2018年05月17日

爆風(86)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載


労働運動は社会の米・野菜・肉だ。

2018年05月15日

爆風(86)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 次に国府軍留用者について記す。1946年3月18日に八路軍が火工廠を撤退し、替わりに国府軍が進駐してきた。国府軍も八路軍と同様、火工廠を活用して工場復旧、火薬製造再開を企図していた。そのためには日本人技術者の大量残留、つまり留用が必須条件だ。一方、一般引揚げの動きも本格化する。国府軍は引揚げに協力する見返りとして工場再開に必要な人材の提供を火工廠幹部に迫った。

 居留民会に責任を持つ吹野信平少佐は、全員揃っての引揚げを念願しながらも、引揚げ業務を円滑に進めるため一定の人員の残留を承諾する決断をした。留用者の人選は日本側に任され、吹野は旧職場のそれぞれの担当者に選考を依頼する。留用者の中には個人的判断で残留した人もあったが、大部分は旧上司の依頼・説得によるものであった。一般引揚げの促進というのが説得の材料になった。

 このようにして92人の留用者の名簿がつくられた。その家族163人を加えると総勢255人になる。この名簿の中には吹野信平をはじめ、これまで本稿に登場した火工廠幹部の名前が多く見られる。

 吹野信平、松野徹、勝野六郎、木山敏隆、成田正三、鈴木一郎、井上二郎、鈴木弓俊、伊藤礼三、佐野肇、稲月光、加藤治久、麻殖生成信、井上富由、和泉正一、辻薦、鈴木久子などである。ほとんどが技術者だが、残留者の健康と生命を守るために勝野医師が、残留者の子弟の教育を任務として国民学校教師の鈴木久子も残った。

 残留者の胸中にはそれぞれの複雑な思いが去来した。「関東軍火工廠史」に寄せられた手記の中からその「思い」の一端を抜き出してみよう。

 松野徹「こうして留用されるのも、後に再び進出して来る日本人のために、辛かろうが、我々はその捨て石になろう」。
 勝野六郎「淋しさと悲しさを乗り越え、留用者の生命を何とか病気から守ってあげたい強い医師の願望が私を支えていたのみだった」。
 和泉正一「(工場長の立場として)私の場合は、覚悟せざるを得なかったが、さて9名となるとまるで説得の自信はなかった。しかし私を信じて、思ったより早く残る決意をしてくれた」。

 木山敏隆「ある日浅野中尉がやってきて、国府軍から留用の要請がある、日本人の引揚げ促進のためでもある、君に残ってもらいたいと言われた。納得できかねるのでいろんな質問をして抵抗した。しかしまだ若いし健康だ、君の専門の土木関係は老齢者ばかりだ、何とか残ってくれと頭を下げられてしぶしぶ承諾した」。

 野久尾良雄「終戦の日、敗戦を認めずソ連軍と決戦するべく首山堡に立てこもった青年工員の一人として燃えたことがあった。留用に応じ、いつの日か、祖国のために戦おうとの気持ちがまだあったように思う。独身者としての自由さ、身軽さだったのではないか。そこに目をつけられた気もするが」。
 井上富吉「第二工場には愛着があった。復旧して元通りにしてから帰るのが人情、また班長以上の大部分が残るということで、再三すすめられて残ることに決めた」。
 小田政衛「実は迷っていた。親友と相談したらやはり留用の話がきていて承諾したという。医療の保証が心配だったが、勝野医師が残るというので留用に決めた」。
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爆風(85)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載


労働運動は社会の米・野菜・肉だ。

2018年05月14日

爆風(85)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 (須本佐和子の手紙の続き)漢口を前にして、美しい揚子江に大阪の街を想像しました。感無量です。革命が成功するのも最早目前に迫っております。でも我々は元々は捕虜なわけですから如何になることやら。しかしどんなことになっても私は日本人として中共軍とともに戦います。立派な薬剤師になって帰ります。日本人男女合計60名余りいますが、まだ外国人には結婚を許しておれません。そのため44歳の方を始めとして全員独身です。

 またこの軍隊は、思想の悪い者、日本でいう右翼主義者は、全部、始めから叩き直されます。昔の日本の軍隊とは、全然違った、厳しい軍隊です。我々も戦います。(中略)今宵も美しい星が輝いております。まだまだ書きたいけれど、これにて止めます。この手紙が無事にお母さまの手に渡るよう神様に祈ってぺんを置きます》。所属「中国人民解放軍第三野戦軍 第四〇軍 衛生部野戦第三所」

 外国人の結婚について、49年当時は許されていなかったようだが、解放後は結婚が奨励されたらしい。須本佐和子の51年10月25日付の手紙によれば、同僚の藤野看護婦が結婚し可愛い坊やの母親になったことが書かれている。須本自身は一度婚約したが、相手が病身のため取り消している。

 52年11月19日発信の須本佐和子の手紙。《ご両親様御許へ お父様お母様からお手紙を頂いてもうすぐ4〜5ヶ月になりますが、種々何かと取り紛れ、忙しく今日に至りました。今私、体を少し悪くし、手術を要するので病院に入院しております。別に心配する程の病気でもありません故、気にかけないで下さいませ。病院生活も2ヶ月になりますが、毎日皆様良く面倒を見て下さいますのでいつも感謝しております。

 日本人の多くが結婚生活に入っておりますが、生活に何の心配もなく、毎日幸福な日々を送っており、生まれてくる子供は、国家の子とし、育てられ、1人の子供に何万円と保育費がつき、成長すれば、日本人の育児所、幼稚園、小学校、中学、大学と進学でき、教育程度もうんと高く、子供も希望のある将来を望めます。

 働けば働くほど豊かになる、楽しい生活、私達もこうして入院しておりましても、入院費もいらなければ、治療代もいらず、給料は普通のように頂け、美味しい栄養価のある食事に感謝しながら、休養いたしております。日本の現在の状況と違って働くものの国は、日一日と豊かになり、私達の生活も益々幸福になって行きます。思いついたまま筆をとりました。皆様お元気で。漢口市 61病院にて》。

 須本佐和子はこの手紙の後日本人男性と結婚し、都村佐和子となって1954年7月に帰国している。
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2018年05月10日

爆風(84)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2018年05月10日
爆風(84)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 53年8月14日発信の大塚智子の手紙。《私この度元気で還ってくることができました。日本の皆様方のの長い間の支援の賜と只々感謝いたしております。存じませぬこととて、桜ヶ丘会の皆様へ今日まで一言の帰国のご挨拶もいたさず大変失礼いたしました。何卒ご容赦下さいませ。

 (中略)実を申せば、私、当時の病院責任者を大変お怨みいたしておりました。元来私たち4名の者は白百合寮より臨時に手伝いに行っていたもの。その私たちを、看護技術もなきものを、看護婦を要求する中共軍に差し出した責任者に対して、命令とは言え、その不良心を、どんなに痛切に感じたことでしょうか。約束の期限がきても、病院からも、火工廠の部隊からも何の音沙汰もなく、誰も中共軍に交渉してくれませんでした。そのまま帰国の日まで、初めに受けたこの仕打ちは、何かにつけて空しい憤りになったことでしょう。

 敗戦という大きな国家的転換時には、個人の生活にも大きな打撃は免れ得ぬものと、既に覚悟はいたしておりましたが、懐かしい東京陵を遠く離れ、異国人ばかりの中で、あまりの激変に耐えかねて、また毎日毎日の強行軍にくたくたになっては泣いて遼陽を恋しがった幾日、そうした時には、決まって最後には病院責任者への悪口になりました。当時の情勢から仕方がなかったと了解しつつも、なお訴え所のない心の鬱々の矢を向けておりました。

 帰国後初めて桜ヶ丘会と皆様の活動を知りました。皆様の変わらぬお心に、私は今更、怨んだ自身を恥じております。お陰様で本当に明るい気持ちになりました。重ねて皆様に深く感謝いたします。(中略)
最後にこの間の尊い犠牲者のご冥福とご遺族様の前途ご多幸をお祈りいたします》。

 49年7月発信の須本佐和子の手紙。《懐かしい母さん、和史、久美子、和美ちゃん。突然の音信、さぞかしお驚きになったことと思います。佐和子は無事に生きておりますゆえ何卒ご安心下さいませ。お父さまは青島からお帰りになりましたでしょうか。(中略)恐ろしい空襲に家の被害はなかったでしょうか。本当に皆無事でしたか。佐和子も親不孝をして家を飛び出しましたが、その罰が当たって、敗戦後すぐ遼陽の陸軍病院に応援に行きましたところ、そこで八路軍に連れられて4年間、つらい日々を送らせれられました。

 毎日行軍行軍で、夜昼ぶっ通しの行軍、兵隊と一緒に寝、弾の飛び交う中の負傷者収容・・・。今では立派な八路の看護婦さんです。この部隊には男女合わせて60名の日本人がいます。初めは何も分からず毎日泣いてばかりおりましたが、現在は調剤の方を中国の人と2人でやっております。思いがけず、今日、他の部隊で働いている日本人の看護婦さんから、内地から手紙が来たと聞いて、早速筆をとりました。5
年間の苦しい涙の生活、如何に書いてよいか、ただ胸が一杯で、何も書けません。自分の元気をお知らせいたしたく、それのみに心が焦って、無茶苦茶に書いています。
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爆風(83)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2018年05月09日
爆風(83)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 生駒は約2ヶ月の取り調べの末「無実」だと認定されて他の20人ほどの日本人とともに釈放された。生駒には何の疑いで逮捕・投獄され、厳しい責め苦を受けたのかとうとう分からなかった。――筆者は《あの民家の主に嵌められたのではないか》と疑っている。彼は国府軍の進駐を察知し、そちらに付け入るためにお土産を考えた。それで生駒に八路軍からの脱走をそそのかし、八路軍のスパイとして生駒たちを密告したのではないか。これは筆者の推測であり真相は不明だ。

 生駒たちは安東まで国府軍兵士に護送され、奉天行きの列車に乗せられた。奉天に着いたのは1946年1
2月30日で、満州各地からの避難民が集まったバラックに入った。このバラックは国府軍の管轄下にあったが生駒は許可を得て知り合いの満州医科大学の原教授を訪ねた。最初はあまりの乞食同然の姿のせいか玄関払いされそうになったが、やがて「あの京大医学部出の生駒医師ではないか」と判明し、正月3日間世話になった。お餅を食べさせてもらったり衣類は熱湯消毒してもらったりした。

 原教授から東京陵病院の勝野六郎軍医に連絡が行き、47年1月半ば、勝野医師と病院勤務の町田修造の2人が迎えにやってきた。国府軍に生駒の火工廠への帰還を申請して許可を得、1年ぶりに生駒は東京陵の土を踏んだ。東京陵は勝野医師ら数人の留用者以外は帰国した後で、中国人の町になっていた。

 生駒医師らが脱走≠オた後の医務留用者はどんな道を辿ったのか。生駒医師と林医学生(衛生兵)がいなくなり、荷宮歯科医も病気のため東京陵に帰ったため一行は看護婦の坂典代、須本佐和子、大塚智子、藤野、林田、岸本ただえの5人だけになる。このうち藤野は途中で東京陵に戻り、岸本も病弱のため21年夏に一般引揚者とともに帰国し、残りは坂、須本、大塚の3人になった。

 この3人の消息を知らせる本人からの手紙が「関東軍火工廠史」に収録されている。
 1950年1月25日発信の坂典代の家族あての手紙。《お母さま、兄さん、芳美さん。お懐かしうございます。お母さまもご無事で内地にお帰りなされたことと信じ、筆をとっております。(中略)私もお陰様にてどうやら無事に今日まで過ごしてきました。言葉の分からない風俗習慣の違ったところにて随分苦労をしましたけれど、現在はどうにか慣れてやっていけるようになりました。

 雪降る遼陽でお別れ致しまして以来、満州各地を歩き、有名な万里の長城を目前に仰ぎつつ、歩いて越えたのも一昨年の末にして、黄河を渡り、揚子江を渡り、現在は広東省の雷州半島まで来ています。自分ながらもよくここまで歩いてこられたものだと驚くくらいです。ここは1月というのに日本の夏と同じ気候です。蚊や蠅も沢山おります。バナナやトマトなどの果物類も豊富ですが、やはり内地のようなお餅や味噌汁、梅干しなどは見受けることができません。そんなことなどいつも皆で話し合っては、懐かしき故郷、そして親、兄弟を偲んでおります》。
 坂はこの手紙を出した後同じ留用者の男性と結婚、荒井典代となって53年7月に帰国している。
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爆風(82)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2018年05月07日
爆風(82)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 前回本ブログで医務留用者は全員独身だと記したが、第二陣の生駒一彦軍医大尉だけは病弱な妻がいた。八路軍留用の命令を受けて生駒は言葉に表せぬ不安と悲しみに落ち込んだ。出発の前夜、妻と寄宿の若い看護婦を前に「おれの命は分からぬが、何卒2人で助け合い無事内地に帰るように」と諭す。3人で手を取り合い、別れの水杯を交わした。

 生駒たちは第一陣と違って、診療部隊として八路軍とともに行動することを要求された。遼陽から東へ向かった診療部隊は、移動中も前線から後送される戦傷病者の治療に当たった。傷の手当をする際に、傷口に付着したシラミの多さに驚いた。シラミはやがて医療者にも付き痒さに悩まされた。

 一か所に何日か駐屯する時、八路軍兵士は新聞を見せて「中共軍は有利に戦いを進めている。いまに中国全土を解放する暁には、必ず皆を返すからそれまで辛抱してほしい」と語った。しかし事実は負け戦で、夜を徹して山岳地帯を行進せざるを得ない。日本人同行者は足を引きずりながら部隊に従った。

 46年暮れ、大石橋とかいう温泉地にしばらく駐屯した。何か月ぶりかにゆったり湯につかり生き延びた思い。夕方6時以降は自由時間を与えられ、生駒たちは麻雀をしてしばし楽しんだ。同行の女性たちは集まって唱歌を合唱した。子ども時代を思い出しながら歌う「赤とんぼ」や「浜辺の歌」がいかにももの悲しく聞こえる。「果たしていつ祖国へ帰れるのか。夢で終わるのか」。皆気持ちは同じだった。

 生駒は睡眠中でも急患が出ると呼び出された。患者は注射を大変喜んだ。生駒は「太夫、太夫」と呼ばれて敬われた。年が明けると戦況はますます八路軍に不利になり、鴨緑江近くに追い詰められた。そこも維持できず、ついに北朝鮮へ逃避することになる。日本人も一緒だと言われた。

 この時生駒は近くの民家で休息していた。民家の主は生駒に「北朝鮮に入ったら日本へは絶対に帰れない。すぐにここへ国府軍が進撃してくるからしばらくここの床下に隠れていればよい。国府軍が到着したら手をあげて出てきて投降しなさい。それが賢明だ」と説得された。生駒は迷ったが、一緒にいた衛生兵と2人で相談した末民家の主の説に従うことにした。この決断が大変な辛苦を味わうもとになった。

 やがて騎馬に乗った国府軍兵士がやってきたので生駒たちは手をあげて床下から出た。国府軍兵士は2人を捕虜扱いにして後方陣地へ移送。中国語で厳しい尋問が行われた。しかし生駒たちはほとんど言葉が分らないし喋れない。そのまま日本でいう営倉にぶち込まれる。それから厳しい捕虜生活が始まった。

 雪の降る朝、営庭に木椀を持って整列させられる。柄杓に一杯ずつの高粱粥を椀に入れてもらい、立ったまま食事する。粗末な宿舎は冬でもシラミだらけだ。広い土間にムシロを敷いて捕虜の朝鮮人、日本人、八路軍兵士が一緒に座り、シラミを取ってはつぶす。屈辱的な毎日だ。

 生駒は軍医将校だったということで特に取り調べが厳しい。皆の前で幾度もビンタを張られ、半裸体とされ、腹巻に仕舞ったお守りを破り捨てられ、眼鏡も粉々に砕かれた。便所は営庭の一角にあり、銃剣を持った兵士の監視つきで、大小便をさせられる。少しでも排便が遅いと殴られた。
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2018年05月04日

爆風(81)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2018年05月02日
爆風(81)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 次に医務関係の八路軍留用者について触れる。八路軍は本渓湖に野戦病院をつくったが医師や看護婦が足りない。東京陵病院からも日本人医務員を連れていくことになった。勝野六郎軍医にも本渓湖行きの要請があったが、老母や妻と3人の子どもがいるのを考慮されて留用を免れることができた。

 八路軍は当初、東京陵病院の勤務員全員の異動を考えていた。軍医の岡野憲介は「それはできない」と八路軍幹部に食らいついた。「病院が空になったら残った5千人の居留民はどうなる。私は進んで参加するからなるべく人数を絞ってほしい」。八路軍の姿勢は意外に好意的で「あなたが積極的に協力してくれるのなら絞れるだけ絞りましょう」と請け負い、人選は日本側に任された。

 留用者は2陣に分けられ、2月11日出発の第1陣は岡野憲介大尉、宗近敬止医学生、看護婦の横井キヨノ、内田照子、中村良子の5人。第2陣は2月19日出発で、生駒一彦医師、林医学生、荷宮文夫歯科医、看護婦の坂典代、須本佐和子、大塚智子、藤野、林田の8人。全員20歳代前半で独身だった。

 第1陣出発の前夜は大病室を使って盛大な送別会が開かれた。その席上岡野は「中共軍に同行する我々にはどんな運命が待っているか、どんな生活なのか全く分からない。前途の不安は大きい。しかしその点は残る諸君も同じだと思う。諸君と再びお会いできるかどうかも分からない。皆さんが一日も早く故郷の土を踏めるよう祈ってやまない」と挨拶。会場のあちこちからすすり泣く声が聞こえた。

 2月11日に東京陵を発った岡野たちはその日のうちに本渓湖近くの大安平というところに着いた。町には日本人の姿はない。空き家の旧日本人官舎に落ち着いて荷をほどく。とたんに岡野は悪寒がし、高熱を発して寝込んでしまった。移動中、酷寒に晒されたための感冒かと思ったが後に結核初期の肋膜炎と判明する。

 この病院は規模の大きい野戦病院で、大連から来た海軍軍医長や日赤の看護婦など多数の日本人が勤務していた。合計50〜60人はいたろうか。旧火工廠の一行はすぐ勤務に組み込まれたが、岡野だけは病気治療のため病床に寝かされた。八路軍の態度は親切で、治療も適切で食事も優遇された。

 岡野は熱が下がったある日、点在する病舎を見て回った。患者はほとんどが戦傷者だ。治療は膏薬の塗布と包帯交換が主で、手術が行われている様子はない。X線設備もないようだ。岡野は東京陵病院にほとんど使われていない携帯用X線機器があったのを思い出した。病院には立派なX線設備がある。携帯用はこちらへ譲ってもらう可能性があるのではないか。その旨八路軍担当者に言うと早速東京陵まで使いを出し、了解を取りすぐ取り寄せた。この小型X線機器がこの後大きく役立つことになる。
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爆風(80)

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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2018年04月30日
爆風(80)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 松本百公は戦争末期に学徒動員され関東軍火工廠に配属された。中国語に堪能な青年である。もともとから火工廠を運営していた将校たちとは一味違った目で八路軍を観察していた。彼が「関東軍火工廠史」に寄せた「中共軍留用者第二次出発から帰国まで」と題する手記から「中共軍幹部の横顔」を見てみよう。

 《王篷原軍工部長は長春(旧新京)の出身。北京精華大学卒業の科学者で、自ら共産軍に参加。蘇文廠長は瀋陽市(旧奉天)の出身。昭和6年9月18日の満州事変勃発時は東北大学3年生。日本の暴挙を怒って中国本土に行き、共産軍に入る。また政治委員江涛は南方華僑を父に持つが、父の生き方に不満を抱く。自らシンガポールで沖仲士のような苦力を数年間経験したのち共産党に入党。政治工作員として人民解放の運動に従事。周明副廠長は日本に留学、東京工業大学在学半ばにして帰国し、共産軍に参加した。

 いずれの幹部にも共通して言えることは、共産主義・共産党が中国を救う唯一の道だと確信している点である。イギリス、ドイツ、フランス等欧州諸国は中国に対する侵略者、アメリカは領土的野心はないが市場としての中国を狙い、日本はアジアの国でありながら中国を植民地とする野望を逞しくしている。ただ社会主義ソ連邦のみが中国の友邦である。人民のために服務することを信条として、中国革命のために一身を捧げる、と彼らは常に明言する》。

 ちなみに松本は新中国建設後も残留し、中国政府から労働英雄の称号を贈られ1953年に帰国している。その間の経過については本稿でのちに綴ることにする。

 第二次留用組の板坂技手夫人静江は46年3月17日、乳児を抱き5歳の長女由紀子の手を引いて東京陵を馬車で出発した。弓張嶺というところで汽車に乗り本渓湖へ。そこからまた馬車の旅となる。長白山の麓を通行中、由紀子の体調が悪化。呼吸が止まったりまた動き出したりしていたが、大きな川原に着いたところでついに心臓が止まった。亡骸だけでも火葬にしてと政治委員の江涛にお願いする。馬車を止めて木材を積み重ね、石油をかけて火葬にした。一行の中の山中勇七郎が白木の骨箱をつくってくれた。

 8日目、長白山の雪解け水が氾濫し馬車が飲み込まれた。馬車には荷物の上に板坂夫人と乳飲み子の曄子だけ。馬夫が懸命に岸を目指すが濁流には逆らえない。板坂夫人はもうこれまでと覚悟を決め、曄子を抱きしめて岸の夫と長男に手を振った。その時八路軍兵士が5人、濁流に飛び込み馬夫と協力して馬車の向きを変えることに成功。やっと岸にたどり着いた。

 通化に着き、元満州製鉄の青山荘に旅装を解いた。翌日の夜、板坂夫人は曄子を抱いて、得能中尉と長男が亡くなった現場のお風呂に入った。以外に広くて清潔な風呂だが電気は暗かった。得能の長男が落ちたという熱湯の湯舟はもうもうと湯煙を立てていてまるで地獄の窯のようだ。板坂夫人は手を合わせ黙とうした。
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2018年04月27日

爆風(79)

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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2018年04月26日
爆風(79)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 まだ長く困難な旅が続く。引率の江涛は携帯品を減らすよう指示。荷物の多い板坂、石川は家財を半分ほどに処理せざるをえなかった。
 4月5日、通化の町を流れる川のほとりに出た。太子河の上流だという。1人の八路軍兵士が松本たちに対して重い口調で「2月、この川で多くの日本人婦女子が氷の割れ目に投げ込まれて殺されたのだ」と
漏らした。例の通化事件のことだ。八路軍兵士は「虐殺行為をしたのはは朝鮮人義勇軍だ」という。彼は話し終えると軽く目を閉じ、頭を振った。

 一行は通化市街を通りぬけて、丘の上に建てられた元満州製鉄通化支社の独身寮青山荘に向かう。そこには第一次留用組の小林、飯野、川北らがいて、暖かく迎えられた。

 通化に着いた翌日、松本は吉林、敦化、延吉方面への出張を命じられた。王蓬原軍工部長、蘇文廠長らが、ソ連軍撤退後の旧日本経営の工場を接収するのに同行するためである。日本人は松本1人である。一行は軍用車に分乗して吉林へ急ぐ。その日のうちに吉林に着いて早速工場に向かおうとしたが、ソ連軍の撤退が遅れて4月15日になるという。それまでの数日間を観光名所の北山で待機させられた。

 退屈なので吉林の街を歩いた。驚いたことに日本人が自由に商売をしている。生菓子、お寿司などお金さえあれば何でも買える。松本たちの宿舎に朝夕、日本婦人が子どもを背負って手巻きの煙草を売りにきた。日頃どんな暮らしをして生き延びているのだろう。辛い光景だった。

 やがてソ連軍が撤退し、満州電気化学工業、満州人造石油などの吉林市内の主要工場の接収が完了した。次は敦化である。ここではバルブ工場の接収にあたった。また旧日本軍飛行場整備工場も視察した。整備工場には14、5人の日本人職工がいたが、それらは敗戦直前に召集された男たちの留守家族で女子どもだけだった。

 松本は敦化駅前でボロを着た日本人に会い、彼の住居を訪れた。床ははぎ取られ、畳もなく、土間に板を敷いての生活だという。土間に麻袋にくるまって寝ている子ども。そぱに座り込んだ母親が「この子は栄養失調で今日死ぬか、明日死ぬか分からない。薬もなく、医者もいない。お金もないので食べ物も与えられない。ただ手をこまねいて死を待つだけです」と嘆く。涙もなくすっかり諦めた顔である。

 松本は重い気持ちを抱いたまま、蘇文たちに従い次の延吉へ行く。ここでは関東軍補給廠の接収が目的だったが、着いてみると既に壊されていて跡かたもなかった。さらに大同酒精の工場へ向かったがここも破壊されていて無人。壊れた醗酵槽の中で何かの液体がブツブツ泡を立てているのが不気味である。これでは接収は無意味だ。

 翌日、曲水というところに大きな鉄工所があると聞いて接収に行く。ここは朝鮮人が管理していて完全に保全されていた。八路軍軍工部一行は、曲水からさらに東盛湧、開山屯、琿春、図們、石峴、汪精などの工場調査と接収に出発したが、松本はここで彼らと別れ、日本人留用者のもとへ帰された。
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爆風(78)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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2018年04月24日
爆風(78)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 徳能は湯船に落ちた子どもを救いあげ、夫人に手渡す。自分は板の間に頭を抱えて座り込んだ。じっと痛みを我慢している様子。全身大火傷だ。子息の通孝は泣き声も立てられずに3時間後に事切れた。徳能中尉は医師の手当てもできず、一晩中呻きながら朝を待った。朝8時に板の上に布団を敷いた急造担架に乗せ、小林新之助、弟の信夫、間下守、飯野久夫の4人で丘の上の陸軍病院へ担ぎ込んだ。

 全身真っ赤、崩れそうな水泡が痛々しい。治療といってもなす術はなく、脱脂綿に油薬をつけて布で巻くだけ。5本の指も癒着している。看病の小林にかぼそい声で「水をくれ」と言ったのが最後で、夫人に看取られながら事故から2日目に死んだ。亡きがらは裏山に馬車1台分の薪を積んで火葬にした。

 4月上旬、国府軍の進攻を避けて一行は石峴へ向けて通化を離れた。石峴では旧東洋パルプ工場が本拠地になった。着いた日は、狭い事務室に布団を敷いてすし詰めで横になる。夜中、徳能夫人が赤痢のような症状を発して皆から心配されたが1週間ほどで回復した。やがて工場内の日本人官舎に移る。ここはオンドルも完備、風呂場やだいどころもあってやっと人間らしい生活に戻れた。

 小林たちが石峴の旧東洋バブル工場で製造したのは八路軍が戦闘に使う手榴弾だった。材料も工作用道具も近隣の旧日本軍工場からの調達だ。小林はオンボロの木炭車に八路軍兵士と同乗して、朝鮮国境の龍井へ行ったことがある。龍井には旧日本軍飛行場があり、木製の戦闘機が放置されていた。雑草を踏み分けて格納庫に入る。必要工具がきちんと仕分けして保管されている。日本軍隊の几帳面さだ。爆薬は日本軍が遺棄した砲弾や投下弾からTNT火薬を抜き取って使った。

 第二次留用組に加えられた学徒動員組の松本百公は1946年3月17日朝、八路軍とともに移動を開始した。石川少佐、重田中尉、板坂、松野両技手、工員の山中、川北、小林常雄、学徒動員の緒方、時吉、松本がメンバー。資材を積んだトラックが次々に出発。松野たちの乗ったトラックがその後を追った。

 東京陵付近で3人連れの人影と行き違った。板坂夫人が「あれは吹野さんたちよ」と指差す。長く遼陽で拘束されていた吹野信平、川原鳳策、松野徹が釈放されて東京陵に帰るところだ。これから八路軍と先行きの分からない旅をする松本たちと、八路軍に釈放され自由の身になった吹野ら3人。大きな声で別れを惜しんだ。

 峨嵋荘という村で八路軍の江涛政治委員と合流、列車で宮ノ原に着きそこから通化へ向かって馬車の旅となった。馬車旅の一日目に板坂技手の赤ちゃんが揺れる荷台で窒息死した。それが3月26日。政治委員の江涛は国民党軍の追跡を怖れて旅を続けようとしたが、日本人一行は赤ちゃんの遺体の火葬のため出発を延期することを要求。頑なな意思を察した江涛はこれを受け入れた。

 翌日警戒を厳重にして出発。警戒の兵士が国民党のスパイを2人逮捕する。情勢は緊迫しているようだ。しばらくして解氷期の河に馬車がはまって動けなくなる。若い松本たちが馬車の荷物を下ろし、馬車のわだちを手で回してなんとか河から脱出する。やっと通化への道の半分、興京という町に着いた。
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沖縄ノート(14)土地強奪の手口「騙し」

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765
労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2018年04月24日
沖縄ノート(14)土地強奪の手口「騙し」

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)


 沖縄の人々は、沖縄戦の体験と戦後のアメリカ軍の占領支配をとおして、それまでの軍というものに対する理解を改めざるを得なかった。日本軍も占領軍も住民を守ることを目的としていなかった。敗戦直後、一時は、米軍が日本軍に代わる救世主であるかのような期待を住民は抱いたのだが、その期待は裏切られた。日々の生活の糧であり命綱であった田や畑を、占領軍は無慈悲にも銃剣とブルドーザーによって次々と奪っていったからだった。
 本格的土地強奪は、1952年に那覇市上之屋一帯と小禄村具志から始まったのだが、その後も、住民は米軍のそのような無法に抵抗した。小禄村では、武装兵に包囲されながら、老若男女が総出でブルドーザーの前に座り込んだ。
 そのような住民の抵抗に手を焼いた占領軍政府は、強奪の一方、さまざまな「騙し」を手口として使った。キリスト教徒であるはずの軍幹部、米兵に人を欺く行為に罪悪感はなかったのだろうか。米兵たちは、「シマグアー(島人奴)」という差別用語をしばしば使った。彼らには、基地を造るためであれば、直接的暴力であれ、「騙し」であれ、許されるという非道にたいする無感覚と差別意識があった。その「騙し」の手口とはどのようなものだったのか。

「騙し」その1
 米軍は、伊江島に飛行場を建設し、島全体を実弾演習場にする計画を立てていたのだが、住民の抵抗を避けるために、次のような手口を考え付いた。銃剣を突き付け、ブルドーザーを使って田畑を掘り返すと抵抗が生じるからである。
 1953年のある日、日系の米兵が集落の各戸を訪れ、「これは朝鮮やそのほかの国でも行っている」と説明し、「土地調査」への協力を依頼した。伊江島の住民は本島での土地取り上げの事実を知らされていなかったのか、それを素直に信じて、私有地を案内して回った。その時、日系米兵は、案内の報酬を後日支払うために必要だ、などと言って英文の書類へ捺印させた。伊江島の住民が押印すると、日系米兵は立ち去った。それ以来、その日系米兵は姿を消している。
 実は、この書類は土地取り上げに異論がないとする同意書であった。住民が英文を理解できないことを利用した「騙し」であった。伊江島の住民は臍を噛んだ。これは日系米兵を使って信用させる悪質な手口の一例である。これは詐欺行為であった。

「騙し」その2
 1953年初夏のある日、小禄村役場に2人の米兵がやって来て、土地係の前で、つたない日本語でしきりと話し出した。「ミズナイ、グシブラク、ミズホシイ、アメリカ、ミズタンクアル、グシブラク、ヨロコブアル、ユー、ワカッタアル、オーケー」。
 具志部落には生活上の水が充分にない。住民は給水施設をほしがっている。だから、米軍は水をたくわえることができるタンクを提供したい、住民は喜ぶだろう、という意味らしい。
 それに応えて、役場の係が相手に合わせて、「ミズホシイアル、アメリカ、ミズタンク、ナゼヤルカ」と応じる。その時、英語が聞き取れる女性が土地係のところに来たので、米兵は英語で説明を始めた。
 ―小禄飛行場の米軍は水を貯えるタンクをたくさん持っている。現在、飛行場に水道を敷設する計画があるのだが、高嶺村あたりの水源地から水を引くために小高い丘が必要だ。具志部落後方の丘が適当である。具志部落にも水道を敷いてやるから、タンクを据え付ける場所として、具志部落の丘を提供してもらいたい。―
土地係員が、「即答はできない。住民に計ってからでなければ」と、当然の応えを返すと、米兵は、「アス、ハナシワカル、アル」と、納得した様子で帰っていった。
 どうせアメリカがやることだ。簡易水道程度だろうが、ともかく設計図を見る必要があると係員は判断して、翌日米兵が来るのを待つことにした。
その翌日、役場の係員が米兵に、具志部落後方の丘を貸してもよいが、その前に具体的な計画を示してほしいと伝えると、米兵は嬉しそうに、計画については担当者が後日説明すると言い残して、「ユー、ハナシ、ヨクワカル、アリガト」を何度も繰り返して去っていった。
 それから4、5日後に、その具志部落後方でなにやら工事が始まった。しかも、その工事がとてつもない大工事らしいと、請け負った土建業者が話している。受注した彼らにも工事の計画は知らされていないようだった。しかも、役場には未だに何の説明もない。
 おかしなことに、水源地から水を引く工事らしきものは行われていない。そのうち、2つの巨大なタンクが、部落を見下ろすかのように出現した。話が違う。いまだに給水の話がいっさいないではないか。どうなったのかを知るにも、先刻の米兵の姿が見当たらない。
 どうやら、その巨大タンクは水を引くためではなさそうだ。その用途は何なのか。それが判明したのは、工事開始から半年も過ぎてからだった。実は、その2つのタンクは水源地から水を引くためのものではなく、那覇港に停泊するタンカーからパイプを使ってガソリンをたくわえるためのタンクであった。
 騙されたことに気づいた部落民は驚愕した。2つの巨大ガソリンタンクが部落を圧するかのように目の上にあっては、安心して暮らすことなどできない。引火でもしたらどうなるのか。
 怒り心頭となった部落民が村役場に押し掛けた。「話が違うではないか」「なんとか米軍に掛け合ってくれ」と、役場の係を責め立てるのだが、「ユー、ハナシ、ヨクワカル、アリガト」と、言い残した2人の米兵は雲隠れしていて、ラチがあかない。
 ガソリンタンクを背負い込まされた具志部落の人々の間では、以後、米兵の話には決して乗ってはならないことが共通の心構えとなった。
その後は、具志集落でも私有地の強奪が行われるのだが、その前に住民を騙したことは、危険なガソリンタンクを置くことで、立ち退きを容易にしようと考えたからなのだろうか。

  その後に小禄村で起きた土地強奪に対して、住民がいかに抵抗したかは、前号沖縄ノート(13)をお読みただきたい。住民の土地取り上げに対する抵抗が、村あげての組織的なものだった背景には、このような騙し討ちに対する住民の怒りがあったからであろう。
(資料は瀬永亀次郎著『民族の悲劇』72年刊)。           

(つづく)
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爆風(77)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2018年04月22日
爆風(77)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 間島は朝鮮との国境沿いを通化よりさらに北上した、山の多い地域である。戦時中、金日成率いる間島パルチザンが八路軍と組んで反日ゲリラ戦を展開した。夭折したプロレタリア詩人槇村浩の「間島パルチザンの歌」で日本でも有名だ。遼陽から間島へ。八路軍留用者は長てく辛い道のりを移動させられた。

 第一次留用者の1人小林新之助は2月24日午前10時、妻と6歳の長女光子を同伴して一行とともに唐戸屯を八路軍の軍用車に分乗して出発した。雪がちらつく寒い日だった。遼陽で乗った列車は窓ガラスも座席も無残に壊されている。荷物を無蓋車に積み込み、一般中国人でひしめく客車へ。立ったり床に座り込んだりして発車を待つ。鈍い汽笛とともに列車はゴトリと動きだした。

 名前は分からないがかなり大きな駅で止まった。給水のようだ。光子が小用に行きたいという。小林は光子を抱えてホームに降りた。用をたして戻ろうとしたら列車が動きだし、ホームを駆けだしたが間に合わない。途方に暮れていると線路の枕木を蹴って5〜6人が戻ってきた。小林の妻が、夫と子どもが取り残されたと日本人責任者の徳能典通大尉に訴えて列車を停めてくれたのだという。

 その日の夜8時、宮ノ原というところで列車を降り2泊する。3日目に同駅を出て線路の終点のような辺鄙な駅に止まる。積雪を踏んで駅周辺の家へ。ここで再び2泊。朝早くガヤガヤ話し声がする。出発の準備が整ったという。馬車が全部で26台も並んでいた。7時に出発。男たちは不安定な荷物の上だ。

 雪が吹雪いてきた。平頂山付近を通る。午後4時頃大きな村落に着いた。電灯のない寒村である。灯油の灯りで夕食を済ませ、オンドルの上に布団を敷いて寝た。翌朝はまだ暗いうちに起き、粥を啜り、6時には出発。そんな日が7日ほど続く。遠くに大きな建物が見えた。大都市のようだ。馬夫は通化市だという。やがて市中の繁華な通りに出る。映画館らしい建物から音楽が流れてきた。

 馬車は繁華街を抜けて郊外へ。大きな橋を渡る。二道溝という地名のところに鉄条網で守られた旧日本企業の寮があった。「東辺道開発会社」青山荘の看板。2階建ての立派な施設だ。やっと長い旅が終わった。荷物を2階の広間に運び、雑魚寝ながら久しぶりに服を脱いで足を伸ばして寝る。ガラス障子の隙間風が気になったが疲れていたのですぐ眠りについた。通化では八路軍経営の化学廠に属し、石鹸を製造する仕事にとりかかった。そして4〜5日が過ぎた土曜日の夜、その悲劇は起こった。

 その夜は週2回の入浴日だった。入浴は男女別に交代で日にちが決められており、この日は男子の番だ。徳能大尉が2歳の長男通孝を抱っこして浴場へ足を踏み入れた。浴場には入浴用の湯船と、湯が冷めた時に足す熱湯の湯船が並んでいる。その夜は運悪く停電で、浴場は3本のローソクの灯りしかない。湯船付近は真っ暗だった。「あーっ」突然徳能大尉の悲鳴。脱衣所で待機していた夫人が驚いて浴室の戸を開けた。夫が手から滑って熱湯に落ちた我が子を助けようと自分も飛びこんだ瞬間だった。
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沖縄ノート(13)基地建設と住民の抵抗

18年4月21日
沖縄ノート(13)基地建設と住民の抵抗

■坂本陸郎(JCJ運営委員;広告支部会員)

50年代
 命綱であった土地を奪われた沖縄の人々は、急速にすすむ建設工事の目的が何なのかを、はじめは知らなかった。戦後の沖縄経済を復興させるためだと信じる住民も多くいたという。だが、それは、かつて琉球の文化と密接な関係にあった中国、朝鮮に対して銃口を向ける基地の建設だったのだが、その事実を知るのは、しばらくしてからのことであった。まして、その基地が沖縄本島全面積の4分の1近くを占めるであろうことなど誰が想像しただろうか。
 1948年に大統領となったトルーマンは、一時は「領土的野心はまったくない」と語り、沖縄に駐留する米軍首脳たちも、当初は「沖縄を東洋の民主主義のショウウインドウにする」などと言っていた。終戦直後の米国内ではそうした見方もあっただろうが、その後は極東情勢が変化し、米ソの対立が激化した。朝鮮戦争の勃発とともに、沖縄は冷戦下のかなめ石として極東最大の基地の島へと変貌していった。
 米国は1949年に、台風に耐えられるだけの基地を造るという名目で、3380万ドルという莫大な予算を組み、戦前の日本軍の基地を拡張しようと計画していた。それが、50年春、沖縄本島を貫通する軍用道路建設から始まった。
 那覇から沖縄本島の北端までの西海岸123キロの軍用幹線道路一号線が造られ、続いて、東海岸13号線が建設された。続いて那覇港と泊港の補修整備、軍用倉庫、飛行場、米軍のための病院、発電所などの軍用施設が次々と造られていった。 それらは、嘉手納から那覇までを埋め尽くす広大な沖縄の基地化であった。同じころ日本本土では、朝鮮戦争による特需で経済が上向き、経済白書の「もはや戦後ではない」の標語が現実味を帯びていた。この沖縄での基地建設工事に、日本本土の鹿島建設などゼネコンと大手建設企業20社余りが参加している。朝鮮戦争の前線基地となった沖縄と、その朝鮮戦争によって経済が潤う本土との違いが対照的である。

土地闘争
 その1950年代に、米軍政府の無法と横暴は頂点に達することになる。武装した米兵たちが、土地取り上げに応じない住民を家屋から追い出し、ブルドーザーで家を破壊し、畑を掘り崩していった。それに対して、住民はブルドーザーの前に座り込んで抵抗した。そうした「土地闘争」が、沖縄のいたるところで繰り広げられた。
 52年、那覇市上之屋では、20数万坪の私有地が米軍住宅建設のために接収され、小禄村具志では、住宅地と田畑が、燃料貯蔵地を造るために住民の立ち退きが命じられた。53年、伊江島では、飛行場と演習場建設のために住民の土地が取り上げられた。だが、上之屋でも小禄村でも、立ち退きに応じない住民は、銃剣とブルドーザーの前に立ちはだかった。
 次は、53年12月に小禄村での土地強奪に立ち向かう住民の抵抗の様子を叙したもので、瀬永亀次郎著『民族の悲劇』中の叙述を、筆者が要約し書き改めたものである。

  早朝5時、米軍の請負業者が運転するブルドーザーが、農作物を踏み砕いて整地を始めた。
ヤグラの上で見張っていた村民が鐘を打ち鳴らした。すると、それを聞きつけた学童をふくむ1500人の村民が続々と集まり、ブルドーザーの前に立ちはだかった。村民代表がブルドーザーを動かす男に呼びかけた。
「あなた方も同じ日本人である。血を分けた同胞がアメリカの土地取り上げに反対して、命がけでたたかっている。われわれは、生活を守るためにアメリカに土地を渡すことはできない。あなた方も生活のために雇われ、アメリカ軍の命令に従って仕事をしていることは、よくわかるのだが、自分一個の生活のために、数千人の同胞が土地を盗られて死んでいくのを傍観してよいのだろうか。不当なアメリカの土地取り上げに味方せず、生活を守るためにたたかっている同胞の側について、運転台から下りてもらいたい。」
 呼びかけに応えて、運転台にいた日本人労働者が下りて来て群衆のなかに加わった。歓声が湧き起こった。それを見た米兵の隊長が、「私にはどうにもできない。副長官に連絡し、なんとかするから、おとなしくしていてほしい」と言った。住民の隊列から再び歓声が湧いた。
 住民たちは次々と缶詰箱の演題に立って、「どんな攻撃があろうと、土地を守るためには団結だ。生活を守る戦列を固めよう」と声を張り上げると、口笛と拍手がそれに応じた。
 その時、武装したアメリカ兵200余と、琉球政府主席指揮下の警官50人ばかりが現れ、立ちふさがる住民を包囲した。指揮官オールド・コント大佐が指令を発した。「オグデン民生副長官の命により、ただちに解散を命じる。従わない者は武力によって排除する」。
 それでも住民は誰一人引き下がらず、座り込みの円陣をつくり、中心に若い男たち、その外側に学童生徒たち、その周辺に、赤子をおぶった母親たちが結束した。女子供には米兵は手を付けまいという判断からだった。手を焼いた指揮官の大佐が、催涙ガスを取り出して散布する様子を見せたのだが、風向きが思うようではないらしい。
 睨み合いが1時間ほど続くと、鉄兜をかぶり背嚢を背にした2個中隊400人ほどの米機動部隊がトラック2台に乗ってやってきた。と見るや、女子供を蹴散らし、円陣の中心に突進して、座り込んでいる男たちに分厚い毛布をいっせいに被せ始めた。住民たちは一人ずつ、ぐるぐる巻きにされ、それを500メートル先の広場まで運ぶという人間梱包運搬競争に米兵たちは興じた。運搬の途中、梱包がほどけそうになると、老いも若きも必死に抜け出て、座りこんだ円陣へ駆け戻った。このような住民の意を決した抵抗で、梱包運びは終わるともない。
 業を煮やした指揮官が、次に暴力に直接訴える許可を下した。米兵たちは、銃剣を振り回して住民たちを威嚇し、殴り、蹴り、突き倒した。円陣の中は罵声と叫声が飛び交った。それが7時間も続いて、住民たちの命がけの抵抗はようやく収束した。
 これ以上の無法があるだろうか。「自由」と「民主主義」を謳う国家アメリカの他民族に向けられた銃剣と暴力は、日本国民の生活を守ろうとする「自由」を無慈悲にも打ち砕いたのだった。
 さすがに、命令を下したオグデン将軍は、この蛮行が他の住民に知られるのを怖れ、翌日の新聞に、「共産主義者の人民党員が集結し、小禄飛行場を襲うという情報に基づいたもので、共産主義者取締りを目的とする措置であった」と、虚偽の釈明をせざるを得なかった。

(つづく)
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沖縄ノート(12)なぜ沖縄が占領統治されたのか

18年4月21日
沖縄ノート(12)なぜ沖縄が占領統治されたのか

■坂本陸郎(JCJ運営委員;広告支部会員)

米極東戦略の狂い
 戦後に米ソの対立が深まり、連合国が分裂すると、それが、東アジアで激動を引き起こし、米国とともに連合国であった中国では内戦が激化した。
アメリカは戦中戦後、蒋介石が率いる国民党軍を支援し、戦後は、国民党政権による親米政権が確立するものと判断していた。その点で、沖縄は国民党軍を支援する基地として重要な位置にあった。米軍は沖縄戦が終わると、大量の軍事物資を南洋諸島から沖縄に集積し、那覇港や勝連半島のホワイトビーチから上海に送り込んだ。だが、その後に蒋介石軍が敗北し、1949年に中華人民共和国が誕生する。米国の戦後の極東戦略に狂いが生じたのだ。それが日本本土と沖縄に基地を置く「全土基地方式」につながり、沖縄は冷戦構造の中枢に位置付けられることになった。

米国と連合国の対日不信
 では、アメリカと連合国は、敗戦後の日本をどのように見ていたのだろうか。沖縄の占領統治をめぐる興味深い質疑が、講和条約締結の2年後に国会で交わされている。
 以下は吉田健正著『軍事基地沖縄』(高文研)から。
「1953年2月の衆議院外務委員会での、改進党の並木芳雄議員が、『米国は何も、あそこ(沖縄)で司法、立法、行政の三権を掌握しなくてもいいはずなのです。米国としては、沖縄などについては、軍事的な基地、拠点さえ確保していれば、目的が足りると思う』と質問した」。
 質問に立った並木議員は、沖縄を日本の主権が及ぶ領土とし、本土と同じように基地だけ貸与してはどうか、米国としては、それで充分ではないのか、なにも米国に沖縄を占領統治させる必要はないのではないのか、と疑問を呈している。
これに対し、下田武三・外務省条約局長(のちの中米大使)が、51年に締結された(沖縄を切り離す)サンフランシスコ平和条約第三条の規定を前提に、次のような見解を示している。
 『沖縄、南西諸島の帰属について、ああいう解決(占領統治)を見ました理由は、一つには、米国の戦略的要求を満足せしめるという観点と、もう一つは、かつて日本帝国が南進の基地として、あの方面の島々を利用した。従って、再び日本の南進の足場となることを防ごうという観点もあったことは、これは争えない歴史的な事実であると思うのであります。現実の国際情勢は遺憾ながら、平和条約締結当時、数か国(オーストラリアなど)が示した不信の念は、いまだ完全に払拭されていないというのが、事実であろうと思います』。
 この答弁は、戦後もなお、米国をはじめとする連合国が、侵略国であった日本に対して不信の念を抱いていたことを認めると同時に、米国による沖縄の占領支配を容認するものであった。だが、肝心の占領支配の不当性については一言の疑義も挟んでいない。
 それにしても、「沖縄を日本の主権が及ぶ領土としたらどうか」という質問は、その限りでは、もっともというべきだが、それへの答弁が、沖縄が「南進」の拠点であったことを「争えない歴史的事実」だとし、それに対する米国の警戒心を当然視していることに注目したい。敗戦後の日本が未だに侵略の野心を残していたことを認めているかのようでもある。この国会質問が講和条約締結後に行われたことも興味深い。沖縄の戦後を決定づけた講和条約が、当時の国会で充分議論されていなかったことを表している。

侵略の基地であった島
 米軍進攻以前に、沖縄が日本軍の南洋諸島侵略の足場とされていたことから、米国は、戦後において、なお日本の侵略性の残存を警戒し、沖縄に日本の主権が及ぶことを危険視したといえるだろう。以後、冷戦下での米軍基地建設が急速に進むことになった。
 米国軍は、日本軍の港湾施設、陣地などを占領し、日本軍の軍事施設を引き継いだだけでなく、住民が住む集落や田畑、山林原野を強制接収し、沖縄を、本土攻撃と、戦後の反共の基地として拡張し造り替え、空爆、艦砲射撃、実弾射撃訓練を、沖縄の陸、海、空で繰り返した。それは、中華人民共和国の成立と朝鮮半島での緊張の高まりに即応したものだった。
 そのような基地建設と住民支配が1945年3月の慶良間諸島上陸から、72年5月14日の「沖縄返還」までの27年間に及ぶことになった。

分離支配と祖国復帰の禁圧
 占領統治が、沖縄の住民を本土の住民とは異なる民族だとして、分離するものであったことが注目される。「日本政府は沖縄の住民を日本人とは見ていない」とする、なんらかの情報による米国側の判断があったことも、分離支配の背景にあったとも考えられる。
 以下は、山田敬男編『日本近現代史を問う』からの引用である。
― 米軍は沖縄に上陸して占領地を確保するごとに、「米国海軍軍政府布告第一号」を発して、日本の行政・司法・立法の停止を宣言しました。同時に、「布告第二号」(戦時刑法)を出し、「日本帝国旗ヲ掲揚シ或ハ其ノ国歌ヲ唱弾スル者ハ処罰スル」としています。この規定は沖縄の非日本化(分離支配方針)の一環と考えられます。また、植民地や戦地からの、日本人の引き揚げ(強制送還)は1945年10月から始まっていましたが、「奄美諸島と沖縄県人は非日本人」として取り扱われていたことは注目すべきです。たとえば、台湾では日本本土籍の人を「日僑」といい、沖縄出身者は「琉僑」といって区別していました(これは米軍の意図にそった国民党軍の対応とされている)。沖縄を分離支配する意図が、すでにこの時期に明示されていたことになります。―
 その分離政策は次の事実からも知ることができる。
 軍政府は、1950年に住民の直接選挙を司令したうえで、奄美、沖縄、宮古、八重山に「群島政府」をつくらせた。しかし、当選した本島の平良知事が「祖国復帰」を唱えたため、辞任させ、そのわずか4か月後に、群島政府に代わる中央政府「琉球臨時政府」を立ち上げ、知事を、軍政府が任命する「首席」に変え、住民の直接選挙制を廃止した。この「祖国復帰」の提唱は、沖縄の分離支配に反するものであったから、それを封じる軍政府の対応は素早かった。その後の50年代に、前述のような住民の私有地強奪と基地の拡張建設がいっそう進んだ。

(つづく)
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爆風(76)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2018年04月20日
爆風(76)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 死者のほかにも一斉引き揚げに加われない人たちがいた。中国残留者(本稿では留用者と呼ぶ)である。留用者として八路軍に同行した人と国府軍同行者とではそれぞれ別の経過を辿っている。まず八路軍から見てみよう。

 1945年11月に火工廠を接収した八路軍は、当初この地での工場再建をするつもりだった。しかし、工場の主要設備、機材がソ連に持ち去られたのと、国府軍が迫ってきたこともあって火工廠での運営は諦めざるを得なくなった。仕方なく工場機能を通化に移し、通化での工場再開を図ることにする。46年2月、火工廠に残存する必要機材の搬出、日本人技術者の選抜が始められた。

 八路軍から留用者の人選を任された1人に第一工場の徳能典通中尉がいる。徳能は2月中頃のある日、唐戸屯の居留民会事務所を訪れ、以前部下だった技術者の川北辨吉を呼んだ。川北が来ると徳能はつかつかと川北のもとへ歩み寄り手を握って言った。「川北君お願いがあるんだが聞いてくれるか」「わたしでできることなら何でもします」「実は八路軍と同行することになった。私1人では仕様がないので技術者を10人ほど選んで欲しい」。川北は事の以外さに驚き、他の留用者を説得できるだろうかと迷った。

 《徳能さんも人選が困難なことは百も承知なればこそわざわざ唐戸屯まで来られたのだ。私ごとき者に最後の希望を託しておられる。昭和17年5月、宇治製造所より黄色火薬工場要員として渡満し、火工廠第一工場の徳能さんの指揮下に入った。その後唐戸屯の第二工場に移った私に、今苦しい胸の内を打ち明け協力を頼んでおられる。何か離れ切れない運命の絆があるのではなかろうか》。

 「川北君、僕を信じてくれ」と涙を流して手を握る徳能中尉に「私でよかったらお供します」と川北は固く手を握り返した。川北は徳能と別れ官舎に戻る。妻に事情を話して「おれは徳能中尉についていくが、お前は子どもたちと引き揚げてくれ」と頼んだ。すると妻に「私は川北家に嫁いだ者です。夫と行動を共にするのが妻の役目です。万一貴方が殺されるようなことがあったら私も子どもと一緒にお供します。任された人選をやり遂げてください」と心強く激励された。

 民会事務所に戻り、徳能が候補に挙げた飯野久夫、間下守、それから弟の川北恒一に事情を話して留用を依頼した。3人とも以外に簡単に承諾、家族の了解も得た。それから分散して若手の技術者に声をかけ、小林常雄、斉藤今朝蔵、丸山らを納得させた。このようにして八路軍要請の人数が揃ったのである。

 このようにして第一次留用者13人(うち女性1人)、第二次留用者8人が決まり、2月24日、通化へ向けて八路軍とともに出発した。しかし、その時点で通化も国府軍の攻撃に晒されており、一行は間島省方面に行き先を変更。4月30日には間島省汪精県石峴に着く。ここには旧ニッケ系東洋バルブ工場があり、八路軍はその敷地に工場を建てて手榴弾製造を開始した。
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2018年04月19日

爆風(75)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2018年04月16日
爆風(75)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 次いで第二回富国債券が3枚15円。発行日は康徳9年12月1日。第三回分は康徳10年6月1日発行で42枚210円。第四回分(同10年12月1日発行)は2枚10円しかない。第一回から第四回までの分を足すと103枚515円になる。取得当時の500円は現在の250万円程度と推定される。

 この富国債券は第四回で発行を止めたのか、その後も継続したのかは分からない。第四回分の発行は1943年(昭和18年)の暮れだからもう満州国として国債を発行する力がなくなっていたのかも知れない。なお第一回分の償還期限は康徳13年12月1日である。その時点では満州国は存在しなかった。

 債券以外では郵便貯金関係で、定額預金証書と普通貯金通帳だ。まず定額預金だが、康徳11年(1944年)3月31日付の「郵政定額儲金證書」が3枚。額面は50円、100円、300円で計450円。この時期になると満州円の価値が下がるがやはり100万円は超えていたと思われる。

 貯金通帳(郵政儲金簿)は父の戸塚陽太郎と姉の和子名義の2通。父が28円、姉が20円の残高である。その他では満州生命保険株式会社の生命保険證券が2通。契約日は康徳8年1月30日と同9年3月30日。保険金額はそれぞれ1000円で、保険料は半年毎に26円である。最後に第15回有奨満州儲蓄債券というのが1枚ある。康徳11年12月発行で、額面10円。売出価格7円5角。「この債券は7円5角にて売出し償還の際10円を支払うものなり」という満州興業銀行総裁富田信の記載がある。

 祖国への引き揚げは現実のものとなり、日に日に準備が整いつつあった。しかし不幸にして引き揚げの喜びを味わえないまま異国に骨を埋めた人たちがいる。46年の5月のある日、遼陽市内の小学校で非業の死を遂げた15人を偲んで合同慰霊祭が執り行われた。15人の中には少年義勇軍の神田定中隊長、清水隊の清水博二隊長と佐藤利博少尉、中支戦線の生き残り板橋柳子少尉、国府軍に内通したとされる堀内義雄、それに沈着冷静よく5000人を指導とた浜本宗三が含まれる。

 しかし林部隊長の自爆命令を命をかけて拒否し後に自決した柳尚雄中尉、シベリア連行に抗議して自殺した工事班の岡田栄吉班長、そしてあの8.25の混乱の中で青酸カリを飲まされたり親の手で絞殺された幼い命、加えて十分な医療を施されることなく疫痢で死んだ妹の悦子、それらは慰霊祭には入れてもらえない。2人の僧侶と民会幹部、遺族ら100人を超える参列者の盛大な読経をどんな思いで聞いたことだろう。
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戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2018年04月15日
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■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 引き揚げに際し、年齢に関係なく1人1000円の現金を持ち帰れることになっているが、当時の1000円はどのくらいの価値があったのか。まずこの現金1000円であるが居留民が持っていたのは日本円ではない。満州中央銀行発行の満州円である。満州建国時、満州円は独立した貨幣価値を持っていた。それが1935年、日本政府の意向で日本円と等価にされる。傀儡国たる所以である。

 この満州円貨幣は日本では使えないので、コロ島の埠頭銀行で日本円に換えなければならない。当時日本はインフレが進行しており、貨幣価値はどんどん下がっていた。敗戦前後の貨幣価値をネットで調べてみた。1945年8月の敗戦直前、当時の100円は物価換算で現在の20万円に相当したが、46年になると4万円程度に下落する。それでも1000円は40万円になり、我が戸塚家は6人家族だったので240万円だ。結構な金額である。当然1人1000円を用意できない世帯も出てくる。そういう世帯には居留民会の町内組織が金を工面して渡したことが「関東軍火工廠史」に記載されている。

 次いで郵便貯金通帳や証券類だが、これは一切持って帰れない。あらかじめ当局に預けなければならない。当局とは遼陽日僑善後連絡処(主任・野木善保)である。わが家に民国35年(1945年)6月17日付の「通帳證券其他預り證」がある。多分父が大切にとっておいたのだろう。

 実は戦後35年たってわが家が預けた通帳・証券類が預り証通りそのまま返還されたのである。返還が遅れたのは父の帰還先が不明だったためで、姉の小川(旧姓戸塚)和子の遼陽高女の在籍名簿を辿ってやっと送り先が判明したという。差出人は横浜税関監視部管理室返還証券整理室。

 「当関では、終戦後外地から引き揚げられた方が、集結地で預けた証券類のうち、無事日本に送り届けられたものを整理し返還しておりますが、この中に戸塚陽太郎様名儀のものが、別紙の返還請求書≠ノ記入したとおり、126件保管しております」「返還手続はこの請求書と誓約書にご記入捺印のうえ、当室へ返送下されば到着次第、郵送致します」(昭和55年1月31日)。
 
 「戸塚陽太郎様。前略、昨日、あなたからの信書と返還請求書を拝見致しました。終戦後、旧満州から引き揚げられた際に、現地の日僑善後連絡処にお預けになられた証券類を34年ぶりで返還することが出来て同封しましたのでご査収下さい。あなたの家族の分は、すべて満州国関係の証券ですので、敗戦で経済的な価値は無くなってしまいましたが、満州在住時代の記念品としてお収め下さい」(2月14日)。

 わが家が預けた証券類とはどんなものだったのか。一番多いのは満州国経済部大臣発行の富国債券。第一回発行から第四回まであって、第一回の発行日は康徳9年8月1日付。康徳とは愛新覚羅溥儀が即位した1934年を元年とする満州国の元号である。康徳9年は1942年(昭和17年)となる。債券の額面は1枚5円で、第一回だけで56枚260円分もある。ちなみに42年当時の貨幣価値は100円が現在のほぼ50万円相当とみられるので大変な金額になる。
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2018年04月13日

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戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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2018年04月13日
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■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 居留民会関係者の中では、日本への引き揚げが現実味を帯びて語られ準備に熱が入ってきた。しかし東京陵朝日町の戸塚家や小林家のような一般家庭にはまだその熱が伝わってこない。1946年4月、本来なら新学期の始まりなのだが学校からの通知はない。国民学校2年の8月に敗戦になって以来、筆者はまともな教育を受けずにきた。その間学校再開の計画は立てられたようだが、その都度いろんな支障が出て取り止めになった。寺子屋式の小規模塾が行われていたようだが筆者の記憶にはない。

 2年生の担任はあの8・25騒動の時、遼陽からの電話を取り次いだ鈴木久子先生だった。その鈴木先生から突然手紙をもらったことがある。戦後30年した1975年のことである。「私は貴男の事よく覚えて居ります。日曜日と気がつかず、ランドセルを背負って登校した貴男、ちょうど私が日直で、教室に居て2人で大笑いしましたっけ・・・。頭を掻きかき又帰っていった貴男。一寸そそっかしいところがありましたね」(そそっかしいのは私の素質で80歳になっても治らない)。この日曜登校の話は敗戦前のことで、夏休みが終わった2学期からはそれこそ毎日が日曜日のようなものだった気がする。

 3月21日に出産した母は、三女悦子を疫痢で死なせた痛みからなかなか脱け出せない。父は怪我の後遺症で通常勤務ができない。わが家は小林家をはじめ町内の人たちの助けを借りてやっと春を迎えることができたのである。4月の末頃になると庶民の官舎にも引き揚げの情報が逐一伝えられるようになった。

 遼陽市日僑善後連絡処桜ヶ丘支部から各家庭に「帰国便覧」が配布された。「この度突然日管(満州日 僑俘管理処)の方から帰還命令の内命が下ってきましたが、かねて覚悟の皆様十分用意も整った事と思いますが、尚日数もあることですから慌てず、騒がず、沈着に事を処し民会の指示の儘に遺漏のない準備をなし、全員揃って立派な団結を保って帰国の途に就きたいと思います」

 そして帰国までの心構えを「終戦以来夢にまで見た祖国日本への帰還が実現する事になりました。もとよりこの帰国は中国当局を始め連合国の好意によるものでありまして、私ども日僑は良く自己の立場を認識し、祖国への長い旅路を恙なく一糸乱れぬ統制の下に終始しなければなりません。そして平和な日本国民として、民主日本再建の有力な一分子として、又中日合作の先駆者になる覚悟と努力が必要である事を良く胸に刻んで、祖国への旅に住みなれた遼陽、幾多の思い出を残した桜ヶ丘を出発しましょう」と説いた。

 「帰国便覧」はさらに持ち帰り金品についての注意事項を記す。
 @現金と証券=出発に際して年齢の区別なく1人1500円を携行する。このうち500円は出航地コロ島までの費用とし、残余金は難民救済資金として寄付する。日本へは1000円のみ。郵便貯金、戦時公債などの証券類は管理処で預かり、帰国後返還する予定。
 A服装=行動に便利なものを選び、婦人はなるべくモンペを穿き、華美な服装、厚化粧はしない。
 B携行品=背負ったり手に提げられる範囲とする。薬品、燐寸、油類、貴金属、カメラ、地図、ラジオ、カミソリ、ナイフ、多数で撮った記念写真、政治的書籍などは没収される。
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戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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2018年04月12日
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■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 つい最近の話だが、今年3月24日、31日の2回に分けてNHKがドラマ「どこにもない国」を放映した。原案:ポール・邦昭丸山、作:大森寿美男、主演:内野聖陽、木村佳乃。満州・鞍山市の昭和製鋼所社員だった丸山邦雄が、満州全域で建設会社・新甫組を営む新甫八朗、新甫組の社員武蔵正道と組んで150万在満邦人の日本引き揚げに奔走する内容だ。敗戦後の飢えと略奪に喘ぐ人々の姿が生々しい。

 当時外相の吉田茂やGHQ総司令官のマッカーサー元帥に直接会って、早期引き揚げを懇請する。ラジオを通じたり決起集会を開いたりして世論にも働きかけた。これが功を奏して1946年3月16日、GHQは「引き揚げに関する基本指令」を発し、日本政府に引き揚げ促進を指示した。そして46年4月、ついに引き揚げ第一船がコロ島から出航する日がきた。

 そんな話が進んでいるとは旧火工廠の人々は全く知らなかった。しかし八路軍が撤退し、国民政府が駐留するようになった頃から引き揚げの可能性について何となく空気が変わって来たのを感じてはいた。空気の変化は瀋陽(旧奉天)や遼陽からもたらされた。瀋陽に東北日僑俘管理処が設けられ、その下部組織の瀋陽日僑善後連絡処が満州全体の日本人遣送事務を統一して行うことになった。

 さらに遼陽では敗戦直後に発足した遼陽日本人居留民会が遣送事業向けに改組され、遼陽日僑善後連絡処となる。連絡処主任には遼陽居留民会会長として信望の厚かった野木善保氏が任命された。遼陽連絡処は業務の全てを遣送事務一本に絞り、国民政府当局との具体的な折衝を開始した。

 45年8月15日の日本敗戦時海外には、軍人、軍属353万人、一般人300万人の計653万人が居留していたといわれている。これは当時の日本人口の1割に相当する。これらの在外邦人は戦争の過程において進駐あるいは居住したのだから、居住地が日本領土でなくなったからには即時全員引き揚げさせなければならない。ところが日本政府は無責任としか言いようのない態度に出た。

 日本はポツダム宣言を受諾して連合軍に無条件降伏をした。そのポツダム宣言第5項の(5)には「日本国軍隊は、完全に武装を解除せられたる後各自の家庭に復帰し、平和的且つ生産的の生活を営むの機会を得しめらるべし」との明記がある。ところが在外一般人についての規定はない。それをいいことにして日本政府は外務省を通じ、8月14日付で在外公館あてに「居留民はできる限り現地に定着させるべし」との指示を発する(「三カ国宣言(ポツダム宣言)受諾に関する訓電」)。まったく無責任な指示であり、棄民宣言そのものである。

 日本政府のこのような姿勢が満州からの引き揚げを遅らせたことは間違いない。150万人むを超える在満一般邦人のうち、日本への引き揚げが叶わず異国で亡くなった人は23万5000人(うち満蒙開拓団8万人)、残留孤児・残留婦人2万人といわれる。その原因をつくった日本政府の責任は重い。
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2018年04月11日
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■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

5 引き揚げ=遣返
 「引き揚げ」は中国語では「遣返」である。元のところへ戻すという意味だ。日本人居留民は「日僑」と呼ばれた。他国に仮住まいする日本人というわけだ。

 山海関方面から進攻した国民政府軍が錦州を経て奉天に向かう。奉天で南北に分かれて南を目指す部隊が遼陽に到着したのが3月20日。その日のうちに旧火工廠にも進駐してきた。八路軍の廠長秘書だった松野徹は国府軍の進駐についてこんな感想を述べている。

 《3月18日、八路軍が姿を消したと思ったらたちまち国府軍がやってきた。何のことはない、同じ軍隊の第一師団が第二師団と交代したようなもの。長い間敵対してきた国民党と共産党が遼陽郊外で2、3発撃ちあっただけですんなり入れ替わった。我々には想像ができない交代劇だ》。

 松野が数日ぼんやり過ごしていると、遼陽駐屯国民党本部から名指しで出頭命令がきた。八路軍時代に酷い目に遭った松野は、今度は表に出ないで潜んでいようと思ったのだが隠れきれない。責任者の吹野信平ら数人の居留民会幹部の一員として旧満州国政府の建てた遼陽県公舎に出向いた。

 公舎には金ぴかの肩章をつけた将軍が待っていて笑顔で応対。吹野たち一行に対して「君たちの工廠は今後、我が軍の東北火薬廠として再開する。ぜひ君たちに協力してもらいたい」と懇請し、工場長だの技術課長だのと書いて印を捺した立派な紙を渡された。松野も火薬廠庶務課長の辞令を受けた。蒋介石に率いられた国民政府は、日本が進出した満州南部の工業地帯をそのまま残して建国の基礎にしようと考えた。そのためには日本人技術者に残留してもらわなければならない。それを「留用」と称した。

 金ぴか将軍の意図は、吹野や松野に留用者として残れということだ。松野たちは《どうせ日本は負けたんだ。内地はアメリカに占領されて彼らの言うなりになっていることだろう。満州、朝鮮、台湾、樺太より引き揚げさせられた日本人は、内地の四つの島に押し込められて中々生活も難しかろう。こうして留用されるのも後に再び中国に進出するための布石となるのではないか》と話し合った。

 そして《我々はその捨て石になろうではないか。国民党のために働こう》との決意に達した。留用者は吹野、松野らの幹部だけに限らず、技術者、医療関係者など数百人規模になる。それらの人たちのその後については別項で詳述することにする。ここでは筆者一家を含めた一般居留民の引き揚げに話を戻す。
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戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2018年04月10日
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■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 銃殺された浜本宗三はどんな人物だったのか。浜本は陸軍技術大尉で火工廠では製造科長の役にあった。1914年(大正3年)5月14日生まれで横浜の出身、享年31歳、家族は夫人と2人の男の子。「関東軍火工廠史」に寄せられた証言をもとに人物像に迫ってみた。

 西村秀夫の手記。「浜本さんは横浜の石屋の若旦那だった。若い衆と遊んだ話、喧嘩の話、麻雀が好き、バスケットの選手でもあった。バスケットボールを上から掴んで持ち上げることのできる巨漢。野球もやった。横浜高等工業学校では遊び過ぎて3月に卒業できず、追試で6月にやっと卒業。しかし陸軍に応召し、火工廠へ配属後は立派な技術者になった。視野の広い浜本さんは3年とたたぬうちに酸製造工程の権威と言われた。石屋の親分の血を引いただけに何事にも親分肌で形式的なことが嫌い、一見反軍人的でもあった。工場で働く軍属、徴用工、満人の工員にも分け隔てなく接した」。

 鈴木弓俊は敗戦の年の初冬、浜本に中国観を訊いたことがある。浜本は「国共内戦で当面国民政府が勝つかも知れぬが、将来の中国の主人は共産党になるに違いない。しかし我々は今中共に協力するわけにはいかない。現中国の当主は国民政府なのだ。自分は唯物史観の本を読み、共産主義の勉強もしたが、人間性を否定している点で同調できない」と述懐した。実際に浜本の書斎には唯物史観の書籍があった。

 あの8.25の混乱の時、身を呈してソ連軍司令部に乗り込みシベリア連行を取り止めさせた。結果5000人の命が救われる。一時浜本は多大な信頼を集めた。しかし八路軍の支配が長引くにつれ、浜本をファシストだという内部からの陰口が強まる。ファシストは民主主義の敵だという声がそれまでの仲間内からも聞かれるようになった。当然八路軍の標的になっていく。

 鈴木弓俊は浜本一家が住んでいた白百合寮の風呂に、浜本と2人の坊やと入ったことがある。鈴木は「(あなたを陥れようという連中は)誠意の通じない相手だ。今はいったん身を引いて彼らに任せたらどうか。どうせ手に負えなくなって投げ出すに決まっている。その時復帰すればいいのではないか。このままではあなたは殺されるかも知れない。奥さんや子どもさんのためにも身の安全が第一だ」と勧めた。

 これに対して浜本は「5000人のためを思えば手を引くわけには行かぬ。5000人が生き延びて祖国に帰るためなら、自分の命や家族のことは問題ではない」と言下に淡々と答えた。

 吹野信平を柱とする浜本宗三、川原鳳策、加藤治久、加々路仁、勝野六郎らの将校グループは、日本人居留民の安全、祖国引き揚げを目的としていたが、同時に戦後の中国がアジアの巨大民族として大きく発展することも望んでいた。吹野が唱えた大陸蟠きょ説は、中国に日本がやったことの過去を贖罪し、日本が新中国建設に役立ちたいという理想だった。浜本たちはその実現へ向けて熱い議論をたたかわせた。

 反面吹野たちの指導を心よからず思う人たちもいた。早く祖国引き揚げを実現するためには国府軍に頼るのが一番という考えを主張した。主張しただけでなく、国府軍に内通し、八路軍を掃討することが謀られた。吹野たちの指導部と国府内通派の集団とで対立が深まり、時には暴力沙汰になることもあった。

 この日本人内部の亀裂に乗じて国府軍側からの働きかけが強まる。八路軍はますます疑心暗鬼になり、反共策動の根を断ち切るべく弾圧を強めた。しかも国府軍の進攻が迫ってくる。そこで彼らのとった手段が強制連行と銃殺だった。――浜本の眉間は真正面から銃弾が貫通していた。
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