2018年02月22日

爆風(49)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765
労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2018年02月19日
爆風(49)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

4 八路軍駐留の時代 
 1945年11月18日、火工廠からソ連兵が撤収をはじめ、東北民主連軍の蘇文廠長以下十数名が替わりに乗り込んできた。東北民主連軍は4日前の11月14日に成立した軍隊で、前身は東北人民自治軍である。実体は中国共産党(八路軍)の軍隊だが、日本敗戦直前にソ連と中華民国・国民政府との間で結ばれた「中ソ友好同盟条約」によって満州地区では共産党軍は正当な組織と見なされなかった。

 中ソ友好同盟条約でソ連は国民政府にのみ軍需物資等の援助を行い、満州におけるソ連の軍事行動が終われば速やかに撤退し、国民政府による行政権が回復するものと規定された。国民政府と共産党軍は対日戦争では国共協定(国共合作)を結んで共に戦った。しかし日本敗戦で共通の敵がいなくなった時点で再び合い争うことになる。本格的な国共内戦となるのは46年6月からだが、双方は共に内政に備えた軍事組織を整備しつつあった。

 ソ連はこの時期、満州全域から撤退していくのだが、後の行政を任された国民政府はハルピン、新京、奉天などの大都市は押さえたが農村地帯までは力が及ばない。火工廠のある東京陵、唐戸屯は八路軍の支配下にあった。なおこの当時の東北民主連軍総司令官は後年文化大革命を推進した林彪である。林彪は1907年生まれだから当時は38歳、25年に共産党入党以来の毛沢東の戦友だった。

 火工廠に乗り込んできた蘇文は、唐戸屯の第二工場に本部を置き、工場再開へ向けた準備を始めた。関東軍火工廠は「東北兵工第七廠」(東北兵工廠)と名付けられる。主な工場設備はソ連に持っていかれたが、残った工場建物、機械、原料で国共内戦に必要な兵器・弾薬の製造を企図したのだ。

 民主連軍(実体は八路軍)は工場再開を目指して千人単位の兵を送り込んできた。彼らは日本人の個人の官舎に数人ずつ分宿した。その方法はかなり強引だった。筆者の家にも3人ほどの八路軍兵士が来て、3部屋のうち1部屋を占拠した。ソ連兵と違って女子どもに危害を加えたり、私物を略奪したりはしなかったが、土足で家に上がるなどの乱暴な行為は幼い筆者の記憶に刻まれている。

 歯科医の松永薫の官舎には小隊の隊長以下10人も分宿、家族は1部屋に閉じ込められた。全部屋占拠された家もあると聞いていたので1部屋でも使用許可が出たのでほっとした。彼らは不寝番を立てて警戒した。このためそれまで度々あった現地民の略奪行為がなくなったのは皮肉だった。

 松永は中国語ができるので彼らの話相手になった。それで隊長はじめ兵士に好かれた。八路軍は歌が好きだ。東方紅、太陽昇、中国出了毛沢東を歌った。俗歌の桃花江や毛々雨等も好んで合唱した。彼らの1人は「自分たちの親兄弟は日本軍に殺された。しかし今は恨んでいない。悪いのは軍閥、財閥であってあなた方ではない」と言った。自分たちの仲間に岡野進という日本人がいるとも。野坂参三のことだと気がついた。
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爆風(48)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2018年02月16日
爆風(48)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

日本人の診療には邪魔をせず、中共軍兵士が巡回に来ると追い払ってくれた。11月になるとソ連と中共が混在して診療所の支配にあたるようになった。両者は仲が悪く、お互いに軽蔑し合っているように見えた。しかし最終的にはソ連の方が力としては上で、威張っていた。

 ある時、日本人の婦人の胸部診察をしているところへ悪気はなかったようだが中共軍兵士が入ってきた。言葉が通じないので手で押し出そうとしたら彼は怒って食ってかかってきた。そこへソ連兵が来合わせてしまい、中共兵との揉み合いになった。ソ連兵はベルトを抜いて中共兵を鞭打つ。中共兵は恨みのこもった眼を私に向けて部屋を出て行った。

 また私はソ連軍将校の夜の席に招待されることがしばしばあった。私としては気が進まないが断れない。ソ連のジープで中共軍の歩哨線を通過する。これも中共軍にとっては苦々しいことだったらしい。そんな些細な事柄が重なって後日ソ連軍撤退後、私が中共軍に報復される一因になった」。

 8.25の混乱が収まりほっとした頃、唐戸屯地区の矢部喜美子は隣組官舎の集まりによばれた。隣組12軒からそれぞれ婦人ばかりが集められ、組長からの話があった。「進駐してくるソ連兵のところへ、
輪番制で奥さんたちに行ってもらうことになるかも知れない。辛いことではあろうが、全員無事内地へ帰るためにはこらえてほしい」。身の毛のよだつような話だった。

 集まった婦人たちはびっくり仰天、ショックでみんな青ざめた。《そんな恥辱を受けるくらいなら、渡されて持っている青酸カリを飲んだ方がいい》。奥さんたちは叫んだ。集まりから帰っても気持ちは治まらない。いつそんな日が来るかと生きた心地もしない毎日だった。そこへ救いの神として来てくれたのが遼陽市内で水商売の仕事をしている女性たちだった。矢部喜美子たちは自分の着物をお礼にさし出した。そのようにして自らは恥辱を免れたが、同じ女性として胸の詰まる思いだった。

 10月17日、唐戸屯から東京陵へ向けて、ソ連軍少尉の運転する消防車が走っていた。無蓋の荷台には日本人の男女6人ずつ。運転が未熟なため車は蛇行を重ね、とうとう車輪が道脇の溝に落ち転覆してしまった。この事故で石坂俊子(22)、黒木幸子(20)の2人が横転した車の下敷きになって亡くなった。2人とも大坂の出身で、女子挺身隊として志願、唐戸屯の関東軍火工廠第四工場で働いていた。この事故以後、ソ連軍は兵士の勤務外の行動管理に厳しくなり同種事故の続発が防止された。
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2018年02月15日

爆風(47)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2018年02月13日
爆風(47)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 工務科の中尾英一が電話交換台の勤務中隣の変電所に落雷、火災が発生して配電盤の一部が焼けた。そのため東京陵の大部分で停電になる。それは一昼夜で復旧したが、ソ連軍は放火ではないかと疑い、拳銃を突きつけて原因追究を迫った。懸命の説明で落雷であることが了解されたが命の縮む思いだった。

 初秋のある日、中尾は電話架線点検のため張台子(遼陽の一つ奉天寄りの駅)まで山道を歩いた。道案内には庶務科警戒の戸塚陽太郎に頼んだ。はるか彼方の道を徴発した牛の群れを追って南下するソ連兵の姿が見える。戸塚は防腐処理をしていない線路の坑木に自然発生した椎茸を採集して持ち帰った。多分筆者はその椎茸を食べたのだろうが記憶はない。父はソ連支配中も守衛の仕事をしていたようだ。

 当時のことで母から聞いた話が記憶に残っている。秋も深まった頃、わが家に北満から逃げてきた避難民が立ち寄った。若い夫婦で奥さんは坊主刈り、男用の軍服を着ていた。母に食べ物を乞う。母は冷たくなった高粱飯を出した。それをがつがつと食べながら涙ながらに語ったことが悲しい。

 「私どもには1歳と3歳の兄妹がありました。とても連れては逃げきれないので2人が寝ている間に家を出てきました。布団に灯した電球を差し込みました。私どもが満鉄の駅に着く頃、発火して家もろとも燃えたはずです。一緒に逃げてきた若夫婦は途中でお母さんに青酸カリを飲ませました。地獄です」。

 吉林の病院で発疹チフスに感染し、敗戦もその後の混乱も知らずベッドの上で朦朧状態で過ごした勝野六郎軍医。9月半ばになってやっと回復して、尾林助産婦の助けを借りて唐子屯診療所の仕事に復帰した。

 勝野六郎軍医の手記。《唐子屯診療所に復帰し、ソ連兵の診療を始めて、日本敗戦の実感がしみじみと噛みしめられた。彼らは農民出身で個人的には純朴だが、教養は感じられない。集団になると乱暴を働く。しかし病院に対しては好意的で、八路軍の兵士が医薬品を持ち去るのを防いでくれたりした。

 ソ連兵は一寸した傷でも病気でもすぐ相談にきた。やはり淋病の兵が多かった。プロタルゴールの洗浄とトリアノンの注射をしてやった。遼陽の医師がソ連軍に連行されていなくなったらしく、遼陽滞在の将校も唐子屯までやってきた。彼らはペニシリン持参でその上ドイツ語ができた。これはその後の病院経営に役立った。ペニシリンの即効性には驚嘆した。どんな感染症でも2、3本の注射で即無菌になり完治した。

 彼らはソ連の軍医をあまり信用とていなかった。軍医の1人が私に梅毒の治療について尋ねるので、ワッセルマン反応の話をしてやったら驚いていた。なるほど医学知識のレベルも低かった。顔見知りになった高級将校に「お前は旅順で働く気はないか。家族ともども、もっと楽な生活を保障する」と誘われた。私はここの日本人と運命を共にしたいと断った。旅順行きを受け入れていたら多分私は帰国できなかったに違いない。
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沖縄ノート(11)強奪の戦後B

18年2月10日
沖縄ノート(11)強奪の戦後B 

■坂本陸郎(JCJ運営委員;広告支部会員)

本土決戦
 沖縄戦は本土決戦を遅らせるためだったのだが、軍部に「本土決戦」の戦意も覚悟もなかった。1945年1月20日、大本営は「帝国陸海軍作戦計画大綱」を決定し、「皇土特ニ帝国本土ノ確保」を目的とすることになった。そのため、沖縄守備隊に対して持久戦が指示された。だが、敗戦が必至となって天皇は狼狽し、国体護持にこだわり続けた。
 近衛文麿の上奏を無視し終戦の宣言を遅らせた天皇は、首里が陥落する直前の5月14日、最高戦争指導会議を開き、ソ連を仲介とする終戦工作を指示し、近衛文麿をソ連に赴かせようとした。その「平和交渉」の第一の条件が「国体ノ護持ハ絶対ニシテ一歩モ譲ラザルコト」、第二の条件が「最下限ノ小笠原、樺太ヲ捨テ、千島ハ南半分ヲ保有スルコト」であった。だがソ連はとり合わず、日ソ不可侵条約の期限切れとともに、8月6日、満州へ侵攻する。ソ連を仲介者とする終戦工作は、望むべくもない相手知らずの神頼みであった。

米国の対日戦略
 8月9日、テニアン島を飛び立ったB29は、北九州小倉市上空を覆う厚い雲のため、目視 による投下ができず、第二の目標都市長崎に原爆を投下した。その帰路、燃料が不足し、読谷飛行場で燃料を補給、テニアン島に戻った。
 敗戦後に、参謀次長河辺虎四郎中将ら使節団が伊江島飛行場に到着後、米軍機に乗り換えた後、マニラに向かった。マッカーサーはマニラで停戦協定にサインすると、そこから読谷飛行場に立ち寄り、翌30日、厚木に向かった。米国の極東戦略を示唆する当時の動きである。
 では米国の対日戦略はどのようなものだったのか。以下は林博史著『沖縄戦が問うもの』から。
 アメリカは太平洋戦争中から、世界をにらむ基地計画の検討を始めていた。6月22日、その戦後基地建設計画が、統合作戦本部で本格的に議論されるようになるのは1945年5月からであった。アジアでは、ハワイ、フィリピン、マリアナ、沖縄が最重要基地とされ、小笠原や中部太平洋のいくつかの島々が、それに次ぐ重要基地建設地としてリストアップされている。その計画に従って、沖縄では46年7月に陸軍と空軍の基地建設計画が立てられ、1950年度会計予算に5000万ドルを超える基地建設予算を計上した。日本本土については、冷戦の進行、朝鮮半島の分断、中国での共産党政権の成立という情勢変化のもとで、日本を軍事拠点として確保する意思が米政府内で強まり、それが48年10月、国家安全保障会議で決定された。これは冷戦状況下で日本の共産化を防止し、政治的・経済的安定をはかることを主眼とするもので、対日政策の転換を示すものだった。(要約は筆者) ―

キーストーン
 1950年6月、北朝鮮が軍事境界線を超えて韓国に侵攻し、朝鮮半島での攻防戦となった。米陸海軍がそれに参戦すると、中国が人民義勇軍を派兵、戦況は軍事境界線を巡って一進一退となった。その朝鮮戦争当時、嘉手納を飛び立ったB29は北朝鮮を無差別爆撃し、米政府は幾度となく北朝鮮への原爆投下を企てた。米朝対立の根は朝鮮戦争にあったといえるだろう。
 翌年7月に休戦協定が結ばれるのだが、北朝鮮軍、中国軍の戦力を思い知らされた米国は、以後、日本本土を極東における反共の前線基地(キーストーン)と位置づけ、同盟国日本に再軍備を指示すると同時に、日本政府に対して、基地使用の許可、施設役務提供を義務付けた。と同時に、沖縄を極東最大の軍事基地とすべく基地建設にとりかかった。
 このように、沖縄は朝鮮戦争時には、すでに最前線の出撃基地だったのだが、その後は、冷戦の進行とともに沖縄の極東戦略上の重要性が高まり、50年代になると基地拡張が急ピッチで進むことになった。とともに、支配者たる米軍政府の沖縄住民に対する姿勢は、いっそう無法で暴力的なものとなっていった。

強奪の光景
 1953年に米国議会が基地建設予算を増額すると、沖縄では、米軍政府が「土地収用令」を布告し、53年に真和志村安謝・銘刈、小禄村具志、55年には伊江島真謝、宜野湾村伊佐浜などで、銃剣とブルドーザーによる私有地の強奪を押し進めた。
 それまでにも、米軍政府は借地料も払わずに、住民が所有する畑や土地を勝手に使っていたのだが、戦後5年を過ぎてようやく生計を立てていた住民の命綱であった畑と土地が、さらに奪われることになった。
 その土地強奪はどのようなものだったのか。瀬永亀次郎氏(故)が自著『民族の悲劇〈1971年初版〉』の中で叙した「青田一夜にして滑走路にかわる」の一節を、長くなるが、そのまま書き移すことにする。強奪の情景を彷彿とさせ、老女の悲嘆が胸を打つ。

― 1951年4月のはじめ、南海の空はカラッと晴れ渡り、静かに海風がそよいでいた。沖縄本島国頭村桃原部落民は、土響きを立てて咆哮している重々しい機械の騒音に異常なものを感じてたたき起こされた。あの家からもこの家からもとび出して、現場にふれた子供たちは“ブルドーザーが稲をふみつぶしとるぞ、大変だ、大変だ”とお父さんや兄さんたちにつげ廻った。時を移さず全部落民が現場にむらがり集まった。数台の六屯車が、どこから運び込んだかしれない山石や砂利を投げ下している。ブルドーザーがその後から整地役を引き受けて、おちつき払って砂利や山石と稲穂をまぜっかえし、踏みくだいて進んでいる。部落民が目を見張っている間に、数千坪の青田は打ち固められて、砂浜に生まれ変わった。
 その時である。集まっている部落民の間に動揺がおこった。一人のおばあさんが卒倒したのである。みんなの手厚い看護のおかげで、やっと息を吹き返したおばあさんは、「アキヨナー、ワンターヤ、チャナイガ」― ああー私の田はどうなるのかーとわめき、のろいつづけるのだった。六屯車やブルドーザーにとっては、しかし、そんな出来事は関係のないことだ。基地王の命令で動いているだけの話である。一日のうちに数万坪の青田は、部落民の目の前から永久にその慈母の姿をかき消してしまった。その後3か月もたたないうちに、この土地には東洋一を誇る巨大なラジオビーコンが建てられ、50万ボルトの強烈な電柱は、近隣部落を圧して戦闘準備に余念がない。
 卒倒したおばあさんは、夫が台湾製糖社に務めていて、永いこと台湾で共稼ぎをしていたが、敗戦1年前、郷里の桃原に家族をひきつれて帰ってきた。台湾で貯えた金と夫の退職金で例の田を買い入れ、その田は老後を支えるためのいのちとして、大事にまもりつづけていたのである。そのうち米軍の沖縄上陸となった。この戦争のため真っ先に夫がたおされた。つぎつぎに子供たちも沖縄戦で殺されてしまった。残されたのはおばあさんの心細い生命と三千坪の田んぼだけとなった。細りゆく生命と田んぼを大切に、おばあさんはまったく天涯孤独のくらしを営んでいたのである。自分の生命と同じ田んぼ、しかも、もう十日もすれば、刈り取れる青田を、そのままもっていかれたのだから、卒倒したのも不思議ではないだろう。
 いうまでもなく、青田を収奪されたのは、このおばあさんだけではなかった。基地王は土地収奪の1か月前、国頭村長を通じて「これらの地域は軍用地に指定されたから、20日以内に農作物は全部撤去すべし」の口頭指令を出している。あと1か月も待てば普通の通り収穫できる稲を、命令だとはいえ、ただちに“ハイサヨウナラ”で刈り取る農家が一人でもある筈がない。地主たちは相談の結果、稲や西瓜の撤去を拒否したのである。
 基地王は目論見書の変更をするほど心のゆとりを持っていない。ただちに数台の6t車とブルドーザーの現地派遣となり、黄金色に色づき、重くたれ下がっている稲を踏みにじって、基地の土台を築き上げたのである。台無しにされた西瓜や稲など農作物の損害保障が、基地王の支出清算書に見当たらなかったことは、もとより確かである。撤去命令違反について起こる責任は、すべて違反者の負担とする但し書きによるのであろう。
 左手にハンドルを軽くおさえ、右手はわしづかみに、農民が精魂打ち込んで植え付け、収穫を待っているメロンをほおばりながら、稲穂や西瓜をかみ砕き、冷然と青田の上を進撃する自由の防衛軍、こういうアメリカ将兵の姿を想像するのは、ちょっと困難であろう。他国人民に、死の自由への扉を開かんとするものは、いつの日か、開かれたその扉の入り口に立っている我が身を発見するだろう。
 死の自由をおしつけられた民族は、必ずそれをなしとげる。
 なお、滑走路と言われていた強奪された田畑は、いま、VOAの基地とされている。
(VOAはヴォイス・オブ・アメリカの頭文字、駐留米兵、軍属向けのラジオ放送=筆者) ―

瀬永亀次郎 1907年沖縄県豊見城村生まれ。戦後、沖縄人民党結成に参加し、書記長、委員長を歴任。54年米軍による沖縄人民党弾圧事件で懲役2年の刑で投獄される。56年那覇市長選に当選するが翌年の米軍布令により追放。70年の国政選挙で衆議院議員に当選する(以後86年衆院選挙まで7期連続当選)。73年日本共産党中央委員会幹部会副委員長。90年名誉幹部会委員。米軍基地撤去、祖国復帰、主権回復という沖縄県民の願いを胸に闘い続け、「反米抵抗のシンボル」と称される。2001年10月5日死去。


(つづく)
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2018年02月10日

爆風(46)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2018年02月08日
爆風(46)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 11月中旬のある日昼過ぎ、武井覚一は工事部事務所へ行った帰りに「おい」と声をかけられた。振り向くと吹野信平少佐が立っていた。少佐は左ひじを武井の右肩に置いて並んで歩きながら「さっきソ連の奴が来てね。捕虜を2000人出せと言うんだ」と話し始めた。「それは大変でしたね」と武井が応じた。

 「うん、大変であった。末廣とかいう元関東軍の陸軍大佐が案内人としてついてきた。ソ連兵は大佐と副官の2人、それに通訳がいた。通訳は半島人で、この通訳が我々に非常に好意的だったよ。逆に関東軍大佐の方は最悪だった。『どうしても捕虜を出せ』と強圧する。

 『こには兵隊はいない。一般民間人だ』
 『ここへ来る途中、軍服を着た一隊を見た』
 『あれは北から逃れてきた難民で、着るものがないので軍服を着ているのだ』
 『女々しいことを言うな。それほど捕虜になるのが嫌か』
 『女々しいことなど言ってない。おれも帝国軍人だ。今でもちゃんと襟章をつけている』 
 『とやかく言わないで早く集めろ』

 『部隊は解散して兵はいない。自分が集めようとしてもその権限はない。どうしても連れて行きたいなら貴官が集めればよかろう。しかしこのことだけは言っておく。8月25日のことだ。男子全員連行の指令に応じられないとして全員玉砕の寸前まで行った。今度も同じことが起こるかも知れない。その時は貴官が責任をとれるのか。その覚悟があるならやってみなさい』

 このやりとりを通訳がこちらに好意的にソ連側に伝えてくれたに違いない。ソ連軍大佐と副官は『ここは後回しにしてよそへ行きましょう』と言って引き揚げていった」。そう言って吹野信平はため息を吐いた。武井が後で聞いたところによると、火工廠での捕虜狩りに失敗した員数合わせに、遼陽と鞍山の軍病院から傷病兵が引っ張られている。武井は誠に済まない気持ちでいっぱいだった。

 8.25事件の舞台となった桜ヶ丘国民学校は、爆薬の撤去、損壊箇所の修繕などが行われた。しかし授業が再開されたのはソ連軍の支配が中国共産党に移管された11月下旬で、その間は休校状態だったようだ。国民学校高学年の生徒は学習塾形式で授業が確保されていたようだが、筆者のような低学年児童まで手が回らない。

 担任の鈴木久子先生も家族と一緒に生き延びるのがやっとの毎日。初秋になって校長先生から「なるべく男装をして学校へ来るように」と指示があり開校の準備をしたが、すぐにまた自宅待機になった。国民学校校舎は土足のソ連兵によって蹂躙されたままであった。
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爆風(45)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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2018年02月06日
爆風(45)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 高崎総裁は「鞍山の昭和製鋼と連絡がとれていないので心配だ」と言い、鞍山製鋼所の岸本所長(大将)宛ての親書を加々路に託した。加々路は遼陽に帰隊後鞍山へ出向き、岸本大将に直接この書面を手渡す。岸本は食い入るように手紙を読み「これで今の新京の様子、高崎総裁の考えがよく分かった。すぐこちらの模様を知らせることにする。わざわざありがとう」と礼を述べた。

 ソ連軍による工場施設撤去および本国への運搬は10月いっぱいでほぼ目途がついた。そして迎えたのが11月6日である。遼陽のソ連軍司令部から「本日は革命記念日により貴部隊将校を式典にご招待したい」との連絡。このところのソ連軍の動きを見るとどうも臭い。そのままシベリアに連行されるのではないか、という心配があったが、招待を断る理由はない。ソ連軍はパスまで用意しているのだ。

 バスに乗り込んだのは40人程の将校たち。夕闇が迫る中を家族や残留将校に見送られて出発した。ところが走り出してしばらくすると、エンジン不調でバスが止まってしまった。ソ連兵は困りきった顔だが、日本側は平然と呑気に修理が長引くの待つ。同乗の和泉正一は本来戦車隊出身なので、自動車のエンジン修理についてはいささか心得もあったがここは一切知らんぷり。

 やっと修理が終わり、再びバスに揺られて遼陽のソ連司令部に着いたのがもはや夜半過ぎ。革命記念日の式典なるものがほんとにあったのかどうかも判然としなかったが、ソ連側はしきりに「手違い」を詫びて将校たちを東京陵へ送り返した。後で知ったところでは当日、革命記念日への招待を口実に集められた多くの日本兵がシベリア連行に遭っている。東京陵のバス故障は不幸中の幸いと言えなくもない。

 日本人将校のシベリア連行に不覚を取ったソ連軍は翌11月7日、林光道少将(部隊長)を夫人の目の前で自宅から連行した。「火薬製造について質問したい」との理由だが、8月25日に次いで2度の将校連行失敗の尻拭い的措置だったものと思われる。しかし、将校、軍属、その家族にとってもはや林は最高指導者としての権限も人望もない。そのソ連連行はソ連側が意図したようなショッキングな出来事ではなかった。林光道は数年のシベリア抑留後、帰国して日本で生涯を終えた。

 ソ連軍が火工廠の支配を中共軍(以下「八路軍」「東北人民解放軍」とも呼ぶ)と交代したのは11月17日だった。その直前、三度目のシベリア連行の企みが仕掛けられた。今度は旧関東軍司令部がソ連に加担しており、矢面に立ったのは林部隊長の権限を引き継いだ吹野信平少佐であった。
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2018年02月02日

爆風(44)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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2018年02月02日
爆風(44)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 加々路と松本は新京の大通りを捕虜収容所になっている元の消防署を目指して歩いた。遼陽、奉天などと違ってソ連軍将校の姿も多く、街中を装甲車が走っている。大通りの突き当たりに赤旗が翻り、火の見やぐらに見張りの兵士が見えた。捕虜収容所である。建物の周囲は鉄条網が張り巡らされている。脇の入り口に少年兵が1人で立っている。松本が得意のロシア語でかねて用意した来意を告げた。

 少年兵は2人が持っている南京袋の中身を改め、野菜であることを確認、すんなり通してくれた。建物内には元日本兵が忙しそうに歩きまわっている。その1人に「最高幹部に会いたい」と言ったところ「将官は既にチタ、ハバロスフクに連行された。ここには佐官しかいない」との返事。そして佐官が集まっている部屋に案内されたが、驚いたことに最高責任者は8月15日まで火工廠にいた関大佐だった。

 まことに奇遇。加々路はその後の火工廠の推移を報告した。将校はじめ軍属も1人の連行もなく全員無事だと伝えると「それは凄い。よく捕われなかった」とその場の佐官達にどよめきが起こった。この収容所は近いうちに閉鎖され、全員ハバロフスクへ送られるという。ハバロフスクから日本へ帰れればいいが、と希望がらみの冗談が出た。

 加々路は関大佐に、改まって火工廠の今後について指示を仰いだ。「敗戦後大本営から『部隊を解散して兵員は除隊させよ』との最終無電が来た。これが命令の最後だ。この命令を全満の部隊に伝達してほしい」。それはとうてい不可能に思えたが、加々路は命令の伝達を約束した。いたずらに収容所内の滞在が長引くと無事退出することでできなくなる恐れがあるので、日頃ソ連兵と折衝している関大佐の口利きでなんとか建物から外へ出た。後ろから発砲などされるのではないかとびくびくしながら大通りへ戻った。

 翌日は在満居留民会に高崎達之助会長(満業総裁)を訪ねた。途中北満からの避難民で溢れている白菊小学校に立ち寄る。女子どもだけの集団は飢餓、病気、暴行に苛まれ、聞きしにまさる地獄だ。これらの人たちの苦労に比べると、桜ヶ丘はなんて恵まれているのかと思わざるを得ない。

 民会事務所に高崎総裁の姿はなかったが、係員から自宅を教えてもらった。自宅ではちょうど出かけるところだったが、遼陽からわざわざ来たというので家の中に引き返し話を聞いてくれた。遼陽や奉天の様子、またここまで来る途中の沿線の模様をに熱心に耳を傾けた。高崎総裁は「在満日本人の安全確保に関して毎日ソ連軍司令部と交渉している。敗戦国ではあるが毅然たる態度が必要だ。当面百数十万の在満同胞をどうして越冬させるかに心を砕いている。食糧、石炭の確保は待ったなしだ」と決意で顔を紅潮させた。
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爆風(43)

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2018年01月31日
爆風(43)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 松風寮の加々路仁は、8.25のような混乱が生じるのは部隊に情報が少なく周囲から孤立しているせいだと思った。関東軍火工廠は満州918部隊に属し、部隊司令部は文官屯にある。そこへ行けば情報が得られるに違いない。早速林光道部隊長の許可を得て、トラックでまず遼陽へ行き列車で奉天へ向かった。同行のK青年と2人、満人服を着て三角の編み笠を被る。どこから見ても満人と区別がつかない。

 遼陽から奉天へ、客車に乗れた。周りは満人だけ。ソ連兵が見回りにきた。満人に密告されるかと怖れたがそんなこともなく奉天についた。ここから文官屯までは歩かなければならない。2人だと目立つので文官屯で落ち合うことにして別行動をとる。文官屯は奉天の郊外で屯(村)というより賑やかな町だ。

 裏通りでソ連兵と満人が何やら取引しているのを目にした。構わず歩いているといきなり突き飛ばされて足で蹴られた。加々路は逃げるにしかずと駆けだしたが追いかけてはこなかった。途中八路軍の検問に引っかかったが何も持っていないので無事通過。まだ日の高いうちに文官屯官舎に着いた。

 将校寮に直行すると同期の菅根大尉や山田中尉がいて歓迎された。火工廠の8.25の玉砕騒ぎがこちらにも伝わっているらしく「大変でしたね」と労われた。奉天市内の状況は思った以上に過酷で、毎日死人が出ているそうだ。新京の様子はここでも掴めていない。連絡が取れないという。

 加々路は情報収集にはどうしても新京へ行かなければならないと決断した。ちょうどそこへ大連から松本百公が帰ってきた。松本はロシア語、中国語が堪能である。加々路が新京への動向を頼んだところ快く承知してくれた。10月初め、ソ連の軍用列車を乗り継いで2日がかりで新京に着いた、

 新京には田島さんという竹村正大尉の奥さんの実家がある。訪問するとわざわざ遼陽から来てくれたと大歓迎された。竹村大尉の無事を伝え、関東軍司令部や居留民会へ行って話を聞きたいと述べた。民会については丁寧な現況説明があったが、司令部の動向は分からないという。主力は朝鮮国境の通化へ行ったようだが、残った軍人はソ連の捕虜収容所に入れられている。連絡の仕様がない。

 加々路は何とかして捕虜収容所に潜りこむ方法はないかと考えた。ソ連軍が満鉄社員に優しいというので満鉄の制服を借りた。その上で兄が収容されているので野菜と肉を差し入れるということにする。失敗してももともと、当たって砕けろ、だ。空は青く晴れ渡っている。田島さんの激励を背に2人は出発した。
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戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2018年01月26日
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■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 ソ連兵と起居を共にした佐野肇中尉の手記《唐戸屯に進駐した十数人のソ連兵の接待係を命じられた。当時私は24歳、吹野信平少佐の命に従ってただ黙々と任務をこなした。毎日ソ連の兵隊たちと行動し、ソ連下士官と同じ建物内で夜を過ごした。この間に私が感じたのは、ソ連という国は気に食わないが、兵隊たちは無邪気な若者だということ。ただし、金目のものと女性に対する欲求は強かった。

 毎晩少尉以下の幹部と会食して随分酒を飲んだ。ビール、ブド―酒、日本酒、ウオッカ、焼酎何でもござれ。縄で縛った山羊の首を軍刀でちょん切って料理したりした。ある時、隊長の現地妻の日本人女性との仲を疑われ、一晩中ピストルで脅かされたことがあった。疑いは晴れたが今思い出しても怖い体験だった》。

 ソ連軍士官の炊事を担当した先崎俊雄の手記《8月31日からソ連軍の食事づくりを民会執行部の殿岡氏から依頼された。「自分はロシア料理はつくったことはない」と言ったが、洋食をつくれるのはお前たけだと頭を下げられて引き受けた。

 献立はロシアスープ(野菜、豚肉、鶏丸煮)、ハンバーグ、ローストチキン、餃子などで、材料は工場に備蓄してあった綿布類を近くの満人部落へ持参し物々交換して調達した。料理の評判はよく、毎日過食したため腹を壊した兵隊もいたという。ある時ソ連部隊長の自室に呼ばれ、ビールを振る舞われた。「あなたの料理はとてもうまい」と通訳を通してほめてくれた》。

 東京陵でパンを焼いた小森進会計科員の手記《東京陵へは6人のソ連兵が来た。宿舎は以前豆腐職人の満人が泊まっていた汚い部屋だ。この兵隊たちの食事を任された。初めての日、砂糖をふんだんに使った上等なパンを焼いた。それを食卓に出したところ「ネ―ハラショ―」と突き返された。糖分は駄目らしい。そこで翌日は砂糖抜きのパンにした。彼らは上機嫌でむしゃむしゃ食った。

 酒保の倉庫にあったウィスキー、ビール等はひと月半で飲みほしてしまった。あとは日本酒しかない。日本式に熱燗にして出したらこれも「ネ―ハラショ―」。コップの冷酒は上機嫌で飲んだ。突っ返された燗酒は私たち調理人があり難く頂戴した。

 ある日ソ連軍将校が「馬車を用意しろ」と命じるので、近くの部落で馬車を御者ごと借りてきた。彼らは倉庫にあった地下足袋を馬車に山のように積んで満人部落へ。そこで野菜、豚肉、アヒル等と物々交換して戻ってきた。本来の持ち主である日本人には何の断りもない。敗戦国日本の無力さ加減をいやというほど知らされた》。
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2018年01月25日

爆風(41)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2018年01月25日
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■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 進駐してきたソ連軍はどんな軍隊だったのか。まず筆者の遠い記憶から探ってみる。ソ連軍が宿舎にしたのは部隊本部の建物と工場だった。部隊本部は幹部クラスで一般兵隊は工場で寝泊まりしていたのではないか。工場は高い塀で囲まれている。8歳で国民学校2年生の私は友だちと連れ合って工場の塀の下に行った。すると若いソ連兵が顔を出して紙に包んだひまわりの種をくれた。炒ったひまわりの種は香ばしくてアブラもあって結構食えた。私たちは種をポリポリ噛みながら塀の下で石蹴りなどして遊んだ。

 唐戸屯地区の工務科鴨沢弘の手記。《唐戸屯地区に駐屯した分隊の最初の隊長はクリロフ少尉といった。背はそれほど高くなかったが白哲金髪の美青年だった。宿直の夜筆談で話し合ったことがある。愉快な好人物だ。ドイツ軍と戦ったことを自慢していた。あまり教養のある人物に思えなかった。部下の兵士の話では、確かに少尉は大学卒だが、ソ連では大学卒で優秀なのは技師になったりして軍務にはつかないそうだ。

 クリロフ少尉の後任はベリヤイエフ少尉で、その頃のこんな話が記憶に残っている。日本人女性を接待に出せとの要求に遼陽のその筋に頼んで職業的婦人に来てもらった。この婦人がその夜相手にしたソ連軍士官があまりに烈しいので一晩で遼陽に逃げ帰り、しかも入院してしまった。林光道閣下が激怒してベリヤイエフ隊長を難詰したという話だ。その後中国人女性に頼んだが彼女たちも一晩で逃げ出した》。

 庶務科米田穣賢の手記。《日本人による工場の施設撤去を監視しているソ連軍守備兵は、17,8歳の子どもみたいのと40過ぎの年配者だった。将校も20代そこそこで、全員補充兵ばかりのように見えた。文字を書けない兵が多く、書けても下手な字だ。彼らは時計や万年筆、カメラを欲しがった。腕時計を両腕に2つも3っつも付けて自慢しているが、ゼンマイが切れて動かなくなると「エエハラショ」を連発して腹を立てた。ネジの巻き方を教えると「スパシ―ポ」と子どものように喜んだ。

 機械類に対する知識に乏しく、兵器の扱いにしても、日本兵のように陛下の銃というような考えはなく粗雑に撃つ。唐戸屯の本部前で機関銃をぶっ放す。故障で動かなくなると決して修理などしない。弾を抜き取ると平気でその辺に置き去りにする。弾もキジを撃ったり、豚を撃ったり無駄遣いする。日本人にはとうてい考えられない。

 司令官が交代するときには貨車が1輌引き込み線まで回される。そこへ食糧や衣料品が詰め込まれるのだが、記帳が実にいい加減で実際との差は司令官の余得になる。満人はロシア人を大鼻子(ダービーズ)と呼んで馬鹿にしている。「ダービーズ・ローマイーアン」(ロスケは驢馬と同じだ)というのは、ソ連兵が女と見れば襲ってくるからだ。それに対して日本人はプーハオ(悪い奴)もいればシンテンハオ(良い奴)も多いからハオ(好き)だという。どこか親しめるということらしい》。
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爆風(40)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2018年01月24日
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■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 9月に入ると関東軍としての部隊編成が解かれ、民営の自治組織づくりが本格的した。それが日本人居留民会桜ケ丘支部となる(支部長・吹野信平、副支部長・浜本宗三)。支部運営は東京陵地区と唐戸屯地区に分かれ、それぞれに町会長を置いた。火工廠も民営の南満工廠と名前を変えて支部の管轄になった。

 南満工廠は工廠長の下に業務系統に応じて実力者を配置した。総務部長・鈴木弓俊、総務部補給課長・福田正雄、総務部教育課長・伊藤礼三、事業部長・川原鳳策、業務部長・馬場純一郎、動力担当・鴨沢弘、倉庫科長・加藤治久、第一工場長・得能典通、第二工場長・保坂秀夫の各氏である。

 ソ連軍は工場内の設備解体・搬出に日本人を使用したのに賃金を払わない。1万人近い居留民が食べていくのは至難の業だ。支部は工場に備蓄してあった小麦粉や高粱、粟などの雑穀を引き渡すよう交渉して当面飢えを凌いだ。同時に男は全員近隣の農家や工場に働きに出て賃金を稼ぐ。それをプールして必要に応じて分配した。「1人の犠牲者も出さずに生き延びよう」というのが方針の基本だった。

 支部が最も気を使ったのが近隣の現地農民との関係であった。8・25事件に際しては略奪、襲撃などがあり、居留民はさらなる危害を恐れたが幸い大事には至らなかった。いずれにしても以前のような支配者面はできない。対等の関係をこちらも自覚し、相手にもそのように接してもらわなければならない。、

 朴家溝で農場管理をしていた西村秀夫氏の手記によれば《近隣の満人農民たちとの関係も終始平和的であり友好的であった。大日本帝国の支配があった時代とは異なった親しさが生まれた。・・・・満服を着た私が凌陽への道を歩いていると、馬車で通りかかった農民が「西村さんどこへ行くんだ」と聞いて「乗ってゆきなさい」と勧めてくれたことが度々あった》と言うが、それは稀な例だったのではないか。当時8歳の私は母親に「満人は怖いから絶対に官舎敷地から出るな」と言われた記憶が残っている。

 満州の冬は厳しい。昨冬までは工場から配管されているスチーム暖房で、外が零下20度でも家の中は春のような暖かさだった。今年はどうなる。支部はソ連軍と折衝してひと冬越せるだけの石炭の確保に成功した。その石炭をボイラー室及び町内単位の貯蔵所までトロッコで運んだ。大変な労働だったが、この早めの対処が凍死を防ぎ居留民の命を守ったことになる。

 居留民にとって今満州はどうなっているのか、これからどうなるのか。情報がないのが一層不安をかきたてる。青年たちの間では「近い将来米ソ戦が始まる。強い方につけば日本は優位に立てる。それまで山中に入り馬賊になって時期到来を待とう」といったようなデマが飛び交った。支部はそれらのデマを防ぐため、新聞班をつくり、ガリ版刷りの「白塔新聞」を発行。「白塔新聞」は1946年2月まで発行され、町内会を通じて各家庭に配られた。
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2018年01月18日

爆風(39)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2018年01月18日
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■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 柳中尉は翌26日1日中、東京陵の工場と官舎を守るための防衛柵設置工事の指揮にあたっている。夜は浜本大尉宅で今後の火工廠のあり方について意見を交わした。防衛柵工事は27日も続けられ、柳は引き続き作業に従事する。夕方東亜寮内の白塔クラブに有志が集まり、浜本大尉を中心に会議を持った。明日開かれる林部隊長召集の火工廠の将来方針を討議する会議への対策を練るためだ。

 会議では浜本大尉が提案した将来方針の基本理念をたたき台にして議論され、大方の同意、意思統一ができた。この議論の中で柳中尉は林部隊長に対する批判的意見を吐いたものと思われるが、「関東軍火工廠史」にはその内容は記されていない。会議は午後10時頃終了したが、柳その他3,4人はさらに深夜2時頃まで話し合った様子である。その後柳は徹夜で行われていた防衛柵づくりを視察し2時間ほど仮眠した。

 28日6時半頃起床すると柳は鈴木弓俊中佐の部屋を訪れ、「これからの日本を救う道は、科学の新生面を開くしかないなあ」としみじみした口調で述懐した。鈴木中佐は押入れの布団の下から拳銃を取り出した。関東軍総司令部に出向していた柳から預かっていたものである。鈴木が開け放された窓から外の電柱に向かって1発発射。柳は驚いて「露助を刺激しては大変だ」と鈴木を宥め拳銃を引き取った。

 柳中尉のその後の足取りは既に記したように、稲月中尉の部屋をふらりと訪れ、何ということもない話をしてまたふらりと出る。午後は浜本大尉宅へ回ったが大尉は留守。夫人に挨拶してどこかへ姿を消す。そして夕方、吉野神社の裏でピストル自殺している。

 柳中尉の自決は覚悟のものだったか、あるいは衝動的な行為だったか。両方が絡んで複合的に動機が形成されたというのが筆者の見方だ。もちろん、ソ連参戦以来の身辺の激変、特に8月25日の異常な体験が若い心を激しく揺さぶったことは間違いない。それが覚悟の自殺へとつながったことは十分考えられる。

 しかしそれらの身辺の激変は自決の背景としてはあったとしても直接の動機ではないのではなかろうか。柳中尉は、火工廠の将来だけでなく敗戦日本の今後にも思いを馳せている。これからは科学を大切にしなければならないときちんと日本の将来像を描いている。それを誰かと共有したかった。それで浜本大尉宅を訪れたが留守だった。一気に絶望の念に捕われたのではないか。その時ちょうど拳銃が手元にあった。それが衝動的に自殺へと走らせたのではないか。いずれにしても「戦争の犠牲者」であったことは間違いない。
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爆風(38)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2018年01月17日
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■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 柳中尉は優秀な技術将校だった。鈴木弓俊少佐は二つの事例を挙げて絶賛している。第一「私は20年7月初め、耐酸材料の実態を勉強するため、唐戸屯の第二工場に日参した。井上富由技手から渡された資料の中に数冊の大学ノートに記された耐酸材料試験記録があった。その内容の非凡さに圧倒された。筆者の柳中尉にぜひ会って教えていただきたいと思ったものだ」。

 第二「その頃柳中尉は火薬、化学行政の強化を任務として新京の関東軍総司令部に出向していた。それが火工廠で、夕弾型式の対戦車地雷の威力試験をやるというので来廠した。中尉は実験条件設定のために自ら手を貸して、実に行動的、実証的に試験を取りまとめて成功させた」。

 井上技手は8月10日、新京の関東軍総司令部の兵器部の部屋で柳中尉に会っている。みんな退散してがらんとした建物の中で「自分はしばらくここで様子をみるつもりだ。火工廠東亜寮の自分の部屋に拳銃が置いてある。何かの時に役立たせてほしい」と言った。それが自決用に使われた拳銃である。

 柳中尉が関東軍総司令部から火工廠に復帰したのは敗戦直前の8月13日で、その日から製造科に配属された。製造科事務所では、鈴木中佐、井上技手、浜本宗三大尉らがソ連参戦の非常事態にどう対処するかなどの議論が夜半に及んだ。復帰第一夜は布団などの荷物が未着なため鈴木中佐の部屋に泊まった。

 そして運命の8月25日、柳中尉は爆死を決意した林部隊長から火薬点火役を仰せつかることになる。この玉砕に批判的な川原鳳策少佐が主導して、浜本宗三大尉を主席とするソ連軍司令官への再陳情の方針が立てられた。至急東亜寮に十数名の将校が集められる。玉砕回避へ向けての各自の任務分担を話し合うためで、この会議に柳中尉も出席していた。「関東軍火工廠史」の鈴木弓俊の手記によれば、席上柳中尉はおおよそ次のような発言をしたと記されている。

 「自分は廠長の信任を得ており、もし玉砕現場にいないとなると林廠長を不安にし混乱を招くことになりかねない。従って玉砕場から離れるわけにはいかない。ソ連軍司令部への軍使の帰還が遅れて、林廠長が点火を命じることがあっても極力点火を遅らせるよう努力する。万一点火しても爆発を防げるよう導火線に細工をする」。

 その夜柳中尉のとった行動はまさにこの発言通りであった。玉砕を回避できたのは浜本大尉らの決死のソ連軍説得が功を奏した賜物であることは間違いないが、直接的には導火線への点火を拒んだ柳中尉、稲月光中尉の決断によるところが大きい。
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沖縄ノート(10)屈辱の戦後A

17年01月14日
沖縄ノート(10)屈辱の戦後A 

■坂本陸郎(JCJ運営委員;広告支部会員)

良民の戦後
 沖縄の人々は、戦前の天皇制国家に対して忠実であった。天皇を敬い、皇国に忠誠を尽くそうとする心情は、本土の住民以上であったとも言われている。それは、沖縄が同じ日本でありながら、地理的に本土から遠く離れた島であったからであった。そこでは、本土への一体化を求める感情が強くはたらいていた。
 去年(2017)の暮、乗換駅のホームで、沖縄ノート(8)で紹介した対馬丸遭難者、仲田清一郎氏と偶然会い、車中で会話を交わす機会があった。その折、仲田氏は、辺境であればあるほど、住民は国家に対して忠実になるものだ、という話をされた。そのとき私は、戦時下の沖縄では、本島のみならず離島の隅々まで皇国の思想が行き渡っていただろうことを想像した。
 彼らは素朴さゆえに、それを抵抗なく受け入れていたのではなかろうか。だが、天皇に帰依し国家に尽くそうとする心情は、やがて裏切られることになる。沖縄戦で頼りとした皇軍は、彼らが想う軍とは違ったものであった。天皇の軍は一般住民に対する加害者としての顔を持っていた。そうした軍の一面を、本土の国民の多くは信じ難いと思うであろう。
 敗戦後は、生きる手だてを失った沖縄の住民(本土の住民もだが)は、征服者であった米軍政府の庇護に頼らざるを得なかった。当時沖縄では、米国を自由と民主主義の国だとする宣伝が行われていたからでもあった。
 その限りでいえば、沖縄は本土と共通していた。だが沖縄では、その支配が、本土では想像できないほど横暴非道なものであった。そのことによって住民の軍政府に対する期待は短時日のうちに打ち砕かれることになる。それが、占領下の沖縄と民主化が行われた植民地であった本土との、戦後における違いである。
 1946年4月、ワトキンス少佐が、「アメリカ軍政府は、例えるなら猫であり、沖縄の住民は鼠である。猫と鼠の考え方の違いはあってはならない。講和会議〈51年〉がすむまでは鼠の声は認められない。アメリカ軍政府の権力は絶対である」と語っている。
 彼らは、沖縄を占領支配することを当然のように考えていた。その支配は、講和条約締結後にいっそう絶対的、暴力的なものとなっていった。その背景に何があったのか。
 詳しくは後述するが、1947年に天皇が、沖縄を米国に差し出す意思を米国政府に伝えている。その後の51年日本政府は、沖縄を日本領土から切り離すサンフランシスコ講和条約に同意し締結した。それによってアメリカの極東戦略のもとに沖縄の占領は固定化することになった。日本政府の希望に沿って、それが合意された点は重要である。

占領統治
 戦後の沖縄が日本本土とは異なる占領地であったため、支配者は傍若無人に振る舞うことができた。軍政府は、非人間的環境で荷揚げに従事する住民の働き方が気に入らないからといって、その報復として、命綱の食料などを扱う売店を閉鎖する指令を全島に告知した(前号で触れた)。1949年には、軍が供給する食料品の一方的な値上げを行うなどした。
 当時は、軍政府の指示によって、民間人による行政機関がつくられ、志喜屋孝信氏が知事職に就いていたのだが、彼は軍政府におもね、住民の声に耳を傾けようとしなかった。それが住民の反発を買い、辞職を迫られ、沖縄県議会議員全員が辞表を提出するに至り、売店閉鎖の指令は取り消された。これは「窮鼠猫をかむ」戦後初めての事件であった。
 一年が過ぎると、収容所で暮らす住民に、以前の居住地に帰ることが許され、まず首里と那覇の一部の住民が町や村に帰っていった。だが、多くの住民が帰るに帰れなかった。かつての村や町、集落が、戦禍で跡形もなく消えていたからだった。
そこには、有刺鉄線が張り巡らされ、「立ち入り禁止」のプレートが掛けられていた。しかたなく住民は、わずかに残った集落に、他の集落の住民と共に暮らすことになったのだが、当時は米兵の家宅侵入が横行し、女たちは床下や天井裏に隠れなければならなかった。
 住む家と土地を奪われた住民の悲しみは大きかった。鉄条網がめぐらされた基地建設予定地の敷地内には、先祖代々の墓があったのだが、その墓を見ることさえできなかった。それは、1950年代に始まる、基地拡張のための私有地強奪のまえぶれであった。

苦難と混乱
 住民は、耕すに土地なく、働き口といえば、米軍に雇われて働く以外になく、その職種も限られていた。しかたなく住民は、くず鉄を拾い集めたり、米軍の物資を横流しするなどして、日々しのぐしかなかった。
 1948年に本土並みの6・3制が敷かれたのだが、学校に行けず、働かなければならない多くの子供たちがいた。教育の場を奪われた子供たちは、米軍将校の身の回りの世話をするハウスボーイやメイドとなって働いた。親を失い一家の生計を支える12,3歳の少年、少女たちも数多くいた。そのころは、学歴を気にする親も少なかった。たとえ進学したとしても、沖縄では米軍の基地で働く以外に就職の見込みがなかったからだった。
 壮年の男たちは基地建設現場で、わずかな賃金で働いた。かつての教師も基地で働く大工になり、検事だった人が米軍基地ゲートの守衛になるなどした。
 さらに、1946年8月になると、中国、朝鮮、台湾などの外地から引揚者が続々と帰ってきた。引揚者たちは、沖縄に残っていた家族すべてを失った人や、学童疎開中の沖縄戦で両親を失った子供たちや、妻子を失った軍人など、それぞれの不幸を背負う人々であった。
 そうした引揚者たちも加わり、社会は混乱した。戦後一年が過ぎても、失業者が巷にあふれ、食糧が不足し、なんらかの方策をとらざるを得なかった。
 対応を迫られた軍政府は「沖縄開拓庁」を設置させ、食糧の調達と生産を図り、ハワイやアメリカ本土、日本本土から豚や牛、山羊、雛鳥などを調達し、住民に飼育させ、漁民には上陸用舟艇を払い下げ、漁業の再開を促すなどしていたのだが、当時の沖縄の人口45万人の食を満たすには、ほど遠かった。
 その頃、本土では戦後の経済復興が緒につき始めていた。そのような本土から見ると、沖縄は有望な市場に映った。沖縄では生産活動がほとんど無に等しかったからだった。

切り離された沖縄
 沖縄の占領支配を可能とした歴史上の事実を書き留めておきたい。
 当時、戦後に占領地をそのまま支配、統治することを、他の連合国は同意しなかった。国際法上からも、それが認められていなかった。そのため、米国は国際世論の非難から逃れるために、サンフランシスコ講和条約の中に、やがて沖縄を国連の信託統治に移すかのような条文を書き入れている。
 日本政府に関しては何ら問題なかった。当時の吉田茂首相が講和条約締結に先だって、99年間の租借(バミューダ方式)を提案することを西村熊雄条約局長に指示し、沖縄の半永久的占領を希望する旨を米国側に伝えている。この日本政府の意向は、他の連合国の承認を得るうえで有効であっただろう。したがって、その後米国は国連に対して、沖縄を信託統治に置く提案をいちども行っていない。
(資料)サンフランシスコ講和条約第二章・第三項 
『日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島および大東諸島を含む)、そう婦岩の南方諸島(小笠原群島、西の鳥島および火山列島をふくむ)ならびに沖ノ鳥島および南鳥島を、合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度のもとにおくことを、国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ、かつ可決されるまで、合衆国は、領水をふくむこれらの諸島の領域および住民に対して、行政、立法および司法上の権力の全部および一部を行使する権利を有するものとする』

  
 講和条約締結以前の1947年に、昭和天皇が沖縄の占領継続を希望する旨を米国側に伝えている。これが、世に言う「天皇の沖縄メッセージ」である。当時は連合国によって戦後処理を話し合う「極東委員会(FEC)」が置かれていたのだが、そこでは天皇を戦犯として起訴すべきという意見が支配的であった。また、アメリカ国内でも、天皇の戦争責任を求める世論が多数を占めていた。それを天皇は知っていたであろう。


 以下は、林博史著『沖縄戦が問うもの』から。
「戦後になり、日本国憲法が制定され、第9条により日本が軍隊と戦争を放棄したことに危惧を抱いた天皇は、日本と天皇制の安全のために、密かにアメリカと連絡をとった。1947年9月に天皇の側近である寺崎英成を通じてGHQの外交局長シーボルトに、『天皇は、アメリカが沖縄を含む、琉球の他の島々を軍事占領し続けることを希望している』こと、『長期の貸与』という形で占領を継続することなどを提案した。このことは米本土にも伝えられた。当時、米政府内では、沖縄の軍事占領を継続したい軍部と、連合国の建前から、沖縄を返還すべきと主張していた国務省が対立していた時期である。その時に、天皇は自らの安全のために沖縄を売り渡す提案をしていたのである。沖縄は天皇制を維持するために、ふたたび捨て石にされた」。この「天皇メッセージ」について、琉球新報の新垣毅氏が自著『沖縄のアイデンテイテイー』の中でこのように書いている。「25年から50年、あるいはそれ以上にわたる長期の貸与(リース)という『擬制(フイクション)』によって、沖縄の軍事占領を続けることを求めた内容は、『貸与』という見せかけの下、沖縄を『自由に使ってよい』というものだった。対日政策をめぐって混乱していた米政府にとって、(天皇の)提案は”渡りに船“だった。」   
             

(つづく)
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2018年01月13日

爆風(37)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2018年01月13日
爆風(37)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 柳中尉は何故自決したのか。遺書らしきものはないので憶測するしかない。「関東軍火工廠史」は「自決した柳中尉を偲ぶ」と一項を立てて関係者の証言を集めている。手記を寄せたのは庶務科の米田穣賢軍属、鈴木弓俊中佐、稲月光中尉、木山敏隆雇員、鴨沢弘(工務科の将校だが階級不明)らである。これらの手記をもとに「柳中尉の死」を検証してみようと思う。

 柳尚雄は25歳か26歳で、東京帝大理学部工学科を卒業した陸軍技術中尉。相手によっては激論をたたかわす熱情の持ち主であった(稲月)。食事しながらでも本を読む一方、厳しい国粋主義者で「大和は神の国なり、決して滅びず」と今次戦争の勝利を確信していた(鴨沢)。

 28日は午前に稲月中尉の部屋に寄ったが、夕方近くなって浜本宗三大尉宅を訪れている。浜本は留守で奥さんが対応した。帰宅後その話を聞いた浜本は「あいつ今日は会議に出て来ず、どこへ行ったのかと思っていたらうちへ来たのか。前の会議で言ったことに少し気になることがあるな」とつぶやいた。(後述するが、浜本大尉はこの5カ月後に命を落としている。この日の浜本の行動は米田の手記による)。

 「前の会議」とは前日に浜本大尉を中心に集まった「28日の将校会議でどういう方針を提起するか」という非公式な対策会議のことで、ここには柳中尉も出席していた。浜本と柳は火工廠の将来図について「大局の洞察、愛情と正義」を基本とすることで一致、打てば響くの如くであった(鈴木)。

 この対策会議において柳中尉は、8月25日の林部隊長の対応を強く批判する発言をした。それが浜本大尉の頭の隅に引っかかっていたと思われる。ところで、米田の手記では28日の林部隊長召集の将校会議には柳は出ていなかったことになっている。稲月の手記もそれと同じなので筆者は柳欠席説を採用したが、柳が出席していたという見方もある。鈴木弓俊中佐と工務科・鴨沢弘の手記である。

 鈴木手記《8月28日、柳さんは6時半頃に起床した。私の部屋で誠にしみじみと一点を見つめながら「これからの日本を救う道は、科学の新生面を展くしかない」旨を述懐された。私は押入れの布団の下から預かっていたピストルを取り出して返却を申し出、あけてあった窓から電柱を目がけて1発発射した。柳さんは驚いて「露助を刺激したら大変だ」と私を宥めてピストルを引き取った。

 28日の会議に当たって浜本、柳氏らの狙いは、平穏裡に新体制に移行する決議を得ることにあった。私はこの会議に出席せず、1人で製造科事務室の留守番をしていた。会議が終わって柳さんが部屋に入ってこられたのは午後に入っていたのではないか。呆然とした表情で、私が会議の首尾を尋ねたのに対し、言葉少なにあしらってすぐ部屋を出られた。この後浜本さんの留守宅へ立ち寄り、夕方には吉野山でピストルを発射し自らの眼窩を撃ち抜かれたのである》。

 鴨沢手記《8月28日の会議には私は出席していない。8月25日夜の事件の処置についての会議だったと思う。柳中尉がその責任の所在について林閣下に迫ったということを、出席者の誰かに聞いたことを覚えている》。

 2人とも会議に出席して直接に柳を見たわけではない。すると米田手記の、浜本大尉が「あいつ今日の会議に出て来ず」と言ったという方がリアルで真実味がある。ただ、柳の林批判が本人のいない27日の対策会議なのか、28日に本人を前にして言ったのかでは意味が違ってくる。しかしそれを今や検証する術はない。
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2018年01月12日
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4、ソ連軍支配時代
 大動乱から一夜明けた8月26日、火工廠の守備を任務としたソ連軍1ヶ小隊が鈴木弓俊中尉に誘導されて唐戸屯部隊本部に到着。軍服で正装した林部隊長以下将校の出迎えを受ける。関東軍火工廠は、この日から約3ヵ月のソ連軍支配の時代に入った。

 ソ連軍の支配目的は工場設備と火薬類のソ連領への搬出であって、自ら統治するとか工場を稼働させるとかはまったく考えていない。食糧、ライフライン、治安の確保など生きて行く手段は住民自らが切り拓かなければならない。そこでそれにふさわしい廠組織の指導体制が求められた。

 一連の騒動で信望の落ちた林光道廠長に替わって、吹野信平少佐と浜本宗三大尉を中心に新しい指導部が形成された。吹野、浜本はソ連軍支配下で生き延びるための基本を次のように考えていた。

《拠り所を教育勅語と終戦の詔勅とし、具体的には@火工廠は今後軍事に関与しない、平和産業を目指すA1人の飢える者も出さず、1人の贅沢も許さないB戦前の階級、職階、学歴を問わず愛情と実行力のある人物を登用するC北満からの難民受け入れに応じる》。

 8月28日午前、林部隊長により新事態に備える将校会議が招集された。その場でまず激論になったのは、消防車2台を盗み出し朝鮮国境の安東を目指した40人の脱走者についてだ。これだけは看過できないので罰すべきだという意見が強く出された。最後にこの問題も含めて次のような決定事項となった。

 @林光道少将を象徴的部隊長として今後も仰ぐ。
 A旧軍隊組織とは別に自活自律を主眼とする民会的組織を設ける。
 B東京陵、唐戸屯に自治体的町政を敷く。
 C8月25日の各種出来事については安東向け脱走者も含めて何人の責も功も問わない。
 D住民の生活維持のため、各人の能力(農耕、大工、電気技術、裁縫など)を活かして外部から収入を得る。それを一旦プールして家族数に応じて公平に分配する。

 稲月光中尉は林部隊長が召集した将校会議に出る気になれず、午前中、東亜寮の自室にいた。そこへやはり会議を欠席したらしい柳尚雄中尉がふらりと現れた。大した用事がある様子もなく、しばらく話をしてまたふらりと出て行った。昼食後、稲月中尉は手持無沙汰なので同じ寮内の岡野軍医大尉の部屋に行く。そこで2人でウィスキーを飲んでいるところへ突然木山雇員が慌しく飛びこんできた。「柳中尉が吉野山でピストル自殺しました」。

 2人ともすぐさま軍服に着替え、鉄条網を乗り越えて山を上った。柳中尉は吉野神社の上の窪地に軍用毛布を敷き、東を向いて正座、弾丸は眼窩を打ち破っていた。少年義勇隊員が駆り出されて死骸を東亜寮内の白塔クラブへ運ぶ。連絡を受けた将校たちが続々集まる。速成の祭壇がつくられ、お通夜になった。柳中尉に家族や親戚はいない。稲月中尉は一晩中遺体に付き添った。柳中尉の遺体は翌日、吉野山の麓で材木を組み荼毘に付された。
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2018年01月08日
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遼陽駐在のソ連軍司令官が浜本宗三大尉らの陳情に対し何故「連行免除」をすんなり認めたのか、というのが三つ目の疑問である。しかも浜本大尉は非戦闘員、つまり軍属の連行免除を求めたのに対して軍人・軍属全員の集結命令を取り消したのである。理由は「ハラキリ」を避けるというような単純なものでなく、もっと別のところにあったのではないか。そこで筆者はシベリヤ抑留について調べてみた。

 ソ連はそもそも以前から戦争で捕えた捕虜を労働力として働かせる方針をとってきた。ヨーロッパ戦線で捕虜になったドイツ兵やフランス兵が、終戦後も何万人とソ連領内で農地開拓などの労働に従事させられた。第二次世界大戦の戦後処理を話し合ったヤルタ会談でスターリンは、満州と千島列島への侵攻と捕虜の使役について米英首脳の了解を得たと言われている。

 日本とソ連の停戦会談は日本敗戦直後の8月19日、関東軍総司令官山田乙三大将と極東ソ連軍総司令官ワシレフスキー元帥の間で行われた。そこで関東軍将兵のシベリア連行の内諾があったと言われているがはっきりしない。後にシベリア抑留から帰国した元兵士が国としての責任を問う裁判を起こした際、関東軍の内諾の有無を迫ったが、結果的にはうやむやに終わった。

 山田ーワシレフスキー会談の5日後、8月23日には早くも関東軍将兵50万人がシベリア方面に輸送されている。関東軍火工廠の軍人、軍属に対する集結命令もその一環といえる。ただしソ連には満州侵攻のもう一つの目的があった。それは日本が満州国内に建設した、鉄道、工場、鉱山などの産業施設や生産物を接収し、ソ連内に搬出することだった。それには施設に詳しいの日本人の協力が不可欠だ。

 関東軍火工廠はその規模、生産力、生産物、どれをとってもソ連には宝の山だ。これを無傷で接収し、生産設備・生産資材・生産物等をソ連に搬出することは火工廠を管轄する遼陽のソ連軍司令官の最大任務だ。はじめは日本人の手を借りなくても接収できると思っていたが、浜本大尉の言うように日本人技師、技術者、工員などかいなければどうにもならない。

 浜本大尉の要請は軍属の連行免除だが、今まで工場運営に当たっていた将校がいなくなったら工場接収に支障をきたすのではないか。この際軍人も連行免除にして接収後改めてシベリアへ連行すればいい。これが連行免除のソ連側の計算だったと筆者は考えている。つまり免除でなく延期だったのではないかいうことである。
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2018年01月07日
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第二は広場に集まった群衆がソ連軍による「男子全員集結命令」を何故「シベリア連行」と受け止めたのかということ。ソ連参戦から半月、日本敗戦から10日しか経っていない。男子全員集結がソ連軍の捕虜になることは分かっていたとしても行き先がシベリアとまでは明らかでなかったはずだ。集結命令には「防寒具用意」とあるからそれでシベリアを想起したということはあるだろうが、果たしてそれだけか。

 父の同僚小林隆助は「すぐ帰ってくるから」と長女延子に言っている。小林が広場に出かける時点ではシベリア行きは念頭になかった。知っていたのは将校や火工廠幹部である。つまり住民間で情報の格差があったことになる。雇員クラスの下っ端従業員は広場に来てから初めてシベリア連行を知り、それに猛反発して日頃偉そうにしている部隊長や将校への批判になったと思われる。

 将校や火工廠幹部はどうしてシベリア連行を事前に知っていたのか。一つは関東軍総司令部からの情報だが、ソ連参戦以来連絡は途絶したままだ。関東軍を通じた情報伝達は可能性が薄い。

 ここで考えられるのはラジオによる情報である。満州のラジオ放送は国策会社「満州電力電信」(満州電電・MTCY)が握っていた。満州電電は本土の日本放送協会(NHK)と一心同体だ(森繁久弥はNHKに入社してすぐ満州電電にアナウンサーとして配置されている)。その満州電電だが、ポツダム宣言受諾の玉音放送をしたことははっきりしているが、その後はどうなったのか。

 満州電電の本社は新京にあって新京中央放送局を運営していた。その新京中央放送局が中国共産党の八路軍によって接収されたのが1945年9月10日である。つまり8月25日時点では日本が放送権を握っていたことになる。その時はもうソ連軍が新京に進駐していたのだからとれほど自由な放送が保障されていたのか分からないが、日本語による公的な情報伝達の唯一の手段であったことは間違いない。

 もちろんラジオ放送は受信機がなければ聴取できない。その受信機が高額だったことと当局による聴取許可の手続きが厳格だったこともあって一般の家庭ではラジオは無縁だった。東京陵で言えば火工廠事務所、学校、病院、消防署などの公的機関、自宅でラジオを備えられたのは一部幹部、将校のみだった。

 男子全員集結をシベリア連行と結びつけたのはラジオによる情報だったのではないか。
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2018年01月06日
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■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

森青年を見送った後、松野一家はありったけの缶詰を開けて最後の食事にした。言葉少なに食事を終えると、子どもたちには晴れ着を着せ揃って家を出る。あちこちで火の手が上がっている。夫人はおののきながら女の子の手を引いた。ほどなく学校に着く。尺八の音(ね)に迎えられ、友人たちの輪に入る。「一緒に死のうなあ」と湯のみに酒をなみなみと注がれた。玉砕中止に至るその後の経過は他の体験者と同じである。

 後日談。「何としても日本へ帰る」と東京陵を脱出した森青年は、その後杳として行方が分からない。日本へ帰ったという痕跡もない。当時10歳の松野隆は引き揚げ後10年ほどしてアメリカ・シカゴ大学に留学し、技術者として活躍している。

 本章を終えるにあたって筆者が感じたいくつかの疑問と、それに対する筆者なりの答えを記すことにする。第一は林光道少将(火工廠長・部隊長)が何故玉砕の道を選んだのか、という疑問である。

 林部隊長は25日朝、ソ連軍司令部から軍人・軍属の集結命令を受けて即座に将校会議を招集する。唐戸屯組は1時、東京陵組は2時に出発し遼陽で合流、海城へ向かう、という方針を指示する。即ちこの時点ではソ連軍命令通り部下の軍人・軍属を従わせることに疑問を持たなかったと言えよう。

 ところが東京陵のロータリー(酒保前広場)に集まった群衆から厳しい批判が続出した。「戦争は終わったんだ」「戦闘要員でない俺達まで連行するのか」「残された家族はどうなるのか」「部隊長は何している」「ソ連のいいなりなのか」「日頃威張っている将校はどうした」。声を挙げたのは岡田栄吉のような工場労働者だった。一応軍属とはなっているがいわば名ばかり軍属だ。広場は一種の民衆革命の様を呈した。

 これは林部隊長にとって生まれて初めて見る光景だった。それまで巌のように聳えていた関東軍という権力機構が民衆の力で揺らいだのだ。部隊長は広場の声に脅かされる形で、ソ連軍司令官に嘆願に行ったが留守で会えなかった。このまま民衆の前に出たらリンチを受けるかも知れない。

 恐怖にかられた部隊長が追い詰められた末に考え着いたのが「全員玉砕」だったのではないか。軍の権威を守るために死を選ぶ、というのは彼らにとってなじみやすい思考経路だ。それで己のプライドも保てる、と考えたに違いない。日本軍国主義の底の浅さが露呈したものだと筆者は思っている。
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2018年01月05日

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2018年01月05日
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 庶務科の軍属松野徹の8月25日は、午前8時、満人の略奪から町を守る警戒柵づくりから始まった。1時間も経った頃、急に人が右往左往しだした。「ソ連軍の命令で、男子は全員捕虜として連行されることになった」と誰かが叫んでいる。《これは大変だ。柵どころではない》。広場にみんな集まっているというので行ってみると顔見知りが「睾丸のある奴はロスケがみんな引っ張っていくんだとさ」と肩をすくめた。

 そこへ政井中尉が現れて「2日分の食料と着替えを持って午後1時にこの広場に集合すべし」と命じるとさつさと姿を消した。納得できないが、嫌だと言ってもどうしようもない。家に帰り、妻子と今生の別れをして再び広場に向かった。広場は喧噪の渦だった。「男が全員いなくなったら残された家族はどうなるんだ」「ロスケの勝手にはならないぞ」「部隊長はどする気だ」。若い人たちの怒号が飛び交う。
 
 45歳の松野は広場の隅で呆然と立っているしかない。しばらく後、林部隊長が遼陽方面から自動車で帰ってきて悲壮な面持ちで群衆の前に立った。「ソ連軍司令官に軍属の連行を思いとどまらせるよう要請に行ったが果たせなかった。諸君に私の権限で自由な行動を認める。軍属の集結命令は拒否する。私はその一切の責任を負って自決し、ソ連軍司令官に申し開きする。今夜12時を期して国民学校に爆薬を運び爆死する。もし諸君の中に同調する方があれば学校に来ることを願う」。

 この部隊長宣言を聞いて松野は唖然とした。これまでの部隊最高指導者としての自負も威厳もない。もう既に死地に着いた人の言葉に聞こえた。広場の群衆はシュンとなってそれぞれの方向に散っていった。

 松野は家路を辿りながら考えた。《よし、俺も死のう。どうせ敗戦国の日本にこれからいいことはないだろう。あてのない苦難の道を歩くより妻子とともに死ねるならこれも悪くはあるまい。この世に生れて45年、それなりに充実した人生だった。幼い子らは可哀そうだが、子らだけ残っても幸せは望めまい》。

 長い夏の日が暮れて夜の帳が降りようとしていた。玄関に人の気配。部下として働いていた森青年が立っていた。「私は死にません何とかして日本に帰ります。帰るにあたり松野殿の長男隆君(10歳)を預からせてください。私の命にかえても隆君を立派に育てます」。松野はこの厚志に甘えようかと心が動いた。しかし森青年が果たして日本に帰れるのか、帰れたとしても苦労をかけることは必至だと思い至り、謝辞することにした。「志はありがたいが、人間いつかは死ぬ。10歳で死ぬのもこれ宿命でしょう」。
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