審問」という手続きに入る。この頃になると双方とも大分冷静になる。それぞれ弁護士がつくのであまり無茶な主張は言いにくくなる(もっとも当事者に輪をかけた暴論を吐く弁護士もたまにはいるけどね)。そして結審、命令待ちということになる。

 この段階で都労委では必ず「和解」の打診をすることにしている。和解手続きというのは要するに労働委員会の会議室で行う「団体交渉」だ。ただし基本的には労使別々に面接し、公労使三者委員が主張を聞いて調整する。つまり労使の直接交渉ではない。しかしこれも団交の一形態だとおれは思っている。

 これで一応和解の枠組みはできたと言えるが、だからと言ってそう簡単には話は進まない。特に10年来の差別事件などはもう駄目かと何度も諦めかける。おれが関わった富士火災の差別事件は54回の和解期日、5年を費やして和解成立にこぎつけた。話し合えば必ず結果が付いてくるとおれは確信する。

 逆に話し合いを拒否して、労働者を敵視し続けている企業もある。株式会社明治・明治乳業だ。裁判長に勧告されても、「『労務上がり社長』は絶滅品種」(「ZAITEN」17年10月号)と揶揄されても断固話し合いに応じない。そんな経営者の顔がどこかの国の首相に見える。
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2017年11月30日

爆風(19)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年11月26日
爆風(19)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 酔いの醒めた小林隆助は戸塚陽太郎ら庶務科警備の同僚とともに、あちこちが発生する火事の消火に奔走していた。小林家の食卓には、いざという時に服用する青酸カリのカプセルとサイダ―、カルピスの瓶が並んでいる。私たち貴重品のサイダ―やカルピスに目を奪われて、母親に早く飲ませろとせがんだがもちろん拒否された。このようにして、玉砕へ向けて時は一刻一刻進んでいった。

 国民学校2年生担任の鈴木久子先生は、朝日町の官舎で母親と兄夫婦、その長男の邦昭、預かっている挺身隊員の栗原松江、萩原愛子の7人で8月25日を迎えた。朝食後に町内会を通じて「男性は全員ロータリーに集結すること」との伝達を受ける。兄は冬用の衣類と食糧を持って出かけた。兄が出て行くと急に心細くなった。《東京陵はこれからどうなるのだろう。電気も水道も止まり、無防備になった町はソ連軍の進駐より先に、満人の暴徒に襲われるに違いない。しかしこちらには青酸カリがある。いざとなったら飲めばいい。何も怖がることはない》。鈴木先生は居直りの気持ちに達し気が楽になった。

 午後1時頃、道路が男達の声で騒がしくなった。遼陽へ向けて出発したはずの兄が帰ってきて「男たちがいなくなって家族を死地へ放り出すより、みんな一緒に死のうということになった」と言う。久子は《もちろんその方がいいに決まっている》と思った。

 夕方になると「国民学校に火薬を積んで玉砕する。行動を共にする者は9時に半鐘を鳴らすのでそれを合図に集合すること」との指示が町内会から伝達された。挺身隊員の栗原、萩原の両名から「一緒に学校へ連れて行ってください」と頼まれた。甥の邦昭は生後46日、兄嫁はしっかり抱きしめて頬ずりしている。母は薄化粧をして和服に着替えた。久子はいつもの教師の服装で学校へ行くことにした。

 そこへ同じ朝日町に住む軍属の猪野が来て久子の母に「うちの家内が恥ずかしくない最後を迎えられるようご指導ください」と頭を下げた。本人は部隊の任務があって奥さんと同道できないという。久子の母は目に涙を浮かべながら引き受けた。午後7時、今まで大事にとっておいた配給のカニ缶を開け、畑のさつま芋を掘りだして食卓を飾り最後の宴とした。

 夕食が終わると町内の半鐘が鳴る中を一同揃って学校へ向かった。月が煌々と照らす道に学校を目指す流れができている。逆に迫りくる死を逃れて東へ向かう流れもある。路上で生と死が交錯する。すれ違う際、知っている顔が見みえるとしばらく立ち止まって深々と無言で頭を下げ合った。
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爆風(18)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年11月26日
爆風(18)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 東京陵には第一工場の他に新しく建てられた第三工場がある。そこで働く工員の坂本吉次は、和泉正一中尉に命じられて7人の同僚とともに爆砕のための火薬運搬にあたった。消防車で第三工場の火薬庫と国民学校との間を数回往復し、50キロ入りの茶褐薬(TNT火薬)の木箱40個、総量2トンを運んだ。

 学校は2階建てで、1階に講堂、職員室、1年生から4年生までの教室、2階には5年生、6年生の教室があった。火薬が運び込まれたのは東端から2つ目の2年生の教室。隣の3年生の教室の間に2階へ上る階段がある。2年生の教室の真上が5年生、隣が6年生の教室で、もし爆発が起これば木っ端みじんに吹っ飛ぶはずだ。火薬は2年生の教室の中央に2山に積まれた。

 坂本たちが作業を終えたのは夕暮れだった。坂本自身は玉砕に加わる気はない。吉野山を越えて逃げるつもりだ。さっさと自宅へ戻り準備をした。単身の身軽さで荷物も少ない。出がけにやはり気になって学校を覗いてみた。各教室とも人がいっぱいだ。特に爆薬の真上の教室はぎっしり詰まっていて、中に念仏を唱える年寄りも見られた。坂本は火薬を運んだ自分の行為に複雑な思いを抱きながら学校を後にした。

 爆薬の点火役は独身の稲月光中尉と柳尚雄中尉が林部隊長から指名された。2人はピラミッド状に積まれた爆薬の頂上に登って、導火線を差し込む穴をドリルで開ける。導火線を差し込んで点火の準備は整った。作業を終えた柳が「何故自爆しなければならないんだろう」と呟くように稲月に訊いた。「林部隊長も吹野少佐殿も死ぬんだ。一緒に死んでもいいではないか」と答えた稲月だが、自分でも納得いかない。

 そこへ岡崎大尉、竹村大尉、得能中尉がどやどやと入ってきて「今一度林閣下に自爆中止を諫言しようではないか」と柳、稲月に声をかけた。2人は即座に賛同し、5人揃って林部隊長の前へ進み出た。話を聞いた部隊長は目を剥いて怒った。「お前たちは若いからどこへでも行けるが、年寄りや婦人子どもはどうする。敵に辱めを受けるくらいなら死んだ方がいいのだ。死ぬのが嫌なら勝手にどこへでも行けばいい」。部隊長の剣幕に諫言を諦め、岡崎たち3人は席を立つ。「我々は死にません」。

 戸塚家と小林家が合流した朝日町の小林隆助宅では、2人の母親とそれぞれの長女の戸塚和子、小林延子は今夜死ぬ覚悟を決め、青ざめた顔で時を待っていた。国民学校2年生の私をはじめ幼い子どもたちは玉砕の意味が分からず、まるで遠足に来たようなはしゃぎ方。あちこちから上がる火の手が窓から見えた。
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爆風(17)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年11月25日
爆風(17)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 夜の9時を過ぎると、遠くから近くから町会毎に鳴らす鐘の音が聞こえてきた。死を誘う陰気な響きだ。武井技手は再び通りへ出た。日頃懇意にしている吉井技手宅を訪ねる。夫人が寄宿していた2人の挺身隊員に別れを告げているところだった。「ご主人はいますか」と言うとすぐ吉井技手が顔を出した。武井が「貴殿はどうする」と聞くと、「僕はこのままで人生を終わりたくない。この吉井という男をもう一度世の中に具現したいので、太子河を越えて逃げる」と言う。「娘さんはどうする」「もう大人だから自由にさせる」。吉井技手はわずかな荷物を持って夫人と2人で弥生町を去っていった。

 武井技手はその足で東京陵病院に柏樹医務局員を訪ねた。病院の中庭の芝生に軍医の岡野大尉が軍刀を杖に腰を下ろしている。「岡野さん、あなたも死ぬのですか」と問うと「俺も軍人の端くれだ。林閣下のお供をする」と答える。武井技手は「岡野さん、もう戦争は終わったんですよ。この非衛生的な満州で満人を病気や怪我から救えるのはあなたたちお医者さんだけではないですか。満人のためにも生き残ってください」と励ましたが「やはり僕は閣下のお供をするよ」と意思を変えない。そこへ柏樹医局員と看護婦が出てきて岡野軍医の手を取って立ち上がらせた。3人は一緒に国民学校へ向かうらしい。

 次は浜本宗三大尉の家だ。玄関の硝子戸を叩くと、喪服姿の大尉が現れた。「浜本さんも死にに行くんですか」と聞くと「もうこんなしち面倒臭い世の中は嫌になった。死ぬのが一番いい」と取り付く島もない。武井は回れ右をして自宅へ帰ることにした。

 家の玄関を入ると電話が鳴っている。国民学校にいる政井中尉からだ。「あなたの弥生町だけがまだ誰も来ない。早く半鐘を叩いてください」と命令口調。「私は鐘は叩きません。皆さん死にに行ってくださいというような鐘は叩けません」と強気に断る。「そんなこと言わずに叩け」「叩きません」と押し問答の末政井中尉は「それなら宮川大尉に叩くよう伝えてほしい」と折れてきたが、武井はそれも拒否した。

 武井の留守中に工事部旋盤班の菊池班長が来たそうだ。武井の妻に「私のところは年寄りもいるので逃げることもできません。これから一家で国民学校へ参ります。長い間武井様には大変お世話になりました。よろしくお伝えください」と挨拶し、鉢巻き白装束姿で去っていったという。武井は、死を前にしていろんな人がいろんな選択をしていることに改めて思いを馳せる。さて俺はどうしようと考え込んてじまった。 
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