2018年04月05日

爆風(69)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765
労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2018年04月05日
爆風(69)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 吹野信平のもとで川原鳳策とともに旧火工廠のリーダー的役割を果たしていた浜本宗三が2月上旬、八路軍に拉致された。国民政府軍への内通容疑だった。

 浜本たちは日本居留民の安全、確実に祖国に帰還させることを期して会議を開いていた。佐野肇はある夜の会議に出席を求められた。部屋に入ると、吹野、川原、浜本ら十数人の幹部が顔を揃えていた。そのうちの1人から居留民内部の動向が報告され、内部崩壊を防ぐためそれぞれの持ち場で教育宣伝活動を行うことが確認された。また正確な情報の収集の必要性から新京、奉天、大連に2人組の調査団派遣も決まった。

 佐野は浅野中尉と組んで奉天に行き、国府軍幹部に会うという任務を与えられた。年明けから国共内戦が激化し、現在火工廠を支配している八路軍がそのまま支配を続けられるかどうか危ぶまれる。国府軍の支配に変わることも想定して伝手をつくっておいた方がいいのではないか。浜本たちはそのように考えた。国府軍との内密の接触は佐野たちと別のところでも試みられた。その際「お墨付き」と称される文書を国府軍側から渡されることがあり浜本はそれを書斎の本の間に挟んで保存していた。

 八路軍に拉致された浜本宗三の社宅が徹底的な家宅捜索に遭った。そして書斎から「お墨付き」が押収されたのである。万事警戒怠りない浜本にしては軽率だったが、八路軍は端から「お墨付き」の存在を知っていた気配がある。例の十数人の会議が秘密を保たれていたものかどうか。誰かが八路軍に密告したのではないか。疑えば疑えるが、事後になっては真相を究明する手立てはない。

 遼陽の八路軍施設に留置された浜本だが、取り調べはほとんど行われなかった。八路軍の反共分子に対する扱いは、取り調べもせず長期間留置場に放置し、本人が精神的に困憊するのを待つ。もしそれでも改心が認められなければ罪状を並べて処刑する。清水隊の佐藤少尉や少年義勇軍の神田中隊長はそうやって処刑された。浜本宗三も3月18日、太子河の川原で銃殺され死体は遺棄された。

 浜本の遺体のそばに唐紙大の立札があり、そこに「浜本大尉は強力な火薬を製造し多数同胞を殺傷した」と罪状が書かれていた。浜本は技術将校であり火工廠の指導者の1人だった。太子河の川原には浜本のほかに遺体が2体あり、1人は板橋柳子少尉、もう1人は堀内義雄青年だった。

 板橋少尉は吹野信平や川原鳳策とともに拘禁され、吹野たちが釈放された後も留置されたままだった。東京陵の官舎で隣り合わせの米田穣賢は《板橋さんは中支戦線で負傷、一度帰還したが再召集で我々の918部隊に配属。碁が好きでそれも徹底的な喧嘩碁。顔に大きな傷跡があった。それが八路軍に嫌われたか、中支戦線の勇士に対する報復だったのか。誠にお気の毒なことだった》と述懐している。板橋少尉の罪状は「火工廠において同胞労働者を虐待した」というものだが、具体的には何ら指摘がない。

 堀内青年も吹野、川原らとともに遼陽の収容所に入れられたが、「国民党に内通した」と罪を認めて翌日釈放された。その足で新妻のいる東京陵に戻ったが、日系八路の密告で再び逮捕。今度は釈放されずに留置が続き、ついに銃殺された。堀内青年が国民党員であったことは間違いないということだ。
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爆風(68)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2018年04月02日
爆風(68)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 軍医の勝野六郎は3月5日、銃剣で武装した八路軍兵士に連行され、暗い部屋に監禁された。取り調べはほとんどない。3日後、連行についての何の言い訳もなくそのまま釈放される。ところが10日ほどしたら今度は便衣隊風の男に呼びだされた。夜遅いのに目隠しをされる。30分も歩いて線路のところに着いたら暗闇の中で銃声が一発。後で時間的に合わせて考えると清水隊の佐藤少尉の銃殺時間に一致する。八路軍兵士は「嘘を言うとお前もああなるのだよ」と日本語で勝野を脅した。

 目隠しは取られたが針金で後ろ手に縛られた。夜半なのに工事場の周辺で日本人が穴を掘っていた。何故穴を掘るのか質問したが誰も答えない。八路軍兵士は「余計な口は聞くな」と凄んで、病院近くの空いている官舎に引っ張り込んだ。そこには松岡道夫中尉がいたが話はできない。やがて2人とも宙吊りにされた。松岡は背が高いので爪先が床についたが勝野は宙に浮いた。

 縛られた手が麻痺し意識も霞んできた。何やら叫んだつもりだが声になったかどうか分からない。突然ガタンと床に落とされた。しばらくして意識が戻ってくる。小便を垂れ流したらしくズボンの前が冷たかった。意識をなくしている間に歩哨が変わったらしい。よく見ると以前傷の手当てをしてやった兵士だ。向こうも気がついて「酷いことをしたようですが、お気の毒でした」と一応謝ったが、「しかし何か知っていることがあったら早く言ってしまった方がいいですよ」と懐柔にかかる。

 訊問の内容はかなり多岐に亘っていた。@銀塊の隠匿、A病院の井戸から発見された機関銃のこと、B敗戦時の青酸カリの配布、C薬品隠匿の嫌疑、Dソ連兵と親密にしていたことへの反感、E八路軍への協力欠如、等である。勝野は「私は何も知らないから言うことはないよ」と答えてその後は黙った。

 縛りは解かれなかったが宙吊りはなくなった。松岡と2人並んで話もできる。手の痛みを堪えながらお互いに励まし合った。しばらくして何も言わずに釈放されたが、病院の薬棚からブドウ糖、リンゲル、サルバルサンなど貴重な薬品が持ち去られていた。国府軍の進攻に抵抗できず火工廠から撤退していったのである。

 八路軍は撤退したが、顔見知りの兵士がこっそり戻ってきて勝野に「往診鞄と持てるだけの薬品を持って我々に同行するように」と命じた。断りたかったが強制的に馬車に乗せられた。遼陽の街中で食糧を調達した後、太子河を渡って名も知れぬ部落の民家に落ち着いた。国府軍との戦闘の跡が柱や壁に生々しい。勝野はそこで八路軍兵士の銃創の手当てをさせられる。待遇はよかったし、態度も優しかった。

 ある日八路軍幹部が5歳の娘を連れてきて「肺炎だが手当をしてほしい」と頭を下げた。この幹部兵士は以前勝野に広島と長崎に落とされた原子爆弾の話をしてくれたことがある。勝野は1晩徹夜して、トリアン注射や糖液の点滴の治療をした。娘の高熱は収まる。それをきっかけに勝野は釈放され、単身東京陵に帰りついた。
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2018年03月30日

爆風(67)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2018年03月30日
爆風(67)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 敗戦時火工廠には918部隊のほかに清水中尉を隊長とする300人の中隊が駐屯していた。隊員中10人が在満現地召集。その1人朝枝周爾の手記。

 《8月25日、あの忌まわしい夜。隊員の1人が東京陵病院に入院していました。清水隊長から「本隊は火工廠の集団自決となればそれに加わらずに出発し、ソ連軍の指示に従って集合場所の海城へ向かう。入院中の隊員は重態であり、行動を共にできないので、出発の合図があったら銃殺して本隊に合流せよ」と命令されました。まったく参りましたが、浜本大尉らの働きで自爆が回避されほっとしました》。

 清水隊の幹部は清水中尉以下、隊付少尉の佐藤利博、曹長1人、班長を任務とする伍長が4人、兵長が2人であった。佐藤少尉は大正時代の志願兵で、軍隊の経験のないまま除隊、その後は東京王子の兵器廠に勤務していた。45年2月に49歳で召集され渡満、火工廠駐屯の清水隊に配属される。剣道の達人で、軍隊の規律には無頓着な好々爺として兵たちに親しまれていた。

 46年3月初め、佐藤少尉は武器隠匿の嫌疑で八路軍に連行され過酷な訊問(拷問)を受ける。最後には精神に異常をきたすようになったらしい。

 3月14日ないし15日の正午過ぎ、唐戸屯梅園町山本区の石原二三区長は八路軍兵士の呼び出しを受けて山本区の西広場に向かった。広場には1本の柱が立っていて清水隊の佐藤少尉が後ろ手に縛られている。10人ほどの兵士に将校がなにやら号令。兵士たちは銃を構え、30mくらい離れた位置から発砲した。遺体はその場で引き渡され、太子川の河原で荼毘に付された。石原区長は遺骨を引き取り、加藤治久、辻薦らと通夜を営んだ。何故か2人の日系八路も加わった。

 銃器隠匿の容疑で恐怖の取り調べを受けた木山敏隆の手記。《鉄と称する八路軍政治部員の尋問は峻烈を極めた。彼らは通化事件の再発を恐れていたものと思われる。長時間の取り調べの最後で「お前は銃殺だ」と宣告された。執行官らしい兵士がモーゼル銃で背を小突く。雪の降る深夜約30分、戸外を引きまわされた。無実で殺されるのかと思うと無念さでいっぱい。家族のこと郷里のこと等頭を去来する。

 今撃たれるか、もう撃つのか、緊迫した心理は説明不可能だ。恐怖の行進はぐるっと回って拘禁されていた建物に戻る。そして再び拘禁。芝居だったのか。しばらくして再び呼び出される。取調室に入ると、何とそこに浅野中尉、江島朝乃さんがいる。政治部員の鉄が入ってきて「無罪釈放だ」と嫌みたっぷりに言う。午前5時頃箱根峠を越えて東京陵へ。東京陵の官舎街にも雪が積もっていたが、自宅の玄関前はきれいに雪かきしてある。八路軍兵士の出迎え。また拘引かと身構えたが、彼らは各家庭に分宿していた兵士だった。妻も子どもも無事。分宿兵士の軍規は厳正に守られていたそうだ》。
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爆風(66)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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2018年03月27日
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■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 (松野徹のぼやきに対する筆者の感想は歴史的に見ても多分正しいと思う。しかしそう言い切るだけで済ませられるのだろうか。天皇制専制国家によって「王道楽土」「大東亜共栄圏」の思想を幼い頃から頭に叩き込まれ、侵略の片棒を担がされた松野さん、思い通りにいかなくて囚われの身となり命がけでぼやいている松野さん、彼も一種の戦争被害者なのではないだろうか)。

 眠れぬ夜を過ごした松野徹は混濁した頭で3月18日の朝を迎えた。午前8時、西の監房から名前が呼ばれて収容者が一か所に集められている。中国人の名前に混じって川原鳳策、吹野信平、松野徹の名が呼ばれた。他に火工廠関係の何人かも。集合場所に例の青白き一等書記が現れて「お前たちは無罪である。本日釈放する」と宣した。松野は《何が無罪だ。偉そうにしやがって》と文句の一つも言いたかったが、ここは黙って出て行くことにこしたことはない。川原、吹野らと連れだって早々に合作社を後にした。

 兵器隠匿の探査は執拗に続けられた。東京陵第一工場の福田正雄は2月13日、風邪で床についていたところを八路軍によって唐戸屯の司令部に連行される。取り調べは武器隠匿に絞られた。全く預かり知らぬことなので「知らぬ存ぜぬ」て通す。尋問はそれほど厳しくなく、3日間で解放された。

 釈放の翌日、ほっとして家にいると数人の八路軍兵士が土足のまま乱入、銃口に取り囲まれた。今度は遼陽の八路軍本隊まで連れて行かれ、幹部によって手を変え品を変え繰り返し尋問を受けた。何遍訊かれても兵器隠匿なんかしていない。同じ答えの反復に八路軍も手を焼いて雑談に移った。

 3月17日のこと、八路軍の様子がどうもおかしい。朝から右往左往している。どうやら国府軍の進入が切羽詰まってきたらしい。「お前も連れて行く」と言っていたが結局彼らだけで退去していった。残された福田は長靴を穿いてとぼとぼと東京陵まで歩いて帰った。やっと家に帰りつき妻の言うには「福田は銃殺された」との布告が隣組から流され、朝からお悔やみの客が絶えないそうだ。

 敗戦時庶務科文書掛長だった印東和は、当時の林光道部隊長から弾薬庫の鍵に封印するよう命じられた。印東は15センチ角の封印紙をつくり、印東の丸判を捺して鍵穴を塞いだ。その封印が何者かによって破られ、小銃と弾丸が盗まれる事件が起こった。犯人は分からなかったが、この武器盗難を八路軍が知るところとなる。彼らは通化事件の経験から「旧日本軍の反乱」を疑い、厳しい取り調べを始めた。

 3月に入ると火工廠の責任者だった吹野少佐、浜本大尉が拘引され遼陽の八路軍本隊に連れていかれた。次に武器、弾薬保管の直接の担当者だった山田中尉、須藤中尉も逮捕され拷問に匹敵する追及を受けた。3月13日にはついに印東に出頭命令が出る。封印の丸判が何よりの証拠とされた。

 印東は「封印したのは確かに私だが、中に何が入っているかは知らない。第一自分でした封印を自分で破ってそれをそのまま残しておくわけがないではないか」と主張したが理解されない。遂に「白状しなければ明日銃殺するぞ」と脅される始末。印東はたった1枚の封印の祟りに震えあがった。
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爆風(65)

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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2018年03月26日
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■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 夜になって20代後半とおぼしき青白い青年が現れた。彼は自らを遼陽駐屯八路軍司令部第一書記と名乗った。「貴殿は松野さんか」と優しい言葉つきだ。「はい松野です」と答えると「貴殿は共産党をどう思うか」といきなり難しい質問をしてくる。松野はどう答えるか迷った。ここはやはり穏やかに出た方がよかろうと思い、「これまで共産党は悪いと教育され、そう思っていました。敗戦後中国共産党の皆さんに接し、いろいろ見聞したので考えが変わりました」と述べた。

 「どう変わったのか」「まだはっきりしません。これから勉強します」「ほう、それでは君は我々の同志だ」と青年は握手を求めた。「そこで君に頼みがある」。《さあ、来たぞ》と松野は身構えた。「火工廠には沢山の武器が隠匿していると聞く。私にその場所を教えてほしい」。松野はまたその話かとうんざりする。何度説明すれば気が済むのだ。武器なんか本当にないのだ。

 しかし松野は一方で《これは真実を分かってもらえるチャンスかも知れない》とも思った。これまでの下っ端役職でなく、今度の第一書記はしかるべき地位の人物らしい。ここは丁寧に説明した方がいいだろう。「我々は戦闘員でなく、単なる火薬製造工場の従業員なのです。火工廠には製品としての爆薬は数十トンありましたが、武器と称するものは工場警備用の小銃140挺だけで、それもすべて貴軍に提出しました」。

 「そんなことはない。われわれはちゃんと調べたのだ。正直に言え」と第一書記の青年はがらりと態度を変えて居丈高になった。「嘘をつくな」「ないものはない」と言い合いになる。第一書記は隣室から体格のいい兵士を呼び「この男を鞭で叩け」と命じた。松野が兵士を見ると向こうもおやっという顔。敗戦前工場で働いていた工員である。兵士はたじろいだ様子。そこで松野が「私たちももう一度武器が隠されていないか調べる。貴方の方でも調べてほしい。もし本当に武器が隠されていたら私を銃殺にしてもよろしい」と頭を下げると、「この男を監房に入れろ」と兵士に命じてさっさと部屋を出て行ってしまった。

 興農合作社の一室での監禁生活が始まった。国府中央軍の捕虜と数人の日本人が同室だった。松野はこんな扱いを受けるのがどうしても納得いかなかった。《武器は本当にないのだ。おれはなにも悪いことはしていない。中国人を殴ったり、私腹を肥やしたりしたこともない。火工廠建設に当たり用地の接収をしたが、立ち退きを余儀なくされた農民の生活を案じ、彼らの要望を取り入れてできるだけの対策を講じた。工場敷地内の居住者の子弟に、寺子屋式ではあるが小学校を建て、先生を1人雇って教育を施した。これに感謝して県知事が礼を言いに来たくらいだ。火工廠敷地内ではあるが当面使用しない土地は、農民に耕作を許した。小屋も建てさせた。収穫物はきちんとした値段で買い取った。だから彼らにとっては嬉しくない火工廠の進出だったかもしれないが、おれ個人としては礼の一つも言ってほしい気持ちだ》。

 この松野のぼやきは火工廠幹部に共通していたと思われる。筆者に言わせればこれこそが「侵略者・支配者の論理」そのもので、21世紀の日本・沖縄でもそのまま通用しているのだ。 
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爆風(64)

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2018年03月25日
爆風(64)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 八路軍に収容されていた川原鳳策は日本風旅館から「興農合作社」と看板が掲げられた別の建物に移動させられた。吹野信平と国民党スパイと称する孫某も一緒だ。清水隊の板橋柳子、インテリの竹村一郎はどこへ移されたのか不明である。ここでは収容者は名前でなく番号で呼ばれ、川原は63番だった。

 興農合作社での川原への尋問は思想的な内容に変わった。まず「お前は9.18当時何をしていたのか」と訊かれる。9.18とは1931年9月18日、関東軍が奉天郊外柳条湖付近で満鉄線路を爆破、それを中国軍の仕業だとして満州全域で中国軍攻撃を始めたことを示す。八路軍としてはこの日が中国侵略の起点だと考えられている。川原が親がかりの学生であったと答えたらそれ以上の追及はなかった。

 次に天皇制への姿勢を問われた。「お前たちは何故天皇陛下万歳を唱えて死ねるのか。天皇制がお前たちに何をしてくれるのか」。これには陛下の臣である帝国軍人として川原は精一杯の反論を試みた。すると訊問者は「天皇の名で日本軍は我々同胞の血を啜り肉を喰った」と川原がぞっとするような目で睨んだ。

 いつ果てるとも知れぬ虜囚の日々だったが、3月に入るとだいぶ空気が変化してきた。同部屋の孫某に言わせると「国府中央軍が新京と奉天を取りかえした。もうすぐ遼陽にやってくる」とのこと。そう言えば遠くに聞こえた砲声がだんだん近くなってきた気がする。そして3月中頃のある日、川原は突然「お前は無罪だ」と釈放された。同じ収容所にいた吹野信平、中国人の孫某も一緒だ。途中から収容されていた蘇文廠長の秘書の松野徹も含まれていた。日本人の釈放組は残雪の道を一路東京陵へと急いだ。

 川原や吹野とともに釈放された松野徹の、拘束から釈放までの1カ月は思わぬ展開の連続だった。2月19日昼頃、八路軍政治部長から「今から宿舎の点検をするので同行してほしい」と言われついていった。まず会計の福田少佐の家。出てきた奥さんに断りもせずに土足で上がり込み、押入れから戸棚まで中身をひっくり返して点検する。次に隣の山口少佐の家でも同じような捜査。そしてまた隣家と点検は続く。

 「今日はこれで終わり」と政治部長がさすがに疲れた声で宣言したのは、もう冬の陽が沈む時間だった。松野はその足で唐戸屯の民会役場に寄りそこにいた数人とお茶を飲んだ。「宿舎の点検に立ち会ったけど、嫌な役目だね。不愉快でしたよ」松野はそんな愚痴をこぼした。そこへ自動車が止まる音。「一体なんだろう」。外へ出てみると消防自動車に乗っていた10人ほどの八路軍兵士が松野を取り囲んだ。

 「お前松野だろう。用事があるからこの車に乗れ」と両脇を抱えられて消防車に乗せられた。車はゆっくり走りだした。憮然としていると「心配することないですよ」とはっきりした日本語。振り向くと八路軍の兵服の日本人青年がニタリと笑った。車は遼陽市内に入り、興農合作社と看板を掲げた建物の前に止まる。建物の中に誘導され事務所のような部屋で数時間待機させられた。
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2018年03月25日

爆風(63)

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2018年03月24日
爆風(63)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 川原鳳策が遼陽の収容所で八路軍による取り調べを受けていた2月下旬、東京陵朝日町の戸塚家を痛切な出来事が連続して襲った。まず父陽太郎の大怪我である。父はその頃汽缶工場で働いていた。汽缶工場が火工廠の中にあったのか、それとも独立した工場だったのか分からない。どちらにしても真冬の満州を生き延びるためには、スチーム用の蒸気づくりは5000人の居留民にとって命綱だったはずだ。

 その日父はボイラーに石炭を投げ込む作業をしていたのだと思うが、詳しいことは分からない。生前の父に聞いておけばよかったのだろうが、多分父は話したがらなかったと思う。思い出したくない記憶なのだろう。はっきりしているのは、巨大な鉄のタンクが転げて父を壁との間に挟んだということ。それだけは筆者が子どもの頃(多分母からだと思うが)聞いて記憶に残っている。

 すぐさま同僚が駆けよって助け出し、東京陵病院へ担ぎ込んだ。外科医はソ連軍に連れていかれていていない。町の接骨師が呼ばれたらしい。仲間が母に連絡したが、母は妊娠9カ月で動きが取れない。12歳の姉和子が病室で父に付き添った。父は事故の一瞬柱の隙間にはまりこんだらしく、奇跡的に打撲傷だけで済んだ。

 父の入院中のある日、三寒四温の温にあたる穏やかな午後だった。満人部落から駄菓子売りが日本人街へやってきて、極彩色の飴や餅菓子を玄関先で広げた。妹の悦子(4歳)が飴を欲しがった。母はなけなしの小銭を取り出して飴を買った。私や栄子(5歳)の分まではない。悦子は喜色満面で飴をしゃぶった。

 その夜だった。悦子が突然激烈な下痢に襲われ、全身痙攣を始めた。顔が真っ赤で高熱にうなされているようだ。母が私に言いつけて小林さんの家へ行き助けを頼んだ。小林さんの奥さんと延子さんが駆け付けてきて病院に連絡。消防車で病院へ運ばれた。父の隣のベッドに寝かされた悦子はもう昏睡状態だった。医師も看護婦も手の施しようがない。看護婦の説明では疫痢らしいということだった。

 私たちはベッドの周りで見守るしかなかった。悦子が昏睡から醒めて薄眼を開けた。唇を動かす。かすかな歌声が漏れた。「むかしむかしうらしまは たすけたかめにつれられて りゅうぐうじょうにきてみれば・・・」。そこで歌は止みそのまま呼吸が止まった。2日後、悦子の遺骸は吉野山の麓で荼毘に付された。

 小林さんの奥さんや近所の主婦たちは「悦ちゃんがお父さんの身代わりになったんだよ」と母を宥めたが、母は飴を買って与えたことを後悔していつまでも気落ちしていた。見かねて、父母が仲人をした小平さんの若奥さんがわが家に来て家事を手伝ってくれた。父は1週間ほどで退院したように記憶している。それから半月ほどした3月21日、母は末の妹順子を自宅の部屋で産んだ。元気な産声を聞いて近所の人たちは「悦ちゃんの生まれ変わりだ」と母を励ました。母もやっと元気を取り戻した。
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爆風(62)

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2018年03月21日
爆風(62)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 川原は孫某という自称国府中央軍スパイと懇意になていろんな話をするようになった。ある時川原が「どうもこう拘束された毎日では息苦しくてやりきれない」と嘆くと、孫は「食べ物は食わせてくれるし、働く必要もなく、殴られることもない。結構な暮らしではないか。私が新京で日本の官憲に捉えられたときはこんなじゃなかった。手足の爪の下に蓄音器の針を打ち込まれたり、指の付け根に鉛筆を挟んでゴリゴリ揉まれた。苦痛で後ろの壁に寄り掛かると、仰向けにされ鼻孔から水を注がれた。あの時の折檻責め苦に比べれば天国だ」と語った。川原は中国に対する日本の仕打ちについて今更ながら考え込んだ。

 川原への八路軍による尋問は主に次の3点だった。@銀塊をどこに隠したのか、A白金等をどうした、B銃などの武器を隠しているだろう。3点とも川原にとって全く関知しない事柄だ。平然と顔色も変えず「知らないものは知らない」と言い続けた。

 ある夜の取り調べで「お前は40人の斬り込み隊を組織して我が軍本部を襲撃する計画だったろう」と新たな嫌疑をかけてきた。何のことだか分からないのでよくよく聞いてみると、昨年9月に居留民会から頼まれて40人の開拓義勇軍の少年兵を預かったことを、斬り込み隊の組織と言いがかりをつけたものであることが分かった。丁寧に説明したところ、その件は納得してくれてその後は持ち出さなくなった。

 ここで川原が訊問された「銀塊」と「白金」について経過を明らかにしておきたい。
 火工廠第四工場にはフォルマリン製造の触媒用に使用する銀塊があった。火工廠がソ連の支配下にあった時代、加藤治久、和泉正一ら部隊幹部はソ連軍の略奪から守るためどこかへ隠すことを考えた。銀塊は国民政府にさし出すのが正しいと思ったのである。1本30キロの銀塊が9本。相当な量である。はじめ水槽に隠すことを検討したが入りきれないため、防空頭巾で覆って工場内の煙突に投げ込んだ。

 この作業は少数で行ったのだがそのうちの誰かが、45年暮れから新年にかけて9本中2本を盗み出し、満人部落で金に換えて飲み食いに使ってしまった。このことが日系八路の探索で露見し保安隊に報告された。八路軍は残存銀塊を収容するとともに、もっとあるはずだと執拗な追及を始めた。川原鳳策の検束・監禁もその一環で、他に加藤治久、和泉正一、小田政衛、菅野成次、木山敏隆らが呼び出しを受け厳しく詮索された。この件は盗み出した犯人が八路軍に自白して決着したが、仲間内に疑心暗鬼と不団結を産み出す要因になった。

 八路軍は東京陵病院内に、歯の治療に使う白金が保管してあるはずだと疑いを持っていた。それで川原鳳策にそのありかを聞いたと思われる。その頃歯科医の松永薫も同じ嫌疑で訊問を受けたが「陸軍病院では白金は扱っていない」とはっきり否定、八路軍もその後の詮索は諦めた。
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爆風(61)

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2018年03月19日
爆風(61)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 この通化事件だが、筆者は基本的には国共内戦の範疇に属すると見ている。日本敗戦で通化を支配した国民政府が民主連軍(八路軍)に追い出される。その奪還を狙って、旧関東軍勢力を抱き込んで引き起こしたクーデターだ。巻き添えを食って犠牲になった日本人居留民こそいい迷惑だと言える。ちなみに事件の年の末、国民政府軍は通化を奪還し、通化事件の慰霊祭を行っている。

 さて話を通化事件直後の我が火工廠に戻す。
 8・25事件の際浜本宗三らとソ連軍司令官に直訴し、自爆を阻止する働きをした川原鳳策はその後火工廠の研究室で手持無沙汰の毎日を送っていた。2月6日のことだ。ぶらりと諏訪中尉宅を訪問し、雑談しているところへ、蘇文廠長付の長身の男が入ってきて同行を求められた。とっさに逃げようとしたが腕を掴まれ戸外に連れだされる。そこに八路軍のトラックがいて数人の兵士に取り囲まれた。

 無理矢理荷台に引きずり上げられ周りを見ると、驚いたことに居留民会責任者の吹野信平少佐が座っていた。綿服の両袖に中国式に手を差し入れ、黙然と川原を見る。車は走り出した。太子河の橋を渡り、遼陽市内に入る。日本旅館らしき建物の玄関で降ろされ、突きあたりの部屋に入れられた。部屋の中には中国人とおぼしき10人ほどがごろ寝している。吹野、川原の2人はそれら中国人の間に隙間を作ってもらってその夜は寝た。もちろん寝付かれるものではない。

 後で分かったことだが同室の中国人は国民政府軍の捕虜だった。1人は自称中央軍中佐で相当な幹部。その男だけ陸上競技用の砲丸のような鉄球を鎖で足首に繋がれている。用便に行く時は鉄球を抱いて歩いていた。彼らは小銭を隠し持っていて、見張りの八路軍兵士に頼んで菓子や煙草を買ってこさせる。日本人的感覚では理解しがたい光景だ。ある時は中国人の女性が同室させれられたがさすがに翌日は別室へ回された。

 八路軍の兵士は朝夕点呼が行われ、士気高揚のためか必ず歌を唄った。一曲は「共産党(こんさんたん)、他的日本」という歌で「日本軍をやっつけてしまえ」という意味らしい。もう一曲は雪融けの泉が滔々と流れる様をうたった「崑崙山云々」と言い、なかなか心にしみる旋律だ。

 何日かして清水隊の板橋柳子少尉と竹村一郎が捕えられて同室に入れられた。竹村は英語の教師をしていた知識と素養のある青年だ。川原とは西洋の詩歌集の話題などで話がが弾んだ。さらに数日後、堀内某という青年が部屋に放り込まれた。堀内青年は身辺に不安を感じて東京陵から脱出しようとして太子河の橋の半ばで八路軍に捕まった。彼は八路軍の取り調べで「我々共産党は前非を悔い正直に白状した者はその罪を問わない方針だ」と説得され、国民党に誼(よしみ)を通じていた旨申し立てたところ「よく話した。もう帰ってよろしい」と言われたという。その言葉通り堀内青年は翌日釈放されて部屋を出て行った。

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戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2018年03月18日
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■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 八路軍と朝鮮義勇軍(以後合同軍と呼ぶ)は反共蜂起の情報を掴んだ時点で、首謀者を一網打尽にしようと思えばできたはずだ。しかし合同軍は事前には動かず、重火器を装備して襲撃個所を厳重に固めた。このようにして2月3日が明けた。蜂起軍が変電所を占拠し、電源を3度点滅させて蜂起の合図をした。

 佐藤少尉率いる第一中隊150人は専員公署を襲撃したが、待ち構えた合同軍の機関銃や手榴弾によってなぎ倒された。合同軍の攻撃の合間を縫って、佐藤少尉以下10人が、建物に監禁されている日本人を解放しようと乱入したが全員射殺された。監禁されていた日本人にも一斉射撃が加えられた。

 阿部大尉率いる第二中隊100人は、八路軍司令部のある竜泉ホテルを襲撃する手筈だった。しかし建物に近づく前に合同軍の攻撃で壊滅してしまった。元通化公署を襲撃した寺田少尉率いる第三中隊は、内部から400人が呼応して合流するはずが応答なく、当てが外れて合同軍の銃撃に晒された。斬り込み隊を繰り出したが、圧倒的な銃撃の前に引き上げざるを得なかった。

 中山菊松率いる遊撃隊は、公安局に監禁されている婉容皇后はじめ満州国皇族の救出に向かった。部隊は一時公安局を占拠、皇室が捕われている部屋に入ることができた。中山は皇后に「お助けにまいりました」と告げ同行しようとしたが、すぐさま公安局は合同軍に包囲された。機関銃や大砲の攻撃に遭い、遊撃隊員は次々に倒れる。皇族の命も危なくなったので中山は生き残りの隊員と公安局を脱出した。

 この中山菊松には後日談がある。戦後数年で帰国した中山は日本で通化遺族会を設立、犠牲者の追悼と遺族への援護を求めて運動を展開した。1954年には大野伴睦の紹介で川崎秀二厚生大臣に「遺族援護法を通化事件遺族にも適用すること」を嘆願し認められた。

 合同軍は蜂起の翌日から事件との関係の有無を問わず日本人への懲罰を始めた。男たちは首を針金でつなぎあわされて連行。満州の2月の寒さのなかを寝巻1枚、雪駄ばきで歩かされ落後するとその場で射殺された。狭い収容所に折り重なるようにして押し込められ、酸欠で口をパクパクさせる人も。特に朝鮮義勇軍兵士の言動が苛烈だった。「お前たちは銃殺だ。どうせぱっと散る桜じゃないか。36年の恨みを思い知らせてやる」。このようにして殺された日本人は蜂起に参加しなかった人も含めて2000人以上と言われている。

 蜂起前日2月2日に逮捕された孫耕暁通化国民党支部書記長と2月5日に拘禁された藤田実彦大佐にはさらに過酷な仕打ちが待っていた。蜂起失敗からひと月後の3月10日、通化市内の百貨店で「2・3事件展示会」か八路軍主催で開かれたが、その展示品の一つとして孫と藤田が3日間晒し者にされたのである。監禁で痩せ細った藤田は「許してください。私の不始末によって申し訳ないことをしてしまいました」とひたすら謝った。藤田は3月15日に肺炎で死んだ
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戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2018年03月16日
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■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 旧関東軍と国民政府軍による反共蜂起のデマを、まことしやかに肉付けしたのが「髭の参謀」として在満邦人に愛されていた藤田実彦大佐の名前である。《あの人ならきっと八路軍を追い出してくれる》という願望が居留民を沸き立たせた。その頃当の藤田は家族とともに吉林省白山市に身を隠していた。11月中旬、八路軍の政治委員が藤田のもとを訪れ、デマに踊らされて蜂起を計画している元日本軍を説得してほしいと依頼した。藤田はそれを承諾し、政治委員とともに通化に向かった。

 八路軍は11月初め、通化在留日本人の思想教育を目的として日本人を幹部とした「遼東日本人民解放連盟通化支部」(日解連)を設立した。日解連は八路軍の命令下達や日本軍国主義を否定する思想教育などを行った。その日解連が12月23日、「中国共産党万歳。日本天皇制打倒。民族解放戦線統一」をスローガンとした居留民大会を開催。会場は通化劇場で居留民3000人が出席した。

 大会議長には元満州国官吏の井出俊太郎が務め「思うことを話し、日本人同士のわだかまりを解いてもらいたい」と自由な発言を促した。まず日解連幹部が「我々が生きていられるのは中国共産党のおかげである」と発言。これに対して居留民からは日解連を非難する発言が続き、中には明治天皇の御製を読み上げ「日本は元来民主主義である」との意見も。会場は異様な雰囲気に包まれた。

 近隣地区から避難してきた山口嘉一郎老人は「野坂参三の天皇批判は万死に値する」と痛撃して満場の拍手を浴びた。山口老人は「宮城遥拝し、天皇陛下万歳三唱をさせていただきたい」と提案し、議長の許しを得て万歳三唱を行った。この後、拍手の中を藤田実彦大佐が立って発言したが、中国共産党への謝意と協力を述べるにとどまった。それでも藤田は八路軍に連行され監禁される。過激発言をした山口老人はじめ多くの居留民が逮捕され、処刑された。

 通化には元朝鮮人日本兵や現地の朝鮮人で構成された朝鮮人民義勇軍がいて、八路軍とともに関東軍残党の一掃を行っていた。これら朝鮮八路と呼ばれる義勇軍は「(日本併合から)36年の恨み」を口に行動し、日本人への報復は熾烈を極めた。居留民大会後、八路軍と義勇軍は日解連幹部や元満州国官吏への誅求を強めたが、一方、通化奪還を狙う国民党員に煽られ、元関東軍将校らの反共蜂起の陰謀も進んでいた。デマが現実のものとして動き出したのである。

 2月2日、航空隊の林少佐は蜂起の情報を掴み、延安から政治委員として派遣されていた前田光繁に伝えた。前田は早くから野坂参三の思想に共鳴して八路軍で活躍し、野坂の二の腕と言われていた。前田はこの情報を中国人政治委員の黄乃一を通じて八路軍総隊長の朱瑞に報告。2日夕刻には八路軍と朝鮮人民義勇軍が共同して緊急配備についた。

 通化市内は午後8時に外出禁止のサイレンが鳴ることになっていたが、この日は鳴らなかった。時計を持たない人が8時になったことを知らずに外出して次々に拘束された。その頃、蜂起についての打合せをしていた孫耕暁通化国民党書記長ら国民政府関係者数十人が朝鮮人民義勇軍によって拘束された。
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2018年03月15日

爆風(58)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2018年03月14日
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■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 八路軍に編入された元日本兵について火工廠の人たちはどのような目で見ていたのか。唐戸屯工場の辻薦は次のように証言している。

 辻薦の証言。《八路軍が火工廠を接収してから間もなく、年の瀬に入ってから、唐戸屯の山本町の一角に八路軍の軍服を着た日本人らしい一隊が宿泊するようになった。私たちはそれを日系八路≠ニ呼んだ。この一隊は、表立っての行動は何もしない不気味な存在だった。この日系八路の大半は捕虜になった後洗脳された航空少年隊上がりだと分かった。他は満州各地の刑務所に入っていて、ソ連軍や八路軍に開放された人たちだといわれる。政治犯だけでなく一般刑事犯も含まれていた。

 彼らに八路軍から与えられた任務は日本人社会の内情を探ることだった。ソ連軍支配下では明るみに出ることのなかった火工廠の内情が彼らの執拗な探索によって次第に明らかにされ、八路軍幹部に報告された。特に目を付けたのは、終戦直後の日本人将校の動向、火工廠内の武器や重要物資の行方、民会幹部の思想的相克などで、その調査方法は陰気で執拗を極めた。

 日系八路の調査は年を越して46年2月頃まで続いた。八路軍幹部は彼らの報告によって、火工廠にひそかに潜入して反共工作をする国府軍の密偵の存在を掴んだ。同時に当時満州各地で起こっていた日本人による反共暴動、特に通化事件のような動きが火工廠内部にもあるのではないかという疑念を抱くに至った。また表に出なかった「事実」を明るみに出すことによって、日本人社会がそれまで保ってきた団結に楔が打ち込まれ、お互い疑心暗鬼になるもとにもなった》。

 ここで2月3日に起こった「通化事件」について触れることにする。
 通化市は朝鮮国境に近い交通の要所。関東軍はソ連参戦を想定して新京の総司令部を通化に移し、対ソ戦の指揮を執る計画だったが、敗戦で計画は潰れ関東軍は崩壊した。日本敗戦時は国民政府の統治下に入ったが、9月22日、東北民主連軍(八路軍)の攻撃で国民政府軍は駆逐され八路軍の統治となった。通化にはもともと1万7000人の日本居留民がいたが、敗戦で10万人以上の避難民が流入し、市内は日本人で膨れ上がっていた。

 12月10日、通化の飛行場に日章旗を付けた飛行機が編成を組んで飛来した。林弥一郎少佐率いる関東軍第二航空軍第四錬成飛行隊で、一式戦闘機「隼」、九九式高等練習機を擁していた。隊員は300人以上で、全員が旧帝国陸軍の軍服を着用、階級章、軍刀を下げている。飛行機と同時に木村大尉率いる戦車隊30人も到着。日本人居留民は歓喜して出迎えた。

 しかし既に、日本は戦争に負け、関東軍は崩壊している。これらの飛行隊、戦車隊が日本軍隊であるはずはない。実体は東北民主連軍に編入された八路軍の日本人部隊であった。にもかかわらずこの飛行隊、戦車隊の来訪を機に、《旧関東軍が国民政府軍と組んで八路軍を追い出す》というデマが囁かれ、あっという間に居留民全体に広がった。日本人だけでなく中華民国系の中国人も噂を信じて浮き立った。
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戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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2018年03月11日
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■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 八路軍の進駐で「廠長秘書」の役を任命された松野徹は、45年冬のある朝廠長室に出勤すると、蘇文廠長から「将校が保持している全ての刀を至急提出させよ」との厳命を受けた。命令には逆らえないのでその旨伝達する。将校の中には「私の持っているのは指揮用の軍刀でなく備前長船の名刀だ。帰国時には返却してくれるのか」と問う者もいた。廠長は「好(ハオ)好」と承諾したが、集められた刀は荒縄でひと括りにして古鉄でも捨てるようにどこかへ持ち去られた。もちろん一刀も返されていない。

 「ちょっと来い」。ある日松野は八路軍から朴家溝部落の大きな農家に呼び出された。そこには八路軍でも幹部が着る立派な軍服の将校と十数人の兵隊がいた。将校が「当地に武器が隠されているという確かな情報があった。事実を話したまえ」と訊く。「そんなものはない。当工場及び周辺一帯に武器なんかは一切ない」と松野は怪しげな中国語で答える。なんだかんだと押し問答が続いた。

 「そんなことを言っても駄目だよ」と突然乱暴な日本語が飛んできた。声の方を見る。八路軍の恰好をしているが明らかに日本人だ。「我々はちゃんとした証拠があって来たんだ。本当のことを言ったらどうだ」と松野の説得にかかる。「何を言うか。証拠があるならさっさと見せろ」と松野が反論すると「俺はな、戦争中関東軍参謀から聞いたんだよ。遼陽の東の山の中に向こう十年間戦争しても大丈夫なくらいの武器弾薬を隠してある、とな。お前、正直に自白して武器のあり場所を言え。悪いようにはしない」と元日本軍兵士はなおもしつっこい。

 松野は「馬鹿なことを言うな。そんな参謀の言うことは嘘っぱちだ」と語気を強める。「そんなに武器があるなら現地召集の兵隊になんで鉄砲一丁渡さなかったんだ。彼らは素手で戦ったんだぞ。参謀の言うことなどコケ脅かしの大法螺だよ。大体日本は無条件降伏したんだ。ポツダム宣言を受諾し、連合軍の裁きを受けているんだ。武器を隠して何になる。どこでどうやって使うと言うんだ」。

 「お前たちは服従のふりをして中国人民に反抗の機会を狙っている。油断がならない」と八路軍の日本人兵士はなおも理屈をこねる。「いい加減にしろ。くだらぬことを言うな。変なデマを流し、中国の人たちを惑わし、迷惑をかけるべきでない」。松野はきっぱり諭した。それまで黙って聞いていたが、八路軍の将校はどうやら日本語が解っていたらしい。「よく分かった。松野の言う方が本当だ。何だこ奴、出鱈目を言いやがって」と件の日本人を叱って、一隊は朴家溝から引き揚げていった。
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2018年03月09日
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■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 火工廠には150人の少年開拓義勇軍の隊員がいた。その1人田淵順三郎は愛媛県出身で当時16歳。満州の地に「王道楽土」を建設するという国のスローガンに惹かれて入隊し、1945年春に関東軍火工廠に配属された。

 8月15日、ラジオの玉音放送の後神田中隊長は「君たちをご両親から責任を持って預かったが、このような事態になった。何としても無事親の元へ送り届けたい。自分を信じてついてきてほしい」と訓示した。目的も目標も一気に吹っ飛んだ少年隊員たちはたた呆然と立ち尽くすのみだった。

 隊内はたちまちボスの支配するところとなり、リンチが毎夜横行、結果としては失敗したが脱走者も出た。田淵少年も些細なことでボスの意を損ね、足が立たなくなるほど殴られたことがある。中隊長の部屋に泣き込んだところ、隊内の事情を知らなった中隊長は大変怒り、木刀でポスとその一派を制裁した。そんなことがあって隊内の暴力行為は下火になっていった。

 やがて八路軍がやってきた。田淵少年は友だちとともに物珍しさで出迎えた。日本兵から分捕った三八銃を持った兵士が10人ほど、他は鍋、釜、食糧を担いで続く。彼らはそれまで少年義勇兵が寝起きしていた宿舎に入り、自炊を始めた。義勇軍の少年たちは日本人家庭に分散して寄宿する羽目になった。八路軍の駐留目的は日本軍の隠匿武器の摘発にあるようだ。連日連夜火工廠幹部が呼び出しを受け、取り調べられた。

 45年12月30日、各家庭に分宿していた少年たちを集合させて義勇隊としての餅つき会が催された。神田中隊長は杵を振り上げて上機嫌。少年たちも久しぶりに笑顔を見せている。そこへ八路軍から中隊長に呼び出しがかかった。武器隠匿の嫌疑だという。座は急に白けてしまった。

 それっきり神田中隊長は少年たちの前に戻ってこなかった。明けて46年の正月3日、燃料倉庫の中で中隊長の遺骸が発見された。こめかみを撃たれ多分即死だったろう。後で分かったことだが、義勇隊が起居していた宿舎の床下から重機関銃が見つかったという。敗戦時のどさくさに誰かが埋めたものに違いない。神田中隊長をはじめ義勇隊の誰もが知らないことであった。運が悪かったというしかない。

 八路軍は関東軍火工廠を東北兵工第七廠と名前を変えて、工場生産を再開する方針だった。しかし工場設備の殆どはソ連に持っていかれ、その上国府軍の北上で慌しく、じっくり工場再開を準備する時間などない。旧火工廠は国府軍の追撃を逃れて通過する八路軍部隊の中間宿営地の役目に過ぎなくなった。

 八路軍の組織の脆弱性も見えてきた。そうなると心配なのは旧日本軍の反乱である。国府軍と通じているかもしれない。反乱のために武器や資産を隠しているのではないか。疑心暗鬼が生じてくる。日本人社会への過酷な誅求が強まる。義勇隊神田中隊長の銃殺はその予兆であった。 
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2018年03月08日

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2018年03月05日
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■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 互助を基本にした民主的な自活方針はそれなりに順調に進んだと言えるが、なにしろ5000人に及ぶ人間集団である。衣食住は困窮し、故国への引き揚げは絶望的、精神的に極限状況に追い込まれている人々。そんな中での人間関係はそう単純な話ばかりではなかった。――唐戸屯の居留民会に在職し、町内会や隣組の運営に関与していた松岡達夫は次のような手記を「関東軍火工廠史」に寄せている。

 《心身の不安につけこんでいろんなデマが飛び交った。引き揚げは近いが、所持金は一切認められない。どうせ持って行けないなら楽しく使おうではないか。そんな誘いで博打が流行った。全財産をなくし、家族ともども途方に暮れる者も出る。自暴自棄になって暴力沙汰に走る人も。民会ではこれらの一部不心得者に注意を喚起したが、それでも改心しない場合は懲罰委員会を開いて民会から排除することもあった。集団の秩序を維持するために止むを得ぬ措置であった》。

 移動床屋や畑仕事とともに生活資金稼ぎに役立ったのは煙草製造である。近隣農家から煙草の葉を仕入れ、家庭の本をばらして紙巻き煙草にする。それを満人部落で売って歩いた。長友いさ子も1日中煙草の紙を巻いた。夫は2泊3日くらいで農作業に出かけたが、帰ってくると虱だらけ。子どもにも移って痒さに苛まれた。夫は賃作業を止めて魚釣りに行ったが晩のおかずがやっとで、売るほどは釣れない。

 冬が迫ると暖房の心配が深刻になった。スチームに蒸気が通らない日がしばしばある。寒さを防ぐための厚手の下着は命から二番目の貴重品だ。初冬のある日、八路軍兵士が3人ほどでやってきて家探しを始めた。箪笥の奥に大切にしまっておいた夫の純毛のシャツが見つかったしまった。《あれをとられたらこの冬どうしようもない》いさ子は《それだけは持っていかないで》と懇願した。しかし兵士はシャツを手放さない。いさ子は思わず《人情知らず》《泥棒》と叫んだ。そして思い切り泣き叫ぶと、さすがの兵士もびっくりしてシャツを置いて去っていった。

 この長友家を襲った八路軍は正規の軍隊でなかったことが後で判明した。八路軍の行進の途中で志願してきた農民で、中には日本人官舎に野菜売りに来ていた満人が大威張りで八路軍になったりする。これら急造りの兵士は隊の規律が届かない。この時期、国府軍が北上してきて八路軍は苦戦していた。そのため兵力の増強を図ったのだろうが、兵士としての訓練まで手が回らなかった事情があったようだ。長友いさ子の手記でも年末頃から公然とした略奪行為はなくなったと記されている。
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2018年03月04日
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■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 移動床屋で毎日出歩いていた和泉たちが、ある日ばったり旧知の顔に会った。旧満州軍(満軍・中国から見れば傀儡軍)の少尉だった男である。彼は今穀物の集荷所で働いているという。和泉たちが、穀物を確保するために苦労している話をすると、それなら高粱を卸値で分けてもいいと申し出た。当時高粱の市価は1斤5円だが卸値なら3円50銭で済む。早速取引契約ができて彼は馬車で高粱を届けてくれた。これが引き揚げまで続いたことが、火工廠関係者家族ともども5000人の命の綱になった。

 東京陵病院の勝野六郎医師は、近隣の満人部落を回り診療することが多くなった。部落からの要請というより、診療費を餅粟、黍、米等の現物でもらえるという理由からだ。もらった食糧はささやかだが民会を通じて年寄りや幼児のいる家庭に配られた。薬は貴重なのでなるべく診断と治療方針の説明だけにしたが、それでも勝野たちが行くと沢山の患者が待っていた。重症の患者の家への往診もした。

 病いはやはり結核が多かった。他に気管支疾患としては喘息、肺気腫、肺化膿症、それから肺癌も見られた。循環器系では発作性頻拍症、心房細動、狭心症が目立ったが高血圧症は少なかった。消化器系の癌、肝硬変、末期の糖尿病、痛風、それに1件だけだが筋委縮症の患者もいた。婦人科疾患は殆ど診察に来ず、子どもの疫痢、肺炎、小児痙攣などは死ぬまで放置されているのが現実の様子だった。

 東京陵、唐戸屯ともに住民組織は町会、隣組が仕切った。ソ連軍支配から八路軍統治の時代に入り、故国への引き揚げはかなり先になる見通しになってきた。このまま売り食いの生活だけでは破綻が来る。なんとか自活の道を探らなければ全員干上がってしまう。町会が中心になって寄り集まり、みんなで知恵を出し合った。そこで考え出されたのが次のような自活方針である。
 
@義勇隊員及び独身者は近隣の農民(満人)の要求に沿いグループに分かれて農業の使役に出る。
 A木工、左官、板金等の特技を有する者は民会の斡旋で現地人の要望に応じて仕事に行く。
 B技術者たちのグループは工場に残留しているトルオールを原料にして硫化染料を製造し、奉天などへ売りに行く。
 C家庭婦人はグループ毎に木片を削ってマッチの軸をつくる。技術屋がつくった黄燐を先端に塗って乾燥させる。そうしてできた燐寸を近隣の部落に売りに行く。

 こうして得てお金は一部は本人に渡すが、大部分を町会でプールし10日ないし半月毎に各世帯へ人数割で配分した。このようにしていつになるか分からない引き揚げの日をひたすら待ったのである。
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2018年03月03日
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■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 火工廠電気掛で班長を務めていた大島具保は9月のある朝、「ばんちゃん、ばんちゃん」の声に起こされた。ばんちゃんとは班長のことらしい。硝子戸越しに外を見ると満人が馬車を引いて官舎の前に集まっている。元部下の満州電工の韓振声班長や王通訳、その他7.8人の顔が見える。

 「班長、元気ですか。奥さんや子どもさんは・・・」と暖かい声をかけられて一瞬胸が詰まる。「君らもいろいろあったが、元気のようで何よりだ。ところで朝早くから何だね」と訊くと「班長は知らないのですか。今日は電柱や電気工事資材の受領の日ですよ」と答える。なるほどあのことか、大島には心当たりがあった。

 1週間前、大島は部隊責任者の吹野信平に呼ばれ、夜分宿舎を訪ねた。「是非とも家族ら全員無事故国の土を踏ませたい。そのためには周辺部落民との融和が必要だ。彼らが何を望んでいるか。それを部隊として叶えられるものは叶えてやることが、我々の生きる道にもつながる。明日にでも部落に入って探ってきて欲しい」と吹野に乞われ、一の二もなく引き受けた。早速満服を着て屯長や旧知を回る。彼らが電灯をつけて欲しいと強く願っていることを察知しそれを吹野に報告した。

 その電気工事資材運搬の日が今日だったのだ。大島は日本人の同僚を呼び集め、馬車を連ねて唐戸屯の電気工事資材倉庫へ向かった。そこで必要資材を積み込み部落まで運んだ。実際に工事に着手したのは10月に入ってからで、戸外の工事は寒さに晒された。以前は防寒服に身を固めていたが今は軍服のみ。大変な苦労をして穴掘り、建柱、延線と作業を進めた。部落民総出の共同作業で工事は予定より早く進捗し、年内に工事完了、翌年新年早々には部落全体に電灯が灯った。満人の喜びは大変なもので、日本敗戦後しばしばあった略奪行為がぱたりとなくなった。大島は吹野から「よくやった」と労われた。

 その頃の食糧事情はどうたったのか。筆者の記憶では、主食は高粱と粟とポーミだった。ポーミとはトウモロコシの粉である。一番食べたのは高粱だが、これはどう炊いてもおそろしく固い。母は水を多くしたり炊き方を工夫したようだが、最後はひたすら顎が痛くなるまで噛んで飲みこむしかない。粟はお釜にへばりついて固まってしまう。ポーミは水に溶かしてパン風に焼くのだがぱさぱさして食えたものではない。

 食べ物のことで筆者の記憶に残っているのは雀の肉だ。家の裏にかすみ網を仕掛けておくとたまに雀が引っかかる。首をひねり羽をむしって丸裸にする。それに醤油だれをつけて雀焼きにして食った。小雀は骨ごと食えた。父と太子河に魚釣りに行ったこともある。砂もぐりという東京湾のハゼに似た奴がよく釣れた。塩焼きや砂糖の入らない甘露煮にして食べた。いま思えば、そんなものでよく生き延びたものだ。

 高粱をはじめ食べ物は満人から買わなければならない。独身の若者たちは資金稼ぎに満人部落へ百姓仕事をしに行った。1日農作業の手伝いをして50円くらいにはなる。この賃作業だが、誰でも行けるというわけではない。敗戦前に満人に対して暴力をふるったような男は仕返しが怖くて部落に入れなかった。

 和泉正一は印東和、吉岡等と3人で雑嚢に散発用具を入れ洗面器まで用意して部落へ入った。床屋の開業である。散髪代は当時10円が相場だったが、和泉たちは8円にした。結構お客が集まって繁盛した。お釣りの2円をご祝儀にはずむ客も多く、1日500円くらいになった。そのお金で食糧を買い意気揚々と帰途についた。
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2018年03月01日

爆風(52)

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2018年02月26日
爆風(52)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 八路軍統治下の初冬のある日、突然遼陽の変電所からの送電が止まってしまった。火工廠電気掛の鴨沢弘は《これは重大な死活問題だ》と深刻に受け止めた。電気が止まれば水道も暖房用の蒸気もストップだ。状況はよく分からないが、一刻も早く送電を再開してもらわなければならない。部下の森青年を伴って、八路軍が管理する遼陽の変電所に向かうことにた。車がないので歩かなければならない。

 唐戸屯を出て太子河を渡る。朝もやが河に立ちこめている。川の中州まで来ると対岸の土手の上に中国人兵士の集団が見えた。彼らに捕まって取り調べられるとやっかいなことになると思い、草むらに身をひそめながら進んだ。やっと土手の上に辿り着いたと思ったらばらばらと現れた中国兵に囲まれた。

 銃口を向けられて鴨沢たちは思わず両手を上げた。身体検査をされて彼らの部隊の本部に連行される。幹部らしい将校の訊問。鴨沢は「川の向こうにたくさんの日本人がいる。電気が止まると生きていけない。送電再開をお願いに行くところだ」と丁寧に説明した。将校は鴨沢たちの意図を理解したらしく、兵士に命じて遼陽の満州電業まで連れて行ってくれた。

 満州電業の遼陽変電所は八路軍に接収され、中国人だけで運営していた。幸い鴨沢は中国人の所長に会うことができた。「数千人の命がかかっている」と実情を訴え、送電再開を懇請する。所長は願いを聞き入れて送電のスイッチを入れるよう係に命じた。すぐさま唐戸屯と連絡を取ると、無事電気が送られてきたとのこと。鴨沢と森の2人は大任を果たした安堵で緊張が解け、とたんに猛烈な空腹感に襲われた。

 厳しい満州の冬を越すには暖房用蒸気の確保が必至である。庶務係の小野伴作は、唐戸屯と東京陵に暖房用石炭を備蓄することに力を入れた。蒸気は工場内の巨大タンクでつくられる。タンクへの給水や燃料の給炭は停電になると止まってしまう。そこで停電対策として非常用給水タンクの設置、手動の給炭装置も備えた。家庭でできる非常時の暖房対策として炬燵作戦も奨励された。炬燵のやぐらに40wの裸電球を下げるというもの。各家庭で実行されたのか知らないが筆者の記憶にはない。

 水もいつ断たれるかね分からない。節水の通達が隣組を通じて回された。@朝、顔を洗わない、A便所に行っても手を洗わない、B食べ物を洗った水で食器を洗う、C身体を拭いた水で洗濯をする、D洗濯をした水で水洗便所を流す。わが家もそうだが、どこの家でも、誰も不平を言わず従った。

 なお汽缶工場は住民の生命線なので火工廠の重要業務だった。大量の水や石炭を扱うきつい労働である。筆者の父戸塚陽太郎など下っ端軍属がそこで働いた。
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爆風(51)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765
労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2018年02月24日
爆風(51)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 薄ら寒い12月初旬の昼下がり、鈴木弓俊の妻百枝は子どもと2人で家にいた。そこへ4人の八路軍兵士が玄関を入ってきた。玄関には冬に備えて、ニンジン、大根、ジャガイモなどが入った箱が積んである。それが邪魔らしく4人で外へ運び出す。野菜を盗られるのではないかとびくびくしながら見ていると、土足で風呂場に直行し、2人1組になって髭を剃り始めた。剃ってやったり剃られたり。つるつるに綺麗になると、先ほど外へ出した箱を玄関に戻し、丁寧に頭を下げて出て行った。

 加々路仁は11月10日から1週間かけて2度目の新京出張を試みた。今回の同行は鈴木弓俊に依頼した。新京へ行く目的は居留民会の高崎達之助総裁に会って、元火工廠部隊としての基本方針を伝え了解を得ることだった。鉄道はソ連軍支配下にあり、順調に運行されている模様であった。

 新京に着き高崎総裁に会うと加々路は次のように「われわれの基本方針」を述べた。「元火工廠は今後軍事に関与せず、中国の産業復興に貢献する。日本人の大多数は内地帰還を図るが、1部の人たちは残留して中国に協力する。厳冬を目前に控え生活難にあえぐ日本人避難民を受け入れる」。

 これに対し高崎総裁は全面的に同意し了承した。元火工廠部隊があくまでも居留民会の組織の一部として行動することが確認され、避難民援助の具体策が立てられた。さらに加々路は、部隊として調査した南満地区における日系企業・工場の実態報告書を提出して説明。高崎総裁は「大変貴重な資料だ。いろんな面で役立たせたい」と喜んだ。さすがの情報通も知らないことが多かったらしい。

 加々路に同行した鈴木弓俊はこの第二次新京出張について次のような手記を書いている。
 《10月に続いて2度目の新京出張という旅慣れた加々路さんに連れられての旅行で、いろいろ教えられることが多かった。往路、四平の駅舎で夜明けを待ったことがある。達磨ストーブを囲み折り畳み椅子に腰かけての仮眠だ。私たちは満鉄の作業員の服を着て遼陽から用事で来た駅員に化けているのだが、本物の満鉄社員には何となく分かるらしい。暖をとりながら二言三言雑談を交わすうちに身元調査のようなことになる。タヌキ寝入りしていた加々路さんが目でお前も寝ろと言う。私もタヌキの仲間入りしてその場は助かった。

 新京からの帰途、往路でも立ち寄った四平駅から外へ出た。秋の日差しの中、燃料廠に向かう。四平の街は全満中1番平穏なのではないか。燃料廠の廠長が昔第一次大戦の折、従軍武官としてドイツ降伏の実務に携わっていた。その経験を生かして、進駐してきたソ連軍に応接。それがうまくいって接収手続きがスムースに運び、街の治安維持は日本軍に任されることになった。そのため他地区で起こったようなソ連軍兵士による略奪・暴行がなかったと言われている》。
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2018年02月22日

爆風(50)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2018年02月22日
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■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 松永歯科医が接した八路軍とはどういう軍隊だったのか。筆者の記憶によればその頃の両親も近所の人たちも八路軍を「パーロ」と呼んでいた。幾分かの侮蔑、恐れ、嫌悪感、それから若干の親しみなどが入り混じった言い方だったように思う。ソ連軍を「ロスケ」と呼んだ意味合いとはちょっと違う気がする。

 八路軍の前身は中国工農紅軍で、1937年8月、中華民国・国民政府の管轄下に組み込まれ「中国国民革命軍第十八集団八路軍」と改称された。根拠地は華北から満州にかけての地域で、中国中南部には「中国革命軍新篇第四軍」(新四軍)が配置された。国民政府軍が対日戦争の前線で戦ったのに対し、八路軍、新四軍は日本占領地域の後方でテロやゲリラ活動を行った。それらの兵は便衣兵とも呼ばれた。

 八路軍の幹部には解放後に要職に就いた著名人が多い。
  総指揮官 朱徳
  副総指揮官 膨徳海
  参謀長 葉剣英
  総政治部主任 任弼
   第115師団長 林彪
   第120師団長 賀竜
   第129師団長 劉白承

 これらの軍編成は正規軍のもので、下部組織として農村での生産活動から離れて遊撃戦を行う地方軍、生産活動をしながら適時戦闘に加わる民兵組織がある。それらを含んで45年当時の兵力は60万といわれていた。

 八路軍は将兵に対し「三大紀律 八項注意」と呼ぶ行動規則を科した。
  三大紀律 @一切の行動は指揮に従う、A大衆からは針1本も盗らない、B捕獲品はすべて公のものとする
  八項注意 @話は穏やかに、A売り買いは公平に、B借りたものは必ず返す、C壊したものは弁償する、D殴ったり罵ったりしない、E農作物を荒らさない、F婦人にみだらなことをしない、G捕虜を虐待しない

 実際の八路軍はどうだったのか。松永歯科医は次のように証言している。
 《遼陽市内の様子を探るため、国民学校の荷宮先生と2人で出かけたことがある。途中、歩哨の八路軍兵士から何度も身体検査を受ける。遼陽へ着くとまず商店に入って話を聞いた。松永たちを日本人と見て、店の主人が八路軍についてさんざん愚痴をこぼしはじめた。八路軍兵士は市場では通用しない貨幣で品物を買い、お釣りまでとっていく。品物をタダでやった方がましだという。

 そこへ表の通りを八路軍兵士が軍歌を歌いながら行進してきた。行列の中に負傷した元日本兵が銃剣でつつかれながら歩かされている。私たちは涙で見送るのみだった》。
posted by マスコミ9条の会 at 19:45| Comment(0) | 戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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