2017年12月29日

爆風(31)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765
労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年12月27日
爆風(31)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 10時頃、吹野少佐夫妻がお別れを言いにきた。「一蓮托生、やあ愉快ですよ、奥さん。長友さんにはいろいろと苦労をかけました。またあの世でよろしくお願いします」。夫妻はニッコリ笑って国民学校へ向かった。

 11時、鐘の音を合図に長友一家も正装して家を出た。人々が賑やかに歩いている。死にに行く行列とは思えない。道は淡々として白く、月が人々の影を写す。幼い子どもたちはまるで遠足にでも行くように嬉しそうだ。長友いさ子は細長い影を引きながら、何物かに引き寄せられるように静かに歩いた。 

 突然「長友中尉殿の奥さん」と声がかかる。見るとリュックを背負った松藤軍曹が立っていた。「奥さん私は1人身ですから海を泳いででも、這ってでも内地へ帰ります。何かことづけることはありませんか」。松藤軍曹は佐賀県出身で唄の上手い青年だった。「ありがとう。もし無事に内地へ帰れたら、主人と私の両親に遼陽のこんなところで親子5人立派に玉砕したと伝えてください」。いさ子はそう言って懐に入れていた預金通帳や現金を渡した。「どうかこれを持って一刻も早く脱出してください」。

 学校は煌々と電灯が点き、教室や廊下に沢山の知った顔が並んでいた。浅野中尉の尺八の音が流れている。曲目は「千鳥の曲」、いさ子は心の中で琴をひき合奏した。奥さん方との別れの目礼。髪を切った方、白装束の方、それぞれに国に殉じる覚悟が見える。

 人々は配布された青酸カリのアンプルを1本ずつ手に持つ。最後のシャンパンが抜かれる。「乾杯!」の発声。いさ子は青酸カリのアンプルを歯で噛み切って湯のみの水に移した。主人の長友中尉は羊羹に青酸カリを詰めて子どもらに端から食べるよう教えている。2階では次々に幼な子が死んでいる様子。「待っておれ、すぐ行くぞ」の声が。かと思えば歌い踊るような賑やかな声もする。死を前にした狂気の光景だ。

 まだ火薬には火が点かぬ。そのうち林部隊長と将校たちの間で緊迫したやりとりがあり、突如玉砕は取り止めになった。いさ子は子どもたちの手を握って学校を後にした。あちこちで火の手が上がっており、夜空が赤い。長友家の隣の生駒大尉宅も焼けて無残な姿を晒していた。

 翌日、幼い子どもは「お母ちゃん、面白かったけど火事が怖かったね」と言って元気に遊びに出かけた。いさ子は次々と起こる事態に思考力を失っていた自分を情けなく思った。
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爆風(30)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年12月24日
爆風(30)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 しばらくしたら産室から赤ん坊の泣き声がした。河合夫人が小さな男の子を抱いて出てきた。死の淵で新しい生命が誕生する。西村は神の加護を感じて聖書を取り出しそっと撫でた。男子誕生を祝して陸甲房の袁屯長から卵を籠に一山、韓家墳の緒文光屯長から野菜やまくわ瓜が届いた。

 翌日、佐々木、中村が戻ってきて、東京陵は平常に復したと言う。引き上げることにした。一行の滞在を快く世話してくれた湯さんに厚く礼を述べる。西村たち一行は馬車で、妻と赤ん坊は担架に乗せられて高凹を出発した。農民たちが交代で担架をかついでくれた。

 東京陵の自宅に着いてみると家中が荒らされていた。書籍以外は何も残っていない。書籍の間に何か隠されていると思ったのか、乱雑に放り出されている。とても住める状態ではない。どこがいいか探した末にやっと白百合寮に落ち着くことができた。

 吉林から命がけの逃避行でやっと東京陵に辿り着いた長友安中尉の妻いさ子は25日夕方、玉砕の決意を固めて子どもたちに言い含めた。「玉砕よ、他にないのよ。お父さんも、お母さんも一緒に死ぬんだからね。泣いたら笑われるよ。日本人は日本人らしく死ぬの。玉砕なの」。それは自分自身への言い聞かせでもあった。5歳の子は「お母さん、玉砕ってなあに、慰問演芸なの?」と聞くが答えられない。

 近所の政井中尉の奥さんが子ども2人を連れてきて「いよいよ来るところまで来ましたね」とニッコリ笑って家に上がり込んだ。子ども同士で遊び始めたがやはりしんみりしている。「あらすっかり夕飯を忘れていたわね」と母親たちに寄宿の女子挺身隊員も一緒になって食事の支度を始めた。

 お寿司をつくり、ありったけの缶詰、お菓子も広げて「さあ沢山お食べ」と子どもたちに。日頃は飛び付いて食べるのになかなか手が出ない。そこへ外出していた長友中尉が帰ってきて「とうとう駄目だった。これで内地へ帰る夢も生きる希望もなくなった。一緒に玉砕しよう。おれはもう覚悟はできている。お前はどうか」と聞く。「ええ、私だって生きることは諦めました」。

 長友中尉は大切にしていた双眼鏡を取り出して「この世の見収めだ。よく見ておけ」と子どもらに渡す。下の子たちは珍しがって双眼鏡に目を当てたが、13歳になる長女の恵子は手も触れない。何か考え込んでいる様子。いさ子は「恵子ちゃん」と呼んでしっかり抱きしめた。
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爆風(29)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年12月24日
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■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 まず農場関係者を馬車で出発させ、ついで他部署の人たちを近くの部落に割り振った。皆を送りだした後西村中尉は、所員の佐々木、中村とともに朴家溝屯長の弟張福禎の馬車に乗る。管理事務所に備蓄してあった食糧と綿布、それに数丁の小銃と実弾も積み込んだ。馬車から振り返ると東京陵の方角に火事の炎が見えた。

 石橋子から稠井子へ向かう道で先発の馬車に追いついた。道が悪くて馬車がなかなか進まない。荷の重量を減らすため男たちは馬車を降りて歩いた。西村の妻は臨月だった。初産である。揺れる馬車の上で苦痛に耐えているに違いない。西村は気が気でなかった。

 稠井子の部落を過ぎる。東京陵からっ使いが来て「話し合いがついた。玉砕は中止だ。すぐ帰れ」と言う。同行の大部分は引き返したが、西村は「まだ当てにならない。先へ行こう」と佐々木、中村を促して馬車を進めた。

 稠井子の次の部落、陸甲房へ着いたのが26日午前3時。袁肇業屯長が出迎えてくれる。馬車を降りて休憩した。袁屯長を挟んでこれからの行き先を相談。屯長の知り合いで信頼のおける湯さんの家がこの先の高凹というところにある。そこならゆっくり休めるし長居もできる。屯長の勧めでその高凹を目指すことにした。

 高凹へ向かったのは西村夫妻の他、所員の佐々木、中村、小川、吉満、直営農場を営んでいる中島一夫、義勇軍宿舎の世話をしていた河合夫人とそのお子さんたち4人。袁屯長のお声がかりということで湯さんは快く一行を迎え入れてくれた。西村は湯さんの家の周りを素早く見て回る。《もしソ連軍が追ってきたらどこへ隠れるか、どこで応戦するか》。一瞬の油断もならない逃避行だったのである。

 湯さん宅で落ち着くとどっと疲れと眠気が襲ってきた。一行はオンドルの上に寝転がって眠った。目が醒めたのがもう昼時。湯さんの心づくしの昼食に腹を満たす。西村中尉は佐々木、中村両名に東京陵の状況を確かめるためるよう依頼し出発させた。 

 午後4時頃になって西村の妻の腹が痛みだした。初めてのお産なので見当がつかない。袁屯長が急報を受けて産婆さんを寄こしてくれたが話が通じない。何とか通訳のできる人はいても男である。産室には入れない。困っていたら河合夫人が「私は4人も子どもを産んだから何とかお手伝いできるでしょう」と産婆役を引き受けてくれた。西村は涙が出るほどありがたかった。
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爆風(28)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年12月24日
爆風(28)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 東京陵郊外の朴家溝は関東軍火工廠の管轄地だが、野菜や穀物の栽培、豚の飼育をする満人の農家が散在している。火工廠第一工場に所属する西村秀夫中尉は、それらの農家の管理にあたっていた。25日朝、いつも通り管理事務所に出勤。10時頃部隊本部から電話で「10日分の食糧と防寒衣類を持ってロータリーへ集合せよ」と伝達された。西村は自宅に戻って、乾パンと衣類、地下足袋とそれに聖書を1冊リュックに詰めた。

 指定時間に集合場所へ行くと、酒を飲んで喚いている人や空き瓶を投げる人もいて殺気立った雰囲気だ。あきれて眺めていると経理の山上中尉が寄ってきて「このままではシベリアへ連れて行かれる。脱走しよう」と言う。家族のためにもそれがいいだろうと考え、同意した。

 西村中尉は《この場から逃げ出すにしても林部隊長には話しておいた方がいいのではないか》と思いつき、部隊長宅を訪れた。部隊長は外出の用意中だったが顔を出し「よかろうが、他の人たちに動揺を与えないようにしたまえ」とそっけなく答えた。

 自宅に戻った西村は家族に手伝わせて家財道具や食糧を荷物にまとめ、逃げるための馬車の手配をした。終わったらもう夕方である。部隊のその後の様子はどうなっているか。心配なので懇意にしている浜本宗三大尉に電話した。「集合はしたがシベリア行きに疑問が出てまとまらない。部隊長が連行延期の懇請のため遼陽のソ連軍司令官に会いにいったが、留守で会えずに戻ってきた。部隊長は全員玉砕を考えておられる」。《戦争は終わったのに、何が玉砕なんだ》と西村は電話口で思ったが口には出さなかった。

 そこへ柳尚雄中尉から電話があり「希望者のみ国民学校に集まり自決することになった。部隊長が用があると言っておられる。電話してほしい」とのこと。西村は《死神にとりつかれた人たちにお付き合いをするなんてまっぴらごめんだ》と柳中尉の取り次ぎを無視した。

 こうなったら早いとこ逃げ出す算段をした方がいい。農場管理事務所に同僚の佐々木文麿、中村満を呼んで相談、脱出先を日頃親しくしている満人部落に決める。日が暮れて暗くなった。農場管理事務所の所員、家族が続々集まってくる。噂を聞いて他の部署の人たちも「お願いします」とやってきた。
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爆風(27)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年12月22日
爆風(27)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 庶務科自動車班の窪内運転手は、救急車を勝手に引き出して東京陵からの脱出を図ったが山道で車が故障。思案に窮して青酸カリで自殺した。同じく自動車班で経理係をしていた村上係員は、妻子を残して消防車で朝鮮方面へ逃げてしまった。東京陵に残された妻は2歳の子どもを柱に縛り付けて家に火を放ち、自らは青酸カリ自殺を遂げた。

 火工廠第二工場(唐戸屯)では、指揮官の吹野信平少佐が国民学校へ行ってしまったので工場長の加藤治久大尉が指揮を執っていた。加藤大尉はソ連軍の命令に従って海城へ集結することを視野に入れて部隊を解散させずに待機させた。12時過ぎ、松風塾の加々見仁塾長からの電話があり、玉砕中止、部隊は解散せよとの指示。加藤大尉は指示に従って集結していた部隊を解散した。

 唐戸屯部隊本部前には爆砕から逃れてきた東京陵の住民が数百人集まっていた。これらの人たちに事情を説明、とりあえず松風塾の2階大広間を宿舎に指定した。女子どもがほとんどだ。支給した毛布にくるまって安堵の表情を取り戻す。それを見て加藤大尉は自らも疲れのため倒れるようにして朝まで寝た。

 今生の別れに酒を酌み交わして防空壕で寝入ってしまった庶務科の田中弥一雇員一家と同居の挺身隊員は、騒がしい人の声で目が醒めた。満人かソ連兵かも知れない。耳で確かめるとどうやら日本語だ。ほっとて防空壕に入り口を開けると明るい朝日が飛びこんできた。

 同じく家庭用防空壕に退避した研究所技手の山崎藤三永は、壕の中でマッチを擦って腕時計を見た。爆発予定の12時を過ぎている。恐るおそる壕を出たところへ伝令が走ってきた。「玉砕は取り止めになった。近所の火を消せ」。すぐさま町会の何人かと協力して消火にあたった。ここが済めばあちらと夢中で飛びまわる。大方の火事が消えほっとしたら東の空が白みはじめていた。腹も空いたので家に帰る。壕から出た家族が「ご苦労さん」と出迎えてくれた。

 東京陵山崎町官舎の渡辺秀夫は近所の数家族と相談、知り合いの満人を頼って朴家溝へ避難した。満人の家で落ち着かぬ時を過ごしていたが、明け方、玉砕中止の情報が入る。すぐ帰ることに。世話になった満人が馬車を出しくれた。26日朝9時頃山崎町へ。そこには悲惨な光景が待っていた。

 開け放しの隣家の玄関を覗くと、あるじ夫妻が白装束で正座している。早まって子どもたちに青酸カリを飲ませてしまったので後を追うという。渡辺は「何としても祖国の土を踏むことが子どもさんへの最大の供養ではありませんか」と必死に説得して死ぬのを思いとどまらせた。
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2017年12月21日

爆風(26)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年12月20日
爆風(26)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 敷島町の西村仙吉町会長は、家族を学校へやり自身は自宅で爆発を待っていた。隣近所で火災が起こる。予告の時間が過ぎても爆発の気配はない。そのうち玉砕中止の電話連絡があった。すぐ隣家の消火作業にあたる。他の火災も大方消し止められたようだ。敷島町は平穏に朝を迎えた。

 国民学校へ爆薬を運んだ坂本吉次は一家で逃避行の途中、玉砕中止を知らされた。回れ右して自宅へ引き返すことにする。玉砕は中止になったが多くの犠牲者が出たことが分かった。娘の同級生が親に青酸カリを飲まされ幼い命を落としたのもその1人。坂本はやるせない気持ちで妻と娘を抱いた。

 林光道部隊長の爆薬点火命令を柳尚雄中尉とともに拒否した稲月光中尉は、軍人としての自分の行動に頷き難いものを感じていた。玉砕中止の後病院へ行き、信頼する岡野軍医大尉に気持ちをぶつけた。岡野は話を聞くと無言で一升瓶の栓を抜き、夜の明けるまで酒を酌み交わした。

 電話交換所に詰めていた工務部電話班の上川生夫班長は、玉砕中止を知らされた午前1時頃、寝たきりの病妻と子どもたちが気になって自宅へ向かった。道々大きな荷物を背負った人や、満人の馬車で家財道具を運ぶ人などとすれ違った。玉砕中止の報がまだ行きわたっていないようだ。

 家に帰り家族の無事を確かめ唐戸屯へ向かう。箱根峠の守衛詰め所に20人ほどの避難民が固まっている。玉砕中止を知らせるとホッとした顔で自宅へ引き返した。唐戸屯の住宅地に入る。焼け落ちた家の前で呆然自失の人、くすぶる家財で死んだ家族を荼毘にふす人など悲惨な光景が見られた。

 どんな混乱時でも電気、水道、電話などのライフラインを止めてはならない。電気掛の小野伴作技手は、35日早朝からの異常事態に関わらず平常通りの供給を保つため全力を挙げた。電気班の岡田班長、電話班の上川班長、給水班の小林班長らと共同して、大きな停電、断水の事故もなく混乱を乗り切った。

 小野技手は玉砕中止の知らせで弥生町の自宅に戻ったが、周辺では目を覆う悲惨な光景が見られた。青酸カリを飲ませたわが子を胸に抱きしめている母親、家族を日本刀で殺し自分も腹を切ろうとする男、母と娘が青酸カリを溶かしたコップを前に手を合わせている姿もあった。それらの人々に玉砕中止を知らせ死を思いとどまらせる。どこへ怒りをぶつければいいのか。小野技手は漆黒の空を仰いだ。
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爆風(25)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年12月17日
爆風(25)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 「柳中尉がやらないならお前がやれ」林部隊長は稲月光中尉を指差した。稲月も動かない。「俺の命令が聞けないのか。お前らを斬る」と抜刀する。そぱにいた吹野少佐、政井中尉、石部中尉、長友中尉らが一斉に駆け寄って刀を押さえる。他の将校は柳、稲月を囲んで部隊長から遮った。

 吹野少佐が「浜本大尉の帰着まで待つわけにはまいりませんか」と懇願したが、「交渉成立なんぞ嘘に決まっておる。彼は逃亡したのだ」と言い張って聞かない。「浜本大尉のご家族はここにおられるではありませんか。大尉は自分を捨ててもこの火工廠を守る任務に忠実な男です」と吹野少佐。その気迫にさすがの部隊長も刀を納めた。しかし激高は収まらない。部隊長は柳、稲月を斬ることを諦め次の行動に出た。

 「わしは切腹する。政井中尉介錯せよ」と叫んで玄関から外に出ようとした。再び将校たちに抑えられる。ようやく正気を取り戻した部隊長は「点火を待つが、12時までだ」と時間を切った。この場は部隊長の俺が仕切る、という軍人としての最後のプライドだ。「閣下、了解です。12時になったら自分が点火します」と吹野少佐。これで部隊長のプライドは保たれたが、同時にあと10分で浜本大尉らが戻るかどうか、数千人の命のかかった賭けになった。

 ソ連軍司令官は「早く帰れ」と促したが、検問を通過する通行証は出せぬという。こんな時間に車を走らせていたら、いつソ連軍の検問に引っかかって拿捕されるか分からない。事情を説明しようにも誰もロシア語を話せない。浜本大尉ら4人は運を天に任せてオンボロトラックの荷台に身を伏せた。しかし結果的にはこのオンボロトラックが幸いした。もし消防車や軍用自動車だったりしたらきっと検問に引っかかっていたに違いない。検問は簡単にパス。故障もせずに快調に走り0時5分前、国民学校の庭に滑り込んだ。

 トラックの音を聞いて林部隊長と政井中尉が抜刀して玄関に出た。ソ連軍かも知れない。そこへ「交渉成立」「爆死の中止を」と叫びながら川原大尉が駆けこんできた。続いた浜本大尉が抜刀した部隊長を見て前へ進み出る。「閣下、私を斬ってください。命令も受けずに勝手なことをいたしました」。それを身近で見ていた浜本夫人は後日、《本当に斬られると覚悟しました》と述懐している。

 部隊長は電灯の灯りで浜本中尉を確かめ、刀を鞘に納めた。浜本は肝心なところだけ手短かに報告。それを聞いて部隊長は吹野少佐に「態勢は維持したままとりあえず玉砕は中止する」と指示した。即座に将校会議が持たれ、混乱に乗じた満人の襲撃を防ぎ、放火された家屋の消火にあたるべく各自の持ち場に散った。伝令が校舎中を走りまわり、爆砕中止を告げた。死の絶望から解放されてほっとしている顔がある一方、早まって青酸カリを飲ませてしまったわが子を抱きしめる母親もいた。
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爆風(24)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年12月16日
爆風(24)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 会見室には主席の浜本大尉のみが入った。机の対角に司令官、両脇に自動小銃を構えたソ連兵が。通訳の菅野軍曹がやや離れて立つ。浜本大尉は微動だにせず司令官と対峙した。菅野軍曹が目配せをする。浜本は先ほどの打合せ通りの口上を堂々と延べ、最後に「もし私の願いを聞き入れていただけないなら、私はもちろん、待っている3人もこの建物の玄関でハラキリをします」と付け加えた。

 菅野薫層がどのような通訳をしたのか分からないが、会見の決着はあっけなくついた。「分かった。非戦闘員のみならず、軍人の集結も免除する。工場には後刻わが軍も守備隊を出すが、当面は日本人で工場保全に全力を挙げて欲しい。ハラキリ前に早く帰れ」。司令官はそれだけ言うとさっさと退室した。

 事態の好転を知らされた鈴木弓俊少佐は、すぐさま国民学校に電話することにした。導火線の火付け役の柳尚雄少尉を呼び出すためだ。電話は職員室にあるが、混乱していて誰も出ない恐れがある。鈴木は神に祈る気持ちで通話音を数えた。「はい、こちら桜ヶ丘国民学校です」。若い女性の声がてきぱき応対し、待つほどのこともなく柳小尉が電話に出た。「こちらの談判がうまくいった。すぐ帰るから導火線への点火だけは何としても阻止してほしい」。「了解しました。自分の命に換えても阻止します」。

 柳少尉は、林部隊長を囲んで集まっている玄関脇の教室に戻った。吹野信平少佐に耳打ちする。吹野は部隊長の正面に正座し「閣下、浜本大尉以下が遼陽のソ連軍司令部に行き、男子全員の連行免除を約束させました。軍使一行が帰着するまでしはし点火をお待ちください」と嘆願した。しかし部隊長は「そんなものソ連の策略に決まっておる。誰が信用するか」と頭から受け付けない。

 まだ午前0時には間があるのに、林部隊長が立ちあがった。《ここで手間取ってソ連軍がやってきたらどうする。生き恥を晒すことになる》そう思った部隊長は「柳少尉、即座に点火せよ」と命じた。柳は坐したまま「閣下、しばらくお待ちください。妻子をこの場に送りこんでソ連軍に直訴しに行った浜本大尉の意を汲んでください。大尉が帰るまで私は点火しません」と決死の思いで命令を拒否した。

 部隊長はかっと目を見開き「柳、臆したのか。貴様はそれでも軍人か。4時間も前に出発したというのに今だに帰らない。浜本大尉らは殺されたか、逮捕されたに違いない。ソ連軍が行動を起こせばもうすぐ到着する時刻だ。それが着様には分からんのか」と軍刀に手をかけた。
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2017年12月14日

沖縄ノート(9)屈辱の戦後@ 

17年12月10日
沖縄ノート(9)屈辱の戦後@ 

■坂本陸郎(JCJ運営委員;広告支部会員)


(参考文献は岩波新書『沖縄』、大田昌秀著『沖縄のこころ』、林博史『沖縄戦が問うもの』等)

沖縄守備隊の最後
 6月下旬になると砲声も途絶え、23日には32軍牛島満司令官、長勇参謀長が自決し、司令部のあった摩文仁の丘が敵の手中に落ちると、守備軍首脳は自刃した。
 その日、嘉手納飛行場近くにあった米第十軍司令部では、軍楽隊がアメリカ国歌を吹奏し、星条旗が高々と掲げられた。その戦況を三日後の「朝日新聞」がこのように報じている。
 「沖縄戦局は、今や地上における主力戦の終了によって事実上最終段階を迎えた。敵が本土正面に左右両翼の本土進攻基地を完成したことを意味するもので、大東亜戦争は沖縄戦の最終局面到達により、まさに本土を戦場とする最終決戦の段階に突入するものである」。
 だがそのとき、地下壕に取り残されていた部隊が、命令に従ってなおゲリラ戦をかまえており、住民の多くも洞窟の中に潜んでいた。当時沖縄戦最後の32軍の拠点となった摩文仁の丘で見た光景を、大田昌秀氏が著書『沖縄のこころ』の中で次のように記している。
 摩文仁の丘が陥落して以来、米兵たちは朝の8時ごろから自動小銃をかかえて丘の頂上に現れた。かれらは4、5人ずつ組をなして頂上のここかしこに陣取ると、上半身裸になって日光浴を楽しみながら眼下にひろがる岩山に向かってめちゃくちゃに撃ちまくった。敗残兵狩りがその目的だったにちがいないが、わたしには、戦い勝って無事に故国へ帰れるよろこびを発散させているとしか思えなかった。だが時折、飢えに我を忘れたのか、敗残兵がふらりふらりと岩陰から姿を現して、米兵たちに狙い撃ちのたのしみを満喫させることもあった。こうして戦勝者たちは、有り余るほどの食料を持参して、スポーツを楽しむと、夕方5時ごろにはいっせいに摩文仁の陣地に引き上げた。かれらが引き揚げた後、丘の頂上には残飯整理をするため、どこからともなく飢えた敗残兵たちが蝟集した。米兵は惜しげもなく缶詰を放置したまま引き揚げたが、ほとんどは銃剣で穴があけられていた。それでも餓鬼犬と化したわたしたちにとって、それは最後の贈り物で、その奪い合いから友軍同志のあいだで手榴弾が飛び交い、毎日のように命を落とす者が続出した。こうして米兵たちは、手をこまぬいたまま、敗残兵狩りをすることができた

 これは当時米兵たちが口にしていた「ジャップ狩り」の最後の光景であろう。米兵が食べ残した食料を奪い合う日本兵の姿はおぞましく痛ましい。

屈辱の第一歩
 沖縄戦が終息すると、敗残兵たちは捕虜となり、DDTを全身にかけられたのちに、肩とズボンの脇にPW(捕虜の目印)のマークのついた服を着せられ、捕虜収容所に収容された。
 かれらが収容所に運ばれるトラックの上で見たものは、道路といわず畑といわず放置された死体の累々とした光景であり、変わり果てた沖縄の街と村の姿であった。戦闘が行われる間、米軍は戦死者を埋葬し、その上に十字架を立てていたのだが、日本軍は戦況の悪化とともに戦死者を放置していた。その戦友たちの無残な姿が捕虜たちの目に映ったのだった。7月に建てられた金武町の収容所では、最大時,本土と沖縄出身の兵約1万人が別々に収容されたのだが、精神に異常をきたした兵のための収容所もあった。そこでは、家族を殺された沖縄出身者や、同胞を殺され、虐待された朝鮮人軍夫らが、日本軍将校や下士官にリンチを加えることもあったという。
 沖縄出身の捕虜約3000人は、ハワイにいったんは移送され、翌年10月ごろから順次送り返された。朝鮮人捕虜は45年秋に朝鮮半島へ、日本本土の捕虜は本土へ返還された。
 ガマ(壕)の中に潜んでいて助かった住民たちも、兵隊たちと同じように、テント小屋(住民用の収容所)に運ばれた。なかには家畜小屋に押し込まれる住民もいた。「捕虜になれば、戦車でひき殺される」と信じ込まされていた住民たちは、米軍の扱いに安堵した。
 彼らは命以外のすべてを失っていた。中部や南部では、戸籍簿が失われたために、死者の実数さえわからなかった。全員が犠牲となった一家は、戦前に生存した痕跡さえ残されていなかった。
 住民たちは、毎日のように、ハエが群がり膨れ上がり、腐臭のする遺体を集め、穴を掘って埋めた。彼らは出歩くことを禁じられ、米軍が支給するわずかばかりの食料で飢えをしのいでいた。
 米軍は、収容した住民に軍の作業をさせ、しばらくは住民にわずかばかりの食料を無償で支給したのだが、使役にたいする代価はいっさい支払わなかった。住民は米兵からタバコをもらい、海岸に流れ着いた米兵の食べ残しを拾い、乾かして食料とするなどしていた。
 そのころ、戦争による衛生環境悪化のため「戦争マラリア」が流行した。日本本土では米軍の上陸に備えて予防対策が講じられていたのだが、沖縄では無防備だったため、マラリアが猖獗を極め、罹患者は20万人に及んだという。それでも住民は米軍への依存を深めていった。そうせざるをえなかったのは、沖縄戦で日本軍から受けた酷い体験の記憶があったからでもあった。
 日本軍は銃を突きつけて、わずかばかりの食料を奪い、壕から追い出して、自分たちだけの安全をはかった。あげくは住民をスパイ呼ばわりして殺し、集団自決を強要した。それに比べれば、敵国人に食料を与える米軍の扱いは日本軍のそれとは違い、ありがたいとも思われた。そのため、米国は人道的で民主主義の国だという米支配者の宣伝は抵抗なく受け入れられていった。だが、そうした宣伝が覆るのに、それほどの時間はかからなかった。

餓死の指令
 軍政府は48年6月以来、入荷した資材陸揚げのため1千人の住民を強制徴用していた。宿舎とされた使い古したテント下の地面で、労働者たちは藁や草を敷いて寝泊まりし、洗面用の水も与えられず、食事といえば、汚れたアルミの皿に乗せられた塩味のメリケン粉や、腐ったような、ふやけた蒸しパン一つだけであった。労働のあとに手足を洗う水さえなかった。そうした条件下で、労働者は日を追うごとに減り続け、陸揚げができない状況となった。市町村会は何度か改善を求めたのだが、軍政府は応じなかったばかりか、軍政府は報復として全島の売店の閉鎖を指令した。命綱である売店がなくなれば餓死するしかない。新聞は号外を出し、全島が騒然となった。その後は、軍政府要路への陳情が繰り返され、市民大会が開かれ、指令の実施はようやく中止となった。
 この事件は、自由と民主主義を宣伝する米軍政の真実の姿を示すものであったから、住民の米国に対する見方を一変させることになった。米国の軍政府支配下の沖縄では、このようにして屈辱の第一歩が踏み出されたのだったが、その屈辱の戦後はその後も続いた。



(つづく)
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2017年12月10日

爆風(23)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765
労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年12月10日
爆風(23)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 至急東亜寮に将校を集め、ソ連軍司令部との再交渉の余地があることを説いた。交渉は沈着冷静でみんなから信望の厚い浜本宗三大尉に頼むしかない。川原少尉を先頭に数人の将校が学校にいる浜本大尉の説得にあたった。当初「俺はもうこんなしち面倒くさい世の中は嫌になった。死ぬのが一番いい」と断っていたが、川原少尉らの衷心からの要請に最後は首を縦に振って承諾した。

 即座に浜本大尉を主席とする川原少尉、伊藤礼三中尉、鈴木弓彦中佐の4人で交渉団が結成された。すぐさまソ連軍司令部のある遼陽へ向かおうとしたが車がない。将校たちは手分けして車捜しに各所へ散った。しばらくして病院から連絡があり、トラックを1台確保できたという。乗っていたのは吹野夫人と母堂を病院に連れてきた稲月光中尉。稲月は将校らと一緒に夜中の遼陽往復を運転手に承諾させた。

 4人の交渉団は将校たちに見送られて、月明かりの道を遼陽へ向かった。ソ連軍は、関東軍憲兵隊のあった旧軍人会館を接収して司令部としていた。交渉団の到着は既に10時になろうとしていた。建物に入ると、通訳の菅野軍曹が待ち構えていた。「火工廠の部隊だけが指定の時間に集結しない。林部隊長が来られたが司令官に会えずに帰られた。松風塾の加々路塾長は必ず来ると言うのだが、その後どうなったか分からない。部隊は来るのですか来ないのですか」。

 この詰問に対し「ソ連軍司令官に直接お話ししたい。取り次いでもらえないか」と浜本大尉。菅野軍曹はその気迫に押されるように司令官室に向かった。5分ほどして戻ってきた菅野軍曹が「司令官は会うと言っています。しばらくお待ちください」と言ったので4人の交渉団はひとまずほっと胸を撫で下ろした。待ち時間に4人で交渉作戦を練る。まず指定時間に集結しなかったことを詫びる。そして軍人は明日にも来ると約束する。ここまではここへ来る道々4人で考えたのだが、その後の口上が難しい。4人は頭をひねった。

 《火工廠には火薬製造設備と約250トンの爆薬がある。住人は軍人のほかに技術者、工員、その家族ら1万人に近い。もし軍人だけでなく、非戦闘員の男子までいなくなったと判れば必ず暴徒が襲撃するだろう。そうなれば工場施設が壊されるだけでなく、何らかのはずみで火薬の大爆発の恐れもある。ここ遼陽まで被害は及ぶであろう。工場を無傷でソ連に引き渡すのは我々の責務であると考える。

 技術者までいなくなれば工場の引き渡し作業は誰がするのか。どうか非戦闘員の連行は思いとどまってもらいたい。それでも男子全員の集結を命じられるか、または我々軍使が夜半までに帰隊しない場合は将校全員ハラキリする覚悟である》。

 最後の「ハラキリ」のところは格別の工夫だった。もし「全員玉砕」とやって、ソ連軍に即座に兵を差し向けられてはたまらない。ここは世界に知れ渡っている「ハラキリ」にした方がよかろう。博学の川原中尉の知恵であった。
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爆風(22)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765
労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年12月8日
爆風(22)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 8月25日午前、独身で東亜寮居住の稲月光中尉は唐戸屯の部隊本部で勤務していた。そこへ男子全員集合の命令が来る。稲月中尉はバスで東京陵の東亜寮に戻り、衣類や食糧をリュックに詰め玄関に行く。そこに数人の将校がいて、ビールの栓を抜いて乾杯だという。何のための乾杯か分からないけれど、冷えたビールは美味い。コップのビールを飲み干してみんなでロータリーへ向かった。

 ロータリーに着くと既に海城行きは中止になっていて、集団が散り始めている。唐戸屯へ戻ろうとバスの停留所へ。そこへ近くの消防署から人が走ってきて、部隊本部から電話があり、唐戸屯との中間地点にある変電所付近に盗賊が現れたので至急応援を頼む、とのこと。すぐ消防車に数人が乗り込み現地に向かう。賊は消防車を見て散り散りに逃げていった。深追いはせずそのまま唐戸屯に行き消防車を降りた。

 夕方になって稲月中尉は唐戸屯部隊本部を出て、加々路塾長や加藤治久大尉のいる松風寮を訪れた。加藤大尉が待ち構えていて「二つのお願いがあるのだが」と切り出した。「一つはこれからすぐ吹野信平少佐の夫人と母堂を官舎から東京陵病院へ送り届けること。二つは玉砕のため国民学校に積んである爆薬の導火線の火付け役になること。これは林部隊長の指名だ」。一つ目はいいとして、第二の依頼は気が重い。しかし部隊長の指名とあっては断れない。

 病院へ行く手ごろな車がないので苦労したが、工事請負の清水組のトラックがやっと見つかった。朝鮮人の運転手に手当をはずんで承諾させ、吹野夫人と母堂を助手席に乗せる。自分は荷台に乗って夕暮れの中を東京陵へ向かった。病院まで2人を無事送り届け稲月中尉がほっとしていると、突然車ごと数人の将校に囲まれた。このトラックを貸して欲しいと言う。運転手と相談の末承諾した。稲月中尉はすぐ近くにある国民学校へ足取り重く歩いた。玉砕について加藤大尉は詳しいことを言わなかった。どうしてそういう成り行きになったのだろう。しかも自分が集団爆死の火付け役となるとは。

 また少し時間が遡る。病院での緊急将校会議では何の打開策も見出せなかったが、川原鳳策少尉はなおも玉砕回避の道を模索していた。そこへ飛び込んできたのが、唐戸屯の加々路松風塾長からの情報である。ソ連軍司令部との間にまだ交渉の余地が残されている。最後まで努力を尽くすべきではないか。ソ連軍との交渉には勇気と決断力が試される。最適なのは浜本宗三大尉しかいない。川原少尉は決断した。
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2017年12月03日

爆風(21)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765
労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年12月3日
爆風(21)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 2人は隣室の佐野中尉の部屋に行き、青雲塾の重田中尉、麻殖生(まいお)見習士官らを呼び寄せた。《唐戸屯地区としてこれからどうすればいいのか》。大半の将校が爆死には反対の意見を吐いた。「ソ連軍との停戦ができ、敗戦になった今、ソ連の命令に逆らって家族を巻き込む玉砕戦法は承服しかねる」。ではどうすればいいのか。奇跡でも起こらぬ限り、この窮地から抜け出せない。みんな頭を抱えた。

 そこへ寮生が「塾長、お電話です」と呼びにきた。(後にして思えばこの電話が奇跡の始まりだった)。電話に出ると「こちらは遼陽のソ連軍司令部、自分は日本人通訳の菅野軍曹です」と早口で名乗る。「塾長の加々路ですが、何故私に電話されたのですか」と尋ねた。「東京陵の部隊本部に何度も電話したのですが林部隊長に取り次いでもらえません。やむなくそちらにかけました」との返事。なるほど、既に死を覚悟した部隊長にはソ連軍司令部との折衝などは無意味というわけだ。

 「ところで用件は何ですか」。加々路大尉は先方の返答次第では電話を切るつもりだ。「約束の時間に他の部隊は到着したのにあなたたちの部隊はどうしたのですか。それをお聞きしたい」。「我々は一般の軍隊と違って火薬製造の工場付属部隊であり、工場と同時に婦人、子どもも守らなければならない。他の部隊のように即座に行動するのは難しいのです」。「女子どもまで集合せよとは言っていない」。

 これ以上問答しても電話では分かってもらえそうにない。加々路は電話口で沈黙する。「ソ連軍司令部は、現在遼陽に集結した部隊を先に海城へ向けて出発させると言っています。自分の任務はあなた方の部隊が、時間に遅れてもいいから来るのか来ないのかそれを伺うことです」。これは重要な質問だ。どう答えるか加々路塾長は判断に迷った。《行かないと答えるとソ連軍との交信は切れたことになり、武力による報復もあり得る。かと言って唐戸屯部隊だけで、しかも責任者の吹野少佐を差し置いて松風塾長の自分が「行きます」と言えるものだろうか》。緊張で受話器を持つ手が震えた。

 「必ずそちらへ参ります」。決断の重みで一瞬息が止まる。「お待ちします」と言って電話は切れた。電話の周りに集まっていた将校たちが、電話の内容を察知して大きくうなずいた。塾長の決断から生じるあらゆる事態を、連帯責任でともに背負う覚悟が加々路に伝わる。さあこれで数時間の余裕ができた。やるべきことは何か。ソ連軍司令部との再交渉だ。頭の回転が速そうで、腰が据わった菅野軍曹がきっと手助けしてくれるに違いない。加々路、加藤両大尉は東京陵の川原鳳策少尉に連絡すべく立ちあがった。
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爆風(20)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765
労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年12月2日
爆風(20)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 久子の母が袱紗に入れて持ってきた現金や貯金通帳を「もうこんなもの必要ない」と言って草むらに投げ捨てた。国民学校の校門のところで「先生」の声とともに白鉢巻き姿の女の子に飛び付かれた。今年4月まで担任だった4年生の阿部容子だ。この子も10歳で短い一生を終えるのかと思うと不憫だった。校舎は廊下まで人で埋まっている。女学校の先輩でもある浜本大尉夫人の顔が見えたので会釈をした。

 担任の2年生の教室を覗く。机や椅子が窓際に片付けられ、中央に爆薬の箱がピラミッド状に2山積まれていた。教室の脇の階段を2階へ上る。爆薬の真上の教室に人が溢れ身動きもできない。教室前の廊下に車座になり、盃を前に置いて手を合わせている家族がいた。盃の中味は溶かした青酸カリに違いない。爆発の前に自ら命を絶つつもりか。その隣ではアルバム持参の人がいて、見せ合っては泣いている.

 人混みの中で浅野中尉が尺八を吹き始めた。曲目が進んで「海ゆかば」になるとそれに唱和する声が次第に高まっていった。8月末の満州の夜はもう寒いくらいだ。窓から外を見る。数か所で火の手が上がっている。避難した人たちがわが家に火を放ったのだ。久子は紅(くれない)の炎にそっと手を合わせた。

 久子は用事を思い出して職員室への階段を降りた。自分の机からチリ紙を取り出していると、突如電話が鳴りだした。とっさに受話器を取ると「至急柳中尉を呼んでください」と息の弾んだ声。林部隊長や幹部将校のいる部屋まで急ぎ、手近の将校に「柳中尉に電話です」と告げた。

 林部隊長への諫言が入れられず無力感にとらわれていた柳尚雄中尉は「今頃の電話、誰だろう」といぶかりながら職員室へ急ぐ。受話器を取ると耳慣れた鈴木弓俊少佐の声だ。「今遼陽にいる。詳しい話の余裕はない。ソ連軍との談判がうまくいきそうだ。導火線に火をつけるのだけは阻止してほしい」。

 ここで話は8時間ほど遡る。一度出発した唐戸屯部隊が「遼陽行き中止」の命令を受け、回れ右して部隊本部に引き返したのが午後3時半。吹野信平少佐から「逐次流れ解散せよ」と言われて加藤治久大尉は不審の念を深くした。「一体どうなっていんるんだ」。加藤は松風塾長の加々路仁大尉を訪ねて疑問をぶつけた。「私にも分からないが、林部隊長が遼陽行きの中止を決めたようだ。そうなればソ連軍の報復が目に見えている。部隊長は玉砕のハラではないだろうか」。《玉砕だけは避けなければならない》と2人の意見は一致した。
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紛争処理は対話(外交)しかない

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765
労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年12月1日
紛争処理は対話(外交)しかない

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 北朝鮮がまたミサイルをぶっ放した。おれはあらゆる紛争処理において話し合い、対話、交渉、労使関係で言えば団交が絶対に必要だと思っている。国家間の紛争の場合はやはり外交だろう。紛争だから双方に言い分がある。それをきちんと出し合い、合意点を探る努力が今こそ必要なのではないか。

 おれは18年間、都労委労働者委員として労使紛争処理の現場にいた。労働委員会は労使紛争の調整と不当労働行為の審査という二つの機能を持っている。調整は労使どちらからも申請できるが、審査の申立権は労働者の側にしかない。いずれにしても紛争は解雇、差別、支配介入などの使用者の行為に原因がある。もっとも使用者に言わせればそれらの行為は企業存続のための正当な措置だと主張する。

 おれは18年間に219件の不当労働行為事件に関与した。労働委員会に持ち込まれた段階では労使が取っ組み合いの最中で、双方カッカときていることが多い。労働委員会の最初の仕事は「紛争の争点整理」である。頭に来て熱くなっている当事者にはそもそも何が争点なのか整理できない事件が多い。

 次に双方の言い分を公開の席上で証言する「審問」という手続きに入る。この頃になると双方とも大分冷静になる。それぞれ弁護士がつくのであまり無茶な主張は言いにくくなる(もっとも当事者に輪をかけた暴論を吐く弁護士もたまにはいるけどね)。そして結審、命令待ちということになる。

 この段階で都労委では必ず「和解」の打診をすることにしている。和解手続きというのは要するに労働委員会の会議室で行う「団体交渉」だ。ただし基本的には労使別々に面接し、公労使三者委員が主張を聞いて調整する。つまり労使の直接交渉ではない。しかしこれも団交の一形態だとおれは思っている。

 これで一応和解の枠組みはできたと言えるが、だからと言ってそう簡単には話は進まない。特に10年来の差別事件などはもう駄目かと何度も諦めかける。おれが関わった富士火災の差別事件は54回の和解期日、5年を費やして和解成立にこぎつけた。話し合えば必ず結果が付いてくるとおれは確信する。

 逆に話し合いを拒否して、労働者を敵視し続けている企業もある。株式会社明治・明治乳業だ。裁判長に勧告されても、「『労務上がり社長』は絶滅品種」(「ZAITEN」17年10月号)と揶揄されても断固話し合いに応じない。そんな経営者の顔がどこかの国の首相に見える。
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2017年11月30日

爆風(19)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765
労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年11月26日
爆風(19)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 酔いの醒めた小林隆助は戸塚陽太郎ら庶務科警備の同僚とともに、あちこちが発生する火事の消火に奔走していた。小林家の食卓には、いざという時に服用する青酸カリのカプセルとサイダ―、カルピスの瓶が並んでいる。私たち貴重品のサイダ―やカルピスに目を奪われて、母親に早く飲ませろとせがんだがもちろん拒否された。このようにして、玉砕へ向けて時は一刻一刻進んでいった。

 国民学校2年生担任の鈴木久子先生は、朝日町の官舎で母親と兄夫婦、その長男の邦昭、預かっている挺身隊員の栗原松江、萩原愛子の7人で8月25日を迎えた。朝食後に町内会を通じて「男性は全員ロータリーに集結すること」との伝達を受ける。兄は冬用の衣類と食糧を持って出かけた。兄が出て行くと急に心細くなった。《東京陵はこれからどうなるのだろう。電気も水道も止まり、無防備になった町はソ連軍の進駐より先に、満人の暴徒に襲われるに違いない。しかしこちらには青酸カリがある。いざとなったら飲めばいい。何も怖がることはない》。鈴木先生は居直りの気持ちに達し気が楽になった。

 午後1時頃、道路が男達の声で騒がしくなった。遼陽へ向けて出発したはずの兄が帰ってきて「男たちがいなくなって家族を死地へ放り出すより、みんな一緒に死のうということになった」と言う。久子は《もちろんその方がいいに決まっている》と思った。

 夕方になると「国民学校に火薬を積んで玉砕する。行動を共にする者は9時に半鐘を鳴らすのでそれを合図に集合すること」との指示が町内会から伝達された。挺身隊員の栗原、萩原の両名から「一緒に学校へ連れて行ってください」と頼まれた。甥の邦昭は生後46日、兄嫁はしっかり抱きしめて頬ずりしている。母は薄化粧をして和服に着替えた。久子はいつもの教師の服装で学校へ行くことにした。

 そこへ同じ朝日町に住む軍属の猪野が来て久子の母に「うちの家内が恥ずかしくない最後を迎えられるようご指導ください」と頭を下げた。本人は部隊の任務があって奥さんと同道できないという。久子の母は目に涙を浮かべながら引き受けた。午後7時、今まで大事にとっておいた配給のカニ缶を開け、畑のさつま芋を掘りだして食卓を飾り最後の宴とした。

 夕食が終わると町内の半鐘が鳴る中を一同揃って学校へ向かった。月が煌々と照らす道に学校を目指す流れができている。逆に迫りくる死を逃れて東へ向かう流れもある。路上で生と死が交錯する。すれ違う際、知っている顔が見みえるとしばらく立ち止まって深々と無言で頭を下げ合った。
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爆風(18)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765
労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年11月26日
爆風(18)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 東京陵には第一工場の他に新しく建てられた第三工場がある。そこで働く工員の坂本吉次は、和泉正一中尉に命じられて7人の同僚とともに爆砕のための火薬運搬にあたった。消防車で第三工場の火薬庫と国民学校との間を数回往復し、50キロ入りの茶褐薬(TNT火薬)の木箱40個、総量2トンを運んだ。

 学校は2階建てで、1階に講堂、職員室、1年生から4年生までの教室、2階には5年生、6年生の教室があった。火薬が運び込まれたのは東端から2つ目の2年生の教室。隣の3年生の教室の間に2階へ上る階段がある。2年生の教室の真上が5年生、隣が6年生の教室で、もし爆発が起これば木っ端みじんに吹っ飛ぶはずだ。火薬は2年生の教室の中央に2山に積まれた。

 坂本たちが作業を終えたのは夕暮れだった。坂本自身は玉砕に加わる気はない。吉野山を越えて逃げるつもりだ。さっさと自宅へ戻り準備をした。単身の身軽さで荷物も少ない。出がけにやはり気になって学校を覗いてみた。各教室とも人がいっぱいだ。特に爆薬の真上の教室はぎっしり詰まっていて、中に念仏を唱える年寄りも見られた。坂本は火薬を運んだ自分の行為に複雑な思いを抱きながら学校を後にした。

 爆薬の点火役は独身の稲月光中尉と柳尚雄中尉が林部隊長から指名された。2人はピラミッド状に積まれた爆薬の頂上に登って、導火線を差し込む穴をドリルで開ける。導火線を差し込んで点火の準備は整った。作業を終えた柳が「何故自爆しなければならないんだろう」と呟くように稲月に訊いた。「林部隊長も吹野少佐殿も死ぬんだ。一緒に死んでもいいではないか」と答えた稲月だが、自分でも納得いかない。

 そこへ岡崎大尉、竹村大尉、得能中尉がどやどやと入ってきて「今一度林閣下に自爆中止を諫言しようではないか」と柳、稲月に声をかけた。2人は即座に賛同し、5人揃って林部隊長の前へ進み出た。話を聞いた部隊長は目を剥いて怒った。「お前たちは若いからどこへでも行けるが、年寄りや婦人子どもはどうする。敵に辱めを受けるくらいなら死んだ方がいいのだ。死ぬのが嫌なら勝手にどこへでも行けばいい」。部隊長の剣幕に諫言を諦め、岡崎たち3人は席を立つ。「我々は死にません」。

 戸塚家と小林家が合流した朝日町の小林隆助宅では、2人の母親とそれぞれの長女の戸塚和子、小林延子は今夜死ぬ覚悟を決め、青ざめた顔で時を待っていた。国民学校2年生の私をはじめ幼い子どもたちは玉砕の意味が分からず、まるで遠足に来たようなはしゃぎ方。あちこちから上がる火の手が窓から見えた。
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爆風(17)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765
労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年11月25日
爆風(17)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 夜の9時を過ぎると、遠くから近くから町会毎に鳴らす鐘の音が聞こえてきた。死を誘う陰気な響きだ。武井技手は再び通りへ出た。日頃懇意にしている吉井技手宅を訪ねる。夫人が寄宿していた2人の挺身隊員に別れを告げているところだった。「ご主人はいますか」と言うとすぐ吉井技手が顔を出した。武井が「貴殿はどうする」と聞くと、「僕はこのままで人生を終わりたくない。この吉井という男をもう一度世の中に具現したいので、太子河を越えて逃げる」と言う。「娘さんはどうする」「もう大人だから自由にさせる」。吉井技手はわずかな荷物を持って夫人と2人で弥生町を去っていった。

 武井技手はその足で東京陵病院に柏樹医務局員を訪ねた。病院の中庭の芝生に軍医の岡野大尉が軍刀を杖に腰を下ろしている。「岡野さん、あなたも死ぬのですか」と問うと「俺も軍人の端くれだ。林閣下のお供をする」と答える。武井技手は「岡野さん、もう戦争は終わったんですよ。この非衛生的な満州で満人を病気や怪我から救えるのはあなたたちお医者さんだけではないですか。満人のためにも生き残ってください」と励ましたが「やはり僕は閣下のお供をするよ」と意思を変えない。そこへ柏樹医局員と看護婦が出てきて岡野軍医の手を取って立ち上がらせた。3人は一緒に国民学校へ向かうらしい。

 次は浜本宗三大尉の家だ。玄関の硝子戸を叩くと、喪服姿の大尉が現れた。「浜本さんも死にに行くんですか」と聞くと「もうこんなしち面倒臭い世の中は嫌になった。死ぬのが一番いい」と取り付く島もない。武井は回れ右をして自宅へ帰ることにした。

 家の玄関を入ると電話が鳴っている。国民学校にいる政井中尉からだ。「あなたの弥生町だけがまだ誰も来ない。早く半鐘を叩いてください」と命令口調。「私は鐘は叩きません。皆さん死にに行ってくださいというような鐘は叩けません」と強気に断る。「そんなこと言わずに叩け」「叩きません」と押し問答の末政井中尉は「それなら宮川大尉に叩くよう伝えてほしい」と折れてきたが、武井はそれも拒否した。

 武井の留守中に工事部旋盤班の菊池班長が来たそうだ。武井の妻に「私のところは年寄りもいるので逃げることもできません。これから一家で国民学校へ参ります。長い間武井様には大変お世話になりました。よろしくお伝えください」と挨拶し、鉢巻き白装束姿で去っていったという。武井は、死を前にしていろんな人がいろんな選択をしていることに改めて思いを馳せる。さて俺はどうしようと考え込んてじまった。 
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2017年11月23日

爆風(16)

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労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年11月20日
爆風(16)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 武井技手は宮城少尉に「ありがとうございます。その時は一緒にお願いします」と頭を下げて別れ、自宅へ引き返した。しばらくすると同僚の小野伴作技手が玄関を開け、「私は逃げるので家で預かっている電話交換手の女性2人をお願いします」と言う。武井は「預かりましょうう」と即座に引き受けた。

 そこへ慌しく駆けこんできた30人ほどの一隊。左官の大蔵班長に率いられた工員たちだ。「武井技手殿、一緒に戦いましょう。我々はこのままただ死ぬのは嫌だ。ソ連軍に一矢報いて死にたい。警戒の人たちが軽機関銃を持って吉野山に籠ったそうです。我々も合流して戦いましょう」。と意気込む。

 武井はみんなを宥めて「諸君の気持ちはよく分かる。しかし陛下は何と仰せられたか。忍び難きを忍び、耐え難きを耐えと申されたではないか。今我々が一時の感情に逸り、ソ連軍に歯向かえば逆に殲滅されることは必至だ。私は戦わない。諸君も軽挙妄動を慎んでくれ」と諭した。てっきり先頭で戦ってくれると信じていた武井の言葉に拍子抜けした大蔵班長たちはうなだれて引き上げていった。

 それから間もなく近所の田島夫人が顔を出した。「武井さん。お宅はどうします」と聞く。「私のところは死にには行きません」と答えると夫人は考え込んた顔で帰っていった。

 すぐに隣家の山崎藤三次技手から声がかかった。「ほとほと弱りました。私は部隊長のお供をして死ぬつもりでした。覚悟を決めて身辺を片付け、書類や神棚を焼却しました。夕方になったので子ども6人と妻、私と8人揃って食卓を囲みました。妻がつくった精一杯のご馳走です。

 食事が終わって私は記章や勲章を胸につけて正装し、『俺は部隊長のお供をする。これから学校へ行くが、お前たちも一緒に行かないか』と言いました。すると11歳の長女と10歳の長男が『お父さん、行かないでください。死ぬのは嫌です』と泣きながら私にすがってくるのです。私は身動きできず途方に暮れています。どうしたらいいのでしょう」。山崎技手は心底困惑の様子だ。

 武井は「山崎さん死ぬのは止めましょう。なんとかなるかも知れませんよ。なんでしたら私の家へ皆で来ませんか」と誘った。武井の言葉に触発されて山崎の頭に冷静な思考が戻った。《ここは一つ運を天に任せてみるか。いざという時にはカプセルの白い粉を飲めばいい》。山崎は妻子を促して家庭用防空壕に入り、じっと様子をうかがうことにした
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2017年11月16日

爆風(15)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765
労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年11月16日
爆風(15)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 朝日町に住む庶務科の田中弥一雇員宅には奉天高女の勤労学徒が2人寄宿していた。田中は玉砕の報を聞いた後彼女らに「どうするか」と尋ねた。「私たちも行動を共にします」との返事。「自分たち一家は防空壕で待避することにしている。状況次第では青酸カリを飲んで自決する覚悟だ」と言うと2人とも頷いた。長期退避に備えて食料品、衣類を壕内に持ち込む。壕に入る前、今生の別れになるやも知れず、皆で別れの杯を交わした。酒に弱い者ばかりだったので、壕に入ると熟睡してしまった。

 町内の住民の中には爆砕を逃れるため吉野山を越えて避難する家族もあり、出がけに火をつけたのかあちこちで赤い炎が上がっている。東京陵に夜が訪れつつあった。

 武井覚一技手はロータリーの集まりが流れ解散になったので弥生町の官舎に戻った。弥生町は軍属の判任官が住む。町会から「今後の相談をするのでテニスコートに集まるように」という伝達。武井技手が出向くと既に議論が沸騰していた。ある者は死ぬと言い、ある者は逃げると言う。

 武井は議論を制して静かに自説を説いた。「皆さん死に急ぐことはない。ソ連軍といえども鬼でもなければ畜生でもあるまい。我々は今日まで五族協和、大東亜共栄圏の拠点としてこの関東軍火工廠を建設してきた。1棟の家、1本の電柱、1枚の瓦、1本の道路、皆我々が精魂込めて造ったものだ。もしソ連軍が無理無体なことをしたら、その時こそこの町を灰燼にしてしまおう。大人しく交渉に応じ我々の意見も聞くようならきれいな町のまま引き渡そうではないか」。

 しかし議論の一本化は難しい。結局皆それぞれ思った道を行くしかない。武井技手は重い心で家に戻った。玄関で出迎えた義母が「私は這ってでも内地へ帰るよ。こんな満州なんかで死ぬのは嫌だよ」とすがるように訴える。武井は言葉もなく道路へ出て、将校官舎の方角に足を向けた。

 人の行き交う道端で顔見知りの宮城少尉から「武井さん、如何しますか」と声をかけられた。「様子を見ます」と答えると「そうですか。国民学校もろとも爆砕したら大変なことになりますよ。周辺の満人が押し寄せてきて略奪が始まります。だから今、川原少尉たちがなんとかならないかと工作しています。もう少し様子を見ましょう。場合によっては大連へ脱出して内地へ帰れるかも知れません」と元気づけてくれた。
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爆風(14)

戸塚章介さんのブログ「明日へのうた」より転載
http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765
労働運動は社会の米・野菜・肉だ。
2017年11月14日
爆風(14)

■戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)

 加藤大尉はリュック替わりの背嚢に支給された乾パンを詰め、部隊出発の合図をした。集合順の混成部隊で隊列は4列縦隊。箱根峠を越え東京陵の工場が見える頃になって、「全員止まれ」との伝達がある。加藤大尉は隊列を道路脇に寄せ、後令を待つことにした。30分ほどして「唐戸屯へ引き返せ」の命令が届く。理由も分からず、みんなブツブツ言いながら腰を上げた。唐戸屯本部前で「逐次流れ解散せよ」と言われ、狐につままれた気持ちで加藤大尉が松風寮に戻ったのは午後3時半だった。

 朝日町に住む軍属(雇員)小林隆助の長女延子は国民学校5年生。下に弟妹が5人もいるので日頃から母を助け家事の一端をこなしていた。8月25日朝、父親がシベリアへ連れて行かれるかも知れないと聞いて、母のつくった大きなおにぎりを沢山焼いた。父に「すぐ帰ってくるからそんなにいらない」と笑われる。正午近く父はロータリーの集合場所へ出かけた。

 そのまま出発したものと覚悟していたら、夕方になって近所の男たちが続々戻ってきた。出発は取り止めになったという。父はなかなか帰ってこない。延子は母に促されてロータリーまで父を迎えに行くことにした。夕日が真っ赤に染めている広場の真ん中で父は酔いつぶれていた。周りの人の助けを借りてやっとこさ、朝日町の自宅まで連れて帰る。着いたとたん父は、玄関の上がり縁で寝込んでしまった。

 延子は近所の人から《今夜12時に国民学校で全員爆砕する》との話を聞いた。「うちは小さい子もいるから学校へ行くのは無理なので、爆発の音を聞いたら青酸カリを飲みましょう」と母が言う。楽に飲めるよう、大事に取っておいたサイダ―やカルピスを台所の床下から取り出した。

 母が子どもたちに着せる晴れ着をタンスから出しているところへ、家族ぐるみ懇意にしている戸塚家の母親せんが顔を出した。後ろに長女和子(12歳・遼陽高女1年)、長男章介(8歳・桜ヶ丘国民学校2年)、二女栄子(5歳)、三女悦子(3歳)が従っている。せんは「学校へいきませんか」と言う。延子の母は「うちはここで死ぬつもりです」と答えた。「ではうちもご一緒させてもらいます」「どうぞ」ということになった。父親の戸塚陽太郎は火事の消火や警備のために動きまわっているという。延子は《うちの父は酔いつぶれて寝込んでいるというのに》と肩身の狭い思いをした。
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